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ほにゃらか形而左右学 いざ、鎌倉!

な~~~~がい不況が、続きますが、 年も変わるし、久々に、輪行をしなけりゃぁ、と。 冬は、東に向って、自転車漕いで、電車で帰るのが一番ですが、 東海道は、ほとんど行ったし、おっと、鎌倉があった。 さて、私は、以前に二度ほど鎌倉を訪れているはずですが、 ふと、私は、なにを頼りに鎌倉にたどり着くことが出来るのだろう、と考え込んでしまいました。 普段、駅までの道のりは、迷うことなくたどり着けますが、その際、私は、周りの景色を覚えているからたどり着けると、単純に考えていました。では、私が鎌倉にたどり着くためには、その経路をすべて覚えていなければ、いけないのでしょうか、ばかばかしい、鎌倉の看板や、地図を見れば迷うことはない。 しかし、このばかばかしい、言語的活動抜きに、普段駅に通う延長として、鎌倉にたどり着くことが出来るのか、そして、仮にたどり着いたとしても、そこが鎌倉であると、言語抜きに確信することは出来るのだろうか。 二日酔いの朝、財布を開いて、びっくり。 どうやって帰って来たのか、忘れてしまって、二度びっくり。 記憶力の衰えを痛感しつつ、お馬鹿な質問でした。

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  • mintarou1
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回答No.28

. #18です。 日曜日に(1)以外の詳細は、検討するとの事なので、それ以前に回答をしたほうが良いと思い、十分に考察せず、雑な検証ですが、今感じていることを書きます。 >(1)の観察の説明を読むと、それは画像なのか、と改めて問い直してみたい誘惑に駆られます。 「画像」とは言っていません、「映像記憶の想起像」と言っているのです。 「画像」がぼやけているのではなく、「映像記憶の想起像」が、ぼんやりしていて、その中の一つの部分に注意を向けるとそこが、その部分がやはりぼやけて見えなくなるような感じがします。 「映像記憶の想起像」がそういう性質を持っている。っと言っているのです。 「画像」と「映像記憶の想起像」は、違いますので、区別お願いします。 . >その前に、そのまま記憶している画像とは、そもそも何のことなのか、我々が首を回せば、目の前に広がる画像は一転しますし、駅に向う道の景色は、一歩一歩進むたびに、その見え方が変化していきます。当然、その全てを記憶していると強弁することが、理に適っていないと言う事は、明晰なご回答者様なら理解できると思います。 これを、説明しようとすると、#18で述べた、 >(そのメカニズムは、無意識を持ち込んで説明になるので、省略します。) の無意識の説明をしないといけなくなります。 話が、複雑になるので、後のほうで触れます。 ヒントは、「映像記憶の想起像」は、ぼけています。何度も顔を見ている友人の顔を描け、と言われてもかけません。 しかし、本人が、仮に鼻を整形したとした場合、すぐに違和感を感じ、鼻の形が変わった事に気が付きます。 「映像記憶の想起像」は、とてもぼけているのに、実際の人物の小さい顔の変化も気が付く。 これは、不思議だと思いませんか? これには、無意識の記憶が関与していると言うことです。 . >この質問における「新兵器」「見つめることが出来る」も無力だったと言うことでしょうか。 見つめることは出来ないが、それは画像である、とご回答者様は仰る。 無力と言うより、「映像記憶の想起像」を別の側面から見た。という事です。 新しい事が分かった(想起されたイメージと言うものは、改めて見つめなおそうとしても、そこには何もない、こんな感じになるのです。) というのは、「映像記憶の想起像」が否定されたのではなく、新しい側面が分かったと考えると言う事です。 >画像をそのまま記憶する、と言う表現は、知覚をそのまま保存すると言う意味なのか、記憶は知覚の弱まったものである、と言った意味になるのか、或いはもう少し、違った意味になるのでしょうか。 . . これを、答えるのは、無意識に触れないといけないですね。 (色々な本を読んで、の仮説レベルだと思って、軽く読み流してください。) 記憶は、全て無意識に記憶されていると考えています。 (これは、催眠術の実験でも確かめられています。) たとえば、「映像記憶の想起像」が、ぼんやりとしていても、本人を認識できるのは、意識の上の「映像記憶の想起像」が無意識に保存された、はっきりとした「映像記憶の想起像」と、参照されるからと考えています。 映像記憶は、他の知覚(音声、臭い、味、等)に比べて、情報量が膨大です。 意識の上に、それを保存すると、飽和・混乱が生じるので、意識の上の記憶は、無意識の記憶を呼び出せるレベルの、ぼんやりした映像記憶を想起させ、無意識の鮮明な記憶を呼び出す、フックの様な、役目をしていると考えています。 以下のURL ペンフィールドの件もその、根拠の補強になると思えます。 http://www.weblio.jp/content/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89 因みに、記憶でも、知覚の種類で、意識に上がってくる鮮明さが違うということです。 生理学、脳医学の本では、聴力が視力よりかなり先に発達したという事です。 ですから、映像記憶より、音声記憶のほうが、覚えやすいということです。 実験してみてください。 歌手の歌を何度も聞いていると、自動的に頭の中で、その人の「歌が流れる」という体験はありませんか? その、記憶の歌は、かなり、ぼやけていなくて、リアルに近い音声ではないですか? 音声記憶が、映像記憶より、鮮明に意識上に上がってくる例と言えると思います。 多少、取りとめのない、内容になったことは、ご容赦ください。 それから、お願いですが・・・ >明晰なご回答者様なら理解できると思います。 の様な、表現は、お控えください。 自分は、色々な所で「頭がわるい。」表明していますが、本当に、愚鈍な頭脳だと思っています。 このようなことを書かれると、人を騙している様で、心苦しいです。 宜しくお願いします。 .

