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ほにゃらか形而左右学 敬語(2)
お騒がせします。 皆様、敬語に関して 使っているのか、使わされているのか、 どちらか、ご存知でしたら、教えてください。 以下余白
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>敬語に関して >使っているのか、使わされているのか、 >どちらか、ご存知でしたら、教えてください。 日本人である限り、程度の差こそあれ、全く「敬語」を使わない人はいないと思います。 ただ、敬語を使うことについて、より意識的である人とそれほどでもない人とがいて、より意識的でない人が増加しつつあるということではないでしょうか。 また、「敬語」に限らず、人間と言葉の関係はとなると、だれであろうと、半分程度は自分が言葉を「使っている」つもりでいて、その実、あとの半分程度は、たとえ本人がそうと自覚していないにせよ、言葉に「使わされている」はずとしか説明しようがないような気がします。 ところで、いわゆる「敬語」の実態からすると、これだけを単独で取り上げるよりは、もっと広義の《待遇表現》の一範疇として考えた方がその基本性格を理解する上でより適切かもしれませんね。 だって、われわれが誰かに対し、あるいは何かに関して話すとき、本人の自覚の有無にかかわらず、話し手の脳裡には聞き手に対する、あるいは話題の対象に関するいろんな思惑、配慮、気遣い、気配り等々が生起するはずであり、これが話し手の表現に何らかの影響を与えているはずですから。 そして、「敬語」というのはこういう《待遇表現》の一範疇以上でも以下でもないと思います。 また、「敬語」の中には、形式的にはともかく、実質的には必ずしも話し手の《敬意》に発するとは言えない例もしばしば認められますよね。 また、聴き手に対する敬遠や侮辱の意をほのめかした敬語表現や、本音では慇懃無礼を滲ませた敬語表現も決して珍しくはないはずです。 ほかには、もともと尊敬語だったものが、時代の推移と共に丁寧語のように変質しつつある例もあるのではないでしょうか。 たとえば、最近では《他人との談話》の中で、何の不思議も覚えずに「子供にお乳を上げる」と言う方が少なからず見受けられますが、これは話し手がそうと意識せずに、実は「あなたもわが子に敬意を払ってね」と聞き手に要請していることになりますよね。 でも、話し手は単にわが子に愛情を抱いているから「上げる」と言っただけ、あるいは「やる」ではやや乱暴なので、丁寧な表現を心掛けて「上げる」と言っただけとしか思っていない可能性が高いのでしょうね。 その意味では、昔の人に比べると、現代人の方が自分の発する言葉に込めた主観的な思い、狙い、意図等にしか関心を払わず、その言葉が聞き手にどう受け止められ、どう理解されるのかに対する関心、あるいは言葉が話し手と聞き手を架橋する共通の媒介であって、話し手の私有物ではないという意識がより稀薄になりつつあると言えるのかもしれません。 ただし、今後とも、話し手が聞き手を全く《他者》と意識しない時代が来るとは考えられない以上、話し手と聞き手との関係性を反映した《待遇表現》も消滅するはずはなく、その限りにおいて、《人間関係語》としての「敬語」が消滅することもありえないと思います。
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>では、その制度は、守らされてるものですか、守りたいものですか。 守らされているものであり、守りたいものでもある。 制度は私たちの思考や行動を束縛すると同時に、それを可能にしているから。
お礼
但願人長久 千里共嬋娟 最初と最後を閉めて板だ有難う御座います。
敬語の裏に潜む美と醜が表裏一体のまま空気みたいにスーハーと。 育てられた心にしたがって。 その心のままに美と醜が現れる。 スーハーと呼吸のように。。。
お礼
但願人長久 千里共嬋娟 再び「たちあがれ日本」
- hakobulu
