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日本にコロンブスやマゼランが出てこなかったのはなぜか
日本は海洋国でありながら結局、コロンブスやマゼランは誕生しなかった。 思うに日本は海洋国であり太平洋を渡るきるチャンスはこれまでに幾らでもあったのに日本海側ばかりに目を向け、太平洋を渡りきる人材は誕生しなかった。地理条件を考えるとコロンブスやマゼランが数十人誕生してもおかしくないはずなのであるが。度胸がなかったのか、夢がなかったのか、もしくは世界観が未熟であったのか、結局パイオニアは一人も誕生しなかった。残念に思うのは私一人であろうか。
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まず、日本が海洋国という認識が間違いかと思います。 基本的に日本は農業国で、しかも生産と消費を国内で賄えるだけの スケールがあったため海外に出る必然性が低かったといえます。 (このある程度のスケールの存在は、現在でも日本人の英語下手や 規格のガラパゴス化という形で影響を与えています。) また、日本海や東シナ海は交易(大陸との行き来)の海としてはあまりに リスキーであったため、交流は限られたものとなり、遠洋航海の ノウハウが培われることが無かったことも大きいかと思います。 (ヨーロッパの場合、地中海という適当に広くて穏やかな海があったため、 そこで交易するうちに、遠洋航海のノウハウが培われていきました。 ちなみに、大航海時代の初期を支えたのも、ジェノバやベネチアといった 地中海出身の船乗りです。)
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- rsejima501
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No.10です。 まず、東シナ海と日本海ですが、ここは世界的に見ても有数の荒海です。 遣隋使・遣唐使をはじめとして大陸との行き来は命がけの事業でしたし、 現在でも(特に冬は)遭難が後を絶ちません。 また、太平洋については、比較的平穏な海ではありますが、向うに何があるか 判らないのに出航するのは、あまりに無謀というものでしょう。 (コロンブスにしても、彼なりの目算があってインドの東端にたどり着くと確信していたわけで) 農業国と海洋国については、生活の基盤を陸(農業)に置くか海(交易)に 置くかという意味で、農業国と考えました。 確かに地勢的には海洋国になってもおかしくないのですが、上記のように 周りの海が障害になっている上に、水稲という非常に収穫率の良い作物を 主食に出来たために、日本国内で農業をやることを選んだのでしょう。 (人間にとっては、何より安定して食えることが第一ですから。)
お礼
その通りだとおもいます。 ありがとうございました。
- eroero1919
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世界史と日本史を丁寧に調べていけばわかります。 まず、楢山節考みたいな話ですが、よく昔話や時代劇で農民が訴状を掲げると「無礼者!」なんていって磔にされるような話がありますが、あれのほとんどが明治政府がねつ造したものなんです・笑。明治政府は徳川幕府を倒した政府ですから、徳川幕府を否定するために学校で「徳川幕府はこんなに悪いことをしたのだ」とウソを教えて回ったのです。 実際問題、江戸時代にしばしば江戸市内で大火事や大地震などが発生していますが、そういう災害が起きると幕府は江戸城内にある備蓄米を「無償」で被災者に惜しげもなく出しています。しかも、それが翌日とか非常に迅速に対応するんですね。同時代のヨーロッパではそういうことは全くありませんでした。もちろん教会がそういう役目をしているのですが、我が国では政府(幕府)がやってくれるんですね。 また地方でもしばしば年貢の取立てについて訴えや場合によっては一揆が起きていました。幕府や藩の支配力が低下する幕末では農民側の完全勝利に終わることもあったようです。こういった一揆は幕府に知られるとお取潰しの口実になるので各藩は隠蔽に走ったので現在ほとんど記録が残っていません。 また航海というのは基本風や海流にそって「陸沿い」に行われます。あなただって、周囲に全く陸が見えない海の上にいるのは不安でしょう? 太平洋に出ると、親潮がありまして、この親潮の流れが大変に早いし強い。