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敬語について考える
- 敬語は言語表現であり、敬意を表わすものである。
- 敬語は上下関係を明示する言語規則であり、内外の関係を明示する言語コードでもある。
- 敬語はコミュニケーションの道具であり、第三者間の上下関係を表わす言語記号でもある。
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質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。前回の続きで恐縮です。 また、4)を「日本人の美意識(美徳)」と置き換えていただいたほうが、より妥当のように拝察致します。 (1)でご教示下さった中国における敬語の衰退と消滅は、とても興味深いものでした。 本当にありがとうございました。 またその一方で、先の敗戦を経て世界観や価値観を大転換させられたであろう日本人にとり、 馴染み深い敬語というものが、一見衰微しつつあるような感があれども、 存続し続けているどころか二重敬語にまで及んでいる現状つき、 あらためて考えさせられました。 先のご質問(1)(2)における皆様のご回答のいずれも、とても頷かされ、参考になるものばかりでしたが、 中でも、(2)のNo.4の「日本人の美意識」、やはりこれが日本語の敬語の重要な本質の一つであろうと、私は考えます。 これは、日本通でない外国人に通常説明する際に、「それは日本人の美意識ですよ」 と言ってしまえば、多少なりとも、有無を言わさず相手に納得をさせやすいもので、 西洋哲学や論理で説明づけられない余地も包含するものです。 この場合の「美」とは、単に美術的、美観的な要素に加えて、精神面にまで及び、 例えば「信言不美、美言不信」につき、中国の大まかな意味合いが「甘言に騙されるな」であるなら、 日本のそれは「心が美しい/醜い」の精神性にむしろ重点が置かれる解釈と捉えられるのではないでしょうか。 そして「真善美」のうちの「真」「善」と互いに拮抗し、日本人の美意識/美徳がそれらに勝ることも多々あり得て、 例えば敗戦後の問題から政治家或いは企業幹部の引責辞任といった、非常に広汎な事例において散見出来ると思われます。 ただやはり、自国の文化を肯定した上での、言葉のかぎりを尽くした国内外への説明が為される必要性を感じるのですよね。 もちろん、敬語の悪しき点、時代性との絡みを鑑み、極端な国粋主義に陥らぬように重々注意すべきでしょうけれども。 この点につき、このたびのご質問に関心と期待を抱いているのです。 なお、日本語の敬語が「マクロ的に見ると、上下関係を肯定しているのでは」「平等主義と矛盾しないのか」 というご質問につきましては、 前者は教育機関や芸能分野の師弟関係にこそ現状では相応しく、 後者は(栄誉称号)といった尊称(称号)と平等主義との併存と捉えれば、さほど差支えがないように思います。 つまり、大革命時に「自由・≪平等≫・博愛」を掲げたフランスにおいて、幾多の政局の混迷を経て今なお、貴族の爵位や"de"が国内外の儀礼で用いられているということ、 さらには、コルベール委員会やそれに準じた企業幹部候補生として、 グラン・ゼコルの卒業生とまではいかなくとも、「それ」により若干有利に事が運びやすいという傾向は否めないこと一つとっても、 さほど日本の敬語がそれほど「平等主義」と矛盾するものとは、私としてはちょっと考えにくいところではあります。 来週初めに、是非また拝見させていただきますね。 よろしくお願い申し上げます。
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- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#16です。 ご丁寧に対応していただきありがとうございました。
お礼
図形のアップに失敗したにもかかわらず、ご丁寧に、返信を頂き、感謝いたしております。 図形抜きで、文章だけ読んでは、理解するのに苦労をなさったことでしょうね、お察しいたします。 ところで、実は、敬語に関しては、四つ目の質問が用意してあったのですが、些か気合が抜けてしまい、ほにゃらか形而左右学 敬語(お4まい)は中止することにしました。 敬語を使用することによって、主語が省略できるかどうか、と言う点か、引き続き、記号論にするのか、迷ってはいたのですが、連休中に私的な問題が起きたこともあり、断念しました。 そんな訳で、お後の準備が、まだ出来ていませんから、締め切りは、もう暫く後で行います。 何か面白い話題に気がつきましたら、ご遠慮なく、お書き込み下さい。 ご回答頂いた、皆様も含みまして、改めて、お礼申し上げます。
補足
6月25日現在、締め切ることができません。 愚問にご回答頂いた、すべてのご回答者様に感謝いたしますと共に、 回答が締め切れないことに関して、あれこれ関わる無駄な時間はありませんので、 その後の経緯に関しては、ご容赦お願いします。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