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#2です。 >>生きているのか生かされているのか、と似ているような気がしました。 違います、選べるとは、生きるか死ぬかではありません。 : 頭が悪いので教えていただけると有難いのですが。 「敬語を使うか使わないか」に関して「選べる」、という前提でご質問されたということでしょうか。(←ご面倒でなければ教えてください) 私は「選べない(つまり、本質的には無意識に使用しているはずなので自らの意志なのか何かからの強制なのかは不分明ではないか)」と思ったわけですが、上のような意味で前提を覆すつもりはない、とおっしゃるのであれば「そうですか」としか言いようがありません。 敬意はあくまで自然発生するものでしょう。 しかし、敬意が敬語の発生(発声)に結びつくかというとそうとは限りませんし、案外逆の場合も多いように思われます。 敬語に惑わされないことの重要性(あるいは強靭性)も留意に価するような気がします。
お礼
千多久、もとい、選択の問題は、正直難しいですね。 例えば、生きるか死ぬかは、はたして本当に選択なんでしょうか、敬語における選択や、経済学での市場での選択は、何度も繰り返される、というところが味噌です。 生きるか死ぬかは、一度っきりで、今度は死なずに生きてみようか・・・と言うわけには行きませんね。それも確かに選択と言えば、選択ですが、本質的、或いは言い過ぎなら、条件的に違うものは区別する必要があると思うわけです。勿論、私の勝手な愚考ですが。 >私は「選べない(つまり、本質的には無意識に使用しているはずなので自らの意志なのか何かからの強制なのかは不分明ではないか)」 この点も、実は自信ないのですが、無意識と言うものをどう考えるかですね、例えば自律神経は、いわゆる無意識ですが、それは、逆説的に選択の結果です。自動車を運転する時、手と足を無意識に動かしますが、自動車学校で初めて車を運転した時は、無意識に動いたでしょうか。 ご回答者様が、無意識に敬語が出るなら、それは今までその敬語を何度も選択した結果だと、考える事は、間違っていると、お思いでしょうか。 思った以上に難しい問題のようです。 使っているか、使わされているかの区別にしても、然りですね。 お後の準備も整いました、又、宜しくお願いします。 有難う御座いました。
補足
あら、この質問は、次の質問のステップとして、簡潔を旨として発したのですが。 一寸舌足らずだったようです。 生きているのか生かされているのか、 私は、このような問は、無意味だと思うのです。 つまり、本人の考え次第で、どうとでも答えられるし、答えないほうがマシです。 しかし、敬語は、無意識な場合もあるでしょうが、意識的に使う場合や、使わされていると感じる場合もあると思うのです。さらに、こうした敬語の使われ方は、何度も繰り返されることによって、本人の意識とは別に、社会的共通意識のようなものが成立すると思うのです。 つまり、答えがあるはずだから、質問しましたし、そのような意味あいで、違うと申し上げました。 私にとっては、答えが有るのか無いのかは、重要な問題なんですね。 これでご了解頂けると思いますが、お礼はまた後ほど。
こんにちは、fishbowl66さん。 少し肌寒い雨ですね。 さて、敬語についてのご高察の二つ目のお話ですが、敬語とはそもそも、生じるものであってお使いになられるものではないように存じ上げます。 そも、言葉全般について言えることなのですが、ことばは、それぞれの心の保ちようによって、偈にも非偈にもなるものでございます。 敬語は、敬服と招致のお気持ちから、そして親しみをもって接することによって、自ずから生じるものではないでしょうか。 どの方も本当は、天恵にも恩恵にも、平に擁して、天の声(=敬語)にも地の声(=地の言葉)にも何ぞ障りなしや 敬語には雅の心がありますが、おそらくそれは、今で言う明晰な智があるという意味かと存じます。 明朗なことは、柔和にして明晰、風雅の候にてやむなきをえん でもまぁ、言葉は誰の物でもないからね 本都の琴竹 射得ば余威の世 今日で私は 大リーガー
お礼
百円ショップで、大リーガー、ゲットですか、羨ましい。 百万ドル以上の優勝賞金をかけて、マスターズが始まっています。 懐かしい名前が、まだ頑張っていると、なにやら、応援したくなります。 花冷えの御蔭か、今年の桜は、息が長く、今週も桜を楽しむことができました。 あっ、又、どっちでもいいや、ってご回答かな。 有難う御座いました。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
