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ほにゃらか形而左右学 テレビ
先日、北朝鮮の砲撃から逃げ惑う韓国の人々のニュース映像を見ながら、こうした映像がテレビを通して、私自身が見ることが出来ることに、違和感を感じました。 まずは、現場にいたら、映像のような客観的な視点はもてずに、映像の中の人々のように、安全な場所を求めて逃げ惑っていて、全く何も観察するような余裕もないし、恐怖や不安の中で、恐らく何がなにやらわからない、音と煙以外何も覚えていないような、経験ではないでしょうか。つまり、テレビを通してみる視点の不可能性のようなものが気になりました。 少し話は変わりますが、最近、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけが話題になって、それに対して明確に回答するのが、なかなか容易ではないし、色々な考え方が有ることから、同様の質問が、繰り返されているようですね。質問者はこの回答には関心ないのですが、なぜこのような質問がでて来るのかについて考えてみました。それがテレビに関係するのではと。それは、現在の日本においては、人の死が、ベールに囲まれた、葬儀として、或いはテレビを通してみる、死者の数、今年一年の自殺者は・・・人、交通事故で・・人の人が死亡、或いは自爆テロで・・人の人が死亡、といった具合です。それに対して、アメリカですら、学校での銃の乱射があり、中東・アフリカは説明する必要もないほど、人の死というものか現実の生活の中に不安を伴って存在しているのではないでしょうか。こうした事から、上記の質問を、死というものの不安を、表層化してしまう、テレビ等の影響が一部にあるのではないかと、推察することが可能ではないでしょうか。 さて、話をもとに戻して、現在、テレビが新しい時代に変わりつつあるとき、テレビの半世紀を振り返って、テレビの功罪について、皆様のご意見をお伺いしたいと思います。果して、テレビは人間を変えたでしょうか。 質問の中心は、テレビの内容(プロパガンダ的なもの)ではなく、ある種の超越的視線を得るという形式的な部分ですが、特に拘りません。年末年始の暇な時間に、ご回答をお寄せ下さい。忙しくてそれどころではない方におかれましては、長々質問しまして申し訳ありません、お仕事頑張ってください。
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- Nucleus_
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>誰が観るのか分からない絵をなぜ描いているんだろうと疑問に思いつつも 絵を描いていると感性(感覚)が刺激されるというようなことをどこかのサイトで見た覚えがあります。
- Nucleus_
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金魚鉢の絵をどうぞ。
- mashumaro2
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こんにちは。ご無沙汰しております。 テレビの出現によって、私たちのイメージの世界はどう変化したのでしょうか。 ボタン一つで膨大な量の情報やイメージにいとも容易く触れ取捨選択できるというのは、一見イメージが豊かになったようで、でも確実に世代が下るにつれ、昨今のデジタル技術革命を経たいま、私たちの自らが抱く視覚的イメージが貧弱になってきているのではないか、受動的に晒されるイメージの質量の影響下にあるのではないかなどと思うのです。 稀にコマーシャルの今昔番組を見かけますが、 当時は最高にスタイリッシュだったであろうものが、今では何とも野暮で垢抜けず、 一方、何故か最新のものほどお洒落で洗練されており、ある種の清潔感をも感じられるような気すら致します。 どうなのでしょう、もしかすると、パッパッとイメージ的に自分に峻別する要領の良さばかりが長けていっているのかもしれませんね。 より好きなもの、心地よいもの、利便性等々を、直感的に。 逆に「なにこれ?」というようなイメージのものに対しては、敢えて繰り返し忍耐強く対峙する必要もなく、反骨的なガッツというか、奥深い洞察力を養うような視線あるいは自発的に創生されるイメージというものが今や自然と養われるような時代ではないのではないか(であるならば複合的な要因なのでしょう)、養い鍛える機会を意図的に設け与えねば、本来自分自身が育んでいくはずの視線やイメージが痩せ細ったまま過ごすことになるのか、などと懸念するのです。 この意味において、現代アートなど、なかなか良い修業の場?のように私は思うのです。 (むろんテレビだけがその人独自の視線やイメージ創生にかかわっているわけではないのですが) あれっ? 画像が変わりましたね。 今度はなぜあれを描こうと?…とうかがいたい一心から投稿するのが見え見えですね、ごめんなさい。 引用文も楽しみです。 厚かましさ全開ですが、よろしくお願い致します。