以前より わたしの文章に対して 多少の論拠を添えて 結論に飛びそれを持って批判として来ています。 論拠および飛躍について しかるべき内容のものはそれとして認め 全体として間違いがあるという点について反批判をしっかりとこちらはおこなって来ています。 最終的には このわたしの反批判を受けて返答をするという作業をしたことはなかったわけです。 今回は その反批判をも省いて ということは わたしのほうから 今まで受けた仕打ちと同じかたちの対話の放棄という手段に出ることにします。 そもそも今回のやり取りにしても 初めから道をそれつつ そちらから批判をつづけているのですから どこで切ってもよかったという考えです。 昔とちっとも変っていません。 お礼欄補足欄で何らかの反応があったとしても 同じことの繰り返しだと認めれば 対話の永遠の放棄とします。
お礼
お礼が遅れましたが、困った回答ですね。 無視とか仕打ちとか言われましても、思い当たることがありませんね。 ただし、ご回答者様が、このように感じられたのなら、何か理由があることでしょう。 以下、想像ですが、考えてみました。 この理由は、このサイトに対する、考え方の相違ではないでしょうか。 このサイトをどう定義するかは、管理者・利用者様々な考え方が有るでしょうが、大まかに言って『人と人の質問と回答によるコミニケーションの場』ということでしょうか。この大まかな定義の中で、おそらくご回答者様は、『人と人』の部分を大切にしておられるのでしょうか。実のところ、質問者もかっては『人と人』を大切にしたいと考えていた時期も有りましたが、最近は、HNの背後の個人の人格については、出来る限り意識しないように努めてきました。と申しますのも、出来る限り、文章を理解する事、文章の背後の人格ではなく、使用されている単語とその類似した単語を比較して、なぜ、此方で其方ではないのか、と言った、文章をよく読むように、努めてきたつもりです。 以前、ある質問の中で「最近のあなたの質問はつまらない」と言われたことが有りますが、成る程、確かにつまらなくなったかもしれないと、思いましたね。それで、別にかまいませんから。ただ、面白くなるか、つまらなくなるか、どちらにせよ、変えた事が判る人がいたと言う事で、喜んでいます。 以上申し上げたことを、少し具体的に、書き直すと。 日本人・魂・天皇制、或いは、宗教・神・人生相談等々のキーワードを含む質問に関しては、私は、これらの事に関して、あまり考えたことがないから、答えられない、ということでしょうか、出来ないことを、しなかったからと言って、無視していると言うのは、少し乱暴な表現ではないのかな、と思いますが。 兎にも角にも、今回のような回答を頂いて、感情的に応酬したりした場合、誰が喜ぶのでしょうかね? さて、このサイトの仕様が変わりましたので、私も再度のメタモルフォーゼを計画しています。請御期待。
- ENERGAIA
- ベストアンサー率9% (5/53)
追記 まあ、しかし究極的には対等であるのでしょうけど、この人間世界・社会に生きているからには 人は皆対等ではないのかな と思うのみです。
お礼
お礼が遅れて、申し訳ありません。 下の、お礼で、勝手なことを書きましたが、 案外、対等、と言うのは、かろうじて敬語の問題に、留まって考えていたからでしょうか。 敬語の場合は、公平より対等の方が正しいようです。 質問者の脱線で、理解不足だったかもしれませんね。 有難う御座いました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#11です。 どうも、(高い確率で予測していたこととはいえ)あっち向いてホイ的回答になっていたようでご迷惑おかけいたしました。 にも拘わらず、ご丁寧なお応えをいただき恐縮です。 「数学」という言葉を見た(聞いた)だけで余所を向きたくなる当方なので大人しくしておくべきところでしょうが、どうしても気になるのでご面倒でしょうが、下記の箇所についてもう少し解説いただけないでしょうか。 >例えば、A<B・B<Cだとしても、必ずA<Cになるとは限らない、この場合の敬語表現はどのようなものになるのか。 :という箇所の意味がわからないので、実際的例文を挙げていただけないでしょうか。(鈍くてホントすみません) これが理解できないので、 >つまり、敬語は語義的に精密に考えると、人間の上下関係を意味すると言う定義すら厳密には否定されることになるのかもしれない、とも考えられるわけです。 :という興味深いご見解に、どのように関連していくのか理解できず歯噛みしているような次第です。 無論、数学的返答などできようもありませんが、fishbowl66 さんがどのような思考を辿っていらっしゃるのか、ちょっと知りたいと思いました。 回答者と質問者の立場はとうに、というか常に逆転しておりますが、差し支えなければよろしくお願いいたします。
お礼
確かに説明が雑だった様ですし、 >敬語は語義的に精密に考えると、人間の上下関係を意味すると言う定義すら厳密には否定されることになるのかもしれない、とも考えられるわけです。 この部分も、少し言いすぎかもしれません。 「<」が 「>」「=」等の変数Xとして、AXB、AXC 、AXD 、BXA、 BXC、BXD、CXA、CXB、CXD、DXA、DXB、DXC、等の複雑な人間関係を敬語が正確に表現できるのか、と言うような問題意識を正確に伝えられなかったようです。例えば、A<B・B<Cだとしても、必ずA<Cになるとは限らない、 この部分の説明が、判り難いですね。 これを、会社とか軍隊の組織内のハッキリした上下関係の中で考えると、さっぱり理解できないですね。しかし、世間では、上下関係が、かならずしも常にハッキリしているとは、限りませんね。会社人間が多くなった現在ですが、敬語が上下関係ばかりでなく、敬意という主観的な意味合いも表現するわけですし、勿論、客観的な上下関係に反発する主観的な上下関係というものも、存在するように思います。 