先日の拙問では、fishbowlさんから頂いたご回答を十分読めていないまま応答したかもしれず、 そうであったなら申し訳ないことでした。 少し心残りに感じています。 敬語の話の前に。 印欧語で、法というのを使いますね。モードというあれです。 (英語ではモードとムードの両方を表記に使いますが) これは、話し手の気分を繊細に反映しております。 心の空模様を如実に表していて、ピーカンの快晴から曇天から、霧雨小雨、乱気流など、 心の動き方によって、やはり自然に法が変わってきます。 こんなときには、明快に自己主張をするのだとか、 こんなときには、まっすぐに目を見て希望を告げるのだとか、 こんなときには、相手を思いやって相手の心に自分の心を沿わせるのだとか、 こんなときには、相手を敬って、相手の心次第でことが決定するように話すのだとか、 やっぱり、そういったことは、 文法の上での約束事に従うのではなく、臨機応変で自在な動き方をする心を言葉と一致させるという、心のしつけかただと思われます。 印欧語圏の人々には、どうも謙譲語の心の動きが無いのですが、 彼らが日本に馴染むと、わりと早く謙譲語を覚えるようで、 日本贔屓になるような人の場合は特にそうですが、 なにか、あたらしい心の動きを学ぶという快楽があるのではないでしょうか。 このあたり、面白いなと思っていますが、馴染まない人は馴染まないですね。 日本人の心の動き方が好きというような意識のある人とない人といて、それは資質でもあるでしょうけれども、 彼らの出逢った日本が、どんな地域であれ、生活の中でいい言葉にたくさん触れたかどうかで、 その言葉を使う心が好きになるかどうかも変わってくるのではないかと思います。 その「いい言葉」には、言葉に伴う声の質感、表情、柔剛、物腰、いろんなものが無理なく自然に合わさっているわけで、 それは親や祖先の前の世代が培ってきて、人を育ててきた言葉なのですから、 完全に環境の中にある言葉であり、また、環境の中にある心のしつけかたです。 悩み方さえ違う、喜び方さえ違うという、言葉の壁また心の壁が、 これほど均質な文化を実現した社会でも、モザイクのように、 世界にも日本にも地域にも婚姻の中にもあるのだと実感しませんか。 また関係が狭く近くなればなるほど、壁を忘れ、擦り合わせる努力も忘れるということも指摘できる事実で、 インターネットなどはその端的な例といえそうです。 こういうゆるい壁に仕切られた箱入り揺籃的な、環境所属の「言葉」から振り返って敬語を鑑み、 方言における敬語表現というWikipediaの項目を参考にしつつ、 独特の環境が死に絶えている場合の敬語は、もはや絶滅に等しいか寸前であり、 独特の環境が生きている場合の敬語は、その環境の中で存続しているという点を押さえておきたいと思います。 つまり、敬語は、環境が保ち育ててきた空気と一体だということなのですが、 その空気を呼吸しようとするのか、呼吸させられてするのか、 人が場処に居つく心というのは、何なのでしょうね? 人が環境を選ぶとき、心のしつけかたも変化します。 質問は、注意深く、こう書き換えられるべきではないでしょうか。 使う心と、使わされる心の、どちらが敬語を使うのかと。 敬語というのは、ツールでもスキルでもないにもかかわらず、 しかし、ツールやスキルに成り得るものでしょう。 きみ、口のききかたを知らんね、最近の若いもんは、、、 なんて肩書持ちの年寄りが言うとしますと、 だって、おれ、あんた別にすごいと思わないんだけど、、、 と若者が言えないのか言いたくないのか知りませんけれども、 物や道理を知らないという事態も、 揺籃的環境所属の言葉が人に空気を送り込まないこんにち、避けられない事態であるには違いないので、 物も道理もわからないなら、せめてわかるふりでもしておいてということで、 ツールやスキルになり果てた敬語を使わされる心も、都会の巷にありふれていそうです。 でもね。 もしかしたらそんなぼんやりした若者が郷里に帰ると、曾祖母の古い訛りに相槌打って、 小さい頃から心にしつけてきた方言敬語を話すかもしれません。 敬語ってそういう空気みたいなものじゃないでしょうか。呼吸できる人は呼吸できる空気をただスーハーと。 育てられた心にしたがって。
