- ベストアンサー
ほにゃらか形而左右学 いざ、鎌倉!
な~~~~がい不況が、続きますが、 年も変わるし、久々に、輪行をしなけりゃぁ、と。 冬は、東に向って、自転車漕いで、電車で帰るのが一番ですが、 東海道は、ほとんど行ったし、おっと、鎌倉があった。 さて、私は、以前に二度ほど鎌倉を訪れているはずですが、 ふと、私は、なにを頼りに鎌倉にたどり着くことが出来るのだろう、と考え込んでしまいました。 普段、駅までの道のりは、迷うことなくたどり着けますが、その際、私は、周りの景色を覚えているからたどり着けると、単純に考えていました。では、私が鎌倉にたどり着くためには、その経路をすべて覚えていなければ、いけないのでしょうか、ばかばかしい、鎌倉の看板や、地図を見れば迷うことはない。 しかし、このばかばかしい、言語的活動抜きに、普段駅に通う延長として、鎌倉にたどり着くことが出来るのか、そして、仮にたどり着いたとしても、そこが鎌倉であると、言語抜きに確信することは出来るのだろうか。 二日酔いの朝、財布を開いて、びっくり。 どうやって帰って来たのか、忘れてしまって、二度びっくり。 記憶力の衰えを痛感しつつ、お馬鹿な質問でした。
- みんなの回答 (34)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
. #18です。 日曜日に(1)以外の詳細は、検討するとの事なので、それ以前に回答をしたほうが良いと思い、十分に考察せず、雑な検証ですが、今感じていることを書きます。 >(1)の観察の説明を読むと、それは画像なのか、と改めて問い直してみたい誘惑に駆られます。 「画像」とは言っていません、「映像記憶の想起像」と言っているのです。 「画像」がぼやけているのではなく、「映像記憶の想起像」が、ぼんやりしていて、その中の一つの部分に注意を向けるとそこが、その部分がやはりぼやけて見えなくなるような感じがします。 「映像記憶の想起像」がそういう性質を持っている。っと言っているのです。 「画像」と「映像記憶の想起像」は、違いますので、区別お願いします。 . >その前に、そのまま記憶している画像とは、そもそも何のことなのか、我々が首を回せば、目の前に広がる画像は一転しますし、駅に向う道の景色は、一歩一歩進むたびに、その見え方が変化していきます。当然、その全てを記憶していると強弁することが、理に適っていないと言う事は、明晰なご回答者様なら理解できると思います。 これを、説明しようとすると、#18で述べた、 >(そのメカニズムは、無意識を持ち込んで説明になるので、省略します。) の無意識の説明をしないといけなくなります。 話が、複雑になるので、後のほうで触れます。 ヒントは、「映像記憶の想起像」は、ぼけています。何度も顔を見ている友人の顔を描け、と言われてもかけません。 しかし、本人が、仮に鼻を整形したとした場合、すぐに違和感を感じ、鼻の形が変わった事に気が付きます。 「映像記憶の想起像」は、とてもぼけているのに、実際の人物の小さい顔の変化も気が付く。 これは、不思議だと思いませんか? これには、無意識の記憶が関与していると言うことです。 . >この質問における「新兵器」「見つめることが出来る」も無力だったと言うことでしょうか。 見つめることは出来ないが、それは画像である、とご回答者様は仰る。 無力と言うより、「映像記憶の想起像」を別の側面から見た。という事です。 新しい事が分かった(想起されたイメージと言うものは、改めて見つめなおそうとしても、そこには何もない、こんな感じになるのです。) というのは、「映像記憶の想起像」が否定されたのではなく、新しい側面が分かったと考えると言う事です。 >画像をそのまま記憶する、と言う表現は、知覚をそのまま保存すると言う意味なのか、記憶は知覚の弱まったものである、と言った意味になるのか、或いはもう少し、違った意味になるのでしょうか。 . . これを、答えるのは、無意識に触れないといけないですね。 (色々な本を読んで、の仮説レベルだと思って、軽く読み流してください。) 記憶は、全て無意識に記憶されていると考えています。 (これは、催眠術の実験でも確かめられています。) たとえば、「映像記憶の想起像」が、ぼんやりとしていても、本人を認識できるのは、意識の上の「映像記憶の想起像」が無意識に保存された、はっきりとした「映像記憶の想起像」と、参照されるからと考えています。 映像記憶は、他の知覚(音声、臭い、味、等)に比べて、情報量が膨大です。 意識の上に、それを保存すると、飽和・混乱が生じるので、意識の上の記憶は、無意識の記憶を呼び出せるレベルの、ぼんやりした映像記憶を想起させ、無意識の鮮明な記憶を呼び出す、フックの様な、役目をしていると考えています。 以下のURL ペンフィールドの件もその、根拠の補強になると思えます。 http://www.weblio.jp/content/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89 因みに、記憶でも、知覚の種類で、意識に上がってくる鮮明さが違うということです。 生理学、脳医学の本では、聴力が視力よりかなり先に発達したという事です。 ですから、映像記憶より、音声記憶のほうが、覚えやすいということです。 実験してみてください。 歌手の歌を何度も聞いていると、自動的に頭の中で、その人の「歌が流れる」という体験はありませんか? その、記憶の歌は、かなり、ぼやけていなくて、リアルに近い音声ではないですか? 音声記憶が、映像記憶より、鮮明に意識上に上がってくる例と言えると思います。 多少、取りとめのない、内容になったことは、ご容赦ください。 それから、お願いですが・・・ >明晰なご回答者様なら理解できると思います。 の様な、表現は、お控えください。 自分は、色々な所で「頭がわるい。」表明していますが、本当に、愚鈍な頭脳だと思っています。 このようなことを書かれると、人を騙している様で、心苦しいです。 宜しくお願いします。 .