fishbowl66
質問者

お礼

忘れていました。ペンフィールド 「1940年代から50年代にかけて、カナダの卓越した神経外科医ワイルダー・ペンフィールドが広範囲な脳手術を局所麻酔下で行った。手術中に脳が大きく露出するケースが多かったので、ペンフィールドはこの機会を利用して、それまで一度も行われたことのない実験をした。電極を用いて患者の脳の特定の部位を刺激し、どんな感じがするのかを患者にたずねたのである。電気刺激によって、ありとあらゆる種類の感覚やイメージ、それに記憶までが引きだされ、反応があった脳の領域が図示された。」 (『脳の中の幽霊』ラマチャンドラ) さて、この文章をすっかり忘れていましたね。困りました、これ本当なんでしょうか。 引用した本は、一般向けの、科学的読み物ですから、細かな用語に関して詮索する必要はないのですが、結局「記憶心象」と言う言葉をどう定義するのか、言葉の問題になってしまいそうですね。パースと言う人は、「心象」と言ったイメージも記号に含めてしまいますが、どうしたらそのような結論に至るのか、興味深いところです。 >聴力が視力よりかなり先に発達したという事です。 これは初耳、なるほど、確かに女性の歌手の歌声のイメージと言うか、声色を覚えているような、うむ~声は言葉だら、あまり深く考えなかったのですが、すぐ下の、先ほど書いたお礼と矛盾しないようにするためには、どうしたらいいのか、悪い頭を使って、まだまだ考えないといけないことが、沢山見つかりましたね。 有難うございました。 私たちの脳は、顔の見えていない人の後姿から、その人の顔があることを推測する。なぜなら、背中を向けていた人がこちらを振り向いたとき、もし顔がなかったら、私たちは非常にびっくりするだろうからだ。見る者を中心にすえた表象とは、人の後頭部が見えている画像に相当している。それは私たちが鮮やかに知覚できるものである。一方、顔についての推測は、3Dモデル的表現に由来する。ジャッケンドフは、この3Dモデルが直接私たちの意識に上ることはないと信じている。古い詩句に言うように、「私が私の言うことを聞くまでは、どうして私が私の思っていることを知るだろうか」というわけだ。 (『DNAに魂はあるのか』F.クリック)

その他の回答 (33)