お礼
お礼が遅くなりました。こちらこそご無沙汰いたしております。さて、通常の生活に戻りますと、何かと忙しくて考える時間がなかなか取れなくて、困っております。テレビの問題に、絵の問題も含めてのご回答でしたが、大変興味深く拝見いたしました。ことに、自分の気に入らないものを遠ざけてしまうということは、おおいに勉強になるところですね。確か、ヘーゲルさんも、『精神現象学』だったか、精神の偉大さについて、ネガテブな物にさえ注意をむけることのできる精神の可能性について、希望に満ちた文章を残していましたね。 皆様のご回答を拝見して、今は、どちらかというと、視覚とか聴覚とか、分析のために分断してしまった点に考えを整理できないかと考えている次第です。科学的に眼が見える仕組みは、説明できるのですが、眼が物を言うように、耳も皮膚も、ひょっとかして観ているのではないかなどと、とんでもないことを考えています。 さて本題の絵の件ですが、正月に物理学者様と、お屠蘇気分で『手話』の様な事をして遊んでいました。その際、一旦引っ込めた子供の絵を、また出すのももうひとつ芸がないな、と。そこで習作の絵の中から、BOWLとBALLの駄洒落と言う事で、大した意味など無いんですね。 そう言えば、もう一つぼやけた感じなので、ちょっと工事しておきましょう。 匿名のこうしたサイトに、自分の書いた絵を、UPしてしまうと、金魚鉢とはいえ、流石に問題がありますが、お蔵入り覚悟で、マイページ用の絵を描くのも面白いかもしれませんね。私の絵は、鉛筆の芯をキトキトと削りながら描きますから、三ヶ月ぐらいかかりそうです。春まで気長にお待ち下さい。
- littlekiss
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こんばんは、fishbowl66さん。 うーん、なんて言えばいいかな。 みる側のこころ構えがあらなあかんのんちゃうやろか? 映し出される映像・コメントをまんま鵜呑みにするのはお馬鹿でしょ? 見たもの聞いたものを咀嚼するのはほかの誰でもなく受けて側にあるわけで よく噛まずに飲み込めば当然消化不良起こしますがな。 で、阪神大震災のお話を引き合いに出してきておられましたが、 確かに仰られるように震災時の映像なり助け合い話が伝えごとのように 年々世に広がりをみせ、事実以上に美談化されてきている向きはありますね。 美談の一方で震災時に火事場泥棒はいましたし、避難所でレイプ事件が起きていたりと ことのほか人間の醜悪な面も多々あらわれてもいたのですが、 何故だかそういった話はあまり伝えられることもなく…。 こういうところは功罪のいうところの罪の部分でしょうか。 光と影。 んだから、「いざとなれば人々は助け合えるのだという、 幻想を植えつけてはいないのだろうかと」不安を抱かれるのであれば、 ご覧になられるときには「そんなもんか」ぐらいに眺めればよいのではないでしょうか。 ほじゃ、テレビは何かい、「百害あって一利なし」かといえばそれがそうでもない。 じゃ、どこが? またまた、例えが震災関連になるのですが 活字で「大規模液状化」「大規模土石流」と書いてあったり、 また言葉で聞いてもその当時は想像しがたい。 「百聞は一見にしかず」ではないけれどそれがどういうものなのかを知ることができたのは テレビに映し出された映像をみて知ることができたのも事実。 そだそだ、ハリーポッターの本、全巻読んだけど 空中戦の競技「 クィディッチ 」想像ふくらませ競技場やらその場の観衆を思い巡らしはしても、 映像をみたときには「あー、これがお話の中であったあの空中戦の競技なんだ」と 想像していた以上にその出来映えに感動したな。 ホグワーツ魔法魔術学校の建物の中の様子も映像で見ると 天井の高さや古めかしさに趣があってぐっとくる。 本を読んでも想像し難い部分異国の文化様式が垣間見れたりと、 ただそれさえも創造の産物なのですがね。 地デジ化の普及にともない、映像はよりクリアに。 よいことばかりかといえば、制作泣かせ。 寄りの映像だとバックのオブジェ張りぼてまるみえ。 そうなるとリアル3DCGで画像処理するか、 その費用も捻出するのが困難ともなれば尽く引きの映像でとるしかない。 そう考えると、むかしのテレビはすごかった。 セットも舞台衣装もエキストラの数も半端ない。 ヒエラルキー構造をなしていた。 「百聞は一見にしかず」
