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ほにゃらか形而左右学 いざ、鎌倉!
な~~~~がい不況が、続きますが、 年も変わるし、久々に、輪行をしなけりゃぁ、と。 冬は、東に向って、自転車漕いで、電車で帰るのが一番ですが、 東海道は、ほとんど行ったし、おっと、鎌倉があった。 さて、私は、以前に二度ほど鎌倉を訪れているはずですが、 ふと、私は、なにを頼りに鎌倉にたどり着くことが出来るのだろう、と考え込んでしまいました。 普段、駅までの道のりは、迷うことなくたどり着けますが、その際、私は、周りの景色を覚えているからたどり着けると、単純に考えていました。では、私が鎌倉にたどり着くためには、その経路をすべて覚えていなければ、いけないのでしょうか、ばかばかしい、鎌倉の看板や、地図を見れば迷うことはない。 しかし、このばかばかしい、言語的活動抜きに、普段駅に通う延長として、鎌倉にたどり着くことが出来るのか、そして、仮にたどり着いたとしても、そこが鎌倉であると、言語抜きに確信することは出来るのだろうか。 二日酔いの朝、財布を開いて、びっくり。 どうやって帰って来たのか、忘れてしまって、二度びっくり。 記憶力の衰えを痛感しつつ、お馬鹿な質問でした。
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. #18です。 日曜日に(1)以外の詳細は、検討するとの事なので、それ以前に回答をしたほうが良いと思い、十分に考察せず、雑な検証ですが、今感じていることを書きます。 >(1)の観察の説明を読むと、それは画像なのか、と改めて問い直してみたい誘惑に駆られます。 「画像」とは言っていません、「映像記憶の想起像」と言っているのです。 「画像」がぼやけているのではなく、「映像記憶の想起像」が、ぼんやりしていて、その中の一つの部分に注意を向けるとそこが、その部分がやはりぼやけて見えなくなるような感じがします。 「映像記憶の想起像」がそういう性質を持っている。っと言っているのです。 「画像」と「映像記憶の想起像」は、違いますので、区別お願いします。 . >その前に、そのまま記憶している画像とは、そもそも何のことなのか、我々が首を回せば、目の前に広がる画像は一転しますし、駅に向う道の景色は、一歩一歩進むたびに、その見え方が変化していきます。当然、その全てを記憶していると強弁することが、理に適っていないと言う事は、明晰なご回答者様なら理解できると思います。 これを、説明しようとすると、#18で述べた、 >(そのメカニズムは、無意識を持ち込んで説明になるので、省略します。) の無意識の説明をしないといけなくなります。 話が、複雑になるので、後のほうで触れます。 ヒントは、「映像記憶の想起像」は、ぼけています。何度も顔を見ている友人の顔を描け、と言われてもかけません。 しかし、本人が、仮に鼻を整形したとした場合、すぐに違和感を感じ、鼻の形が変わった事に気が付きます。 「映像記憶の想起像」は、とてもぼけているのに、実際の人物の小さい顔の変化も気が付く。 これは、不思議だと思いませんか? これには、無意識の記憶が関与していると言うことです。 . >この質問における「新兵器」「見つめることが出来る」も無力だったと言うことでしょうか。 見つめることは出来ないが、それは画像である、とご回答者様は仰る。 無力と言うより、「映像記憶の想起像」を別の側面から見た。という事です。 新しい事が分かった(想起されたイメージと言うものは、改めて見つめなおそうとしても、そこには何もない、こんな感じになるのです。) というのは、「映像記憶の想起像」が否定されたのではなく、新しい側面が分かったと考えると言う事です。 >画像をそのまま記憶する、と言う表現は、知覚をそのまま保存すると言う意味なのか、記憶は知覚の弱まったものである、と言った意味になるのか、或いはもう少し、違った意味になるのでしょうか。 . . これを、答えるのは、無意識に触れないといけないですね。 (色々な本を読んで、の仮説レベルだと思って、軽く読み流してください。) 記憶は、全て無意識に記憶されていると考えています。 (これは、催眠術の実験でも確かめられています。) たとえば、「映像記憶の想起像」が、ぼんやりとしていても、本人を認識できるのは、意識の上の「映像記憶の想起像」が無意識に保存された、はっきりとした「映像記憶の想起像」と、参照されるからと考えています。 映像記憶は、他の知覚(音声、臭い、味、等)に比べて、情報量が膨大です。 意識の上に、それを保存すると、飽和・混乱が生じるので、意識の上の記憶は、無意識の記憶を呼び出せるレベルの、ぼんやりした映像記憶を想起させ、無意識の鮮明な記憶を呼び出す、フックの様な、役目をしていると考えています。 以下のURL ペンフィールドの件もその、根拠の補強になると思えます。 http://www.weblio.jp/content/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89 因みに、記憶でも、知覚の種類で、意識に上がってくる鮮明さが違うということです。 生理学、脳医学の本では、聴力が視力よりかなり先に発達したという事です。 ですから、映像記憶より、音声記憶のほうが、覚えやすいということです。 実験してみてください。 歌手の歌を何度も聞いていると、自動的に頭の中で、その人の「歌が流れる」という体験はありませんか? その、記憶の歌は、かなり、ぼやけていなくて、リアルに近い音声ではないですか? 音声記憶が、映像記憶より、鮮明に意識上に上がってくる例と言えると思います。 多少、取りとめのない、内容になったことは、ご容赦ください。 それから、お願いですが・・・ >明晰なご回答者様なら理解できると思います。 の様な、表現は、お控えください。 自分は、色々な所で「頭がわるい。」表明していますが、本当に、愚鈍な頭脳だと思っています。 このようなことを書かれると、人を騙している様で、心苦しいです。 宜しくお願いします。 .