回答No.13

 我々(鼠)は、記憶する事柄を一々言葉に置き換えて、してはいません。  人間が必要とする「学校」なんてないのです。  そんなもの(学校)なくてもちゃんと学習します。  我々は、“動物”ですから。

fishbowl66
質問者

お礼

いざ鎌倉!の号令に、鼠さんも参戦ですか。 鼠さん、教えてよ。人間が迷路実験で遊んでいるけど、どこを走り回ったのか、例えば臭いとかで覚えているんじゃないの、ほんとのこと言ってよ。鼠さん(笑。 有難うございました。

noname#103014
noname#103014
回答No.12

補足を拝見いたしました。 現実の知覚というのは実際には非現実のイメージによってその枠組みあたえられて知覚として成りたっているわけですね。 だから毎日通う駅は半分目を瞑っいてもたどり着くことができます(笑。 仮に想起を概念的、反省的、分析的認識であるとしてもやっぱり直観的、感性的イメージがないと「ここは鎌倉だ!」という確信は生まれないような気がします。 つまりイメージによる認識と概念的認識は分離しているのではなくて混在しているのではないか? また書き込みます。

fishbowl66
質問者

お礼

再度のご回答、有難うございます。お手数をお掛けして、申し訳ないです。 偶然ですね、私も同じようなことを考えていました。 鼠と遊んだり、他のご回答者様の回答を読んでいるうちに、記憶に関して、変なことを見つけたんですね。記憶を言語的過程と言う立場で画像記憶とかイメージ記憶を攻撃するためには、不利な材料なのですが、色の記憶とか、顔の記憶とか。 例えば、本棚の本の背に、赤い帯が付いているのですが、これを見て赤いと思う記憶、つまり、知覚に付随しているような記憶と、下のほうで、物理学者さんが、山登りの記憶を思い出しているような場合の記憶が(もちろん山を降りた下界での方ですが)ずいぶん違った記憶のような気がします。前者の赤いと言う記憶は、現在の知覚と照合している記憶で、後者の記憶は、過去想起と言われるものです。この二つの違った記憶の混同が、大森の言う「知覚未練」にふと繋がる様な気がしました。 ご回答者様と、言葉の表現が少し違いますし、また二分法の罠にかかっているのかもしれません、もう少し検証してみる必要がありそうです。例えば、違うものが混ざり合うと言うことは、論理的におかしくないのか、とか。或いは、混同と混在では、意味が正反対なのか、とか。 とはいえ、面白い収穫ですね。

回答No.11

話が関係するかどうか、心許ないのですが、「流れを渡った向こう岸」という概念を重ねて読んでしまいます。 「三途の川」でも、「春の小川」でもいいのですが、「向こう岸(彼岸)」というものを未だかつて見たことがない状態で、「どこか」に辿り着いたとき、そこが彼岸であると確信することができるのかどうか? 特に地球のような球体の表面を流れるような川の場合、地球をぐるりと反対側から一周してくると、「川を渡ることなく」向こう岸に着いてしまう。もし、そういったことができるのなら、そんな反則技をしてまで、過程よりも目的地への到着を優先するのか?などと、考えてしまいます。 さて、地球を逆方向に回るといった反則技は別として、「川を渡る」といった概念で彼岸に辿り着こうとするならば、こちらの岸からあちらの岸といった方向のみに頼らざるを得ない。。。 即ち、「向こう岸へ」という「方向性」と「川を渡る」といった「手段・方法・状態」とが組み合わさって、はじめて彼岸への可能性が生み出されうる。。。 彼岸があるにせよ、ないにせよ、小川が大海であるにせよ、ないにせよ。。。 言葉の指し示す先の在・不在に関わりなく、そこに川があり、此岸がある限り、此岸を離れなければならないなら、その方向へと向かうのでしょう。。。

fishbowl66
質問者

お礼

含蓄のあるお話を、有難うございます。 私の場合は、川よりは、 「山のあなたの空遠く・・・」でしょうか、 確かに、反則技を使うよりは、山を越すという過程に魅力を感じますね。 しかし、山の中で道に迷うと怖いですね、視界が狭いですし。 そういう意味でも、どの様に道順を覚えているのか、本当の所、どうなんでしょうね。 但し、目的地を無視して、道順だけ考えても、しょうがない訳ですね。 さて決まり文句です。 「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.10

