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ほにゃらか形而左右学 数学
1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」と。(ガリレオ) 2)「自然は数学で出来ている」がや。(何処かで聞いたような) 1)から2)の帰結が肯定されそうですが、 1)では、自然に対する敬意と謙虚さを保持して、 その上で、自然を体系的に観察するには数学が有効である、 と、述べるに留まって、否定の必要はあまりなさそうですが、 2)では、自然を単なる対象として、数学で理解できる、といった 断定的な意図が見受けられます、つい、否定したい誘惑に駆られます。 1)から2)への論理的誤謬について、ご指摘下さい。(誤謬の有無を含む) さらに、 1)ついて、ではそれ(数学で理解するのが容易)は、なぜか? このことを問題にした哲学者や資料があれば教えてください。 結局、2)だから、1)だという事になりそうで、混乱しています。 テストもレポートの予定もありませんし、私見も混入していますが、 宜しくお願いします。
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そうでしょうかっ!? 失礼しました。 回答ではないですが、 自然は数学(数式)ではないと思います! アインシュタインも確立肯定派だったのかな? 生物学的には1+1=3以上で、2だったら子孫繁栄しません。 1+1=1+1 答え『2』という取り決めはは人間が作った数学概念(?)。 数学は嫌いというより全然(滝汗)。
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立て続けで恐縮ですが、下記のスレッド、御参考の一端としてオモシロいかもと思いまして。良い御回答者と思います。 文学カテゴリですが 『芥川龍之介の『MENSURA ZOILI』について』 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3035573.html
お礼
気合を入れて、青空文庫を訪問したのですが、拍子抜けするほどの短編。 まぁ、作家の批評家に対する、ユーモアをこめた揶揄でしょうか。 興味を引くのは「価値測定器」と「民の声は神の声」 後者は割愛して、「価値測定器」に関する感想を、お礼代りに。 本文によると、この「価値測定器」は昔の学校や銭湯で見かけた、どっしりとした体重計ですね。 台の上に飛び乗り、針がぐるぐる回って、先生に叱られる、あれです。 この短編は「価値測定器」が、この形状だから成立するのでしょうか、ユスティティア(Justitia)が持っている様な、天秤形式の「価値測定器」ですと、相対的価値しか測れませんね(て、本当か)。 この「価値測定器」の仕組みは解りませんが、「民の声は神の声」を関係させるのは行き過ぎでしょうか、この短編だけでは、解釈の枠を越えて推測・憶測・妄想の部類に接近しそうです。 文学は解らないので、この辺にしておきましょう。 何処のどなたか存じませんが、面白い物を頂戴いたしました。 有難うございます。 あれ、ご紹介頂いたのは、Q&Aだったか。
御設問からは外れてしまうかもしれませんが、飽くまで御考察の一端として。宜しければ御覧くださいませ。 http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/50937741.html http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/50940024.html http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/50998127.html http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51008675.html
お礼
う~ん、最後の方で息切れしましたが、 なんとか、眺めてきました。 三段階・言語ゲーム・いじめ、内容はともかく 面白いですね、それにしても、膨大な書き込みで、 時々、覗くと面白いかもしれません。 最後に出てきた「価値判断と認識」 流石に疲れてしまって、少し理解できずに、 価値判断と認識を区別すると読んで、とりあえず切り上げました。 それにしても、プログは多すぎて、お客の需要が増えるかも。 参考になりました。