エンジンのない時代に親潮は横切れません。では親潮にのるとどこに連れて行かれるかというとアリューシャン列島で、ここは木も生えないしかも寒ーーーい地域です。わざわざ難破の危険を冒して行くほどの価値はとても見出せないわけです。 日本と中国との交易は基本的に朝鮮半島を経て行われていましたが、白村江の戦いで朝鮮半島ルートが使えなくなりました。それで、沖縄から行く南方ルートを使っていたのですが、こっちは台風の通り道なので危険極まりないんですね。なにしろ鑑真先生は5回も難破したんですから。 ちなみに羅針盤の発明も大型船の設計造船技術も大航海時代後半までは中国です。実は世界史の分野では「なぜ中国に大航海時代がなかったのか」というのが答えの見つからない謎なのです。 コロンブスより100年早く大艦隊を率いてアフリカに行った鄭和をご存知でしょうか?一説によると、彼の艦隊の一部は大西洋を越えカリフォルニアまで行ったとか。しかーし、彼の名前は世界的にもほとんど知られていないのです。
お礼
楢山節考は全て作者、深沢七郎の創作でありそのようなものは日本になかったということですか。私も楢山節考の物語は単に作家の創作であってもらいたいと考えたいです。 一度調べてみようと思いますが、この手のものは史実が残らないので、たぶん分からないでしょう。 また徳川幕府が大火事や大地震などの非常時に備蓄米を「無償」で被災者に配給したという話は知りませんでした。本当なら徳川幕府は世界に先んじて生まれた民主政府に値しますね。 中国の鄭和の話はNHKでやっていましたので知っております。「なぜ中国に大航海時代がなかったのか」は世界史の謎ですか。 参考になりました。ありがとうございます。
- teccrt
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日本もその時期は積極的に海外進出していましたよ。 ただ、コロンブスやマゼランほどの大ばくちを打つ必要がなかっただけだと思います。 No.9さんもご指摘の通り、ヨーロッパが大西洋に進出したのは、好奇心や夢とは関係なく、単にアジアの胡椒を安く買いたいのに中東の強大なイスラム勢力に流通を牛耳られていたから、安く買うには大西洋に進出するしかなかったという必然性だと思います。 日本も、それまでは中国という東アジアの覇権国家と朝貢貿易をすることしかゆるされませんでしたが、倭寇から東南アジアの日本人町建設ラッシュに見られるように、16世紀は中国という強大な勢力の意に沿わないで日本が海外と関われることのできた恐らく初めての海外進出です。 これらも受け売りでしかありませんが、川勝平太氏の著作などでは16世紀の大航海時代と倭寇の現象を「中央=4大文明地域を抑えている中国・インド・イスラムといったそれまでの強者」に対して、「辺境=西ヨーロッパや日本など、4大文明から一番離れた、文明的に遅れていた地域」が歴史上初めて挑戦した時代と解釈しています。 日本も、海外取り引きをするにあたり中国の干渉を避けたかったに違いありません。ただ、そもそも太平洋をぐるっと回るリスクを取らずとも、琉球・台湾・フィリピンを経由して東南アジアと直接結び付きができれば、インド・イスラム世界と直接コンタクトが取れることを知ってしまったので、リスクのより小さい東南アジアルートを開拓しただけのことだと思います。 コロンブスやマゼランはいませんが、少なくとも現代の日本とスペインを比較すれば日本に生まれる方が不幸だとは全く思えません。日本人は改良は大得意だが発明はできない、ともいわれますが、そもそも近代社会が欧米が先行して作ったルールだからそのルールに従わなければ認められなかったというだけで、今や日本食や漫画などのサブカルチャーは世界でもクリエイティビティーが高いものとして確固たる評価を得つつあります。これまでの100年は、日本だけが独自の文化を半ば捨ててまでも欧米の文明と文化を吸収しようと頑張ってきたので、他国から見れば日本には独自のものが存在しないと誤解されてきたに過ぎないと思います。 事実、源氏物語などは世界で知られていないだけで、あの時代に女性が物語を書いた事実などは、マゼラン・コロンブスに勝るとも劣らない歴史的偉業だと思います。 ご質問に対しては「その必然性がなかったから」ということになると思います。
お礼
ヨーロッパは東洋諸国と交易するのに大西洋を渡り、太平洋を渡る必要があったが、日本は東南アジアルートがあるので、その必要がなかった。 そしてこの100年は、日本だけが独自の文化を半ば捨ててまでも欧米の文明と文化を吸収しようと頑張ってきたと。 その通りだと思います。ありがとうございました。