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- littlekiss
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こんばんは、fishbowl66さん。 ●二日酔いの朝、財布を開いて、びっくり。 どうやって帰って来たのか、忘れてしまって、二度びっくり。 ↑ マジ、洒落にならん… ↓ 三途の川も金しだい? 洒落にならんのはほかでもない、この3日に母さんが亡くなった。 ほだからかな、六道輪廻の話に読めてしまうから摩訶不思議。 【六道輪廻について】 http://www.ne.jp/asahi/ningenzen/gakunan/zuihitu/z3-rokudourinne.htm
お礼
littlekissさん、残念なことでしたね。 なにかの本で読みましたが、ある人が亡くなっても、その人を記憶している限り、その人は生きているんだと、考えることは可能のようです。亡くなった人のことを語り、記憶を大切にしてください。 また、亡くなった人の、使い慣れていた道具は、形見になります。そしてそこに、亡くなった人がいるんですね。 観念論とか魂とかを持ち出さなくても、超越論的実在論とかで、語られたり、思われたりしたものは、うっすらとでも実在しているんだと。 それと、気が晴れるかどうか分かりませんが、 そもそも、生命はもともと死にません。自己分裂して増殖するばかりで、死ぬのは、個体であったり、種の絶滅であったりします。littlekissさんのご兄弟が四人おれば、母上の遺伝子は、ほぼ全部、四人で引き継いでいます。 littlekissさん、にも、当然半分、母上が生きています。 ●二日酔いの朝、財布を開いて、びっくり。 どうやって帰って来たのか、忘れてしまって、二度びっくり。 ↑ マジ、洒落にならん… 六道などと、不可思議なことを考えなくても、 fishbowl66なんて奴は ●二日酔いの朝、財布を開いて、びっくり。 どうやって帰って来たのか、忘れてしまって、二度びっくり。 ↑ マジ、洒落にならん…事を、時々ですが、やってしまうんですね。 いゃ~ね、酔っ払いのオヤジ、なんです。
>与太話は、此れ位にしておきます。色々お付き合い頂き有難うございました。 私自身ばくち打ちの与太者ですので(笑)。 >今度は記憶自体の居場所がなくなりはしないか。 この場合の「記憶」はベルクソンが言うところの身体的記憶という意味でお使いではないですかね。 言語能力を身体的所作の蓄積が習慣化したものであるとベルクソンは考えますが、そういう意味では「記憶」と言えると思います。 しかし色の場合は、身体的記憶や精神的記憶ではなく概念的把握と言えるのではないでしょうか。 例えば、昨日見た帯の赤色の記憶、一昨日見た帯の赤色の記憶、三日前見た帯の赤色の記憶、これらは精神的記憶です(なぜかといえば明確な時間的な位置を持っている)、しかし共通して「赤色である」と言えるのは色とか赤と呼ぶものの特徴を把握しているからで、これを思考能力によって事物に割り当てる作業が認識と呼ばれるものだと思います。 >この赤いものが見える、と言う事柄は、私が、頭の中で声を出さずに「赤いものが見える」と言うのと、別の事柄なのか >この赤いものが見える、と言う事柄は、 が感覚与件の意味だとすると、それ自体はまったく意味のない不毛な現われということになりますね。しかし実際にそのよう意識状態を作るのは難しいと思われませんか? 現実には「赤い色」として知覚に現れてくるのではないでしょうか。 ちなみに「痛い」の例は言語ゲームでしょうか。
お礼
>今度は記憶自体の居場所がなくなりはしないか。 ベルクソンは難しいですね。 彼の定式では、記憶は I過去は異なった二つの形式のもとで残存する。(1)運動機構に置いて。(2)独立的な記憶において II現在の対象の再認は、それが対象から生ずる場合は運動によって行われ、主体から発する場合は表象によって行われる。 (1)は、知覚の照合という意味合いで、(2)は、想起つまり、思い出すと言う意味合いで、今回の質問の問題点と一部重なっているのですが、逆に、今回の質問は、記憶の中から、IIの表象を追い出そうと言う、無謀な試みも、同時に問題としているわけです。 ただ、ベルクソンの記憶は、 >古典的分析では知覚は感覚と追憶で成り立っていると考えます。 この指摘の範囲以内の受け取り方が、ベルクソンの言う「イマージュ」ですから、 「追憶が知覚を補うためには、まず現に与えられているものの表情によって、追憶が可能にされている必要がある。すなわちこの考え方は、追憶によって説明されるはずの所与形態化を実は前提している」 と言う、メルロ・ポンティの批判に答えなければなりませんね。 それに、残存するとはいっても、何処に、脳にではない、としか言いませんし。 概念把握と言う表現ですと、言語的な同一性とか共通性の抽象化と言った意味合いに取れるのですが。 >昨日見た帯の赤色の記憶、一昨日見た帯の赤色の記憶、三日前見た帯の赤色の記憶、 この共通性の根拠は、(1)時間空間における慣性の法則にしたがって、帯は同じところにある同じ帯だから、同じなのか、(2)色の記憶が同じだから、同じ帯だと把握するのか、そして、この両者の統合作業を認識と呼ぶことだと思いますが、(1)も(2)も言語的な把握として、概念把握と言う表現を使っておられるのか、個人的には、概念把握で言語的な要素を含まれるのなら『言語ゲーム』(『』付です、ここでのと言う意味で) とよく似たものになってしまいそうですが。 感覚与件ですか、運動の過程を切り刻んだせいでしょうか、しかし、分析しようとすると分けなければならない、難儀ですね。 因みに、痛い『言語ゲーム』は、まともな本からの受け売りです。誰の本か忘れましたが。 有難うございました。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