お礼
littlekiss さん、お久しぶり。 率直なご回答を頂き、感謝しております。 回答文の内容を、鵜呑みにしないで、咀嚼することが大切ですね。 失礼なことを申し上げるかもしれませんが、実は、今回の質問とも若干関係することですがlittlekiss さんの以前の回答では、URLの貼り付けが多くて、大変参考になったものもあれば、一部には閉口してしまう物もあったわけです。情報量が多すぎて、対応しきれず消化不良に陥ってしまった訳です。今回は、大変分かりやすく、また色々と考えさせる契機となりました。 さて、今回の質問の要点は、テレビ等の影響を、内容による問題と、形式による問題を、きっちりと分別することができるかどうか、という点がありました。 「百聞は一見にしかず」 これはよいキーワードになりました。 今回のご回答を、質問者が正確に理解できたとすれば、どちらかといえばテレビの利便性に重点をおいて、ご回答されていると思います。さて、此処で形式を問題にするために、思考の飛躍をしますから、よく咀嚼してください。「百聞は一見にしかず」と言う事で、多くの情報を得ることを、無条件で肯定するためには、われわれの能力に限界が無いと言う、怪しげな仮定が前提されていないのか。もう少し判り易く言えば、私たちは食べ過ぎる事があるし、肥満から病気になることもあるということです。ついでにつけ加えると、魂とか生気論的なものをほとんど否定しておきながら、知識のような観念的な現象に関しては、限りが無いように思い込んでいるのではないのでしょうか。ちょうど「過ぎたるは及ばざるが如し」と言った事が、テレビ等による経験に、当てはまる――何ごとも程度問題が在るとしても――のではないでしょうか。 もう一つの、私たちの経験に対する、超越的な視線の問題は、形式化とか一般化するとどのように整理できるのか、まだ判らないのですが、おかげさまで、少し理解が深まったようです。 可笑しな事ばかり考えていますので、可笑しな御礼になってしまいましたが、またよろしくお願いします。
- Nucleus_
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本題となるかどうかは別として >テレビ等の影響が一部にあるのではないかと、推察することが可能ではないでしょうか。 そうですね。例えば直面した出来事、実際に体験した出来事に関しての疑問でなく、ネットやテレビで見た事象に関する疑問や質問はすべてまやかしであると言って良いでしょう。 しかし、考える訓練と、考える材料にはなりそうです。 また、テレビで見る視点が超越的視点かと言うと、そうではないと想います。 日本の総理大臣であると言われている管直人と言う人は本当にいるのですか?私は会ったことはないので「存在します」と言い切ることは出来ません。言える事といえば、「おそらく存在するのであろう」これのみだと想います。 しかし、乱暴に言ってしまいますが、テレビで見た映像などを、その見た本人が本当だとするなら、それは本当なのでしょう、その事象の本質的な部分においては。 >かちかちでは、こうは行かないのではないでしょうか。 皆がそうなれば こうは行っていないでしょうね。 それでは引き続き猫の掃除と人様に言えない仕事を頑張ってください。
お礼
お仕事の方は、やっと今朝、二つ目の仕事に諦めがついて、今日は街中をネタ探しに徘徊する予定です。本の方が読めるか怪しくなっております。猫? さてさて、改めて回答を頂き、やはり微妙な問題を含んでいることを再確認しました。 と申しますのも、テレビにおける影響の内容面と形式面が、私を含めて区別する(そもそも便宜上区別することができると仮定して)ことがなかなか困難なことだということです。 また、悪い頭をひねくって、具体的な例を出してみましょう。 もうすぐ、神戸の地震の日が来ますが、最近の報道などによると、災害時のボランティアや助け合いの話が、個人的には話題の中心にされてきたようですが、こうしたテレビの内容を鵜呑みにすると、普段、私たちは利己的に生活しているにも拘らず、なにかの災害が会ったときは、利他的に生活・助け合いすることができるのだ、という印象を持ちますよね。 