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きみはヨブを見たか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神はヨブが試されることを悪魔に許した。 ヨブは試された。 悪魔は困惑させられた。 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。 ヨブは言っております。 主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。 主の御名はほむべきかな。(1:21) と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これを哲学のことばで表わして欲しい。 いまわたしに思い浮かんだのは ○ 能天気 ○ 聖なる甘え ☆ このふたつです。 ヨブやアウグスティヌスへの批判をも含めて ご見解を明らかにしてご投稿ください。
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ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > でも 生まれつきの病いについてはどうかと思います。つまり なかなか分からないところがあります。神の栄光が現われるためですとか説明があるかも知れませんが その合理性としての理解には 困難をきわめるように思います。Hidocchi さんもすべて分かっておられて この主題を出されたのだとも思います。 はい、確かに愚生もそうでござます。 もしかしますと、例えば、野口英世(彼の左手のやけどは先天的ではございませんでしたが)の医学の進歩へのある種のエネルギー、また憲法学者小林節慶大教授(左手は先天的奇形があるようでございます)の将来に向けた憲法論議、さらには、子供・兄弟が先天的病を持ったが故に、科学・医学の前進にエネルギーを注いだ方達もおられるかと思っております。 「神は、彼らのある種のエネルギーを、見たい、見守りたい」 とそう思っているのではないか? と考えたことがございます。もちろん、正解は神のみぞ知るといったところかと思われますが…………. > ☆ この試練は ヨブと同じようにだとわたしも思います。 《もっと大きな業を行うようになる》にも希望を持ちたいと思います。 愚生もかような希望を抱いている一人でございます。 > ☆ 録画しまして いまの時点で半分ほどを見ました。《コンプライアンス》は出て来ました。 これを《アマテラス語》の問題と受けとめました。 ほかの人の質問で このアマテラス規範語は 枡にあふれる米を掻き棒でそぎ落とすかのように 四角四面の枠に人を嵌め込むと捉えて投稿しました。 アマテラス規範語は、似非アマテラスが大きくし、さらに拡大解釈をもしていると思っております。 さらなる、ご意見賜れば、幸いでございます。 > そして この”神へのコンプライアンス”は われわれ人間にとってむつかしいと来ています。甘えてもいけないでしょうし もはや甘えるくらいに――エポケーをも経つつ――甘えきったかたちになるほかないようにも思えますし。 ▲ わたしは世間に対して 世間はわたしに対して はりつけになっています。 これは、ひとはひとえに誰もが最も知りたいところかと存じます。ですが、超難問ですし、その回答が正しいかどうかは、その時点ではわからい という難しさもあろうかと考えております ご意見賜りまして、厚くお礼申しあげます。
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- littlekiss
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こんにちは、bragelonneさん。 ●―――――五十年百年も経つと… 「ここで会ったが百年目」 l(><)lキャー こわっ=3 「三十六計逃げるに如かず」♪≡≡≡ヘ(o^-^)ノダッシュ-☆ http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/vo03.htm ● * ▲ ≪あらゆる苦しみから逃れることができる≫ ☆ これは 苦しみの中にあって その影響は受けるが もはや左右されることがないと言おうとしているのだと思います。 些細なところに、ひっかかりをおぼえるんです。 ≪あらゆる苦しみから逃れることができる≫ 逃れる(のがれる)は、免れる(まぬがれる)じゃないのかと escapeよりもsave ●言いかえると ひととの間で・しかも赤の他人とのあいだに もし《甘え》が成り立ったなら その一体感において 互いに相手の 苦しみや悩みを或る程度は感じることが出来て その影響も半減する などということ これは ありですかね? ~相互依存という関係性~ http://www.counselingservice.jp/lecture/lec253.html 『Love yourself ~君が嫌いな君が好き~』作詞:ECO・JOKER 作曲:Tatsugoo http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND89024/index.html Love yourself そう響き合う 二人奏でる 小さなNoise 信じれる愛育てて 君が嫌いな君が好き くじけそうな毎日も 消えてしまいそうな夜も 空を超え聴こえてくる 遠く遠くほらこの胸に 【-子どもの心に響かせて-】 http://www.nichibun-g.co.jp/dotoku/michishiba/007/m070003.htm