訂正: 誤:そういう意味で 言語で確信することは出来ないでしょう。   言語抜きであれば 確信できるかもしれません。 正:そういう意味で 言語で確信することは出来るでしょう。   というより、言語では確信することしか出来ないと言えるかもしれません。   言語抜きであれば 認識できると言えます。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 やや、判り難いですが・・・ あれですかね、確かこの間読んだ本にも載っていたのですが、ラッセルが「かりに、この全世界が二十年前(何年前でも何秒前でもいいけど)今と全く同じ状態になるように創造されたとすると、それが正しいか誤っているかを調べる手段は論理的にはありえない」と言ったことと関係があるのかしら。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.9

 そこに「鎌倉」という標識が立っていたとしても それがマチガイであるかも知れず  そして皆が「ここは鎌倉です」と言ったとしても、皆が勘違いしているか あるいは 皆がだまそうとして嘘を言っているかもしれません。  そういう意味で 言語で確信することは出来ないでしょう。  言語抜きであれば 確信できるかもしれません。  もし 的確な回答でないと感じられるなら、  もっと率直に質問していただければ もっと的確な回答ができるかもしれません。

fishbowl66
質問者

お礼

では、決まり文句です。 「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

noname#99989
noname#99989
回答No.8

人は、鎌倉に行きたくて鎌倉に行くわけではなく、鎌倉に行けば、いい余暇が過ごせるから、あるいは住みたくなるような場所であるから、あるいは昔の思い出が、あるいは友人が、あるいは・・・そのように思って、鎌倉(=地名)を目指すことによって、命題(=目的)を果たしているのではないでしょうか。 そしてその命題が真であるかどうかを問える(知ることができる)のは、その人自身ということではないでしょうか。 ご参考まで。

fishbowl66
質問者

お礼

し、し、しまった。 うっかり、鎌倉大仏を検索したら、いきなり大仏様の画像を見てしまった。 下で書いた、中へ入れる話、ひょっとして勘違いだと恥ずかしいなと。 鎌倉での知人・知り合いと言えば、鎌倉大仏さんだけだったのに・・・これでは記憶の正しさを確認する目的の実験に、余計なバイアスがかかってしまう。しまった。 それはさておき、ご回答有難うございました。 「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

回答No.7

 言語活動に頼らなくても“鎌倉”へ行けるのは、“既知の世界”だから。  未知の世界なら、そこが目的地であると、どうしたら分かるのでしょう。  以下は連想です。今回の質問に関連するかどうか。  ☆「砂漠のど真ん中に一人立ったならば、ここは“砂漠だ”と思うばかりです。」

fishbowl66
質問者

お礼

成る程、鎌倉へは行けそうもないですね。 問題は、既知の世界にも、ありそうですが。 砂漠のど真ん中に、突然現れるわけではなく、何処かからやってくるのだと思います。 何処かからか来た記憶があっても、砂漠の中では、どこから来たのか分からなくなって立ち往生でしょうか。 有難うございました。 「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

noname#103014
noname#103014
回答No.6

>鎌倉の看板や、地図を見れば迷うことはない。 >しかし、このばかばかしい、言語的活動抜きに 空間的な位置関係の把握がなぜ言語的活動といえるのかご説明いただければ幸いです。