いざとなったら、人間は助け合える。こんなすばらしいことはないのですが、はたして本当でしょうか。どうして普段は利己的なものが、突然利他的になるのか、さっぱり分かりません。それは、恐らく、テレビが一般の人が、知りたがらないことより、知って安心できるような内容を要求しているということではないでしょうか。この点が、内容と形式の微妙な違いではないかと思います、当然舌足らずの文章では説明不足ですが。 この形式が、質問冒頭の砲撃映像でも、見せられる程度の映像で、表層的な見たという貧困的な経験で、経験したような気になってしまう、あるいは逆の意味で、9.11の映像が、当時放映を制限されていたりしていました。話を神戸に戻せば、神戸の災害の経験は、実際に被災した人々それぞれの経験であって、テレビを通して、いざとなれば人々は助け合えるのだという、幻想を植えつけてはいないのだろうかと、不安を覚えるのですが。 とはいえ、本当に内容と形式は微妙な問題で、区別できるかどうか私自身もよくわからないのですが。有難う御座いました。
- cyototu
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#1です。 新年明けましてお目出度うございます。 相手にこちらで言いたいことを誤解なく一発で伝える。昔読んだ西洋哲学入門の中で、英国王立科学協会が数世紀前に出来たときから、このことが学者さん達の主要課題になったと書いてありました。私はその時、国語の先生は文学科や国文科を出た人でなくて理系を出た人にやらせるべきでないかと考えてことがあります。 狐狸庵閑話じゃなかった、支那蕎麦閑話でもなかった、閑話休題。たしかに我々先進国の人間は、昔には無かった世界を見ているかもしれません。私は遠く離れた孫とコンピュータを通してビデオで話すことがあるのですが、彼等は一才に見た無いときからコンピュータの画面の中の私を見て反応している。そんな経験をそんな幼児のときからしてしまって、きっと我々には想像もできないような脳味噌の深い所にこの印象が刻み込まれてしまっていると思うと、私には彼等の見ている世界の想像すら出来ません。私の既に無くなった叔母は、亡くなる直前には四五才のころに自分が貰った人形のことばかり話すようになり、もう外界とは会話が出来なくなって居りました。この孫達は、そんな時コンピュータの映像の中だけが残ってしまうのでしょうか。 私たちの経験しなかった新しい世界を見ることは、自分の自由度を増すことができる場合にはこんな好ましいことがありません。しかし、恐ろしいのはその新しい世界だけが世界だと思い込んでしまう場合です。私が危惧しているのは、テレビやコンピュータの映像の世界は、人間が作った世界だと言うことです。人間の考え付くようなことは高々人間の考え付く程度のことですので、人間が想像も出来ず考えもつかないようなことが起こらないからです。私はアメリカに来てある時驚いたのですが、自分の周りの家も道路も庭の木も花も、ほとんどの物が元々そこに在った土着の物でなく、人間によって完全に変えられてしまって、そのどっぷりと人工的な世界の中で我々は生きていることです。よく考えてみたらこれは日本だって同じです。日本は山が多く、一見アメリカの大平原なんかと比べてもっと簡単に自然に入って行けるように見えますが、そんなことありませんね。我々に身近にある山はほとんど針葉樹に変えられて仕舞い、昔の広葉樹林帯がほとんど身近から無くなっている。やはり人工の世界なんですね。だから、殆どの現代人は自然を見ていず、自然を感じていない。 ところが、自然のやることは人間の考え付くような枠を遥かに超えた事ばかりです。私の研究生活でも、前もって予測がつくような事で、もの凄く重要なことはありません。良い仕事とは、何時も予想外の副産物として驚きの中から出て来るのです。だから、昔から言われているように、どんなに優れた古典的な小説よりも、古典的なノンフィクションの方が優れているのですね。どんなに優れていようが、小説は所詮その小説を書いた人が前もってその人が想像が出来る事しか書いていないからです。 私の論点がほにゃらかさんの論点とは微妙にずれている事は承知して居ります。でも、この問題はいろいろな視点から眺める方が、より生産的だと思いましたので、それを承知で敢えて書いているのです。 私は工学と理学の違いをこんな風に考えたことがあります。工学の至上命令は、いろいろな工夫をして我々の世界を如何に住み易くするかにある。だからそれを貫徹するために、工学者は自分たちの周りの環境をどんどん改良して行こうとする。