不審不可解な暗喩(暗号と言うほうが正確かも)を紐解くには、その対象ごとにコツが必要になります。そのコツが分かれば、あとは呆気ないほどカンタンになります。たとえば一つの参考として 「仕事」「株券」や「リスク管理」また「月」や「雲」が何者を指して喩えた表現なのか。「物語」というものの性質とはどんなものか。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3000854.html 投稿者の発言が腑に落ちない場合は履歴なり投稿なりの内容を、通しで閲覧し分析をかけてみれば、自ずと浮かび上がってくるものがあります。その人物の思索能力レベルや思考の癖等、思いの他に、いろんなことが見えてくるものです。人間ウォッチングをする場合なまじ数式なんぞに頼るより、よっぽど確実です。但し先に申し上げたとおりコツが必要です。そしてそのコツは一度手に入れれば呆気ないほどカンタンだったりするものです。とくに対象が低次元であるほど。 ――ここまでは御質問者様が或る程度「御察しでいらっしゃるのであれば」御理解可能なこと、もしも、そうでないなら、どうか無理に御思案巡らさないでくださいネ。クダラナイと言えば実にクダラナイことですので(笑) ところで一連の遣り取りを拝見し改めて思いましたが、やはりここでは比喩或いは暗喩ということが抜き難く絡んでいるように見えます。それは 1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」 2)「自然は数学で出来ている」 これら自体が比喩としての表現でもあるわけですね。 以前私は「哲学における比喩というものはズレていては始末が悪い」と述べたことがあります。そもそも的確な比喩を用いることができるのであれば、それ自体が問題の本質を掴めているからに他ならない。ところが世のなかには、わざと本質からズラした比喩を用いて何らかの意図を達しようと図る人もおりますし、もっと情けないのになりますと本質を掴む能がないことを逆手にとってか開き直ってなのかドンドンとズラシていくことを何か「高度なゲーム」であるかのごとく思い込んでいる人もいます。 こういった種類の人は、もちろん、およそ「哲学の徒」足りえませんし人間の精神文化の要たるコトバを愚弄しているに他なりません。ですから彼らの発するコトバなどは「ひと山いくらの大安売り」ゆえ豪も人の心を打たない、それどころか物事を不必要に煩雑にしてしまいます。煩雑にする――物事を入り組ませて本質を掴ませないことが目的であることもありますし、その比喩なり暗喩が的確でないことが自分で分からなかったりする場合もあるわけです。 No.2の御回答者のたとえ話は、その点からもオモシロいですね。実際こうした思考形態の人もおられます。 こういう人が或る人から「違うものを一緒くたにしてはいけない」と注意されているのを見たことがあります。ところが、そう注意している人自身が「違うものを一緒くたに」してしまっているところがあるのが何とも言えない気分を催させたものでしたが、注意された当人に言わせれば「音痴なのだ」そうで(笑)それ以外では何かの目的があると解するべきでしょう。そしてそれは当人にとって「見抜かれると辛い」ものなのです。ですからコンピュータウイルスのごとく、定義から逃れるために、いろいろと「隠れ蓑」を使うわけなのです。 こうした人の場合、自分一人でつぶやいているだけではツマラナイ、やはり他人に自分の「声」を聞かせたいのだが、しかし呼びかけの「声の内容」は知られたくない、という相反する心理が働いています。大概は自分一人の「物語世界」に立てこもり満足しているだけなのですが、無理やり「声」を聞かされるほうはワケが分かりませんから本当のコミュニケーションをとる気も感じられず無礼な感じもするしで苦痛でしかない。 実は「声」を聞かせる当人自身は「分かってもらいたい相手にだけ」他の人に分からないように発しているつもりなので、それが目当ての相手に理解してもらえたと「感じられたら」あからさまなまでに喜びます。 逆に普通は、どうせ分かってもらえないだろうと最初から投げている面もあり、それは或る種の屈折したナルシシズムと共に「目当ての相手以外の人」へは「軽侮」を伴っているものです。ですから、その「軽侮している相手」が「軽侮されている」ことに感づいて怒りだせば、むしろ大そう面白がるのですけれど意に反して「分かって」しまわれたら大慌てですし、肝心の「分かってもらいたいお目当ての相手」に理解されなかったら切なく悲しむわけです。 「目当て」でないと見做された人にとっては、一方的に雑音を聞かされて、まことに無礼千万なことですが(笑) しかし皮肉なことに、他人も同じようなのではないかと疑心暗鬼になって自分から墓穴を掘ってしまうところが、哀れを誘うところです。要するに「投影」という素朴な心理作用なわけですが「投影」されたほうは気持ち悪くてたまらんでしょうね。