その他の回答 (33)
- mintarou1
- ベストアンサー率30% (22/73)
. #1です。 色々な動物を上げているのに、犬だけ取り上げて考えているのは残念です。 例えば、ネズミの迷路実験と言うものがあります。 迷路にネズミを入れて、餌のある所まで歩かせると言う実験です。 何度が、実験を繰返すと、迷わず、餌の所までいけるようになります。 以下のwiki を参照ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%B7%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E9%A8%93 これで、言葉と道を覚えることは無関係だと思いませんか? 人間でも、興味深いので、以下の事例を考えてください。 人間でも、不幸にも聴力を失った方がいらっしゃいますよね。 彼らの言葉は、音声ではなく、手話です。つまり、形です。 そんな、彼らは、問題なく鎌倉を認識できます。 これを、考えるのも、言葉とは何かと言う点に触れていて、面白いと思いますけどね。 .
お礼
おぉ、これはラッキー。 久々の質問で、ご回答者様に負担を掛けてはと、気を使いすぎたのが仇に成ったのでしょうか、現実以上に、この世界は難しいですね。 と言う事で、また来週。 どういう事か分からないでしょうが、質問者にも都合があると、御理解頂ければ、幸いです。
補足
反応が遅く、申し訳ない限りです。頭が悪いのです。 さて、鼠退治では苦労致しました、で、結局、そもそも鼠の退治など必要なかったと思ったのです。その上、鼠退治などと荒っぽい言葉遣いで、回答者様に不快感を与えてしまったのではないかと、反省する次第です。 参考のURLを拝見すると、迷路実験は、動物に記憶があるかを試す実験のようです。参考のページは詳細な記述がなく、もう一つハッキリしませんが、動物が記憶を持っていても、この質問の課題としては、何の問題も無いわけです。 問題があるとすれば、鼠が記憶をもつ場合、言葉ではないから、映像記憶がある、と言う点です。 この件に関しては、質問者の言語過程という表現と、ご回答者様の言葉という表現の間の、微妙な温度差のようなものを感じました。質問者は、単に話したりするだけでなく、思考の分野も含めて、言語過程といった表現を使っています。尤も、自分自身、イメージと言語過程という、二分法にとらわれていましたから、質問者の病気が回答者様に伝染したのかもしれませんが。 さて、そこで問題は、ご回答者様が#1のご回答で使っておられる、映像記憶というものが、上のほうの補足に書き込ませていただいた、見つめられることが出来るのか、それとも、図式のように、見つめられるような内容を持っていない、空虚な図式なのか、さてどちらなのか、と言う事になります。 人間の記憶の中身については、動物に聞くこともないのではないでしょうか? 「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 御蔭さまで、色々考えることが出来ました、他にも書きたいことはありますが、時間もありませんので、ひとまず失礼致します。貴重なご意見、有難うございました。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
いやいや、いざ鎌倉と言われても、そんなに簡単に鎌倉に辿り着けるわけでは在りませんよ。特に武蔵野原ではそうでした。私は先日始めてGPSなるオモチャを手に入れて、自分の現在位置やこれから行こうとする方角がすぐ分かるので、こりゃ便利だと思いました。でも、鎌倉時代の武蔵野原は背丈を隠す茅の原でした。道理で鎌倉時代頃の武蔵野原には、平地を横切る街道がなく、埼玉あたりから鎌倉に出る鎌倉街道などの代表的な街道は多摩丘陵や狭山界隈の平地との境目の丘陵地帯を縫うように走っていたのですね。言語だ何だのと七面倒くさい話ではなく、これから自分が行こうとする場所が見えなくては、不安だったんじゃないですか。だから、直線距離で近道な茅の原に街道を造らずに、わざわざ遠回りしてでも見渡しの良い丘陵地帯に街道を造っていたらしいです。勿論鎌倉時代には、江戸に大都会が在ったわけでも在りませんし。 鉄道、自動車、GPSなどのガチャンコ(いや、gadgetだったかな)の煙幕の目つぶしを食らって、虚心坦懐に考えれば誰にでも納得するような先人達の心を忘れてしまい、言語活動だ、世界認識だなどと、素人を煙に巻くような理屈を述べて遊ぶならそれはそれで善し。