今回は疑問を解消するためのヒントを、“回答”とします。 動物は、 言葉(音声)でも、映像でも、音でも、匂いでも、温度でも、記憶します。ほかに何かあるか、思いつきませんが。 それでは、道順はどのような“手段の”記憶といえるのでしょうか。 私は今は、分からないのでfishbowl66さんの考えを教えて欲しいです。 蛇足ですが、酔っ払ってどうやって帰ったのか分からないのは、忘れたからではなく、記憶しないから、だと思うのですが。 帰り道は、道順は、覚えているので、帰れますが、酔っているのでどう帰ったのかは、記憶しないのだと。 ちなみに人間以外の動物は、常時、こうした状態ではないでしょうか。 酔ってプッツンすると、人間は理性を欠いた“動物”ですよね。
お礼
>蛇足ですが、酔っ払ってどうやって帰ったのか分からないのは、忘れたからではなく、記憶しないから、だと思うのですが。 おっぉ、お見事、これで難問が一つ解決しました。 さてそれでは、もう少し考えて見ます。その答えは皆さんへのお礼になりますが。 ご回答有難うございました、それに遅くなって申し訳ないです。
- mintarou1
- ベストアンサー率30% (22/73)
. 横から、すみません。 #17 ENERGEIA さんの回答に、違和感があるので、すこし、意見を述べさせてください。 >例えば鎌倉に幼い頃から暮らしている人が、「ここは鎌倉であると知っている」のは、言語による記憶でもなく、画像による記憶でもないと思いますが... つまり、それが認識ではないですか? これは、認識の定義にもよると思います。 例えば、パソコンに付属するマウスを見た事がない人がいたとします。 当然、マウスと言う言葉も、使用方法も分かりません。 その人に、マウスを見せれば、存在は認識できます。 この場合、認識と、そのものの理解は別と言うことです。 じゃ、マウスの名前、使用方法が認識出来ているためには、 マウスに対する、名前、使用方法の記憶がなくてはいけません。 そのあたりの、「認識とは何か」をちゃんと定義しないと、話がずれる感じがします。 .
お礼
#28のご回答、拝見しました。失礼な点はお詫び申し上げますが、 質問者にとって大変勉強になることだけは、改めて、書き残しておきます。 (1) >友人に合えば、本人を問題なく認識できるから。 私は、ここに重要な問題が含まれていると、思うのです。この表現を分析すると、友人に会う(1)→友人だと分かる(2)→友人を覚えている(3)→友人の顔を記憶している。私が重要な問題だと思うのは(3)→ここを、友人を覚えている←(4)友人の顔を記憶している。と、思い込んでしまう点にあります。 顔を記憶しているから、友人を覚えていると限定してしまう点を問題にしたいわけです。例えば、知人に偶然、会ったとします、最初、誰か判らない、そのような場合、顔をまじまじ観察するよりは、色々な状況を思い出して見ます、或いは逆に、その知人が「○○さん、先日は・・・」とか声を聞くと、取引先のあの人だ、と、思い出したりします。ところが、当の取引先で、その知人に会った場合、最初判らないようなことは、無いと思うのです。 顔の記憶を全く無い、とは申せませんが、それだけではぼやけているのであり、顔の記憶以外で他人を記憶し認知している部分を見落としはしないでしょうか。それが、道順の問題に移植されると、道順の全ての状態を記憶していなければならない事に繋がってしまいます。「映像記憶の想起像」という言葉の変わりに、「図式・図形」と言う言葉を使っているだけなのかもしれませんが。また、質問者自身、この言葉の意味するところをはっきりと確定できているわけではないのです。道順と言う空間把握は、自身の立ち位置と空間世界の諸物の位置の対比を、個人的ランドマークの点在と言った「象徴作用(また、変な言葉を使って申し訳ありませんが、映像記憶の想起像よりは、言語記号に近いもの、と言った感じ)」に頼って行われているのではないだろうか。 (2) ここは、誤解があるようです。 記憶に関する事は、仰るとおりでしょう。私の場合は、記憶はDNAまで考えることが出来る、と思います。ただし、言語を獲得したことによって得られた記憶と言うものもあるのではないでしょうか、私の考えでは、意識はほとんど言語と同義であって、言語抜きの意識というものが考えられないのです。この点は別問題ですが、したがって、意識に昇る記憶は言語である、と言う、行き過ぎた仮説から、どこまで後退するのか。
補足
何度も、考えさせられる、ご回答を頂き、感謝いたします。 今回の一連のお礼は、文字制限と格闘したため、つっけんどんな事務的表現になっているようですし、お礼を書いた順番も、逆になっています、つまり、下のお礼より、上のお礼が先に書かれています。 ちょっと文章の流れがおかしいかもしれませんが、そのまま投稿させていただきました。さて、頑張って追いつきますので、なにかあれば宜しくお願いします。
- mintarou1
- ベストアンサー率30% (22/73)
. すみません。 迷路実験のURLがおかしいようです。修正します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%B7%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E9%A8%93 .