- ?橋 昌也(@fudousin)
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No.9です。お礼ありがとうございます。 ご指摘の点は、私も承知しております^^。ただ、豊かさの捉え方がちがいます。現在の豊かさの価値基準はまさに西欧の豊かさです。物質の豊かさ。東アジアとくに日本においても当然、そうした豊かさの感覚もありましたが、儒・老文化圏では知足という豊かさの別の基準が存在します。 庶民の生活が貧しかったのはどっこいどっこいです。ヨーロッパでも間引きは多く行われていました。ただ、ヨーロッパがアジアを豊かであると認識していたのは歴史的な事実です。豊かなインド、豊穣なシナ、黄金の国ジパングが彼らの旅の目標であったことは疑いの余地がありません。そういう意味です。 ただ、私も疑問に思うのは、この国は古墳時代までは、縄文の長い繁栄をふくめ、海上交易が盛んだったはずであり、魏志倭人伝を信じる限り邪馬台国の構成員は海洋系民族であるのに、その後は舟を忘れたような国家になること。また国内海運はそこそこにあったのに、外洋航海は倭寇のようなものしかみられないことは不思議なことです。唯一の例外期が戦国期であるので、前のような見解を述べてみました。
お礼
実を申しますと私も邪馬台国がどのようなものであったか様々な空想を巡らすのですが、おそらく農耕民というより海洋系民族であり漁業と海上交易を行っていたのではないのかというのがこの発想のおおもとにあるのです。 ありがとうございます。
- ?橋 昌也(@fudousin)
- ベストアンサー率21% (138/631)
日本が豊かで、権力者が海外征服意欲がなかったからです。海外へ兵を出したのは神話時代を除けば、天智天皇と秀吉だけです。 対してヨーロッパは貧乏でその分、豊かなアジアを侵略したかったので一山当てよう族が大量におり、国家もそれを後押ししたので生まれたのです。 具体的には、スペイン、ポルトガルは、アジアとの貿易ルートをベネチアなどの地中海商人、アラブ商人などに中継されており、直接インドとの取引をしたいという欲求から大航海時代が幕をあけたのであって、必要にせまられたからです。日本は必要にせまられなかったので、そういう人物が生まれなかった。勇敢さや頭は関係有りません。
お礼
>日本が豊かで、...>対してヨーロッパは貧乏で... これは何かのジョーダンではなかろうか。 日本は過去に何度の飢饉に見舞われてきたか知った上で述べているのであろうか。オジ捨て、オバ捨てさんざんやってきたというのに(楢山節考)。 この話、あまり言いたくはなかったのであるが、日本の現状と似た面もあると考えあえて表に出しました。 [私見:日本は豊かダ~、日本は平和ダ~といっているのは結局のところ日本のためによくありません。この考えが今日のインチキな日本へと導いてきたのです。] 後半の文面はその通りであると思います。とりあえず、ありがとう。
- jamiru
- ベストアンサー率5% (170/3044)
庶民の火力は木材です。 戦国と言う戦争の火は木材が大量消費されまくり。 追い討ちをかけるように、製鉄・鍛冶や製造業の発達も大量に火力が必要なために木材が大量消費。 城の建築、神社仏閣の建立再建etc 日本のあちこちで禿山出現中。 日本社会が大量消費に追いつかなくなったから鎖国を始めたというほうが正しいと思います。 江戸時代はリサイクルを目指してましたね。 そんな現実問題があったので為政者は現実問題に取り組み中。 DQがN竜政宗くらいの目立ちたがり屋だからこそでしょう。
お礼
城の建築、神社仏閣の建立再建 --> 木材が大量消費 --> 鎖国 よく分かりませんが、この流れはちょっと違うと思いますね。
- bougainvillea
- ベストアンサー率21% (185/853)