(笑) さて、ずいぶん面妖なことを長々申し上げたかもしれませんが、御設問に挙げられた文の「比喩的表現」はさて置いて、果たして数学で観察、理解できるかということ、もうすでに幾人かのかたから御指摘があるようですが少なくとも現時点において限界はある、そもそも観察、理解できるという以上に、数学をもってするくらいしか観察、理解の糸口がないではないかというのが精々のところなのでしょうか。しかも、それによっても万全なものではない、漏れ出るおそれが常についてまわる。これは「ヒトという自然」を対象にした場合、ことにそうではないかと思いますし尚更、主観客観というものが及ぼす影響を看過できない。 論理というものにおいても主観の影響を受けて前提の正しさを置き去りにして進めることができるのであれば、それは全き信用には価しないでしょう。当然のことですが、まず論理の前提が正確でなければ何ともならない。ところが、この前提が誤っていることに気づかず長たらしい数式を打ち立て、それらしい答えが出せないと言って呻吟している人を見たことがあります。こちらが哀しくなったものでした(笑)或いは循環論法というやつもありますね。上記の人は、せめても、これに陥ってはならないと苦しんだようなのですが(笑) No.5様の御意見も興味深いですね。 >それ(数学で理解するのが容易)は、なぜか? もちろん「ヒトが編み出したもの」だからでしょう。秩序法則というものを数学的方法によって発見し数学的方法によってしか記述できない。しかし「全てが」発見できたわけでないし捨象抽象化が避けられない以上、数学的方法をとることによって、むしろ「取りこぼす」ものが出るおそれがある。しかも論理というもの前提が正しいという保証などない。このあたり、すでに御質問者御自身、指摘なさっておられますがコトバの問題と重なってくるところです。 コトバというものも始末が悪いもので、我々現代人の直感また直観能力が衰えているとしたら、コトバに頼り過ぎているせいなのかもしれません。だからと言ってデタラメなコトバを吐き散らしていいとは断じて思いませんが(笑) 論理を有効な手段とするには前提を確実にすることから始めなければなりませんでしょうが、切り口を、どうとるかによって左右されてくることなど、いくらもありますし、そこがそれ、慌てて切り取ろうとすると前提段階で大失敗しかねない。しかし、その「慌てて」というところに、またニンゲン臭さを感じます。こうした面を見受けますと理数の専門家と言えどニンゲンに変わりないのだなあ…という感慨を持つものです。まして望ましい結果が出せないと悩むに至っては。 「真理とは結局最もよく機能することのわかった仮説に過ぎない」 ――フレイザー 金枝篇―― その人は、第三者情報によれば、記号論理学の亜流(良くないほうの意味ですよ笑)に凝っていたそうでして、whyを軽んじ(と言うか、そんなこと問うてどうする、と言いたいようでした)how to を求めてやまない感じでしたが、詰まりは哲学向きじゃないということになりますかね。 >質を量に還元出来てしまうのか 或いは量を質に還元できてしまうのか 「単に検出器のノイズを下げ単に検出器の数を増やし単に長期間、観測を続けた成果である。単に量を変えたに過ぎないのだが、これによって新しい世界が開けた。量から質への転換と言えるだろう」 このように仰っていました。悩ましいですね。(笑) 別の或る専門家のかたから伺ったことですが 「ポパーは反証可能性を増大させないような理論の修正を禁止している、しかし現実の科学において反証可能性を増大させないような理論の修正がよく見られる」そうです。やはりニンゲン臭さを感じます(笑) 「数学は芸術です」 数学者 広中平祐先生の御ことばですが、意味深ですね。 ヒトが産み出したもの。しかし天然自然の摂理に裏打ちされているもの。音楽などは特にそうですね。リクツではない。 本当は、数学で観察、理解可能なのか否かというよりもヒトの主観性を、どのように克服できるかということのほうが、より重大な問題なのかもですね。それは結局、科学分野や論理、コトバの問題にも繋がってくるもののようです。 この投稿、恐らくは、かえって御回答者様を混乱させてしまったかもしれませんので、ここにお詫び申し上げておきます。どうぞ御容赦くださいませ。
お礼