お礼
(3) これは、先にご紹介頂いたwikと同じですね。 まず最初に、空間把握を、カントのような先験的空間把握といった、形而上学的な問題で考えているわけではなく、現実に見えている、私たち自身のローカルな空間について考えていると、断っておきます。 ここでも、一つの誤解を解いておかなければなりません。蜂の8の字ダンスはご存知でしょうか、これは、仲間に餌のありかの空間的位置を伝えています、こうした事も含めて、言語記号とか言語活動とか言語過程と言った、それぞれ明確に未区分のされていない言葉を使っています。そうした質問者の不手際による、誤解でしょうが、鼠の実験は、この質問に関して、有意義な実験結果が出ている訳ではないと思うのです。 例えば、実験に使われる迷路は同じ迷路を何度も使うようです、映像記憶の有意義性を確認するためには、他の可能性を排除する必要があるはずですが、そのような形跡はありません。しかし、例えば、他の可能性を排除するために、実験毎に、全く同じ視覚像を提供する新しい迷路を使って実験した場合、それは一体同じものを記憶したのか、間違えて記憶したのか、わけが判らなくなってしまいます。 この実験から確定されることは、動物が記憶を持つ事、その記憶が脳と関係があること、ただし、脳とだけ関係があると確定されてはいない。主として、以上に尽きると思います。 このサイトは、確かに便利ですが、実験の詳細についてはわからないですよね。たとえば、ミミズのデーターはなぜ承認されないのか、とか色々不整合な判り難い点があると思います。 (4) これも、上と同じ誤解ですね、画像の事ばかり気にして、言語とか言語記号とか当然共通の理解があると勘違いしていたのでしょうか、人により、微妙な違いがあって当然ですね。 これについては、手話は私にとっては、はなから言語の中に入っていますから、言葉の問題で、大層迷惑をお掛けしたようです。 (5) この点に関しては、上のお礼の最後に書きましたが、音と言語と記憶の三つを並べると、面白い問題がでてきそうですが、それはさておいて、バラの臭いにしろ、海苔の味にしろ、こうした事柄は、語られると言うことです。意識が殆んど言語的なら記憶の中からクオリアのようなものは全て追い出せばよいのです。その取っ掛かりが映像記憶と言えば、御理解いただけるでしょうか。
- mintarou1
- ベストアンサー率30% (22/73)
. 長い、丁寧な回答へのお礼ありがとうございました。 何度もお礼の文章を、読み返しました。 ぼんやりとしていた、質問者様の言わんとしてしている事が、分かってきたと思います。 しかし、それとつれて、違和感のようなものも高まって来た感じがしました。 理解が、十分と言えないかもしれませんが、感じる所を書きます。 最初は、質問が分かれば、内容に踏み込みたいと考えていたのですが、色々考え、内容に踏み込むより、先に考える結論を述べたほうが良いと思い、書き込みます。 私の、結論は、「画像をそのまま記憶できる」と言うことです。 どうしても、質問者さんの考える、「記憶が言語的」なものに限られると言う、根拠を見出せません。 理由を以下に述べます。 (1)自分の、映像記憶の仕方、想起等を詳細に観察したんですが、「言語的」という感じは、ありませんでした。 例えば△(三角形)を記憶して、想起します。その像が頭の中に出てきます。 今までは、頭の中の像を見るときは、焦点を合わせない様な、ぼんやりと全体を見る感じで見ていました。 (自然とそうしていました。) 質問者の言われるように、詳細部(例えば)三角形の頂点の角に注意を向けます。 そうすると、角が、ぼやけて見えなくなるような感じがします。 これは、よく知っている知人の「顔」を想起した後、注意を一つの部分に向けると、その部分がやはりぼやけて見えなくなるような感じがします。 これは、自分は以下のように考えます。 映像記憶の想起像は、全体をぼーっと見るような、注意を拡散するような感じで見ると、全体像がぼんやり浮かぶ、部分に集中すると、消えたような感じになる。 映像記憶の想起とは、そういう物だ。 それでも、実物の参照には問題を発生しない。 友人に合えば、本人を問題なく認識できるから。 (そのメカニズムは、無意識を持ち込んで説明になるので、省略します。) そう考えれば、「図式」という概念を導入する必要もなければ、「イメージ」と「図式」の区別を考える必要もありません。 (2)これは、先に述べましたが、動物の記憶の発生起源を考えると、基本的な欲望。「生存欲」「種の保存欲」から発生したと思います。 生存するために、危険なものを避けるために、危険なもの、場所を覚える。 餌の在り処を覚える。ここから、記憶は発生したと思います。 言葉を用いる以前の記憶ですから、「言葉」を持ち込む理由がありません。 (3)それから、先に提示した、迷路実験の例です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%B7%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E9%A8%93 ここからも、「言語」を考えないで、直接、空間が記憶されていると考えたほうが自然に思います。 (4)そして、耳の聞こえない方の例です。 先にも書きましたが、聴力を失った方の言葉は、手話です。つまり、形です。 そんな彼らは、鎌倉を問題なく認識できます。 ここでも、「言語」を関与がないと思われます。 (5)それから、映像記憶以外に、音の記憶、臭いの記憶、味の記憶、肌触りの記憶がありますが、映像記憶だけ「言語」が関与すると考えるには、不自然と思えます。 これが、僕の考えた結論です。 残念ですが、質問者の言う「言語」の関与を持ち出さないほうが、自然にうまく理解でき、「言語」の関与を持ち出すと、どうしても説明に無理が生じる感じです。 また、何かあれば、回答を求めてください。 .