こちらのPCのペイントは使い難いので、専用のPCで図形を作りました。うまくアップできないと、後の祭りになってしまいそうですが、図に沿って、説明します。 人間の関係を、図のように簡略化してよいかどうかは、一先ずおき、説明のために、図1を発話者A 聞き手D・図2を発話者D 聞き手Aと単純にしておきます。 この両方の場合、BとCに対する、それぞれの発話者の、上下関係・敬意の程度と言ったものが、主観的で客観的な一致が成立しているとは限らないと言うことです。 そのことが、 >例えば、A<B・B<Cだとしても、必ずA<Cになるとは限らない、 ですから、具体的な会話としては、図の1では、AはDに対して、B<Cのように、BさんがCさんに差し上げた、と表現しますが、図の2では、DはAに対して、B>Cのように、BさんがAに下された?かな。と言うように、こうした単純な図形にしても、複雑な敬意の表示を敬語が記号として保持しているのか、つまり言い換えると、記号論として、敬意の方向の複雑さに一対一で対応する記号があるのか、と言う問題を考えた時。さらには、図の1では、AとDの上下関係に留意しつつ、B<Cの上下関係を敬語表現する場合、こうした複雑性を記号化するのが、そもそも不可能ではないのか、と言う疑問が沸きだし、 >敬語は語義的に精密に考えると、人間の上下関係を意味すると言う定義すら厳密には否定されることになるのかもしれない、とも考えられるわけです。 と言う表現が出て来たのですが、上で述べたように、これは言い過ぎで、一対一の記号が存在しなければ、記号でも敬語でもないとは、ちょっと証明できそうもありませんね。 そこで、この複雑な関係を、数学的に処理できないかと、考えたわけです。 数学に詳しくないため、このような関係が、そもそも関数に成るのか、分かりませんが、確か、二次関数・三次関数・四次関数等々、それぞれ解が存在する条件が有ったのではないのかな、それなら、この複雑な関係に、もしや数学的な解が存在しないと、証明されるかも。 で、結局、この件に関しては、無駄な考え休むに足らず、唯一この思考実験の成果は、図形を上手くアップできたかどうか、ということになりそうです。 今回、大変ご迷惑をお掛けしました、おかげで、休めます。 有難う御座いました。
補足
図がお礼の場合は入らないようです。 補足しても、入るのかどうか分かりませんから、口頭で図の説明 二つの変形四角形があって、時計回りに各角にABCDがあり、 両者は共に、対角線が入っています。 二つの形は、大きく違っていて、それによって、ABCDの上下関係が様々なケースに成ることが分かる様に作ってみました。が・・・ 図が入るのかどうか、御礼をした後でしか分からないなんて、とほほ。
- mashumaro2
- ベストアンサー率58% (99/170)
毎回ボウリング(bowling)の「ガーター」もどきの回答にもかかわらず、 敗者復活戦の呼びかけのようなあたたかなお礼を下さりまして、本当にありがとうございます。 でもこれ、怪しいカタカナ英語の格好の例ですよね。 正しくは「ガター」=gutterのはず。 ところが「ガーター」と、かの地で発音すると、 garter=「ガーター(ベルト)」を連想してしまうことなど無きにしもあらず? さて、ついにラストの投球となりました。 と申しましても、大したことは何もなくてですね(すみません)、 折口信夫の『言語情調論』(中公文庫)を読んでいて、何だかとても不思議な心地になったという雑感なのです。 エクリチュールと言うよりは、パロールといって差し支えないのでしょうか、 言葉の「音感」に着目していますよね。 音声学に近いのかもしれないとも思いながら読み進めつつ、 折口氏の大和言葉に対する熱い想いが伝わってくるように感じられました。 (と言っても、あまり良くわかりませんでしたが…) ちなみに、青空文庫で閲覧できる「さうや さかいに」「貴種誕生と産湯の信仰と」など、 大阪弁や敬語にまつわる話が、結構面白いなあと思いましたので、 すでにご承知のこととは存じますが、念のため。 それにしても、日本語の敬語は、奥が深くて良く解らないもののように思われます。 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person933.html >やや、パリの写真ですか、金魚鉢の整理をしなければ・・・ はい、このお言葉につられて、私の方でも即拝見しました^^ 脱帽です。 で、実は、この投稿は以下のお願いが主でして。 先のプロフィール欄に記されていた芸術論の題名をこちらのお礼欄にお願いできますでしょうか。 ご教示下さるまでの間、私も一時的に、bowlingではなくbowlの方を。 このたびの一連の質疑により、私自身の間違った敬語(日本語)の見直しと、 海外の友人へのより良い説明への可能性を模索することが出来ました。 本当にどうもありがとうございました^^
お礼