お礼
十露盤絞りの暖簾が少し寂しげな、東海道は有松の宿 格子戸の町屋が続いて、昔の古い空気が未だに残っているような。 この街道、今日はひっそりしていますが、車と人で大渋滞て事も。 (1)で指摘した、フォーム・スタイル・モードの分類でしょうか。 フォームに関しては、選択の余地が無く、モードに向って選択の余地が拡大すると言った、単純な図式的理解をしているのですが、その際、敬語がスタイルなのかモードなのか、この間での揺籃が、この質問への回答を難しくしている、と。 ただ、言語能力獲得の時期に、お年寄りの変わりに、テレビからの標準語と言う空気をスーハーと呼吸していると、さてどうなんでしょう。 ご回答を十分読めたか不安ですが、また宜しくお願いします。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
★ 敬語に関して 使っているのか、使わされているのか、 ☆ ていねい語に関しては 《使おうとして使っている》です。 ほかの尊敬語および謙譲語は その敬語が歴史的にあるから《使わされている》です。 後者に関して 細かくはこうです。いわゆる世間の知恵として 潤滑油のごとく役に立つという場合でも それは ていねい語を用いて話をなめらかにするというこころがあるので 尊敬語も謙譲語もなくてもだいじょうぶなのです。 ▲ (ヰキぺ:敬語) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E 敬語は、 ○ 言葉で表現する主体(書き手、話し手など)と ○ 客体(読み手、聞き手)や その話題中の対象となる人との ○ 上下関係、 〔あるいは〕 ○ 話題中の人物同士の上下関係 などを言葉の内に表現するために用いられる語法。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《上下関係》というのが くせものです。 ひととして尊敬し そのこころを表わそうとして ていねいな言葉を用いることに何の問題もありません。誰もが一致する見方であるでしょう。 問題は 身分や地位が上にあるということにもとづいて ふつうの言葉づかいを特別の語法に代えるという意味での敬語の用法にあるのではないでしょうか? もしそうであるなら 敬語を使わなければならない場合 あるいは 敬語を使ったほうが望ましい場合などなど いづれの場合にも 《使わされている》になります。むろん 意図して・つまりは 自分の意志行為として《使っている》という事実もあって そのさらに奥の事実として 社会的な力学が過去の遺産としてはたらいているという意味です。 その起源について考えると 分かりやすいでしょう。 ○ めし(召し・飯 ← 見し) ☆ この《見し》という起源について考えます。 ▲ (万葉集一・50)・・・国を見(め)し給はむと〔売之賜牟登〕=《お治めになろうと》 ▲ (同上 一・52)・・・見(め)し給へば〔見之賜者〕=《ご覧になると》 ◆ (大野晋・古語辞典) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ めし:《見る》の尊敬語 1.ご覧になる 2.お治めになる 3.お呼び寄せになる 4.結婚の相手となさる 5.お取り寄せになる 6.お取りあげになる 7.〔目の前にご覧になる意から〕飲む・食う・着る・乗る・引く・買うなどの意の尊敬語 8.他の動詞の連用形について 厚い尊敬の意を添える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ シは スルという動詞。メは ミの母音交替形。見(め)スというのは 見ナサルというように 能動性をつけ加えているわけのようです。つまり (1)の意が現われます。《見る》という動作について能動性あるいは主体性をわざわざ言い表わすことで 尊敬の意を添えています。 つぎに この(1)の見ナサルゆえ そのものを《身近に寄せる》ということが起こります。