fishbowl66
質問者

補足

色々な誤解を解く為に、他の回答者様のお礼よりも優先して、こちらの補足要求に、お答えしたほうが良さそうな気がします、皆様のご理解が頂ければ幸いですが。 さて、今回の「いざ鎌倉」を「いざ記憶」と読み替えていただいても結構です、では、なぜ「いざ記憶」ではいけないのかというと、同じ質問を過去にしているからです。ではなぜ同じ質問をするのか、と言えば、当時、鉄壁の主観の壁の前で、立ち往生した時より、新しい新兵器が見つかったからです。 当時同様、今回の問題も、「記憶とは何か」と言った一般的な問題ではありません、このような難問に真正面から突っ込むほど、私も無謀ではありません。漠然と記憶云々と言っても、埒が明かないのです。この質問での目標は、前回同様、イメージは記憶されるのか?つまり、「記憶とは何か」と言った漠然としたことではなく、なにが記憶でき、何が出来ないのか、と言うことを、少しでも明確に知りたいのです。 例えば、私たちの常識では、イメージと言うものは記憶しているはずです、でなければ、他人の顔をどうして覚えることが出来るのでしょう。 しかし、一方に、記憶を言語的なものと捉える見方も出ているようです。その一つが、大森の「想起」つまり過去を思い起こすことです。さらに「知覚未練」イメージを記憶していると思いたがる傾向、とでも言いましょうか。そして、新兵器として、「見つめることが出来るか」と言う問いかけです。現実の知覚は、ぼんやりしていた部分に注意を払うことによって、詳細に見つめなおすことが出来る、と言う事です。それに対して、想起されたイメージと言うものは、改めて見つめなおそうとしても、そこには何もない、こんな感じになるのです。 そこで第一に、皆様方が、イメージを記憶していると言って、それは一体なにを言っているのか。 恐らく、現実の知覚のように、見つめれば新たな発見ができる、と言ったような、記憶の想起は、論理的に言っても矛盾します、皆さんはイメージを記憶している、と認めるとき、それが本当に、イメージなのか、イメージを装った、言語記号の一種ではないのか、と、疑ってみていただきたいのです。 イメージと図式の区別と言った、難しい問題もあります。不幸なことに、図式は見つめることは出来ないと了解できる可能性が高そうですが、イメージとなると、個人差がありそうなのです。 記憶は、他に、運動記憶とか無意識・暗黙知と言った難しい問題もありますが、取り敢えず、意識に昇る部分だけでもはっきりさせられないのか、と。 >空間的な位置関係の把握がなぜ言語的活動といえるのかご説明いただければ幸いです。 以上が、貴殿の補足要求から得た収穫です、今回の質問時では、イメージと図式の区分という問題が欠落していて、イメージと言語過程の二分論的意識が質問者に「未練」として残っていたのかもしれません。 そこで、 補足要求に対して、 もし仮に、記憶が言語的な過程であるならば、ご質問者と同じ立場に立てるわけです。 イメージが記憶できずに、記憶は言語的過程であるとすると >空間的な位置関係の把握がなぜ言語的活動といえるのかご説明いただければ幸いです。 但し、カントの言うように、空間を「先験的形式」と言ってしまっては、そもそも経験、つまり、記憶に関しては、知りえない、と言う事に成ってしまうのではないでしょうか。 私は難しいことを聞いてはいません。 「あなたは何を憶えていますか」 それを説明することが難しいと気が付いた上で、教えて欲しいのです。 さて、それでは、私は週末に、鼠退治ですが、どうなる事やら、困った事です。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.5

脱記号の冒険は徹底的にやりぬくことで、世界の良識を敵に回して快哉とされたい。 卵を潰し気味にすっくと立てて出発の合図、一夜明けると蒙古船が消失たる勢いで道中の万難をやすやすと繰り抜け、 こんなに日数がかかるはずがないと思いながら、名にし負う山海の風光明媚と八幡宮の屋根が見えたなら、 そこはもう何があっても鎌倉でよろしかろう。 ごっそり地上げして鎌倉海岸や鎌倉山と称し、宅地開発して鎌倉ヒルズ鎌倉レジデンスと銘打ち、 後世の人々を、めくるめく「あれ、鎌倉が二つあるよ」とか「鎌倉論争」だとか中世史の綻び戦乱史の矛盾へ誘ってください。 ヴィトゲンシュタインと体系的歴史学は融合しうるか。。。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 過日、東海道を、自転車で走った折も、湘南海岸のマンション群にどきもを抜かれて、藤沢方面、箱根駅伝のコースへと舵を切ったため、鎌倉へは行けなかったのです。最初は中学の修学旅行、その後は、あれ、二回だっけ、大仏の中に入ったのは、むにゅむにゆ、あぁ分からなくなってきてしまった。それこそいざ鎌倉!でしょうか。 ところで、脱記号の冒険って、もぅ一つぴんと来ないのですが。 「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.4