↑やっと、読み終わりました。 正直、ご紹介いたしましたが、私としては、とても難しい本でしたね。昔、ホイジンガの『中世の秋』を読んだとき、中世西欧の王権の歴史に詳しくないと、さっぱり分からないと感じましたが、この本も、西欧の文学史に精通していないと、よく理解することが出来ないようです。ご回答者様は如何だったでしょうか。最後のご回答でしたね、失言でした。 『発話がいかに言語と異なっているかは、言語が常に中性的であるのに対し、発話のほうは常にジェンダーを伴う、と言う事実によって明らかにされる。』 『だが、すべての議論に共通しているのは、一様に、記憶が、箱、蝋板、本などと同等と考えられていたことである。 記憶についてのこの考え方を、根底から覆したのは、ミルマン・バリーである。彼のなし遂げた業績は、アインシュタインのそれに匹敵するものである。』 こうした文章に勇気を与えられて、最後まで読み通したのですが、訳者後記に 『なお、イリイチ氏は、『ABC』の続編として、聖ヴィクトールのユーグが編み出した黙読術に関する研究をまとめつつある。文字の知識がもたらした弊害は、文字の知識によって除去する以外に方法がない。Schuleも『ABC』も、最終的にこのように述べていた。だが、どのようにしてそれが可能となるかについては、語られていなかった。氏が準備中の次作においても、答えは与えられないであろう。』 とあって、正直、この本をご紹介して、ご迷惑をお掛けしてしまったのではと危惧する次第です。それに対して、ご紹介頂いた「さうや さかいに」は勉強になりました。「さかいに」が元々敬語だったことや、方言にも敬語というものがあると聞いて、もやもやしていた点が、随分はっきりして来ました。 >脱帽です。 これ、誤解。現物は、まだまだ書き込み不足、小さくするとそれらしく見えるだけです。 本人が、驚いているぐらいですから。 重ね重ね、ストライクの連投、有難う御座いました。
補足
『ABC』 民衆の知性のアルファベット化 I.イリイチ,B.サンダース
- ENERGAIA
- ベストアンサー率9% (5/53)
『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず・・・』 そうですね、だからこそ、自分の心の中で「普通の人と同じ行為でも自分の意思のみによる行為だ」と考え、られる される と言うのであり、それが比喩というよりも虚構であるのかもしれない。 しかし人間の価値としては皆平等であるかもしれないが、対等ではないというのが今の私の考えです。 ニコラ・テスラなどは明らかに「偉人」であるとは思うのですが、それも人間の価値が高いというよりも、為したことが凄いと思います。 人は、自分の行為振る舞いによって自分の運命を変えていくことができるという意味においては平等ですが、それは「皆対等である」ということではないと思います。
お礼
平等と対等と言う、対比でお考えいただいたようですが、私はどちらかと言いますと、平等と公平と言う対比で、考えたいところですね。例えば、生まれながらに働くことができない人が、働かなくても生きていける、と言う社会は、確かに平等ではないのですが、公平な社会と言えるのかどうか、と言った辺りですね。人によって色々でしょうが、今私が申し上げたことは、決して福祉国家について述べたのではありません、福祉は、働けない人を生かすことはできますが、往々、乞食にしてしまいます。 もう一点、前回のお礼で、お伝えしたかったことは、人工知能の問題です。私も詳しくありませんが、人工知能がぶつかっている根本的壁は、三人寄れば文殊の知恵、と言った過程が、デジタルのアルゴリズムで、創る事が出来ない、出来ないと聞いています、の方がより正確でしょうか。要するに、私たちの脳は、矛盾を抱え込める、その理由が不思議なんですね。 お礼が遅れた上で、大脱線してしまいましたが、有難う御座いました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
【Q:ほにゃらか形而左右学 敬語(2)】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5771150.html の回答No.9に触れたところの ○ めし(召し・飯 ← 見し) の議論を補います。 大野晋によると 日本語の《かみ(神)》は文献〔あるいは民俗学等々〕で分かる限りでは 次のような意味を持ったと言います。 ○ かみの原義 ~~~~~~~ 1. カミは唯一の存在ではなく 多数存在している。 2. カミは何か具体的な姿・形を持っているものではない。 3. カミは漂動・彷徨し ときに来臨して カミガカリ(神憑り)する。 4. カミは それぞれの場所や物・事柄を領有し 支配する働きを持っていた。〔産土神・山つ霊・海つ霊〕 5. カミは――雷神・猛獣・妖怪・山などのように――超人的な威力を持つ恐ろしい存在である。 6. カミはいろいろと人格化して現われる。〔明つ神・現人神〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この(6)の《神の顕現 ないし 人格神》は (3)の《神憑り》――アニミズム=《ヨリ》なる原始心性の――を一段高いところから採り入れたものと考えます。ですから ほんとは《見えない》のだけれど 人を呼んで身の周りの仕事を頼むときには《その身を見せる》つまり《見(め)し⇒召し》をおこなった。これが いわゆる天皇制という社会形態(つまり 国家)のできるとともに 現われたであろうという結論です。 もっともカミがまったく姿を現わさないかと言えば 例外の事例があります。ヒトコトヌシ(一言主)のカミが 現実の姿になったところを 雄略ワカタケは葛城山で見たし 話もしたと言います。一言主の神は こう名乗ったそうです。 《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》 (古事記) ☆ でも雄略ワカタケは 日本書紀では 同族を暗殺するわ何やかやで《大悪天皇》と呼ばれている人物です。