補足
リトルキッスさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~相互依存という関係性~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ● 依存でも自立でもない新しい楽な関係へ 「相互依存」というのはどういう状態なのかといいますと、お互いがそれぞれに自立をしていて、その上でお互いに依存もできるという関係性の状態です。 相互依存の状態は、お互いに対等な関係で、依存の位置にも自立の位置にも自由に行き来ができるという、フレキシブルで楽な関係です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わるくないのですが(――そんなら 文句言うな!――) 次のごとく 《自然な感じ》のほうにこだわられてくるのです。 ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 甘えは 英訳すると dependence だそうです。ただし 親と子との あるいは母親と赤ん坊との一体感を言うとも言います。 ざっくばらんに ほんとうのところはどうなんですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この自然な一体感という感覚は 《自由な相互依存》の中に含まれるのか? それとも全体として《一体感》を帯びつつ その中で互いに自由に自立もし合うし依存もし合うというのか? どうもあとのほうの解釈が ぴったり感があるのですが どうでしょう? どう思われますか? ★ 【-子どもの心に響かせて-】 ☆ わるくないのですが(――そんなら文句を言うな!――) どうも紋付き袴を着た席でお話を聞いているみたいにも感じます。いいことが述べられていると思います。おっしゃるとおり教育が大事だと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 些細なところに、ひっかかりをおぼえるんです。 ≪あらゆる苦しみから逃れることができる≫ 逃れる(のがれる)は、免れる(まぬがれる)じゃないのかと escapeよりもsave ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ぢゃあ わたしはその真ん中に立つことにします。悩みや苦しみから《免れる》というわけには行かないと思うのです。なまみの人間なら。 さりとて 《逃れる》というのでは 何だかおしまいまで鬼ごっこをしているような感じをも受けてしまいます。かくれんぼでもないでしょうから 苦しみをそれとして受ける 受けつつこれに影響されることはあっても もはや時として 左右されることは無くなる。と こういうふうですが どうでしょう? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「ここで会ったが百年目」 l(><)lキャー こわっ=3 「三十六計逃げるに如かず」♪≡≡≡ヘ(o^-^)ノダッシュ-☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ そうかなぁ。あぁ でも《ときを超えて》と言うもんだから そうなってしまって。・・・逃げ足の速いこと速いこと。
後は適当に絡ませれて 必要なものが引き出せるまで 愛想を尽かされて逃げていかないような工夫をすればいい。 打算的には ´
お礼
ふうむ。 ★ 打算的には ☆ ですね。
イデア界は個に付随するそれぞれの間で現実と程度の差こそあれ乖離した理想世界ととらえられます。 けれども 同じものを見ていても他者同士は同じようにそれを認識しているとは言えないし その外界をどう捉え加工し再構成しているかも個によって異なると考えられます。 その違いを図面化や言語化することで共感性や修正され共通概念化が行われることができると考えられます。 それぞれのイデア界は個々が個別に単なる独立した夢想の理想社会を描いているということばかりでなく 現代に顕現化してい諸々の問題を解決させられるものを介護や農業といった今必要だけれども担い手の確保がうまくいっていないような職業に身を置きそれを通し体感し 内包する問題やどうしたらよくなるかを考えながら進めば イデア界に構成される国家像は単なる現実から乖離した個の夢想するユートピアとはならないでしょう。 