その捉え方によって (2)から(6)までの意味の発生について 不都合無しと言ってよいでしょう。 (7)は 《寄せた》あとの動作について しかもそのものごとに直接に触れず 遠回しに言うものです。直接に《食べるなどなど》とは言っていないという意味です。ほのめかして言うことによって尊敬の念が出ると考えたわけでしょう。 (ひとに対して 《何々様》とつけて敬意を表わすというのは 《さま》つまり《そういう状態ないし雰囲気ないし情況》が見てとれますが おそらくその雰囲気の主はあなたさまであろうと思いますと言っているところからであるようです)。 ここで 別の解釈をします。 シを 使役の意に採る場合です。見ナサルではなく 見セル・見セシメル。 すでに権威を帯びた偉い人が みづからの姿を ひとに見セル。このようにも 解釈できます。ただし モノを取り寄せるという用例では 合いません。おそらく この使役の語法は 第二次的であろうとも考えられます。 高貴な人が 召し使いに 食事や入浴や着替えのときに みづからの姿を見セル。召し使い(つまり ここに《召し》が用いられています)は そばにまで行かなくては食事を運び得ません。高貴な人は 自分では着替えもしなかったようです。ゆえに 《めし(召し⇒飯)・召しあがる・お召し物(衣服)》という意味が派生したのではないでしょうか。 メシのシ つまり 他動相ないし使役相の動詞であるこのシをとおして 第一次と第二次の用法が見られます。第二次の用法は ヰキぺで言う《上下関係》にもとづく尊敬語法となるでしょう。表面的でもあります。 第一次の用法は では 人びとの生活から ふつうに・自生的に 起こったか。言いかえると 《ていねい語法》であったか。 レル・ラレルという敬語法を見てみるとよいはずです。古語では ル・ラル。これは 自然生成の相を表わすようです。《出来る》という可能の相も――《出て来る》と言っているに過ぎないのですから―― 自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうとするものです。 自然生成かつ能力があるという相を その表現に使えば 相手を敬うかたちになりました。見ラレルや食ベラレルは あまり使わないのですが 第一次的なうやまいの気持ちを添えようとしてはいないでしょうか。この語法にかんしては 身分関係にかかわらず 人と人との互いのうやまいの気持ちをつうじておのづから発生したのではないだろうか? 結論: 自然に生成した第一次の《うやまい ないし ていねいな言葉遣い》としての敬語は ひとは《すすんで使っている》です。 社会的な身分関係から発生した尊敬語ならびに謙譲語は 起源から言って・奥の奥の意図から言って ひとは《使わされている》。 その昔 太平洋の島々の人びとの間では いわゆる酋長は偉い人であるから ふつうの人が直(ぢか)に見ると 目がつぶれると言われていたし 信じられて(思いこまれて)いました。つまりこの風習と 《めし(見し)→召し》という言葉の発生とは 軌を一にしていると考えられます。 このメシが 《飯》として使われるようになったのは――つまりそれに柄のわるさがついてまわるというような語法にも変化したのは―― その敬語法が 必ずしも自然のものではなく 社会力学上の第二次・人為的な発生であったことを物語るのではないだろうか。《貴様》という語法の変遷について誰かが触れていましたね。
お礼
苦吟の末、既に、数え歌のネタも尽き、 ネタ探しと快晴につられて、あゆち潟を一望する丘に登る。 裏口から登って、帰りに自転車進入禁止とか、ルールは守らないと。 自然と社会に分離して、方や使っている、方や使わされていると。 ご回答者様の様に、自然と言葉を直接結びつける点を強調される考え方の場合、それも一つの回答ですが、そもそも、自然も曲者ですからね。 また次回も、宜しくお願いします。有難う御座いました。
- ENERGAIA
- ベストアンサー率9% (5/53)
丁寧語は敬語の範疇に入ってるのか!知らなかったなー というわけで訂正 ・尊敬語は仕方ないから使ってやっています。(使ったこと無いけど) ・生きているのか 生きてやってるのか 生かされているのか ・3通りということで?