でも、それって学問じゃなくって、暇つぶしですね。それとも、哲学って始めからお遊びなのかもしれませんね。ちゅぅことは、全ての学問はお遊びか。孰れにしても、ここの欄はお遊びの場所なんで、それこそ、こんな質問は正統派かもしれませんね。 ところで、かく言う私も鎌倉時代の街道がどういう意味を持っていたかは、自分で気が付いたわけではなく、柳田國男の受け売りです。あらためてきちっと読み直したわけでは在りませんが、確か、國男翁の『豆と葉と太陽』の中の「武蔵野雑談」やら「武蔵野の昔」辺りに出ていた話だったと思います。当たらずと言えども遠からじです。さあ質問者さん、この問題提起で、日本人である以前に先ずは人間であるという立場から論じられる哲学的思索の方が、日本人である事が圧倒的に有利である日本民族学の独自のアプローチよりも説得力のある解答を引き出して見せることができることに、この質問で挑戦してみて下さい。ご幸運を祈ります。
お礼
昔も今も、街道筋の追分には、 右 京 左 江戸 と言った標識がありますから、こんな馬鹿なことは考えませんね。 実は、大森庄蔵の本を読んでいて、過去想起は言語的であるという指摘に、大いに頷くところが在るのですが、そうすると、道順の確保に関して疑問が起きるのです。同じような質問ばかりしていますから、ちょっとナンセンスぽくしましたが、私も幸運を待っています。 ご回答有難う御座います。
- mintarou1
- ベストアンサー率30% (22/73)
. 言語抜きに鎌倉駅に着き、そして、鎌倉駅であると確信できると思います。 人間で考えると、答えは難しいのですが、他の動物で考えると容易に理解できます。 犬、猫、鳥、ねずみ・・・・etc 彼らの語彙数は、限られたものです。しかし、色々な場所と通り、目的の位置にたどり着くことが出来ます。 途中の風景に全て名前をつけているとは、語彙の関係上考えにくいですね。 やはり、映像記憶自体が、認識区別として作用していると考えるべきでしょう。 (しゃけは、どうして同じ川に帰ってくるんでしょうね・・・・) .
お礼
なるほど、犬ですか。 渋谷のハチ公は、朝晩、毎日家と駅の間を、往復していましたね。 でも、あれって、マーキングという説がありませんでしたか。 貴重なご意見、有難う御座いました。
お礼
忘れていました。ペンフィールド 「1940年代から50年代にかけて、カナダの卓越した神経外科医ワイルダー・ペンフィールドが広範囲な脳手術を局所麻酔下で行った。手術中に脳が大きく露出するケースが多かったので、ペンフィールドはこの機会を利用して、それまで一度も行われたことのない実験をした。電極を用いて患者の脳の特定の部位を刺激し、どんな感じがするのかを患者にたずねたのである。電気刺激によって、ありとあらゆる種類の感覚やイメージ、それに記憶までが引きだされ、反応があった脳の領域が図示された。」 (『脳の中の幽霊』ラマチャンドラ) さて、この文章をすっかり忘れていましたね。困りました、これ本当なんでしょうか。 引用した本は、一般向けの、科学的読み物ですから、細かな用語に関して詮索する必要はないのですが、結局「記憶心象」と言う言葉をどう定義するのか、言葉の問題になってしまいそうですね。パースと言う人は、「心象」と言ったイメージも記号に含めてしまいますが、どうしたらそのような結論に至るのか、興味深いところです。 >聴力が視力よりかなり先に発達したという事です。 これは初耳、なるほど、確かに女性の歌手の歌声のイメージと言うか、声色を覚えているような、うむ~声は言葉だら、あまり深く考えなかったのですが、すぐ下の、先ほど書いたお礼と矛盾しないようにするためには、どうしたらいいのか、悪い頭を使って、まだまだ考えないといけないことが、沢山見つかりましたね。 有難うございました。 私たちの脳は、顔の見えていない人の後姿から、その人の顔があることを推測する。なぜなら、背中を向けていた人がこちらを振り向いたとき、もし顔がなかったら、私たちは非常にびっくりするだろうからだ。見る者を中心にすえた表象とは、人の後頭部が見えている画像に相当している。それは私たちが鮮やかに知覚できるものである。一方、顔についての推測は、3Dモデル的表現に由来する。ジャッケンドフは、この3Dモデルが直接私たちの意識に上ることはないと信じている。古い詩句に言うように、「私が私の言うことを聞くまでは、どうして私が私の思っていることを知るだろうか」というわけだ。 (『DNAに魂はあるのか』F.クリック)