#2です。 >過去想起は言語的であるという指摘に なるほど、それは一理ある指摘ですね。でも、それで本質を突き切っているかどうかは、まだ検討をする必要があるとの印象を得ました。 僭越ですが、私の個人的な経験を述べてみます。先ず、上の仮説を肯定する経験から。質問者さんからの回答を読む少し前、寝床の中で目をつむりながら、私の物心を付いた頃からこの年寄りになるまでの出来事の記憶を時間の順序で辿ってみました。その順序付けも、また、印象に残った出来事も、確かに言葉で蘇って来ました。 次に、上の仮説を否定する経験です。この秋に40年ぶりに北アルプスの剣岳を見たくて、室堂から立山に登って来ました。私はアメリカに住んでウン十年経ち、渡米してから後、日本の高山を間近に見る機会は殆ど在りませんでしたので、昔幾度も登った剣岳をまた見たくなったのです。昔と比べて足腰が弱くなっているので、剣その物は無理でしたから、立山の雄山まで登ることにしました。雄山の山頂から剣岳の全容を見た時に、私の頭の中に、八ッ峯の壁に取り付いている昔の自分や、長次郎谷や三の窓の雪渓を這いつくばりながら登っている自分の周りの景色や、自分と一緒に平蔵谷の上部から勢い良くグリセードで雪渓下りをしている姿が、言葉ではなくて、直接絵になって蘇って来ました。この記憶の蘇り、即ち、その時の過去想起を、たった今、この下界でやろうとすると、先ず、剣岳やその山の構造を言語的に蘇らせなくてはなりませんが、雄山から剣岳を見た時は、そんな言語を仲介せず、いきなり昔の絵が蘇って来たのです。 人間が複雑な言語を使いこなすようになって、高々百万年ぐらいのオーダーだと思います。ところがそれ以前の進化の段階で、哺乳類のレベルでも数千万年から1億年ぐらいの間、私達は複雑な言語無しで生き残って来ました。したがって、我々の脳味噌の中には、言語を通さずに、いきなり情景を思い浮かべることで、良きに付け悪しきに付け過去の経験を焼き付けて来る機能があるはずです。そして、この進化の歴史の長さを見ると、普段意識しない時には見過ごされているかもしれませんが、その非言語的機能の影響力は絶大なものがあると思えます。 大森庄蔵の本は読んでいないので、それに関して直接にとやかく言えませんが、もしかしたら、大森氏は、この記憶に関する非言語的な側面の重要性を見過ごしているかも知れないという印象を受けました。この歴史的進化の重みを考えると、我々が空間的な認識をする場合にも、生物の進化の過程で永々と受け継がれて来た非言語的な認識が重要な役割をしない方が余程意外です。もしそうなら、そうなってしまった理由を探る方のが、より創造的で生産的な営みのように思えました。 私の印象では、実はそうなってしまったわけではなく、非言語的な世界が無意識に見過ごされているだけのような気がします。 ここから下は、蛇足です: 私は物理の専門家ですが、物理でも、それが気付かれなかったというだけで、この世界の圧倒的に巨大で多数派を占める現象が全然見えなかったという例があります。これは、所謂カオスの理論に関係した話です。物理の基本法則は全て運動方程式と呼ばれる微分方程式で表すことが出来ます。この概念を最初に導入したのはニュートンですが、彼の導入後200年以上に渡って、その運動方程式は原理的には必ず解ける物と決めつけられていました。(ここで、運動方程式を解くという言葉の意味にはうるさい話があるのですが、そのことはここでの話に重要では在りませんので、触れません。)たまたま、運動方程式が解けない例に遭遇した場合にも、それは単に我々の数学的処理能力の未熟さに由るのであり、したがって、いつかは誰かが解く時代がやって来ると考えられていたのです。ところが、19世紀最後から20世紀の初め頃に、フランスの数学の天才、ポアンカレによって、運動方程式の中には原理的に解けない物が在ることが発見されました。彼は、その場合に運動がカオス的になることを指摘しました。そして、20世紀の中葉頃には、任意に与えられた運動方程式が、たまたま解ける確率は限りなく0に近いと言うことが証明されました。では、どれくらいの場合に解けるのか。それは、物理の教科書で練習問題として、この問題を解け、と出ている問題だけだと言っても過言では在りません。その問題はたまたま解けたから、練習問題に載っているわけです。それ以外の問題は、それが原理的に解ける場合に当たる確率は、宝くじが続けて何回も当たる確率よりも遥かに小さいのです。 ところが、物理屋さんの卵達は、いつもいつも教科書で解ける問題ばかりやらされ、その試験問題を解けた者だけが生き残れるので、教授方まで含めて、自分たちが論じている現象は例外中の例外の現象であることをつい忘れてしまい、この世界はあたかも運動方程式が原理的に解ける世界なのだと、深層心理の中で思い込んでしまっている人達がいっぱい居るようだというのが、私の印象です。彼らには、その反対の巨大な世界が見えず、体で感じることができなくなっているのではないかと、疑ってしまうこともありました。特に、非線形現象とかカオスを自分の研究対象にしない人達にはそう言う方を見かけます。また、教授方が若い頃には、その事実もほとんど知られておらず、さらに、ほとんどの先生方は一度若い頃に専門にしたことを一生のテーマにする人達がほとんどですので、そう言う教授方は、年期を積んだ後でも、なかなか、その物理学の大革命以降の考え方が出来ないような印象を持っています。まあ、この私の認識が誤解に基づく独断と偏見だったら、喜ばしいことですが。私の先生曰く、「研究会などでは、大成した年寄りを説得する必要はない。そんなの所詮無理だからだ。それよりも、ほんの一人か二人でも良いから、若い人に興味を持たせることが出来たら、それで貴方の研究発表は成功だ。なぜなら、年寄りはそのうちに死んで行くが、その若者達がそのうちに、年寄りの重鎮になって行くからだ」、だそうです。 脱線しましたが、学問の世界ってそんな物ではないでしょうか。たまたま、学問の歴史的経緯による偶然な方法論や認識の型によって洗脳されてしまったおかげで、実は目の前に引っ切りなしに起こっている本質的な現象が見えなくなってしまうことがありそうですね。まあ、大森庄蔵氏の意見はその範疇に入っていないのでしょうが。 やあ、驚き々々。蛇足の無駄話の方が長くなってしまったようですね。でも、質問者さんはどうか知りませんが、私はこの欄をお遊びの場所だと心得ており、また、こんなお遊びの機会に蘊蓄を傾けていると、結構自分の頭の中の整理も出来るようですので、質問者さんの迷惑を全く無視して、遊んでおります。乞う、お許し。