お礼
>私の、結論は、「画像をそのまま記憶できる」と言うことです。 さて、「画像をそのまま記憶できる」と言う言葉で、ご回答者様は、どの様な事を、仰っているのでしょうか。以下の(1)の観察の説明を読むと、それは画像なのか、と改めて問い直してみたい誘惑に駆られます。 例えば、それは、単に言葉の利用に関する、個人的な傾向の違いがあるのみで、本質的には、意見の違いなど無かったのではないかと。 その前に、そのまま記憶している画像とは、そもそも何のことなのか、我々が首を回せば、目の前に広がる画像は一転しますし、駅に向う道の景色は、一歩一歩進むたびに、その見え方が変化していきます。当然、その全てを記憶していると強弁することが、理に適っていないと言う事は、明晰なご回答者様なら理解できると思います。 (1)にあるように、私たちに直接与えられている事柄の千差万別を、画像・イメージ・象徴・図形・図式・記号・言語記号・言語そのもの、等々の定義の問題としては、それこそ、別の意味での、鉄壁の主観と言う城壁の前での立ち往生と言う事になります。結局、この質問における「新兵器」「見つめることが出来る」も無力だったと言うことでしょうか。見つめることは出来ないが、それは画像である、とご回答者様は仰る。 では、単なる言葉遣いの違いなのか >私の、結論は、「画像をそのまま記憶できる」と言うことです。 ここで言われる、画像と、現在の知覚との関係に関して考えてみると、問題点が判り易くなるかも知れません。画像をそのまま記憶する、と言う表現は、知覚をそのまま保存すると言う意味なのか、記憶は知覚の弱まったものである、と言った意味になるのか、或いはもう少し、違った意味になるのでしょうか。 私が、画像をそのまま記憶できる、と言う表現に対して、拒否する意味は、知覚と記憶の間に、「翻訳」(もちろん比喩ですが、適当な言葉が浮びません)のような過程が挿入されているのではないだろうか、と考えているわけです。そうしたよく説明できない過程を経て、画像・知覚が、図式なり言語記号なり、或いは言語そのものに翻訳されていると。 突然、知覚を持ち出されて、当惑されるかもしれませんが、この知覚と画像記憶の関係をどの様に考えるかによって、ご回答者様と質問者の間に、どのような対立点があるのかが、分かるような気がしますが、如何でしょうか。
補足
急用が出来て、(1)以下の詳細に関しては、日曜日に考えて見ます。遅くなりましたので、取り敢えず、冒頭の部分に関して、書いてみました。何か問題点に気づかれましたら、またよろしくお願いします。
- ENERGEIA
- ベストアンサー率10% (3/28)
>仮に、Q&A全体を読んでも、注意深く忍耐強く読まないと、分からないですよね。 他者とのやり取りは、目を通すときもありますが、昨日からあまり寝ていないため、この質問においては、自分の回答と それに対しての返答しか見ていませんでしたので。 >記憶は言語的なものに限られるか、画像のようなものをそのまま記憶できるか、と。 「言語も、意識で覚えている。認識している。 画像のようなものも、意識で記憶している。」 しかし、 例えば鎌倉に幼い頃から暮らしている人が、「ここは鎌倉であると知っている」のは、言語による記憶でもなく、画像による記憶でもないと思いますが... つまり、それが認識ではないですか?
お礼
ENERGEIAさん、ご回答有難うございます。 上のほうに、横槍がありますが、あっ違った、横レスでした。痛い横槍を食らったのは、私でした、混同してはいけませんね。 さて、認識の件ですが、恐らく質問者が、思い出す記憶と、照合する記憶の区別について考えた事と、関連しているような気がします、特に、赤い色を見て、赤い色と知るための、照合が認識とよく似ているんですね。ただ、認識は、赤い色を見て、赤い色と知ることですが、記憶を問題にしている場合、赤い色を見て、なぜ、赤い色と知ることが出来るのか、と言った、微妙な問題だと思うのです。そこに、認識と言う言葉を持ってきても、言い換えるだけのことで、なぜ、の答えは出てこないのです。 この点を、我田引水、私の仮説に利用すれば、赤い色の刺激は、赤いと言う言葉に繋がっている、と言う事に成るんですが、さて果てどうなんでしょうか。付け加えれば、現在の質問の焦点は、思い出すほうの記憶において、画像とかイメージとかが、どの様に関わっているか、関わっていないのかが、中心になっているのではと考えています。 簡単なことです、眼を閉じて、思い出してください。言葉でしょうか画像でしょうか。
- ENERGEIA
- ベストアンサー率10% (3/28)
f:「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) この問いの意味が解りませんでした。 ラッセルの文言については、質問者さんが咀嚼できずに引用しているせいか、ピンと来ませんでした。
お礼
やっぱり、そうだと思います。 仮に、Q&A全体を読んでも、注意深く忍耐強く読まないと、分からないですよね。 「あなた、どっちだと思う?」 と言うのは、イメージを記憶しているかどうか、皆さんの経験から、どっちだと思うのか、とお聞きしています。 つまり、記憶は言語的なものに限られるか、画像のようなものをそのまま記憶できるか、と。 ラッセルの引用も、引用する人によって意味が変わって来るんですよね、残念ですが、致し方ありません。 有難うございました勉強になります。