人的資源の観点からもただ金を用意すれば解決されるものではないし 経済的観点からいっても必要なだけ湯水のように湧いてくるわけではない。 ではどうするか。 社会との折り合いの中でヨブが生きていく上で求めるものとは何であったか。 少子化対策も含め成長を見こめる開放系社会 そこには精神障がいに対する対策と受容性を内包し 現代日本の教育における課題に対する無問題化も含まれる。 といった限りなく現実に近い理想社会像が構成される時もあると考えられます。 これは宮大工が頭の中でモデルを演繹的に拡大してものを造りだすのではなく 仕事がない時は鍋のふたを黙々と造り続け乾燥と湿気の繰り返しの中、木材という素材の部分と切り出し方と経年変化をの状態を体で覚え染み込ませる。 自分の体で測り材料と一体になるようなバカになれるものが結果的に良い宮大工となって1000年持ち堪えうる宮を造る宮大工になることができると言っていたことと同じような意味を持つといえます。 聖なる甘えとは界において ヨブをダシにして そのやり取りから 衆目のそれぞれの立場においてそこから何かを見出す行為というということができます。 自分では何もせず タダ成果を得る。 人の自由意思の好意から回答を寄せるという たとえばこの場において 聖なる甘えを拡大すれば 別にヨブの主張する社会でもいいのです。 ただ経済破綻するだろうというだけ。 そうなったらその時に又考えればいい。 能天気に待っていられる。 社会がどう転んでも苔は倒れにくいですし 社会が保障する立場で寝転んでいて人が考えてくれるのを待っているだけでも 最後まで生き延びられる人間にとってもそういうことはさして問題ではない。 人任せに 希望しますという言葉と思いやりの言葉、感謝の言葉さえ携えていれば 取り敢えず社会から大きく乖離することなく生きていける。 あとは何に有効に作用するのかは不明ですが 必要に応じて祈るという行為が必要だと思ったら祈ればいい。 それがどのように効果があるかどうかは別。 能天気に ね? 誰が一番得をするのか そんなこともどっちでもいい。 タダなんだから 自由意思なんだから 厭だったらここを去ればいいんだから そんな心得でここで何かが拾えたらメッケもん てなもん
補足
ふむふむ。2012522 さん ご回答をありがとうございます。 まづ反応としては 直前の二つのご回答へのわたしの返答をも参考にご覧になっていただきたいと思います。もしくは その二つのやり取りを受けて このたびのご投稿になったのかも分かりません。分かりませんが これらは互いに対応しており互いに応答していると思います。 ☆☆ (No.6補足欄) 変な意味で 前途洋洋なのでしょうか? ☆ これが これからの船出にあたってまづは思いに現われます。そういう将来への もうすぐにでも踏み出すかのような施策をも出してもらっているようですね。職人のごとくに地道にやれとも。それぞれの立ち場で 介護でも農業でも教育にでも ヨブの《非思考》をみづからの胸に抱き 思索しつつあゆみなさいと。 ○ (No.7でのやり取りの中から) ~~~~~~~~~~~~~ こころのまどを捉えた時に そこから《垂直的〈非思考〉》が得られるはずだ。何もない。何もないのだけれど そのなぞが得られる。ここから ふと そのときそのつど直面している課題や問題を前にしてひらめきも得られることがある。これを《水平的思考》つまりふつうの経験合理性で理解しうる話に述べなおす。 こういう作業を重ねていくとよいと考えられる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 自分では何もせず / タダ成果を得る。 ☆ これは そりゃあいまこの質疑応答の場での仕事は そうなるかも知れないけれど そういうものぢゃないでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 聖なる甘えを拡大すれば 別にヨブの主張する社会でもいいのです。 ただ経済破綻するだろうというだけ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはまだわたしにはっきりしないのです。 (1) 《聖なる甘え》が 言いだしっぺなのにまだ うまく展開し得ません。 (2) ヨブの《その後》は また経済的にもうるおうようになったというぢゃないですか。だから 分かりませんよ。《経済破綻する》かも分かりません。 ★ 祈り ☆ にはうまくお応えし得ませんでした。どういう観点から受け止めればよいか 定まりませんでした。あしからず。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 自分では何もせず / タダ成果を得る。 人の自由意思の好意から回答を寄せるという たとえばこの場において ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この個所がいやに気になりますね。ヨブはそんな料簡ではないでしょう。 つづくご投稿がありますね。