そのことを理解するために カミとヒトおよびモノとコトとの位置づけを見ておきます。 ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~ モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主) コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主) ↓ ↓ ↓ 自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ * この範式において 次の図式も得られます。 モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木 日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは 先の(6)のカミは 明(あき)つ神もしくは現人(あらひと)神として 《オホモノヌシ=ヒトコトヌシ》なるカミの座に 人間が就いたことを意味すると考えます。 その昔は――弥生時代から説き起こすのですが―― 秋には初穂をカミガミに《まつる(そなえる)》ことで 感謝祭のごとく《まつり(祭)》を催し ムラの共生を図りました。このときムラは 社会のかたちとして平屋建てだったでしょう。 そうしてそこへ どうしてもお山の大将にしてくれ そうでなきゃおれは生きて行けないという人間が現われました。人びとは 社会にも神棚をこしらえて ここへその人間をまつりあげたのではないかという推理を提出します。これが オホキミ(大君)であり のちのスメラミコト(天皇)であり 現人神であろうと。 社会が 二階建てに成りました。そういう国の家です。 そこで 《見し⇒召し》という言葉が現われたとともに たとえば一階の市民たちがお二階さんに従うことを 《まつらふ・まつろふ》と言うようにもなりました。つまり昔のムラのマツリが お二階さんの主導でおこなわれるようになったということです。むろん税をも納めます。(あぁ 一階の市民たちは 何とお人よしであったことか)。あるいは 国の家としての社会全体の共生のための共同自治は 《まつりごと》という言葉で統治や支配を意味することになったとさ。という話です。 この二階建て構造を維持するためには 上下関係の保守が大事だということになります。 どん底や社会の周縁に追いやられた者で優秀な人間がその不遇のうちに亡くなった場合には 《崇り》が起こると言われました。現人神のさらに背後の・目に見えない世界に存在するカミが タタル(立たる)わけです。波が立ツ・腹が立ツ・腹を立テのほかに 自然現象かつ社会現象として何ものかが自発的に立タルと言っています。当テ∽当タル。この立タル=崇りにも平気になりましたね。
お礼
お礼が遅くなりましたが、ひと言、言い訳させていただければ、私なりに理解しようと努力した結果、お礼が遅くなってしまった、と。 しかし、残念ながら、前半の部分はさっぱり理解できませんでした。 例えば、ご回答者様は、日本語をどのようにお考えなのか、例えば、古事記は日本語で書かれているのでしょうか。あるいは、ワカタケルと一言主は、日本語で話したのでしょうか、そもそもなぜ話が出来たのでしょう。つい、こうした意地の悪い反応をしたくなってしまいますね。敬語に即して言えば、ワカタケルと一言主では、どちらが敬語を使い、また、それを第三者が、例えば、稗田阿礼は敬語を使って、両者の会話を伝えたのか、太安万侶の文章には敬語があったんだろうか、等々。(モノとコト e = mc^2 )に半日近く悩まされましたから、これぐらいはお許し下さい。 >そうしてそこへ どうしてもお山の大将にしてくれ そうでなきゃおれは生きて行けないという人間が現われました。人びとは 社会にも神棚をこしらえて ここへその人間をまつりあげたのではないかという推理を提出します。これが オホキミ(大君)であり のちのスメラミコト(天皇)であり 現人神であろうと。 『ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会〔国家〕の真の創立者であった。』ルソー この両者を、二階建てのように二元的に解釈してしまうのは、個人的には少々問題も有るのかとも思います、支配・被支配の対立関係を冷静に見ているようで、実は、自分の周りにある、小さな支配・被支配を見逃してしまいやすいですし、例えば、ちょうど今頃、諏訪湖の周りで 、御柱祭という祭りの、町中の人々が、喜んで綱を引くのが、理解できないのでは、喜んで支配されている、おめでたい人、では、あの熱気は説明できないでしょう。 敬語に関して、面白い話がありましたら、又よろしくお願いします。 有難う御座いました。
- mashumaro2
- ベストアンサー率58% (99/170)