ご回答有難う御座います。 昨夜、そろそろ、お礼をとここへ来たのですが、 たまたま、テレビが「エピソード記憶」などと言う 「言語記号」を私の包囲環境の空気を振動させ、 つい、途中からですが、珍しくテレビ番組を見ていました。 脳に損傷があり、一部の記憶が出来ない人の話題です。 おそらく名古屋放送局ローカル番組で、全国ではないと思います。 要するに、昨日の出来事の記憶が上手く出来ない、 それでも、言葉は話せるようで、会話もできる。 身近に、不健康な人はよく見ますが、この方も大変なようです。 色々と考えさせられますが、 記憶の何たるかがテーマという訳ではありませんから、 私の関心からいえば、「洩れた」ものがあって、 その後、言葉が話せて、記憶に障害がある。 こう様な事実から、どのような推理が可能か、 お礼は飛んでしまいました。 主観と客観の問題は重要ですし、 回答の理解の為にも背景の共通意識が不可欠ですが、 基本的には、客観世界に関心をもっていると思っています。 断定を避けていますが、外を理解するのは難しいですが、 同時に内を理解するのも難しく、 愛用の自転車を汚れた布で掃除しているような、 拭いても拭いても、汚れが取れずに、不思議に思っている。 さて、このお礼は、誰の為に書いたのやら。 PSこの手の名前は、嫌いだ。断定(笑。つづく
- littlekiss
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ANo.18記載参考URL及びタイトルに誤りがありました。 誤)『あなはほるものおっこちるーちぃちゃいこどもたちのせつめい』 ↓ 正)『あなはほるもの おっこちるとこ』 (ちぃちゃい こどもたちの せつめい) 【訂正】 nee→net http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=2907
お礼
という訳で、 今回は、実に不思議な質問でした。 数学はどうしてしまったのか、 ウエブレンの「有産階級の理論」 古風な背景が印象的ですが、 100年ほど前ですから、少し大げさな、 「背景」の記号が意味するシニフィエにまた謎。 文体ではなく、HPの「背景」にエクリチュールを発見。 最近のプログの形式がワンパターン、 「零度のエクリチュール」はなかなか読めませんが、 なんとなく、判りそうな気もする。 そんな訳で、どんな訳だか、 謎が沈殿して、上澄みがクリアになるまで安静。 有難う御座いました。
- littlekiss
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こんばんは、fishbowl66さん。 お礼文を拝見いたしました。 こらまた どうしたことでしょうか?「…あまり関心がない」と?こりゃどうも失礼いたしました。 『あなはほるものおっこちるーちっちゃいこどもたちのせつめい』 http://www.ehonnavi.nee/ehon00.asp?no=2907 ↓↑ 「せんせーぃ!もういいですか?教室へ入っても」(教室の外でバケツ持って立たされてる気分) ↓↑ ぼけつが転じて… ↓↑ バケツ ↓↑ 場欠 ↓↑ 場(空間)が無い ↓↑ 関心がない? ●仕事と関わりがおありかと そそ、そうなんですよね。当たらずしも遠からじといったところです。ええ、運転資金をもとに原価計算 http://www.dab.hi-ho.ne.jp/s-ueno/Prof_Ueno/genka_kiso_2.htm パチパチパチとそろばんをはじきつつ、息ぬきにココを眺めていたからかも?で、例のページは検算ということにして、この場はひとまずサラッと流してくだしゃんせ。 しかし、うまいなぁ~♪頂いたお礼の数々。おなかいっぱい。プレゼントの山、どうしたものでしょうか?コレ全部たべると体重オーバーしちゃいそう。くぅ、、、ぅ…苦しい。うっぷっ。ダイエットせねば…。 アミノ酸てんこ盛り。 http://www.vaam.jp/sports/knowledge/study/amino.jsp ー資料3点ー 【光と色の不思議】 http://www.laser.phys.tohoku.ac.jp/~yoshi/hikari22.html http://www.brs.kyushu-u.ac.jp/~biopro/researchpage1.htm#system http://www.u-air.net/workshop/board/kishi200104.htm 佐渡狐
お礼
littlekissさん、お早う御座います。 相変わらず、謎ですね。佐渡狐の「落とし穴」の配置が上手い。 謎といえば、 今週の鉛筆画は、多宝塔に挑戦、 多宝塔は多治見や岡崎の物を、昔、描きましたが、 絵の具の場合は、結構ごまかしが効いて、 今回の多宝塔は、過日の散歩で採取してきた、知立神社。 からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ 在原業平の歌で有名な無量寿寺は、すぐ近く。 「かきつばた」の謎では有りません。 多宝塔、日本の古い建築です、 西洋風の建物を描くのも難しいですが、 主として細かい装飾の再現に苦労しますが、 建物自体は、ガウディのように複雑な物はあまりない。 ところが、多宝塔は塔と比較して、大きな屋根を支えている。 その構造が複雑で、一定のパターンはあるのですが、 そこからずれる部分が謎で御座います。 絵を描いても謎、本を読んでも謎、質問しても謎。 そして、お礼も謎。