お礼
なな、なぁなぁなな、丁寧語なら仕方なく・・・と言う事ですね。 学校や仕事の上では、表面上、丁寧な尊敬語を使ってやっている、と。 お手数をお掛けしました、有難う御座います。
- m_cosmos
- ベストアンサー率25% (1/4)
道具としてであれば使っているになるでしょう。 その場の自己との相対性において特定の指向性をもたせながら。 敬語は上品と下品の危うきのなかに漂う。
お礼
六国史の一つ、日本書紀には、海幸・山幸の釣り針と弓矢の交換と言うお話が載っていますが、神代の昔から、道具は使い方や、使う人によって、吉にも凶にも。 敬語も上手に使いこなしたいものです。 有難う御座いました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
使っている方です。 例えば、「している」ではなく、「なさってます」「なさってらっしゃる」という表現をすることで、相手の行為を高く評価していますよ と伝えることができますでしょ? 普段周囲から大切にされていない人が、人から敬語を使われた途端、すごくいい顔をしたりするのも目撃したことありますし。 <他者を大切にしている>ことを、敬語を使うことで、表せますでしょ? こんな便利でシンプルなツールが使えないとなると、もっと殺伐とした日本になると思います。 前、別サイトでキリスト教徒と大乱闘したことがあります。笑 どうしてかというと、DQNな内容を平然と言い放っていたから。 「いるんですよ! 宇宙人は住民票をもうとっていて、一般人の中に紛れ込んで暮らしているんですよ!」と言う宇宙人信奉者と同レベルの話しかしないから。 こんな頭に金属板がささった人達と、マトモに会話は成立しませんので、タメ口でイジッて遊んでましたが、相手の方々は丁寧語を使いつつも、応戦してきました。 それに対してこちらは、「そんなわけないじゃん 笑」とあくまでタメ口で返した。 ただし、理論的に話ができる人(一人だけいた)に返信するときだけは丁寧語を使いました。 このように使い分けることで、感情論しかいえない人は、人から粗末にされても仕方ない ということを表せる。 以前、ーローというドラマがあった。 検事役の人は敬語を使えず、避けられるトラブルを未然に防げず、自ら起こしたトラブルにキリキリ舞していた。 敬語が使えない、なんて不幸なことだろうと思いました。 アスペルガー症候群の人は上下関係の概念がもてないので、校長先生にタメ口をきいたりするそうです。 他者の存在を軽んじてしまいがちで、コミュニケーション不全を起こしてしまう。 その障害を持つ人に、「この場合は敬語を使わないと」と言っても上下関係の概念が無いので、どう違うのかわからない。 で、結果 他者を大切にするということ言葉により表せないので、不要の怒りを買ってしまうわけです。 要するに「それ取って」って言われたとき、手渡しするか、投げるかの違い。 投げてよこされると、確かに要望を相手はかなえてくれたが、むっとしますでしょ?