No.3&7です。 的外れの駄文にも心あたたまるお礼を下さり、本当に有難うございました。 厚かましいですが、再度補足させていただきますね。すみません。 文化人類学者の山口昌男氏が著書「天皇制の文化人類学」の「天皇制の深層構造(p51~)」で、なかなか面白いことを述べています。 天皇制はイデオロギーとしてばかりではなく、美学的、宗教的に日本人の精神構造を規定してきたもので、殊更美意識は言葉にならない全体感覚を仲介して表現するゆえ、教条的な章句で武装された宗教的イデオロギーよりも、精神の深層にまで感覚を織り成し、文化を促し絶えず再生産してきた、と。 そして、篠田浩一郎氏の「天皇制と日本語──能楽「蝉丸」をめぐって」を以下のように例示しています。 「天皇制の深層構造が、敬意を表現するのに卑下するという「転倒」の論理という形で日常的な社会生活の分野で生きている、この深層構造は、「内的天皇制があるから部落差別があり、部落差別があるからこの天皇制が保たれている」というきわめてアクチュアルな課題として表れている、とする。そして日本語の問題は天皇制の構造と切り離して論ずることができないと結ぶ。(p62)」 また、田代慶一郎氏の「皇子と皇女の社会的疎外から派生する価値転倒」説にも着目しています。 前者は神話論、演劇論的な記号学の観点からでしょうか、こちらは比較文学のようですね。 さらに山口氏は独自の視点から検証し、村落共同体の風景の中に定着的な農民集団と移動する漂泊の芸人集団と村落の境界と異郷という敵対的な空間意識が、都と東国といった国次元の観念と対応するとし、畏怖と蔑視、敬意と敵意、日常と非日常などについて触れてあります。 この「価値転倒」を孕む両義性という意味合いはとても興味深く、行き過ぎた敬語の慇懃無礼にも通じる気が致します。 また、たとえば狂言における典型的な「主客転倒」も、笑いの風刺というある種の「価値転倒」と言えるのではないでしょうか。 従者家来である太郎冠者/次郎冠者が尊大な主君を相手に小賢しく振舞い馬鹿にする。 あるいは、身の程知らずの田舎者を都人が皮肉を交えて茶化すという、何か曖昧さの残る笑いとは一体何なのだろうかなどと、色々思い浮かんでまいります。 そう言えば、数年前に友人のイギリス人から、イギリス英語に関する階層ごとの差異(言葉使い、アクセントや発音)につき、少し話をしたことがありました。 彼は仕事で訪れた日本が気に入り、新婚旅行も日本に来たという「変わり者」なのですけれども(笑)、 各々属する階級ごとにライフスタイルから人生のパートナー選びにまで自ずと異なるとのことでした。 まるで言葉が人を峻別しているようだなあと当時は感じたものですが…。 さて、日本の場合はどうなのでしょう。 山口氏の「村落共同体」の「ムラ意識」を借りて乱暴に言えば、 かつての方言にあったような「ウチ/ソト意識を区分けする排他性のモノサシ的な役目」を、現代の敬語が担っているということもあるのかもしれませんね。 以前紹介して下さったドイツの共同体と比較して浮かび上がる、日本のムラの他律性、受動性、衝突を避ける協調性や和の精神などの曖昧な一切が、私達の使う敬語に込められているように不思議と感じられるのです。 高3の半ばで帰国し大学受験で国語が酷く足手まといだったせいでしょうか、今なお劣等感が残ったままでして、シニフィアン・シニフィエの考察については、拙い内容共々ご容赦下さいますようお願い申し上げます^^すみません。
お礼
山口昌男・篠田浩一郎・田代慶一郎 初めて聞く人たちで、大変役に立っています。ただ、時間が無くて、図書館へ行けず、蔵書検索でも、ご紹介頂いた本そのものが、私のテリトリーの範囲内では見つからず、もやもやとご回答の理解に苦慮いたしておりました。 と申しますのも、天皇制に関しては、実の所、全く不案内で、天皇制と日本語と言う対比自体が驚きの原因でしょうか。どちらかと言うと、文化を経済的基礎から考えていく、私の癖がそれこそ深層心理を支配しているのかもしれません。ですから、天皇制は私の癖からすると、水稲栽培の集団作業や分業、出挙制度等の種籾管理や、暦の管理による田植えの時期、こうした生産の現場と口分田・公地公民・荘園制といった生産手段の所有関係・所有制度の総体として考えてしまうのですが、これだと、確かに文化の所在地がはっきりしませんね。 ただ、価値転倒と言うと、どうしても、ニーチェや葡萄とキツネの関係が連想されるのですが、敬語の謙譲語の関係とは、構造的に違いが有りますね、日本語は難しいですから、紹介頂いた本を再度広範囲に検索してみたら、見つかりました。天気の良い日に、散歩がてら、読みに行って見ます。 「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」蝉丸 琵琶湖の唐橋を渡って、五条大橋への最後の難関は、確か蝉丸の句碑等が並ぶ坂の向こうのトンネルですね、ライトどころか反射板も付いてない自転車では、行くも帰るも、地獄です。 あれ~帰国子女とか、ブランドじゃあないですか、劣等感だなんて、価値転倒の比喩でしょうか、難しい宿題を作っていただいたようで、感謝しております。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#6です。 >主観的・自主的な人間性の上下関係・優劣の表現として :一番最初の敬語は成立したのではないだろうか、と思ったわけです。 前回、グルーミングをする猿のことに触れましたが、昨日、ブリッジング(だったと思う)という行為をする猿(かオランウータンか、その類)の行為をテレビでやっていました。 群れで下位のオス猿が、そのへんにいる(無論、人間のではありませんが)赤ん坊をいきなり掴んで上位のオス猿の元へ運んで行きます。 上位のオス猿が受け入れて、一緒にあやすとその下位のオス猿は覚え目出度い存在に格上げされるわけです。 この発展形で、もしかすると、日本語ほど敬語が煩雑でない地域ではコミュニケーションに伴う動作が大げさだったりするのだろうか、とここでも敬語=怖れ説に思いをいたした次第です。 「5)敬語は第三者間の上下関係を表わす、言語記号である。」