- catmeow
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fishbowl66さん コメントありがとうございます。 そうですね。私としては、議論する上で共通の言葉の解釈を作った上で 話した方がお互いの誤解が少ないと思ったので書かせて頂きました。 何故なら、1)も2)も曖昧な言葉で書かれていて、人によって様々な解釈 が出きる為です。 1)に関しても、すべての自然現象は、数学に置き換える事が出来ると 言ったのか、一部の自然現象は、数学に置き換える事が出きると言って いるのかも人によって解釈が違うと思います。 fishbowl66さんがイマイチ違和感を感じるのも、1)の場合は人が自然 現象を読み解く上で、数学を使う事でその一部を理解する事が出来ると 言うニュアンスであるのに対して、2)の場合はすべての自然現象は、 数学で理解出来ると言う断定的な部分が引っかかっているのでは 無いでしょうか? 人が考えて、現在まで作り上げた数学と言う物があろうがなかろうが、 自然には法則と言う物があります。現時点で分かっている範囲の数学で、 すべての自然現象が説明出来るかと言うと出来ないと思いますし、 完成された数学があったとして、それですべての自然現象が説明 出来るのかどうかも不明です。 いずれにしても不明ですが、2)に関しても、仮に『すべての自然現象は 数学で理解出来る』と定義した場合、上記のどちらの数学の事を言って いるのかでも、答えが分かれる所ではないでしょうか。 私個人としては数学ですべての自然現象を説明したり、置き換えたり 出来るのかは分かりませんし、無理に答えを出そうとすると、どうしても 安易な結論に陥ってしまうような気がします。 ただ、言葉を定義して議論を整理するとお互いに誤解が少ないのではと 思い書かせて頂きました。
お礼
わざわざ、ご丁寧に、感謝いたします。 我ながら、いつも変な質問で。 要するに「説明できる」と言う表現が 「存在」と「認識」の関係で、ある意味等価なのか、 この辺りの、漠然とした疑問で、整理の必要がありますね。 おそらく、漠然とした部分が、整理できれば、答えも見付かるかも。 お礼で、余計な引用を持ち出し、大変失礼しました。
>これは何処かで読みましたね、何処だったか。 A:哲学入門です。 >ベルクソンの場合、言葉を運動の空間化・軌跡の分割として否定的ですが 言葉・数と言ったものの「記号」が思考の種ですから、やはり難しいですね。 ラッセルのようなことを仰いますね。 ところで西田幾多郎はベルクソンを20世紀前半を代表する哲学者であると誉めていますがラッセルにはケチをつけています。 池田大作はベルクソンの信奉者です。 それではまた、 お会いする日まで。
お礼
>池田大作はベルクソンの信奉者です。 へー、知りませんでした、 ベルクソン派の「神秘主義」の影響でしょうか、 科学的哲学と神秘主義、この反対物のようなものの同居 この辺も、ベルクソンの難しいところですね。 おっ、数学はどうした(笑。
お礼文ありがとうございます。 他の回答者でカン違いされている方がいらっしゃるようなので念のため補足させていただきます(笑。 私が、 >解決済みとはまったく思ってませんが、何故人間は言葉でものを定義しなければならないのでしょう。 >禅の坊さんでさえものを言葉によって定義するではありませんか。 と申しましたのは、ベルクソンの言葉「対象を認識するうえに根本から異なった二つの方法・・・・すなわちその方法の一つは、対象の周囲を回るという意味を含んであり、他は対象の内部へ入り込むということを意味している」 にある前者の方法、つまり分析と直観の分析の方を説明したまでことです。 人間の認識には分析と直観という二通りの方法があります、といいたかったのですが。
お礼
わざわざ、補足頂き有難うございます。 私の質問も、勘違いが多いです、「類は友を呼ぶ」だったかな(笑。 >対象の周囲 これは何処かで読みましたね、何処だったか。 ベルクソンの直観は難しい、別の所で、「持続の相において見る」 と言ったことが書かれていた様な、今、探しましたが見付からない。 ベルクソンの場合、言葉を運動の空間化・軌跡の分割として否定的ですが、 言葉・数と言ったものの「記号」が思考の種ですから、やはり難しいですね。 数学苦手の私は、直観を磨きますか、また宜しくお願いします。
- catmeow