- mintarou1
- ベストアンサー率30% (22/73)
. #1,3です。 ネズミの件は、解決したようですね。 自分には、そう思えないのですが・・・・ それはさて置き、色々な回答者へのお礼を拝見させて頂きましたが、どうも、論理展開に色々疑問を感じる所が多くそれを、きちんとして置かないと、得られる結論も怪しげなものになるので、fishbowl66 御自身のためにも以下の、疑問に対応ください。 まず、#6の回答へのお礼の内容の中での疑問です。 >(1)つまり、「記憶とは何か」と言った漠然としたことではなく、なにが記憶でき、何が出来ないのか、と言うことを、少しでも明確に知りたいのです。 これに向けてのアプローチが全く見られません。どうしたのでしょうか? >(2)それに対して、想起されたイメージと言うものは、改めて見つめなおそうとしても、そこには何もない、こんな感じになるのです。 そこには何もない。の「そこ」とは、何を指しているのですか? そもそも、記憶は、写真と異なり、ぼんやりしている物です。 記憶を頼りに、父の顔を描けといわれても、そっくりに描けません。 「そこ」とは、何ですか? >(3)皆さんはイメージを記憶している、と認めるとき、それが本当に、イメージなのか、イメージを装った、言語記号の一種ではないのか、と、疑ってみていただきたいのです。 ここで、突然「言語記号」と言う言葉が出てきます。 きちんと、「言語記号」の定義なり、意味を説明しないと、それが何を指しているか分かりません。 だから、「言語記号の一種」がわからないので、なにを、どう疑っていいのか分からないのです。 「言語記号の一種」とは、例えば、「あ」とか「A」とか「亜」の様なものですか? >(4)イメージと図式の区別と言った、難しい問題もあります。 ここで、又、突然新しく「図式」と言う言葉が登場します。 図式とは、「△(三角形)」とか「a+b=c」とかの事ですか? ちゃんと、定義なり、意味の説明が必要です。 >(5)不幸なことに、図式は見つめることは出来ないと了解できる可能性が高そうですが、 見つめるとは、どういうことですか? クリアーに思い出す事を、見つめると言っているのですか? 「△(三角形)」とかの形なら、イメージと同様に思い出せそうですが・・・ >(6)もし仮に、記憶が言語的な過程であるならば、ご質問者と同じ立場に立てるわけです。 ここでも、突然「言語的な過程」という言葉を使っています。 これは、どういう意味ですか? この定義、意味なりが分からないと、ここで主張している内容が分かりません。 初めての聞く言葉を、他人が知っているように使われては、論理を追っかけて、正しいかどうか検証できません。 言葉の意味をはっきりさせることは、哲学の様な論理的思考の基本条件です。 とりあえず、先に進みます。 #4への回答のお礼の中の記載です。 >(7)う~む、鎌倉の大仏、確か中に入れますよね、昔、入ったと言う記憶が言語的にでてきますが、実際に入ってみると、何か起きるでしょうか。う~む、神秘的に成りすぎたようです 「言語的」とは、どういうことを指しているのか分かりません。 記憶が言語的にでてくる。というのを、一般的に知られている言葉に置き換えて説明お願いできませんか? #3への回答の補足の中の記載です。 >(8)見つめられることが出来るのか、それとも、図式のように、見つめられるような内容を持っていない、空虚な図式なのか、さてどちらなのか、と言う事になります。 この、「見つめる」とは何ですか? 肉眼で見ることですか? 記憶を想起することですか? 上でも聞いていますが、「図式」とは何ですか? 「△(三角形)」とかの形なら、見つめられる内容とか、空虚な図式とは何を言っているのですか? 具体例を挙げて、説明していただくと助かります。 次に、#13への回答へのお礼の内容です。 >(9)鼠さん、教えてよ。人間が迷路実験で遊んでいるけど、どこを走り回ったのか、例えば臭いとかで覚えているんじゃないの、ほんとのこと言ってよ。鼠さん(笑。 (笑。 は、止めましょう。相手に失礼です。 臭いで覚えていると仮定しましょう。 臭いとは、「図式」ですか、「言語記号の一種」ですか、「言語過程」ですか?それとも、別の意味を持つ言葉ですか? 切れのいい所で止めます。 最後に (10)動物の記憶の発生起源をどのように考えますか? 自分は、基本的な欲望。「生存欲」「種の保存欲」から発生したと思います。 生存するために、危険なものを避けるために、危険なもの、場所を覚える。 餌の在り処を覚える。ここから、記憶は発生したと思います。当然、言葉使用以前に発生しているはずです。 その場合、記憶と、言語の関係をどう考えますか? 本当は、内容に触れたいのですが、それ以前に、言葉の意味が分からないので、この様な質問に なってしまいました。 言葉の、意味が分かったら、内容の検証に入りたいと思います。 回答、宜しくお願いします。 .