に関して、A(ヒラ)<B(課長)/C(部長)<D(社長)とすると、 ヒラ→課長「部長が社長からゴルフセットいただいたそうです」の場合、 部長→社長の関係は「いただいた」で表現でき、ヒラ→課長の関係は(「いただいたそうだ」ではなく)「いただいたそうです」とすることで表現できるように思います。 敬語の根本要件を怖れだとした場合、「ヒラ→課長」の会話において「部長→社長」の関係に敬語を使用する必要性はないようにも思われますが、これはヒエラルキーを尊重していることを課長に暗示する意義が含まれていると思われます。 つまり、「ヒラ<課長」というヒエラルキーの構図も結果として(ヒラである私は)尊重しています、という(課長に対する)敬意表明の一形式と言えるのではないでしょうか。 「課長→ヒラ」の場合は、ヒエラルキーを尊重することをヒラに暗黙的に強制する意義が含まれているでしょう。 そのことによって、「ヒラ<課長」の構図を(課長は間接的に)守ろうとするわけです。 社会的必要性から敬語が用いられているとも言えますが、ヒエラルキーの尊重は、社会帰属不安解消の一手段とも言えますから、これもその根元には怖れがあるはずです。 この意味で、根本はやはり個人的必要性から発していると考えます。 自らの内なる怖れを独自に制御可能な(制御すべき)ものと認識すれば「使っている」、そうでなければ「使わされている」ということになるのでしょう。 ただ、この個人的必要性を「常に意識して使っている」とは思っていませんし、むしろ逆(無意識的)だろうとは思います。 個人的な怖れというものが(あまりにも当然であるために)社会的一般性を付与されて、その意味で社会的である、と捉えることもできるでしょう。 しかし、無意識的であるとしても、社会的要件によって「言わされている」のではなく、あくまで「(生存に対する)内的な個人的怖れ」に言わされている、という見方です。
お礼
判り易いご回答を頂きました。 前回のお礼が、不十分で問題点を正確にお伝えすることが出来なかったのかもしれません。考え方には色々有るかもしれませんが、敬語の社会性と個人性の問題が、まず一つありますね。 確かに、言語は社会的な概念で、母国語自体が言語を共有する共同体の存在が不可欠だと思うわけです。ただ、ご指摘のように、敬語に関しては個人的な人間関係から、個人的な意味合いが含まれるのも確かなようですね。しかし、それをストレートに恐れと言う感覚的な次元まで直接接続できるかどうか、その辺りに問題があるのかもしれません。恐れと敬語が繋がっているとしても、何某かの媒体を通して、材料の一つとして、繋がっている、と考えたいところです。そうした条件をつけることで、恐れと言う人間共通の感覚と、敬語と言う、日本や韓国といった一部の地域での現象との繋がりの相違点を考察できると考えるのですが。しかし、諸外国語に敬語が全く無い、と言い切れるわけでも有りませんし、そもそも、英語を初めとする、個々の外国語の慣用表現にも詳しくないため、私には大変な難題に成ってしまいそうです。 もう一点は、5)の問題点です。 これも、もっと具体的に書けばよかったのですが、要するに、四次関数の数学的解が有るかどうか、と言う問題です。私の喩えが、単純な順方向の<の記号ばかり使ったせいで、「<」が「>」「=」等の変数Xとして、 AXB、AXC、AXD 、 BXA、BXC、BXD、 CXA、CXB、CXD、 DXA、DXB、DXC、等の複雑な人間関係を敬語が正確に表現できるのか、と言うような問題意識を正確に伝えられなかったようです。例えば、A<B・B<Cだとしても、必ずA<Cになるとは限らない、この場合の敬語表現はどのようなものになるのか。つまり、敬語は語義的に精密に考えると、人間の上下関係を意味すると言う定義すら厳密には否定されることになるのかもしれない、とも考えられるわけです。 この辺り、数学脳の優秀な方なら、ひょっとして、あっさり解決して、結論を出してくれるかな、等と少し期待して、書き込んだのですが、ご回答者様には、本当にご迷惑をかけてしまい、申し訳なく思います。 本来なら、四つ目の最後の質問を締め切っている頃合いですが、敬語を甘く見た、不覚の質問でした。こんな質問にお付き合い頂き、真に有難う御座いました。
- VenusAurea
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先の投稿No.5は、個人的蛇足が多過ぎですね、もちっとマジメに考えてみたつもりで。。 私は英語のことも殆ど知りませんが、英語での表現(特にイギリス式?)は、手抜きせず最後までキチンと省かないで、丁寧に述べるのが、すなわち敬意の表現になるんでしょうかね? 日本人は、いろんな意味で、「省く」言い方を好む傾向が強いようなのに、敬語表現の「付け足し」を省かないとしたら何故なのか? 「れる」「られる」 「見られる」という言い方には二通りの意味があり、受け身の立場としての意味と、相手側が見ることを指して言うときには、敬意を込めている。 前々回ご質問でも申し上げた「姿勢」「距離感」について考えるとき、 大阪の、特に河内地方あたりで顕著な表現なのだそうですが、 自分自身へ、おこなってもらいたいという要望を、依頼する対象相手に対して伝える場合に、 本来は頼む側が、頼まれる側になりかわったかのように、あるいは、両者に跨ったかのように、 「(自分に)~してやってくれるか」「(私に)~してあげて」などと独特な言い方をすることをも思い起こします。 ある種、温もりを感じさせる言い方でもあり、当然、いかにも馴れ馴れしい言い方にもなり得ます。 だいたい、大阪では、敬語(とくには標準語的敬語)を使って話しかけただけで、機嫌が悪くなる人を、けっこう見かけるくらいです。