その結果、現代人は自然から最も遠い所で生きている。一方、理学ではそんな改良には一切興味が無い。理学の人達は自然がどう出来ているのかを知りたいだけだ。だから、そのために便利だったらいろいろな技術を使わせてもらうが、本質的にはそんな技術には興味が無く、いかにして裸の自然を自分の目で直接見ているかに、全神経を集中させている。 ところで、そのように裸の自然を見ることができる人達は昔は幾らでも居まいたね。それは、原始人達です。彼等は虹に驚き、木霊に驚き、雷に驚き、狼の遠吠えに不安を抱く、そんな世界に住んでいた。だから、現代の社会で一般の人の見方とは違って最も原始人に近い感覚で世界を見ているのが理学の人達や科学者である。だから、理学の人と工学の人が会話が出来るわけが無い。まあ、皆さんが聞いたら「お主、気が狂れたか」と言われそうな結論です。 自然科学の進歩は、進歩すればする程、我々人間に全く新しい自然層を現出してみせてくれて、世界が昔よりもずっと巨大になって来ていることを教えてくれて来たのですが、その反対に、工学の進歩は、人間には何でもできると言う錯覚をもたらしてしまい、世界を小さくしてしまっているようですね。 正月だけ私の画像を変えてみました。これって工学的ですか理学的ですか。
お礼
あけましておめでとうございます。 これはいわゆる、光学的と、少しずらして答えしておきましょう。 新年早々、日本海側は大荒れの様子で、お屠蘇気分に浸るのもはばかれますが、意図的に微妙に視点を外されたとのことで、了解いたしました。大雑把に捉えると、物理学者様は外を向いていて、質問者は内を向いていると、表現して誤りではないでしょうか。 自然の創る物と比べて、人間の作る物などたかが知れているという言葉には、深く同意いたします。テレビで見たことと、現実にみたことは、記憶によって区別されるので、何の問題もないと思われがちですが、そもそも私たちの記憶というものがどんなものかさっぱり判っていないことを忘れてしまっているのでしょうか。 ご回答を拝見していて、ふと思ったのですが、優秀な物理学者が手ぶらでたった一人で原始時代に舞い降りたとしたら、何ができるのでしょうか。きっと何も出来ないのではないでしょうか、そう考えると、外と内は深く繋がっているんだろうなと。 さて、もうすぐ夜明けです。
- Nucleus_
- ベストアンサー率34% (8/23)
>ほにゃらか形而左右学 ほのぼのとしていますが、核心に近づけないような感じです。 例えば、「かちかち核心学」みたいな感じのほうが良いのでは? >「なぜ人を殺してはいけないのか?」 「人を殺してはいけないのか?」と問えず、「なぜ」がなぜ入るのでしょうか。 >お仕事頑張ってください。 いえいえ、そちらこそ。仕事は何をしているのですか?
お礼
ご指摘有難う御座います。 人殺しの問題が印象が強いようですね。もし、これが、理由の問題ではなく、感情・感覚の問題だとご指摘されているのでしたら、質問の意図をしっかりと捉えられているようですが、その割りに、 >仕事は何をしているのですか? ほにゃらかな対応としては、 人様に言えるほどの仕事はしていませんが、 正月休みには、掃除・描きかけの絵を完成させる・新しい絵のネタを探す・ベルクソンかフーコーの本を再読する・回答がついたらお礼をする等々で御座います。 かちかちでは、こうは行かないのではないでしょうか。
- cyototu
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ほにゃらかさんの奥の深さは賞賛に値しますので、楽しませて貰っています。テレビは確かに一億総白痴化と言うより、70億総白痴化の原動力になっていることは認めます。そして、人の死に対して表層的な認識しか出来なくなってしまっていることも認めます。しかし、私にとってもっと切羽詰まった問題だと思えるのは、テレビよりもコンピューターゲームではないかと思えるのです 私はアメリカに住んでいるので短銃を手に入れようと思えば簡単にできるのですが、それでも私はそれを手に入れようとはしていません。銃を持つことに大変高い閾値を感じているのです。そして、その銃を手に入れた所で、たとえ自分の身を守ると言う状況でも、その銃の引き金を引くことができるとは思えないのです。ところが、私は自分にも簡単に引き金が引けるようになれる方法を知っているのです。それは、一度人を殺してみることです。始めの経験は大変高い閾値を越えなくてはならないでしょうが、二人目からなら、もっと躊躇なく引き金を引けるような気がしています。 