みなさんが挙げてる徳川時代の鎖国政策(1633)は コロンブスの新大陸発見(1492)やマゼランの世界一周(1522)の後なんで ちょっと時代がずれてますね。 東アジアからの航海ということでは、鄭和の大航海(1405)が ヨーロッパの大航海時代よりに前に、インド、アフリカに 到達してますが、それ以降の中国は鎖国政策をとり、あまり 活発に航海をしてません。中国は基本的に陸の国家であり、 中国を中心として周りは蛮族と見る儒教的な価値観が強く、 経済的なうまみもそんなになかったからでしょう。 ここらへんがコショウなどの香辛料貿易で一攫千金を狙い、 キリスト教布教の宗教的情熱に支えられた、スペイン人などの 探検と違うところです。 日本はこの頃、東シナ海を倭寇が荒らしまくりましたが、 海賊なんで普通に知られている沿岸の村々を荒らすだけで 太平洋を渡ろうなんて大それたことは考えません。 応仁の乱(1467)からは戦国時代に突入して、16世紀前半に 大航海というのは難しかったのではないでしょうか。 太平洋を渡りきるのは支倉常長(1620)になってからです。 本州から北へ島伝いに北海道、千島、カムチャッカ、アリューシャン、 アラスカといけばアメリカ大陸を簡単に発見できそうな気もしますが、 実際の北方探検は樺太の間宮海峡や択捉島あたりでストップしてます。 やはりその先に何か得するものがあるとわかってないと、 探検は進まないのかな?と思います。ただ寒い島があるだけじゃ 誰もいきませんよね。
お礼
日本版海賊、倭寇が東シナ海を横行していたという話は知りませんでした。日本史の教科書に倭寇のことは載ってなかったと思うので。 アジア地域の海賊といえば現在でもマラッカ海峡近辺に出没するインドネシア系海賊のことだと思っていましたものですから。 すると支倉常長がコロンブスに遅れること128年にて新大陸に渡ったのが日本で最初の太平洋横断ということですね。 Wikiで調べたところ支倉常長はその後、大西洋を渡ってローマまで行き、日本に帰還したとありましたが、その後失意のうちに死に、支倉家は断絶したとあります。つまりはこれが全てを物語っているのでしょう。 納得しました。ありがとうございました。
- 469437
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戦国時代までは外洋にでたり、瀬戸内海の荒海を水軍が暴れ回っていたので、技術レベルはそれなりにあったはずです。 原因としては、江戸時代に鎖国政策の一環として、一本マストの船しか建造が許されなかったことでしょうか。 これだと、操船が非常に難しい上に、大型船が作れないので外洋航海は無理ですから。
お礼
あの大阪城や五重塔を建てるほどの高度な建築技術がありながら、海洋国である日本が船作りのほうではさして発達していないのはどうしてだろうと以前から不思議におもっていたのですが、やはり国家政策上の規制から生じたものということですか。 やはりいつの時代でも悪いのは政治ということですね。 分かりました。ありがとうございました。
タイで活躍した山田長政の様な人がいたり、北米のインディアンの伝説の中には日本から来た人が住み着いた話があったり、確かイベリア半島にも日本人の姓(ワタナベ村?)の地域が、あったように記憶しています。 山田長政以外は、うろ覚えですが、あなたの言うな冒険をした人がいたのかもしれません。 しかし、日本に帰らずに現地で人生を全うした、のかも。 ジョン万次郎の様な、心ならず漂流した人は、日本に帰るけれど、帰りたくない人のほうが多いかも知れない。
お礼
>日本に...、帰りたくない人のほうが多いかも知れない 悲しいです。
- kgrjy
- ベストアンサー率54% (1359/2481)
#1さん指摘のように江戸初期の鎖国政策が大きい。がなかったら倭寇とおそれられていた勢力が世界の海を制覇していたかも。
お礼
織田信長があと20年長く生き天下を統一していたら、日本の歴史は大きく変わり日本にコロンブスやマゼランが出ていたのではないかと勝手に想像するのですがどうでしょう。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど鋭い指摘だと思います(特に後半の部分、ヨーロッパは地中海で訓練したというあたり、そしてジェノバ、ベネチア)。 ただし、オホーツク海は確かにリスキーだと思いますが日本海や東シナ海がそれ程リスキーな海域なのですかね。太平洋は英語名Pacific Oceanですがリスキーな海の部類なのでしょうか。 名前からすると穏やかな海なのですがね。まあ、あまりにもでか過ぎて怖いということですか。 前半のところで、日本は海洋国ではなく農業国であるとしていますが、日本は海洋国とはいえない? 確かに日本の気候は大陸性気候または温暖性気候であり海洋性気候ではないのですが、太平洋の中に浮かぶ島国、日本が海洋国とはいえませんかね。 ここのところはよく分かりません。ちょっと調べてみます。