- amaguappa
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「ぼくなんか生まれてこないほうがよかったんだ」 といつだったか Yさんが引用してくださり、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4789406.html No.17 死んだもののように生きることをキリスト教のうちに嗅覚的に指摘するキルケゴールでしたが、 ヨブが延々くどくどと訴える嘆きというのもまた、「生まれてこなければよかった」でしたね。 死んだもののように生きる実感のなかにいる、うつ病患者の話に横滑りしますと、 かれらが過ぎたことを忠実に語ろうとするのに対し、 どの薬でどの作用を掛け合わせようかという治療の視点は、過ぎたことの是非とはまったく別の次元にあります。 神経がべつの働き方をするようになれば、その脳は、切望した死をけろりと考えなくなり、 感情を揺らした過去をまるで違った写真のように眺めるようになる、とわかっていますから、 患者が自分自身そのものであると一体視する自分史に、医者は、ほとんど頓着しないことになります。 そうはいっても、理想の脳、理想の身体などは、しょせん近代の西洋医学が絵に描いたところの餅、 めいめいの生命が運ばれている器の中に、器の都合を無視してかくあるべき脳や身体などが在り得るはずがないです。 機能主義のこの夢想は、物質を離れて、完全無欠の機構というものに着地したいのかもしれません。 ところで金は、物質としては、遷移金属といって腐蝕しない珍しい性質があり、また、触媒作用がたいへん高いものです。 変化せず不滅であり、何かがすばやく化合し作用するところとなるのです。金それ自体は影響を受けないのに。 つかまえどころがなくユートピア的です。金は、場を指すにも完全な機構を指すにも比喩となるのではないでしょうか。 ひとびとの心身の肉体の枷を見ると、わたしは、さまざまな化合や作用から解かれれば金があらわになる気がするのです。 それは、ロボトミー手術でも得られないし、薬物でも得られないし、物質的にはどうにもできないところに位置しています。 話をヨブに戻さないといけませんね。 ヨブは、正しいのにこんな目に遭う自分など、なければよかったとは考えますが、 神が去ったとは考えなかったようなので、その一点でアウグスティヌスの説法が成り立つでしょう。 ヨブが受けた最大から二番目の試練は、友人たちによる批判だと思うのですが、 友人たちにつられて抗弁した挙句、最後にあらわれた神に、 神は正しくないと言うのか、 と檄を飛ばされるところが最大の試練のような気がしています。 自己主張の口をつぐみ、神を畏れる、そのヨブの姿勢を聖なる甘えとおっしゃるのかどうか知りませんが、 ヨブがどうであったか、また、ヨブが災難を受け批判を受けてどうすればよかったか、 という水平的思考の次元から、 垂直的思考へ切り替わるところが---本来の垂直的思考に引き戻されるところが---、不思議な物語だと感じます。 このあたりがうつ病の話とつながるわけですが。 書き散らしまして。。。
お礼
ヨブの友人たちに関しては かれらは総じて言って因果応報の考えに拠っています。その水平的思考においては ヨブも同じようだと見る向きもあるかも分かりませんが――事実 そういう叫びを叫び愚痴を吐いていました―― でもヨブはそのかれらの或る種の仕方で合理的で倫理規範的な見解にも従いません。境地がそれをこばむのだと思います。感性がと言ってもいいのかも知れません。 ◆ 第二の死 ☆ は《精神的な死》のことではないですよ。《第一の死》は 生まれたときからすでに死に向かってあゆんでいるというときの死であり それは水な元としては《うそをつく》ことから来ていると思います。思いますが 《非思考のまど》のもとにあって人はこの《第一の死》が死ぬと言われています。つまり単純に復活です。 死もけっきょくは 身体および精神のであると言えるとするなら この死が死ぬという再生も 身体かつ精神の復活です。非思考のまどが 霊であり このまぼろしが――もともと自然本性として――そなわっているという物語です。 ところが この第一の死が死ななくなる人間がいるとも言われたようなのです。これが第二の死であり永遠の火の中にいるという死だと言います。究極の悪とも言われますし。 あるいは 自由意志にさからう自由を行使し尽くした成れの果てとでも言うのでしょうか。おのれの心にしたがう自由意志を善とすれば これに逆らうことによって善がすべて損傷を受け(つまり 自分で損傷させ) まったく欠如した状態になることだと言います。 ぶたはきれいになったと思ったらすぐさま泥の中に寝っ転がると言います。われに還って善(うそのない自由意志のおもむくところ)を取り戻したと思ったら ただちにこの自由意志にさからい 次つぎに善を欠如させていくその成れの果てだと言います。 おわかりのように荒削りのままです。欲張っていろんな主題を短く取り上げました。どうでしょう?