お礼
>(6)もし仮に、記憶が言語的な過程であるならば、ご質問者と同じ立場に立てるわけです。 【おっかしいな、私は出来るだけ、難解な用語を避け、(そもそも難解な用語を知りませんから、苦労しませんが)日常の漢字を使っているのですが、大森の「想起」「知覚未練」も、必要最小限に抑えたつもりなのですが、言語的な過程という表現は、言語過程では、この文章が問題にした、図式に関する問題点が欠落するため、通常、言語過程といわれるものに、的な、と言う言葉を添えて、概念を外延を拡張したわけです。難しいですか。】 #4への回答のお礼の中の記載です。 【昔、入ったことがある】 #3への回答の補足の中の記載です。 【此処は、すでに上で答えていますから、割愛します】 次に、#13への回答へのお礼の内容です。 【困りましたね、他の回答者様と質問者のやりとりは、それだけの意味合いで、それ以上のものは何も無いのです、ナンセンスギャグのような回答に、ナンセンスギャグで答えたまでで、この双方の間で了解が取れればよいことで、もし失礼に当たったとしたら、私にセンスがなかった、ということでしょう。臭いですか、ですから最初に申し上げたように、記憶とは何かという、無謀なことは尋ねていないのです、ただ、記憶の中から、イメージを追い出せないのか、と言う質問です】 切れのいい所で止めます。 回答、宜しくお願いします。 【最後に、此処ではあくまでも、初志を貫徹して、記憶の何たるかについては書けません、しかし、ご回答者様にお伝えしたいことは、もし私の仮説や、大森の言うように、尤も大森の考えが、私と同様、記憶からイメージを追い出したいと考えているのかは定かではないのですが、私たちがイメージを記憶していないとしたら、どうして、毎日駅に向う道を間違えないのか、どうして他人の顔が判るのか、赤い色を記憶していなかったら、どうしてそれが赤と分かるのか、と言うことが、問題に出来ると思うからです】 有難うございました。
補足
それはさて置き、色々な回答者へのお礼を拝見させて頂きましたが、どうも、論理展開に色々疑問を感じる所が多くそれを、きちんとして置かないと、得られる結論も怪しげなものになるので、fishbowl66 御自身のためにも以下の、疑問に対応ください。 【まず、最初にお断りしておきますが、私はあまり率直な性格ではありませんで、最初の質問文自体が、ひねくれています。そうしたひねくれた質問文に対する回答ですから、回答者様によって色々な感じ方があるわけですから、このQ&Aの全体が論理的に整然と形成されていくような代物ではないのでしょうか。 個々の回答者様の感じた質問内容に沿って、個々の回答者様が色々な視点で回答をお寄せいただきますから、論理的に形成されると言うよりは、行き当たりバッタリの展開になるのも、致し方がないと思っています。】 これに向けてのアプローチが全く見られません。どうしたのでしょうか? 【これは、上にも書いたように、回答の内容と無関係に、質問者の意見ばかり押し付ける訳にも行きません、脱線しすぎない程度で、回答に対するお礼ですから、一直線にアプローチしていくことは出来ないのです。】 「そこ」とは、何ですか? 【この質問で問題にしているのは、仰るとおり、何が記憶できないか・・と言うことですが、>写真と異なり、ぼんやりしている物です。>の場合、そのぼんやりしたものがそこにあたります。ここには誤解があると思うのですが、実は過去の質問で、頭の中に文字が浮かんだり、或いは映像がくっきり浮ぶ、と言う記憶をお持ちの方が回答者様の中にいたのです。一々証拠を挙げても良いですが、それはマナーに反するでしょう。ですから、それに対して、見つめられれば、イメージとか画像になる可能性が高いですが、実は、見つめられない、それこそぼんやりしたものでしかない、此処では、イメージとか文字とかを記憶して再現できると考える方に対して、話しかけていると理解していただければ、幸いです】 ここで、突然「言語記号」と言う言葉が出てきます。 【突然と申されますが、もともと、記憶を言語的なものとして、そこから、画像とかイメージを追い出したいのが、この質問の趣旨ですから、その想起された事柄を対象として指示する場合に、言語記号の一種という表現を、イメージの対立物として指示する用語として使っています。言語記号の意味は分かりますよね、文字とか声とか内言とか】 >(4)イメージと図式の区別と言った、難しい問題もあります。 【今回の質問時では、イメージと図式の区分という問題が欠落していて・・・ご指摘されている文章にはこのようなことも書いてあるのですが、どうも、予定調和のように、最初から最後まで理路整然と、もともと決められた正解に向っていかないと、気がすまないようですね。質問者は質問した後も考えます、回答をもらって考え、御礼を書いてはまた考え、あれこれ試行錯誤をしているわけです、それがいかんと、言われるのでしょうか。 例えばこの問題は、イメージを記憶から追い出すことと、図式のようなものを、記憶のうちに承認することが、矛盾するのかどうか、と言う事です、その上で、「a+b=c」は図式ですかと尋ねられるなら、これは数式です】 >(5)不幸なことに、図式は見つめることは出来ないと了解できる可能性が高そうですが、 【やっと本題にたどり着けましたね。>イメージと同様に思い出せそうですが・・・>これ、書き間違いでなければ、ご回答者様は、イメージも思い出すことができる、と仰っているわけですね。そして同様に、三角形の形も思い出すことが出来ると、ところが、わたしには出来ないんですね、一瞬、三角形の角の様な物が現れても、それを見つめなおそうと眼をこらしても、三角の影の様な物が、浮んだり消えたり、つかみ所がなく、細部もなさそうなのですね。で、この様な浮んだり消えたりする影のようなものを図式として、それは見つめようとすると逃げていく、そこには何にも無い、となるのです。 >クリアーに思い出す事を、見つめると言っているのですか? >「△(三角形)」とかの形なら、イメージと同様に思い出せそうですが・・・ やはり、此処にも主観と言う鉄壁の壁が佇んでいるのですが、なんか乗り越える方法はないのかと、苦慮しています。 ところで、 『不幸なことに、図式は見つめることは出来ないと了解できる可能性が高そうですが、イメージとなると、個人差がありそうなのです。』 この文章を、途中で切ってしまうと、不幸の意味がまるで違ってしまいますよ、一瞬、あれ、私こんなことを書いたのかと疑ってしまいました。】