お礼
五つ繋がりの鯉幟が春の冷たい風を、 からだ一杯飲み込んで、鉄路の際の空を泳いでいます。 別れと出会いのこの季節、遮断機の規則正しいリズムを聞きながら、 魁の勢い真新しい背中、うねる光、希望と願い、 何処の誰とも判らぬ新しい命に、幸ありなんと想う。 遮断機が上がり、自動的にハンドルを持つ手に力がはいり、 踏切を越えた時、ふと、時間とは本当に長さなんだろうか・・・ 天の声を待ち望んでいる、煮え切らない私には、 勇ましい武勇伝の、秘訣を知りたいものですが、 それはさておき、 >手渡しするか、投げるかの違い。 この比喩、面白いですよね。 それと、自分が無知のためか、 >ーローというドラマがあった。 変換ミス、特に知りたいわけではないのですが、次の機会に、教えてください。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
私の教わった敬語には、丁寧語、尊敬語,謙譲語の3種類がありました。大分昔に教わったので、今様の分類は以前とは違ったものになっているかもしれません。 さて、日本人の使う敬語とは、日本人の持っている文化、すなわち、日本の個性が認識した美意識の一つの表現だと思います。日本人である私には、敬語の中でも少なくとも丁寧語を全く使わない文章には違和感があり、場合によっては醜くすら感じることがます。因に、今までの下の回答1~3の文章を見てみると、#1では敬語(丁寧語)が皆無、#2では「しょう」x3、「ません」、「ます」、「ました」の計6つ、#3では「ます」の1つとなています。面白いのは、敬語に否定的な文章の中で敬語が使われているという事実です。この事実は、そのように否定的に考える方でも、無意識のうちに美しい日本語を使おうとする「美」への憧れがあることを示唆しているようです。 丁寧語と同じように尊敬語も謙譲語も、この日本人の個性、すなわち日本の文化が生み出した美意識の一つの表現になっているのだと思います。ただし、美に到達するあらゆる行為に共通なことは、それを生み出すには訓練がいると言う事実です。丁寧語をこなすのは比較的易しいので、皆さんは自分たちの持っている美への憧れの表現として、しばしばそれを使っています。しかし、尊敬語や謙譲語は、より高度な訓練を経なくてはそう簡単に使いこなせる技ではありません。繰り返し訓練をした画家が適切な塩梅で絵の具を混ぜて絶妙な色を出すような難しさがあります。訓練なしの人が尊敬語や謙譲語を使おうとすると、恰も、未熟な画家が絵の具をごちゃ混ぜにして、全体をくすんだ醜い灰色にしてしまい、本来の美から反対の方向に行ってしまうように、舌を噛むような不自然な表現になってしまい、耳障りな結果になってしまうのでしょう。その結果、お門違いにも、美を生み出すはずの絵の具にケチを付けているような頓珍漢な反応をしているのが、敬語に異を唱える方たちの主張になっているのだと思います。
お礼
四方の春 四方山話に 夜もあける 流石にお目が高い。 私は、がさつな人間で、美意識よりは、言葉の合理性・経済性に目がいってしまいます。 しかし、敬語・謙譲語・丁寧語、これらの使い方を誤って、何重にも重ね合わせて、あたかも、中世宮中儀礼のように滑稽な動作・作法になってしまわないよう、気をつけたいものです。 芸術よりはデザイン、簡素で理に適った敬語を使いたいものです。
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お礼
八百長!と言う謗りを受けそうな、御礼になってしまいますが、 貴御回答は、敬語(1)の、敬語はなくなるか、の方に、お寄せ頂ければと、思ってしまいました。 待遇表現という言葉は、無学ゆえ初めて知りましたが、人と人とのコミュニケーションにおいては重要な問題だと思います。ただ、表現ですと絵画・文学と言った、芸術表現の解釈と言った複雑なと言うか、私からすると、ある意味無用な議論にはまりやすいですね。 質問者としては、あくまで、言語の内の、言語理解の対象として、敬語を材料にして、言語分析に留まりたいと、思っていますが、如何なものでしょうか。 後半部分の、上下の空間意識が、敬語に見られた点が、曖昧になっている辺り、まったく同感です、敬語と標準語が同化していくような、現象でしょうか。ただし、その結論が、敬語は消滅しない、となると、八百長発言で、「彼方は平等主義者ではないのですか、百年以上も前に、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言った人は馬鹿ですか」、八百長のお礼ですから、気を悪くなさらないで下さい、こうした一見矛盾したことが見られるのは、なぜなのかと、問いたいのです。 有難う御座いました。