fishbowl66
質問者

お礼

貴重な経験をお寄せ頂き、大変有難うございます。特に、山の上での想起と、下界での想起の違いには説得力がありますね。残念ながら、私の場合、修行不足のせいか、仮に体験していたとしても、気が付いていないのかもしれません。 確か、小林秀雄と言う人は、九死に一生を得た経験を、つい最近亡くなった、母に助けられたという、神秘的な体験をしてしまったとか。そして、そのことに最後まで対決していたと言うようなことでした、私の場合、不思議な体験からは、逃げ出しているのかもしれませんね。 う~む、鎌倉の大仏、確か中に入れますよね、昔、入ったと言う記憶が言語的にでてきますが、実際に入ってみると、何か起きるでしょうか。う~む、神秘的に成りすぎたようです。 実は、この様な、大仏の中の話は、記憶が脳の中にある、と言った常識に、挑戦する新兵器にもなりうるもののようですが、今回そこまで話を拡げる余裕はないようです。イメージの記憶は結構手ごわいですね。 楽しんでいただければ、質問者としても、質問冥利に浸って、楽しむことが出来ます。 さて、勝手に、一般的には、記憶は言語過程に比重がかかっており、毎日の通勤通学において、なぜ道に迷わないのか、と言うことを、哲学することの可能性に、一票頂いた、と、思っておきます。 有難うございました。