>例えば、本棚の本の背に、赤い帯が付いているのですが、これを見て赤いと思う記憶、 ここが謎の部分だと思うんですが、古典的分析では知覚は感覚と追憶で成り立っていると考えます。しかし、メルロ・ポンティは次のようにそれを批判します。 「追憶が知覚を補うためには、まず現に与えられているものの表情によって、追憶が可能にされている必要がある。すなわちこの考え方は、追憶によって説明されるはずの所与形態化を実は前提している」 ここがいわゆる知覚における換喩的構成と言われる問題だと思うんですが。 中山元さんの思考の用語辞典から引用します。 「鉛筆はながいものである」といったとたん「鉛筆」という概念と、鉛筆という「事物」が混同されるとニーチェなんか言うんだ。でも総合的な判断は人間の経験的な認識そのものだから、ニーチェはぼくたちの認識が根本的に換喩と誤謬推理でなりたっていると主張していることになる。 「総合判断はひとつの事物をその結果にしたがって記述する、これは本質と結果を同じものと見ることだ。これはいいかえれば、ひとつの換喩に他ならない。 だから総合判断の本質のうちに、ひとつの換喩がある。要するにこの判断はひとつの誤った同等化なのだ。すなわち総合的な推論は非論理的である。わたしたちが総合的な推論を用いるときは、通俗的な形而上学、結果を原因とみなす形而上学を前提としている」(ニーチェ・生成の無垢) もうひとつ。 認識において言語より前に比喩や象徴がはたらいていることは、カッシーラも「シンボル形式の哲学」で言っている。知覚はたんに受身で事物を知覚するんじゃなくて、すでに事物に意味を与えるはたらきだというんだ。もし「言語はこの最初の意味作用を引き継ぎ、それを全面的に展開し、完成するだけ」(シンボル形式の哲学)だとすると知覚がシンボルによって認識したもののなかで、もう意味と判断がそだっていることになる。 過去の想起についてはまた書き込みます。
お礼
ご回答有難うございます。 ちょっと複雑になってきましたね、メルロ・ポンティも大森もベルクソンの影響が結構ありますから、ベルクソンと言えば、『物質はイマージュの総体である』ですから、大雑把に言えば、知覚と物質の混合物としてのイマージュでしょうか。 ただ、私としては、もう少し単純に、私たちが直接経験する事実に基づいて、それこそ、あまり新しい言葉や新しい概念を導入することなく、ふつうの日常語で語れる範囲で考察を続けたいと思うのですが。 例えば、今、赤いものが見えるのですが、この赤いものが見える、と言う事柄は、私が、頭の中で声を出さずに「赤いものが見える」と言うのと、別の事柄なのか、単に、何も考えずに、そこに赤いものが見えている、と言う事は、そこに私をして赤く見させる何かがあるわけです(例えば本の帯)。しかし、眼を閉じてしまって、いくら頑張っても目の前に赤い色は出てきません、そうすると、赤い色を見て、赤いと言う言葉につながる通路が見つからないのです。つまり、色とかイメージの記憶とか、ですから、赤いと言うのは、思い出して再現できる記憶ではなく、単に照合・検証するだけなのか、しかし、照合・検証する根拠とはどこにあるのか、と言った堂々巡りですね。結局、残るのは、痛いと言う事は、子供の頃から、怪我をしたりした時、これを痛いと言う言葉で表わすのだなと、何度も何度も繰り返した結果であると同様に、色についても、同じことなのかもしれません。でも、じゃあ顔は、道順は、これも繰り返しで説明できたとすると、今度は記憶自体の居場所がなくなりはしないか。 与太話は、此れ位にしておきます。色々お付き合い頂き有難うございました。
お礼
忘れていました。ペンフィールド 「1940年代から50年代にかけて、カナダの卓越した神経外科医ワイルダー・ペンフィールドが広範囲な脳手術を局所麻酔下で行った。手術中に脳が大きく露出するケースが多かったので、ペンフィールドはこの機会を利用して、それまで一度も行われたことのない実験をした。電極を用いて患者の脳の特定の部位を刺激し、どんな感じがするのかを患者にたずねたのである。電気刺激によって、ありとあらゆる種類の感覚やイメージ、それに記憶までが引きだされ、反応があった脳の領域が図示された。」 (『脳の中の幽霊』ラマチャンドラ) さて、この文章をすっかり忘れていましたね。困りました、これ本当なんでしょうか。 引用した本は、一般向けの、科学的読み物ですから、細かな用語に関して詮索する必要はないのですが、結局「記憶心象」と言う言葉をどう定義するのか、言葉の問題になってしまいそうですね。パースと言う人は、「心象」と言ったイメージも記号に含めてしまいますが、どうしたらそのような結論に至るのか、興味深いところです。 >聴力が視力よりかなり先に発達したという事です。 これは初耳、なるほど、確かに女性の歌手の歌声のイメージと言うか、声色を覚えているような、うむ~声は言葉だら、あまり深く考えなかったのですが、すぐ下の、先ほど書いたお礼と矛盾しないようにするためには、どうしたらいいのか、悪い頭を使って、まだまだ考えないといけないことが、沢山見つかりましたね。 有難うございました。 私たちの脳は、顔の見えていない人の後姿から、その人の顔があることを推測する。なぜなら、背中を向けていた人がこちらを振り向いたとき、もし顔がなかったら、私たちは非常にびっくりするだろうからだ。見る者を中心にすえた表象とは、人の後頭部が見えている画像に相当している。それは私たちが鮮やかに知覚できるものである。一方、顔についての推測は、3Dモデル的表現に由来する。ジャッケンドフは、この3Dモデルが直接私たちの意識に上ることはないと信じている。古い詩句に言うように、「私が私の言うことを聞くまでは、どうして私が私の思っていることを知るだろうか」というわけだ。 (『DNAに魂はあるのか』F.クリック)