まず、物理的な力からの類比として、何が社会的な力なのかということを考えなければならないと思います。
マイケル・トマセロ(Michael Tomasello)という心理学者がいます。霊長類心理学、発達心理学で活躍している研究者で、霊長類(おもに大型類人猿)や子どもの認知を比較することで、ヒト特有の認知機能とはどのようなものかを調べています。もちろん、そのとき言語の発達や進化は避けられない問題です。トマセロは、人的環境を含む環境との相互作用を重視する立場で、チョムスキーらの言語観とは鋭く対立しています。この立場から書かれた理論的著作が、『心とことばの起源を探る』(The cultural origins of human cognition, 1999)です。
トマセロ, M. (2006). 心とことばの起源を探る: 文化と認知 (大堀壽夫, 中澤恒子, 西村義樹, & 本多啓, 訳). 東京: 勁草書房. (Original published 1999)
http://www.amazon.co.jp/dp/4326199407/
この著作の第2章と、前年にエリザベッタ・ヴィザルベルギとの共著レヴューで、霊長類の認知において、物理的な力(physical force)と心理学的な力(psychological force)との比較をおこなっています。
Visalberghi, E. & Tomasello, M. (1998). Primate causal understanding in the physical and psychological domains. Behavioural Processes, 42, 189-203.
http://dx.doi.org/10.1016/S0376-6357(97)00076-4
このなかで、「風が吹く⇒リンゴが落ちる」という因果関係の理解には、「風が吹く」と「リンゴが落ちる」との随伴性を認識するだけでは足りないとしています。それだけではなく、枝が揺れることで起きる物理的な力を、媒介するものとして認識している必要があると主張しています。
これの類比として、心理学的な力というのを考えています。「岩が落ちる⇒逃げさる」という連続のあいだには、恐怖という感情が媒介しており、この場合の心理学的な力といえます。霊長類の社会性の進化に関連づけると、もっとも重要なことは、同種他個体が自分と同じように意図をもつ存在者であると理解していることです。意図(intention)は、行動の基盤になる媒介であるため、心理学的な力のひとつです。
この意図を理解できるかどうかというのは、社会の形成において、非常に重要なポイントであると考えられます。たとえば、自分とパートナーとが実験に参加している状況を考えます。自分がもらえるはずの報酬がパートナーのところへ行ってしまったとします。これがパートナーの意図によるものならば(例、報酬が自分のところに来そうになる瞬間にパートナーが奪ってしまった)、自分は報復するはずです。しかし、パートナーの意図でないときは(例、報酬が自分のところに来そうになる瞬間に、実験者がパートナーに渡してしまう)、自分は報復しないはずです。このことは、トマセロらの実験により、チンパンジーで確かめられています。チンパンジーは、表面的な不公平さではなく、相手の意図を加味したうえで報復行動をとれるということです。なお、この実験で「報復」とは、肉体的な攻撃ではなく、装置を壊すことで相手が(もちろん自分も)報酬をとれなくすることを指します。
Jensen, K., Call, J., & Tomasello, M. (2007). Chimpanzees are vengeful but not spiteful. PNAS, 104, 13046-13050.
http://www.pnas.org/cgi/content/abstract/104/32/13046
このように、相手を意図的な主体であると理解することを、物理領域での力の理解に相当するものと考えてよいのではないでしょうか。
ただ、社会的な力と考えられるもののすべてが、この個体レベルまで分解できるとは思いません。たとえば、それぞれの文化に特有の考え方のようなものは、社会的な力のひとつですが、個体レベルではふだん意識されるものではありません。どのレベルの社会的な力を検討するかは、社会的なもののどんな側面を知りたいか(心理学的な興味、社会学的な興味、精神分析的な興味など。さらに細かいテーマも)によって変わってくるのだと思います。
お礼
完璧な回答ですね。 背中から、シャツの中に氷を投げ込む、悪戯もお見事。 「抽象化の問題」は、私も気に成っていて、質問文も、やや及び腰なのですが、あらためて「問題」を整理していただけ、大変参考になります。 (1)物理的力・(2)生理的力・(3)精神のエネルギー・(4)個人の力・(5)集団の力 自己流で五つの力に分けてみましたが、コント・デュルケーム以来、※A「全体はその諸々の部分の総和とは異なる別のものである」と、社会的制度を具体的な研究対象としての実体として、考えているようです。つまり、上で区別した、五つの力(順番が正しいと仮定して)は、両端から実体としての研究対象となっています。「ちから」に関して、二つの方向から分析していくと、トンネルを掘るみたいに、うまく開通するかもと、期待をしているのですが。 制度と「ちから」の同一性は、これも一つの問題ですが、無関係ではないでしょう。 とはいえ、「物理的力」も「ジュール」以来、もう一つわかりません。数値化するのは便利なのでしょうが、「ちから」そのものから、「ちから」の軌跡、跡、結果を見ているような。 「社会的力」も数値化すれば、同様な、二重の抽象に成りかねないのでは、と、思ったりもします。 そもそも、「ちから」の存在論が、(2),(3),(4),(5)では、曖昧なのかもしれません。 ただ、※Aは、力の両端、「物理学」のブラウン運動、或いは有機化学の分野でも成り立つのでは、 と仮定して、ジタバタと、考えております。 数値化で押し切るのか、逆に押し切られるのか、どちらになるのか分かりませんが、参考になりました、有難うございました。