補足
amaguappa さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。 つぎのご指摘に全面的に同感いたします。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ヨブがどうであったか、また、ヨブが災難を受け批判を受けてどうすればよかったか、 という水平的思考の次元から、 垂直的思考へ切り替わるところが---本来の垂直的思考に引き戻されるところが---、不思議な物語だと感じます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この中核をめぐって 同感するところと違和感があるところとを仕分けていきます。 ★ このあたりがうつ病の話とつながるわけですが。 ☆ と見ることになるというのでしたら その見方に沿ってわたしも考えてまいりますが まづキルケゴールは いただけないとわたしは思っております。 《わたし》をとらえるための思索としてきっかけになると受け取りますが かれの得たところのものはそのままでは何とも消化しづらいのではないでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 死んだもののように生きることをキリスト教のうちに嗅覚的に指摘するキルケゴールでしたが、 ヨブが延々くどくどと訴える嘆きというのもまた、「生まれてこなければよかった」でしたね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 試練に遭いこれを受け取って まるで屍のごとく生きているヨブが 《こんなことなら 生まれて来なければよかった》と叫ぶ(あるいは愚痴を言う)のは 先のご見解のなかの《水平的思考》の世界だと思います。ふつうに言って 経験世界ということだと考えます。 で この相対的な世界にあたかも《絶対》が顔をのぞかせたと見るかのごとくわがこころに窓というまぼろしを捉えるのが 《垂直的思考》でしょうね。つまりはその窓は絶対というのですからすでに《非思考》という想定の領域であり この非思考の窓を受け止めつつ思考としても人間の水平的思考の言葉に表現していく。こうなると考えます。 ただ――ただですね―― ヨブ記の記者は すでにいの一番に ヨブは《垂直的〈非思考〉》をそなえた人間だったと種明かしをしています。《神を畏れ》というところですね。それだからこそ 《試練》だということにもなるのでしょうし。 ★ ヨブは、正しいのにこんな目に遭う自分など、なければよかったとは考えますが、 / 神が去ったとは考えなかったようなので、 ☆ となることにうなづけるはずです。 ですから わたしには この《非思考の窓》を持つこと このことが《金》にたとえられていると思えます。ですから ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 金それ自体は影響を受けないのに。 つかまえどころがなくユートピア的です。金は、場を指すにも完全な機構を指すにも比喩となるのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というご指摘については 特に《ユートピア的》という側面については いまひとつ現実的ではないように思います。非思考のまどをそなえているというのは ひとの《自然本性》を言っているのですから つまりまぼろしの内に現実であると言おうとしているのですから それは外から何かをつけ加えるのではなく そうではなく すでに備えているという境地の問題だと考えます。《つかまえどころがない》とは言えると思いますが。 ですから キルケゴールにしても精神分析にしても 言ってみれば《入門即卒業》だとわたしは思っています。 ◆ ( yさんの回答No.17) ~~~~~~ キリスト教ー死ぬことの教えー 同じようにまたキリスト教の用語でも 死は最大の精神的悲惨さを表すことばであるが、 しかも救済はまさに、死ぬことに、 死んだもののように生きることにあるのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ですから 《垂直的〈非思考〉》を 精神の内に捉えうると思って《垂直的〈思考〉》として経験世界の言葉と現実に置き換えようとしたものだと考えます。《たとえ》であり たとえに過ぎないとわきまえていればいいのかも知れませんが 総じて想像の産物だと考えます。 ですから 垂直的非思考と水平的思考とは 逆の順序で《文字は殺し 霊は生かす》という問題なのではないでしょうか? 文字が殺す場合 うつ病にしてもそのほかにしても休息を必要とするほど《試練》に遭っていると捉えます。