気取って冷たく「突き放された」感じがするという人もいるようです。 やはり、敬語を発する側の立場としては「受け身」、すなわち上下にかかわる姿勢が基本でありつつ、位置関係としての距離感も関係してるのかな。 これが極端にまでなってくると、やっぱり「青島」化?(笑) むしろ、こういう意味での「敬語」表現だけホソボソと残り続けたりして? 私個人は、とくに抵抗感とかはないのですが、近頃では、動物に対しても「~してあげる」などの言い方をすることが増えてきたそうで、一部に問題視する向きもあるようですね。 ところで、いわゆる「へりくだり」表現の極端さは、私にとっては、単純な失笑の対象になりかねないのですが、実際、学生時代に、自分の子のこと?を指して「豚児」と記す例もあることを知ったとき、思わず大笑いしながら、友人らに知らせたことがありました。友人らも爆笑の渦でした。 『三国志』とかに、よりによって、自分の奥さんを料理して、客に御馳走した話があるそうな。 まあ、ヒトだって動物のうちに違いないんですが、 「尊重」することができるとは、どういうことなのか。 自らを、「動物扱い」するという、そのことは、はたして、どういうことなんでしょうね。 自分自身を殊更に動物扱いにまで下げてみせるとしたら、他人についても、それを決して表には出さなくても、心の底では、そんなふうに思いかねないかもしれない。 このへん、青島幸男氏の皮肉な敬語の用い方とも通ずる、実は相反的思いが潜んでいるかも。 私は、特に自分を動物扱いしてみせたり、さすがに、自分自身の行為に対してまで敬語をつけるといったことはしませんし、その必要も感じませんが、 たとえば、このサイトのような場においては特にそうなりますが、基本的には相手に敬語を用いるというのは、むろん、全く顔さえ知らない相手の年齢や地位などなど知りようもないので、一切関係なく、ただ、相手が、同じく「人」だと思うからです。私は、ですが。 (そういえば、相手が自分自身のことを「朕」と言い、こちらを指して「そち」と呼ぶ人がいて、 「なんで、あーたが朕で、私が、そちなのよ?」と思ったこともあったっけ。笑) >敬語が無くなる状態は、どういうことか、ということでしょうね。 まず一般的には、敬語を用いなくても、様々な立場の相違や距離感を明らかにする必要や、心境を損ねるなどのことに関して、些かも不つごうが起こる気遣いはないということが大前提になるでしょうか。 たしかに、何らかの行為について、敬意的表現を「付け足す」形になるのを省いて、いついかなるときも行為は行為そのものとしてのみ言うのは、伝達として内外共に最もシンプルな形になるには違いないですし、その分、省力化、効率的にもなるのでしょう。 しかし、そのとき、何が捨て去られているのでしょうか。 そして、究極のシンプルさは、取りつく島もないほどの不分明さを示すことさえあり得る。 ネット世界では「タメ口」がルール…。 このことと考え合わせると、これからの何かしら見えてきそうではありますけれどね。。
お礼
今日は、真面目に一晩、寝ながら考えましたが、お礼の書き出しが、慣性の法則か、なかなか動き出さず、難儀しております。 「姿勢」「距離感」と「上下関係」「内外」が同じかどうか、つまり、言葉を置き換えただけなのか、判断が難しいところです。ただ、河内地方の話からすると、内外の表現形式は、敬語とは言えないかも知れませんね。言語の作法や敬語が、意味以上に作用しているのか、あるいは、意味と無関係に、内外を表現しているのか、いずれにしても、記号という単純な形式では理解できないようですね。 敬語には意味が無い、と書いてみたとして、それは一体どんな意味を持つのでしょう。 青島化はどうでしょうか、青島氏もテレビカメラの前で青島化するだけで、相対で話す時には青島化はやはり危険でしょうね。案外、テレビカメラに向って話すことは、私達と同様、書く事なのかも知れませんね。 エノスサイエンスでしたか、未開と言う用語が好ましくないとかで、人類学の一部で古代社会の研究をこのように名付けていますが、そこでの研究では、やはり、客人には、奥さんを布団代わりに提供したとか、しなかったとか。まぁ、当時のことですから、奥さんといっても、掛け布団から冬用のあったかな布団まで、多種多様に所有していたころの話なのでしょうね。それこそ、朕の布団をお試しなさい、とか。あっ、ちょっと失礼な表現になってしまったが、慣性の法則に免じて・・・ ・・・蔑称じゃなくて、そう、差別用語、これを敬語と対にして考えてみる必要が有りましたね。ただ、敬語と差別用語は、全くの正反対ではなく、微妙に、上下内外が交錯していますね。敬語の正反対は、タメ口、でも、河内弁と河内弁はタメ口になるし、青島化と青島化の聞き苦しい会話も、当事者間ではタメ口なのかも、タメ口を使いこなすのも、難儀のようですね。 敬語もそうですが、日本語の将来はどうなんでしょうね。世界の共通語はなかなか出来そうもないですが、中国人とブラジル人が、日本で英語で会話するような時代が来るのでしょうかね、その時、敬語はどうなっているのやら。 長々、思ったままを書いてみましたが、お礼になるのか心配ですが、この辺りで失礼します。 有難う御座いました。
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お礼
桜が散り急ぐのは、 世界中を水玉模様に、 素早く変えるためでしょうか、 何処から始めると、争いの種になると、知っているのでしょう。 では、お言葉に甘えて、また後ほど。 春の京都に、難しい顔は似合いませんから。