>敬語に関して
>使っているのか、使わされているのか、
>どちらか、ご存知でしたら、教えてください。
日本人である限り、程度の差こそあれ、全く「敬語」を使わない人はいないと思います。
ただ、敬語を使うことについて、より意識的である人とそれほどでもない人とがいて、より意識的でない人が増加しつつあるということではないでしょうか。
また、「敬語」に限らず、人間と言葉の関係はとなると、だれであろうと、半分程度は自分が言葉を「使っている」つもりでいて、その実、あとの半分程度は、たとえ本人がそうと自覚していないにせよ、言葉に「使わされている」はずとしか説明しようがないような気がします。
ところで、いわゆる「敬語」の実態からすると、これだけを単独で取り上げるよりは、もっと広義の《待遇表現》の一範疇として考えた方がその基本性格を理解する上でより適切かもしれませんね。
だって、われわれが誰かに対し、あるいは何かに関して話すとき、本人の自覚の有無にかかわらず、話し手の脳裡には聞き手に対する、あるいは話題の対象に関するいろんな思惑、配慮、気遣い、気配り等々が生起するはずであり、これが話し手の表現に何らかの影響を与えているはずですから。
そして、「敬語」というのはこういう《待遇表現》の一範疇以上でも以下でもないと思います。
また、「敬語」の中には、形式的にはともかく、実質的には必ずしも話し手の《敬意》に発するとは言えない例もしばしば認められますよね。
また、聴き手に対する敬遠や侮辱の意をほのめかした敬語表現や、本音では慇懃無礼を滲ませた敬語表現も決して珍しくはないはずです。
ほかには、もともと尊敬語だったものが、時代の推移と共に丁寧語のように変質しつつある例もあるのではないでしょうか。
たとえば、最近では《他人との談話》の中で、何の不思議も覚えずに「子供にお乳を上げる」と言う方が少なからず見受けられますが、これは話し手がそうと意識せずに、実は「あなたもわが子に敬意を払ってね」と聞き手に要請していることになりますよね。
でも、話し手は単にわが子に愛情を抱いているから「上げる」と言っただけ、あるいは「やる」ではやや乱暴なので、丁寧な表現を心掛けて「上げる」と言っただけとしか思っていない可能性が高いのでしょうね。
その意味では、昔の人に比べると、現代人の方が自分の発する言葉に込めた主観的な思い、狙い、意図等にしか関心を払わず、その言葉が聞き手にどう受け止められ、どう理解されるのかに対する関心、あるいは言葉が話し手と聞き手を架橋する共通の媒介であって、話し手の私有物ではないという意識がより稀薄になりつつあると言えるのかもしれません。
ただし、今後とも、話し手が聞き手を全く《他者》と意識しない時代が来るとは考えられない以上、話し手と聞き手との関係性を反映した《待遇表現》も消滅するはずはなく、その限りにおいて、《人間関係語》としての「敬語」が消滅することもありえないと思います。
お礼
八百長!と言う謗りを受けそうな、御礼になってしまいますが、 貴御回答は、敬語(1)の、敬語はなくなるか、の方に、お寄せ頂ければと、思ってしまいました。 待遇表現という言葉は、無学ゆえ初めて知りましたが、人と人とのコミュニケーションにおいては重要な問題だと思います。ただ、表現ですと絵画・文学と言った、芸術表現の解釈と言った複雑なと言うか、私からすると、ある意味無用な議論にはまりやすいですね。 質問者としては、あくまで、言語の内の、言語理解の対象として、敬語を材料にして、言語分析に留まりたいと、思っていますが、如何なものでしょうか。 後半部分の、上下の空間意識が、敬語に見られた点が、曖昧になっている辺り、まったく同感です、敬語と標準語が同化していくような、現象でしょうか。ただし、その結論が、敬語は消滅しない、となると、八百長発言で、「彼方は平等主義者ではないのですか、百年以上も前に、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言った人は馬鹿ですか」、八百長のお礼ですから、気を悪くなさらないで下さい、こうした一見矛盾したことが見られるのは、なぜなのかと、問いたいのです。 有難う御座いました。