こんばんは、お世話になっております。Hidocchiです。 ヨブ記と申しますと、bragelonne様の18番でございますね。愚生もご意見を賜りたく、愚見を申し出た次第でございます。 まず、ヨブ記を呼んで、愚生が感じたのは、以下の主イエスの言葉でございます。 ヨハネによる福音書9章1から3節 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 つまり、“因果応報”的な考え方はしていない、ということでございます。 従いまして、bragelonne様の“能天気”に近いものがございます。愚生の稚拙な言葉で申し上げますと、「“苦しみ”や“不幸”、その原因・理由は我らひとなるものには真に理解できない。ただ、神の意志なるものをただ漠然と想い描くのみ」ということでございます。 私事でございますが、後1週間で仕事の目処をつけるよう命じられております。また再び“対話”を楽しませていただければと切に願っております。 それでは、ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ヨブは好きですが 《十八番》と言われると あぁそう言えばまだまだ読みこんでいなかったなぁと反省しきりです。 ★ つまり、“因果応報”的な考え方はしていない、ということでございます。 ☆ これはつくづく思います。 自分の仕事や生活において たとえ思うように行動できなくてもそこに事柄の一つづつをめぐって 自分の考えを――弁明としてでも――形作っておくというとき それは確かによき行ないをしようということですから 考えてみれば そこでは善因善果を少なからず思っているということはあるのかも知れません。最善を尽くしたというかたち あるいは次善の策を用いざるを得なかったのだと考えておくかたち これらは あるいはひそかに悪因悪果に陥らないようにという思わくがはたらいているのかも知れません。 ですが これは この経験世界における一つの方程式です。この方程式によって 生活やあるいはおのれの人格を律しているわけではないのだと思います。じっさい善行が報いられないという場合や事例を知っているわけですから。 人びと一般にとっては 良心的な人たちの間にも この因果応報の考え方はかなり浸透しているように感じます。ひとこと愚痴のごとくにのべました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 従いまして、bragelonne様の“能天気”に近いものがございます。 愚生の稚拙な言葉で申し上げますと、「“苦しみ”や“不幸”、その原因・理由は我らひとなるものには真に理解できない。ただ、神の意志なるものをただ漠然と想い描くのみ」ということでございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 考えてみるに このほにゃららの部分が 案外大きな主題であるのかも知れません。ひとえにわたしたちは 分かりたいのだと思います。 しかも異言ではなく 預言すること・つまり解釈することが要請されています。でも分かりづらい。 《能天気》と言うにしても けっきょく分かりたいのです。そう言うことによって それはそれとして割り切ってしまっておいて ほかの合理的に考え判断しうる問題に当たりたい。でもそのときにも 《ただ、神の意志なるものをただ漠然と想い描くのみ》と言って捉えたいというこの主題が つねに顔を出しているのかも分かりません。 そこで《甘え》を持ち出してしまうと たしかに開き直りであったり思考をなぞという神棚に預けておくことであったりするかも知れません。 なかなか厄介なように思います。 《はからひ無き事 / 絶対他力》という言葉を用いれば いくらか分かったようにも思います。と同時に そういう場合にも思考やひとの努力をうっちゃってしまうということになってはいけないだろうと思います。 ▲ 私が世界を創造したとき おまえはどこにいたか。 ☆ というヨブの《落ち》も どうなのでしょう? ★ 「“苦しみ”や“不幸”、その原因・理由は我らひとなるものには真に理解できない。 ☆ しかもそういう問いは 聖書をひもとく人びとには 必ず持ちあがる疑問としてあるでしょうね。 変な意味で 前途洋洋なのでしょうか? とりとめのないおしゃべりになってしまいました。ご容赦のほどをお願いいたします。
論語読みの論語知らずという言葉もありますが・・・ キリスト者と思ったらそうではないの? 心がないのなら少なくとも祈りの重要性は認めたほうがいいですよ (めんどくさいのかな?) カトリックの偽書だとおもいますが・・・ 悪が何を恐れているかといえば、この手紙にも記載されているとおりです。 ご確認ください。 ヤコブの手紙 5.15です。 祈りで祝福されあうこともなく、 歌を歌うこともない自分に早く気づいてください。 前後関係を確認しよく読むことです・・・ 行為の伴わない信仰は、 魂のないからだ。 心のない祈りと同じです。 祈りが行動の無限です。
お礼
わたしはおまえを知らない。
あなたがおこなっていることは、 目には目を歯には歯をですよね・・・ キリスト教ではなんとかたっているのでしょうか? *また墓穴を掘ったのかしらネ・・・ 「マタイ5.46」 ご参照ください。 またもや おじじさまの「やっていること」が詳らかにされているようです。 自分のことを好きな人を好きになるというのは、 何かそこから利益を得たいという邪な下心があるからです。 貴方は関所の関税役人なのですか? (もちろんそれはそうなのでしょうが・・・)
お礼
▲ 悪霊どもも、信じておののいている。 (ヤコブの手紙2:19) ▲ なぜなら 罪に対して死ぬということが 恩恵の働きだからである。 (アウグスティヌス:ローマの信徒への手紙選釈 [30] 岡野昌雄訳)
おじじさまが「まるこ」とは・・・ 不安で語る勇気もでないはずなのですが? 通読の機会はなかったのでしょうか? 自滅しないことをお祈りいたします。 13.31-34に目を通してみなさい。 形式が大事とはひとつも書いていない。 あなた自身の存在は、12節にかたられています。 市場の法則にとりこになった経済学者(経営専攻)です。 挨拶ばかりしていないで内容のある質問をしなさい。