そんな私が、一度ある友人の持っているコンピューターゲームをやらせてもらった時に驚いたのですが、それは自分の敵を殺すゲームをやったときでした。相手の飛ぶ時の血の散り方が驚く程写実的でした。そのゲームでは自分で武器を選ぶことができ、またコンピューターの入力装置の引き金を引くと、武器の発射音と共に、その選んだ武器の特徴に合わせて、その自分の手に持った入力装置に現実味を帯びた反動まで帰って来ました。 私はその時、これは今まで人を殺したことのない軍隊の初年兵の訓練にぴったりだと思いました。コンピューターゲームで初年兵に散々人を殺す訓練をしておく。そうすれば、その初年兵が戦場で生まれて始めて人を殺す時に、何の躊躇もなくできるようになっている筈です。だから、アメリカの軍隊も、そして多分日本の自衛隊もコンピューターゲームを使って殺人のシミュレーションを徹底的にしていると思えます。 確かに、テレビによって虚像と現実の間が曖昧になってしまった方も多く出て来たと思います。しかし、テレビだけでは上に述べた人殺しの閾値を下げることは殆ど出来ないと思います。単に人々を馬鹿者にするだけです。それより、上で述べたコンピューターゲームの方が、桁違いに恐ろしいのではないでしょうか。
お礼
アメリカの物理学者様、ご回答ありがとう御座います。 やはり、テレビゲームですか。私は前々から不思議に思っていたのですが、悪影響があると判っているのに、規制の話は聴いたことがないですね。何かのニュースで、外国で作られたゲームの配役が、海兵隊とタリバンとの殺し合いでで問題になり、名前を別のものにしたとのことですが、名前を変えれば許されてしまうのも、不思議なものですね。 ご親切にも、煙草やお酒に関しては、健康に悪いと色々な方面から、ご指摘を頂くのですが、テレビゲームのパッケージには「健康に悪いですから使いすぎに気をつけましょう」といった言葉は入っていないんでしょうね。 さて、今回、殺人の例を挙げてしまったのでかえって分かり難くしたのかもしれませんが、テレビゲームやテレビによる白痴化の問題はある意味では、多くの人たちが理解していることであり、問題があるのになぜなくせないのかという社会の有り方の問題に成ると思います。しかし、今回私が指摘したかった点は、テレビといった超越的な視点が、人間の経験から、感覚・感情といったものを欠落させていきはしないだろうか、という点です。別の例を考えてみます。現在、私たちはテレビやネットで、青く丸く見える地球をその気になれば見ることができると思いますが、実際肉眼で見た人にとっては、それは一生をかけた努力の成果であり、それまでの苦労と共に見えてくるものではないでしょうか。或いは、毎年テレビで初日の出を拝みながら、自分の背中に登ってくる太陽のありがたみに、さっぱり気がつかなくなってしまっている。富士山から見る初日の出とか、余計なレッテルをありがたがっているようです。 個々の経験の濃厚さを、記号的表象という薄っぺらなものに変えてしまう、世相に不安をいだくのは、年寄りの、妄想なのか、その辺りのご意見が中心テーマでした。相変わらず、一発で質問の要点を伝え切れませんが、問題があまり一般化していないと理由で、ご容赦願います。 あら、福助の女性版でしょうか、珍しい画像ですね、良いお年を。
お礼
有難うございます。 忘れていた質問を思い出させて頂きました、嘘ですが。 金魚鉢の絵は何処にあるの、見逃してしまいました。 こちらでお約束した絵のほうは、やっと四月の終わりから書き始めています。 元々、年に二・三枚しか描けない者が、去年からのものを取り敢えず完成させ、次の絵を書き始めていたころですから、お約束の絵を春までに何とかできると、このとき思っていたことが不思議ですね。 尤も、今年の初めには、PC環境に異常があって、データの修復やプリンターの修理と、一月以上無為に過ごす羽目になったのですが、このことを差し引いてもやはり不思議です。 今は、コンマ3ミリとコンマ5ミリのシャープペンで手抜き工事を行っています。ふと、誰が観るのか分からない絵をなぜ描いているんだろうと疑問に思いつつも、ペン先に集中する時間の流れの速さに驚いています。そうそう、先の絵を焦った為、腰を痛めたこともありました。 こうして、過ぎた日のことを考えていると、私の記憶が、このページのなかにあるのではと、ふとおかしな考えがよぎってきます、記憶が私の外側にあるということは、一見、とんでもない話ですが、自分が過去に書いたことを読みなおしてみると、興味深いことがありますね。 では、静かなうちに少しずつ描き込んで行きましょうか。