お礼
▲ (マタイ22:14) 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。
序論) 東京の中心は何処?と聞かれて、「得られる答え」が、人間の本質を一言で言い表すということにきづかない唯物論者たち。 心性の当体とは、心が、血管血液リンパ腺動脈静脈を離れて存在しえず、中央のない総体としての中心を表現しているという大前提があります。 心臓の中心とは何か? それは存在しない。 しかしそれを、無思考という言葉で表現するとすれば、学問的でないというほかはありません。 都市工学を見ても明らかです。都市は、流通経路・個々の建物・生産様式・自然の動的発展を離れて存在することはできない。 都市崩壊の原因は何でしょうか? その原因は、自称預言者(海外協力隊)という「病原体」の爆発的繁殖です。 センターのセンターは、存在しない ということを認識すれば、唯物論的「無・思考」は、成り立ちません。 「無と思考」を「無思考(造語)」と混同するべきではない。 言語の伝説性=神話性を悪用するべきではないでしょう。 補足として、センターのセンターは、自分であると答えるのが、 他人をだまくらかす狂信者という事ができます。 序論はヨブの地獄絵です。 本論) 階層分析手法=Taxisというものがあります。 ほむべきは、 実際に起こったことでしょうか、これからおこることでしょうか。 御命は、いつのことでしょうか? 時勢は、奪い与え御心の通りに振舞うというプロセスと同時です。 伝説的神話的表現に時間は存在しません。表と裏のないメビウスの輪です。 存在するのは、許された悪であり、試されたヨブである。 結論) 祈りをささげないものに 時を達観することが出来ないというのが、この文章の結論です。 PS 預言者を自称するなら 少なくとも手下の行動に責任をもって対処するべきです。
お礼
▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あなたがたはこのわたしが飲む杯を飲むことができるか。 (マルコ10:38) あなたがたは最頂点を望んでいるが 低い謙遜の杯を飲むことができるか と言われているのです。 ですから 主はとにかく単に《自分を捨て わたしに従いなさい》(マルコ8:34)とは言われないで 自分の十字架を背負って わたしに従いなさい。(8:34) と言われた。 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 説教96〔3〕 茂泉照男訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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こんばんは、bragelonneさん。 ●これを哲学のことばで表わして欲しい。 またむつかしいことをおっしゃる。 【温故知新】 http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/page036.html 火を入れて、不純物を取り除く…で、パットおもいつくのが 【たたら製鉄】 http://www.jikkyo.co.jp/downloadcontents/1450905908.pdf 10.おわりに(今後の取組) たたら製鐵や古式鍛造技術は,鉄と地球環境 の未来について大きな可能性を秘めている。 現代の高炉製鉄は,大量の鉄を低コストで生 産することが可能であるが,化石燃料を超高温 で燃焼させるので,多量の熱と二酸化炭素を放 出し,地球温暖化の要因の一つとなると考えら れる。それに対し,たたら製鐵は比較的低い温 度で操業を行い,燃料も炭という「バイオマス 燃料」なので,この技法を発展させて化石燃料 に頼らない製鉄の量産技術を確立すれば地球温 暖化への影響を抑えることが期待できる。 このように,古来の製鐵・鍛造技法は,ただ 単に懐古的な技としてではなく,「技術の温故 知新」として未来に繋がる可能性を秘めている と信じて,今後も研究を続けていきたい。 【「水辺と森と縄文人-低湿地遺跡の考古学-」】 http://www.rekihaku.ac.jp/kikaku/index92/index.html 【草木のバイオマス燃料化の直接合成に世界で初めて成功】 http://www.nodai.ac.jp/news/category-detail.php?new_id=1010 梵我一如をウィキペディア(Wikipedia)でひいてみた 概略の中に―――――― ヴェーダにおける究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、 宇宙に偏在する梵と同一であることを悟ることによって、自由になり、 あらゆる苦しみから逃れることができるとする。 ≪あらゆる苦しみから逃れることができる≫ ↑ ほんとかな? 苦しみから逃れた先になにがある 人は見果てぬ夢を追い求める性をもつ 過去・現在・未来と時制を変え 現実不可能なことを可能へとむかわせる 時をこえて 君を愛せるか ほんとに君を 守れるか
お礼
リトルキッスさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 時をこえて 君を愛せるか ほんとに君を 守れるか ☆ ひとを愛す・守るは 人間の能力の内にあるか? ですね。しかも《時をこえて》ですか。 梵我一如ではありませんが――ちなみに プラトンでは人であるわたしに対して 《世界霊魂 anima mundi 》と言うそうです―― そもそも初めに あなたを愛した を想定するとよいそうですよ。 どういうことか? 愛する前に しかも出会う前に すでに一度愛した と想定するのだそうです。五十年百年も経つと その愛はうすれるかも知れません。薄れないかも知れません。 すでに今は遅れてやって来ているのです。いまやっと再会したと見なすわけだそうです。 ○ 内田樹:私家版・ユダヤ文化論 2006 ☆ これを読んでわたしが編集して上のように展開しました。 ☆☆ 甘え あるいは 聖なる甘え ☆ このことばは どうも評判がよくないようです。どうですか? もしよろしかったら 忌憚のないご見解をおしえてください。 甘えは 英訳すると dependence だそうです。ただし 親と子との あるいは母親と赤ん坊との一体感を言うとも言います。 ざっくばらんに ほんとうのところはどうなんですか? * ▲ ≪あらゆる苦しみから逃れることができる≫ ☆ これは 苦しみの中にあって その影響は受けるが もはや左右されることがないと言おうとしているのだと思います。 言いかえると ひととの間で・しかも赤の他人とのあいだに もし《甘え》が成り立ったなら その一体感において 互いに相手の苦しみや悩みを或る程度は感じることが出来て その影響も半減するなどということ これは ありですかね?
補足
Hidocchi さん 今回は 依然としてお互い分かりあぐねていると思いますが 今回は それにもかかわらず 微笑みがこぼれます。のぞみがあります。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔生まれつきの病いについてはどうか〕――「神は、彼らのある種のエネルギーを、見たい、見守りたい」 とそう思っているのではないか? と考えたことがございます。もちろん、正解は神のみぞ知るといったところかと思われますが…………. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほどですね。通俗的に言うとすると 切り替えが出来るかどうかでしょうか。――正直に申せば この場合わたしは 人間の志向性や努力をも 要因の一つに容れて考えていたかも知れません。今回は 思いつかなかったです。以前に そういうふうに捉えたことがあったかという記憶です。 でも おっしゃるように・そしてわたしもずっと考えていましたが まづ《自由》という答えがあるのがふつうだと思いますから。 ★ アマテラス規範語は、似非アマテラスが大きくし、さらに拡大解釈をもしていると思っております。 ☆ その通りですよね。似非アマテラス――アマテラスもどき。 アマテラス予備軍。 アマアガリ症候群に罹った人たち。 アマテラス語方言へと単独分立して行った場合。 そして 超アマテラス=スーパーアマテラス(すなわち 神のようにいかなるものの下にも立つまいと誓って ガリ勉資本主義もしくはガリ勉国家主義に走る人びと)。 話は逸れますが ユダヤ人の考え方として面白い解説を得ました。ちょっと 紹介してみます。 ▲ (内田樹:私家版・ユダヤ文化論) ~~~~~~~~~~ ユダヤ人は行動する自分を、見つめ 思考する自分をみつめるように呪われているとサルトルは書く。しかし この呪いは本来すべての人間にかけられたものではなかっただろうか。人間は端的に人間であるのではなく 他人からの承認を迂回してはじめて人間になる(《自己意識はただ承認されたものとしてのみ存在する》)と書いたのはヘーゲルではなかったか? ◆ (サルトル:ユダヤ人問題) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ユダヤ人はあらゆる種類の知識をむさぼるように吸収するが それを中立的な向学心と混同してはならない。というのは ユダヤ人は人間に関するあらゆる知識をかき集め 宇宙に対する人間的視座を獲得することによって 《人間》に 純粋な人間 普遍的な人間になろうとしてそうしているからだ。ユダヤ人が教養を身につけるのは 彼らのうちなるユダヤ人を破壊するためなのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 個別的・歴史的なエスニシティやナショナリティを脱ぎ捨てて 《端的に人間的であること》を目指すのは 諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから ユダヤ人は《端的に人間的であろうとする》まさにそのみぶりによって 彼がユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。 (pp.196-197) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ コスモポリタンという言葉もありましたが 面白い見方だと思います。でも 《日本人および人間》といったように或る種の仕方で 重層的であってよいでしょうか?