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日本語とは曖昧な言語で、議論の行き違いは多くの場合、言葉の解釈 から始まっているように思います。例えば、『出来ている』 とはどのような状態を表すのか?『数学』の概念とはどのような 物なのか?これらの言葉の解釈や受け止め方は、人によって異なる からです。 これらの言葉の定義が適切なのかどうなのかは別としても、まず、 この言葉はこのような意味を表していますと言う前提を作ってから、 議論をしなければ、話がかみ合いません。 言葉の定義に異論がある人は、その定義について議論すれば良い訳です。 ------------------------------------------------------------ 1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」と。(ガリレオ) 2)「自然は数学で出来ている」がや。(何処かで聞いたような) ------------------------------------------------------------ 曖昧な表現を無くして、例えば下記のように文章の意味を明確にすれば 議論はもっと分り易くなると思います。 まず、『数学』の定義ですが、仮に、、、 数学は人間が自然現象を説明する為に考え出した学問。 自然現象の一部に関しては、あまりにも計算が複雑な為に、まだ すべてを数学で説明出きる訳ではないが、今後はそれらの計算式や 法則を発見する可能性もある、とします。 1)に関して、例えば『すべての自然現象は、観察する事でその法則を 見つけ出して、数式に置き換える事が出来る』または、『すべての自然現 象は数学によって説明出来る』と言う意味に解釈出来たりすると思います。 2)に関しては、日本語特有の曖昧な言葉『出来ている』がどうとでも 解釈出来る事から、誤解を生みやすいと思います。仮に、『作られている』 とか『原材料が』と解釈した場合、明らかに2)は間違いですが、『数学 の法則によって成り立っている』とか、『数学によって説明出来る』に なると事情は変わってきます。 特に後者の場合は、1)と2)は同じ意味にもなります。 これらは日本語のニュアンスの問題で、受け取り方の解釈を明確にし、 統一した上で話し合わなければならないと思います。 例えば、 1)『すべての自然現象は、観察する事でその法則を見つけ出して、 数式に置き換える事が出来る』 2)『すべての自然現象は数学の法則によって成り立っている』 が正しい解釈だとすれば、 上記の『数学』の定義に基けば、数学自体がまだ完成した理論ではない為、 1)は、まだ数学では解ききれない自然現象もあるが、将来的には解明さ れる可能性もあるで、 2)は、数学は人間が自然を観察する事で、その法則を探し出すと言う 学問なので、すべての自然現象が現時点で人間が考える『数学』の理屈 に当てはまるとは限らないが、将来的にはもっと自然現象は数学の法則 によって成り立っていると説明出来るようになる可能性がある。 と言う感じではないでしょうか。
お礼
御礼か遅くなりました。 大変面白い回答で、説明も解り易いですね。 「置き換え」と「未完成」がポイントですね。 数学は未完成とした場合、完成された「数学」という目的でしょうか、 プラトンのイデア論的な印象を持ってしまうのですが、 こうした、在るべき姿とか真の目的、こうしたものの不在が、現在の混迷の一因かと。 「置き換え」という言葉のニュアンスは、抽象とか象徴と比較すると、 私としては、判り易く、そう言う事なのか、と、納得ですね。 今は、中途半端で、いつか数学で全てが理解できる可能性はあるのか? 「確かに、ほとんどの数学者は、ゲーデルが証明したことは「いまは」証明できない定理が存在するが、十分な時間と努力があれば、それは自分たちの攻撃で陥落するだろうと考えていた。しかし、ノーであり、ゲーデルがしたことはこのことではなかったのだ。彼が実際に証明したのは、形式的集合論内で問題の定理が「いつか証明されることは論理的に不可能である」ことであった。すなわち、もし集合論の公理に限るなら、それは理論的に証明できないということである。」(『数学の不思議』クロースン) 自分で引用した文章ですが、後半、難解、「形式的集合論内で問題」こういう限定が何を意味するのか、解らないまま納得するべきなのか、この辺が悩みの種でございます。 ご回答有難うございました。
- littlekiss
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こんばんは、fishbowl66さん。 ●三角形をひっくり返す ↑ って、あーた、そりゃぁ ヨダレかけでしょ? ●…悩んでます ↑ って、口あいてます。ヨダレ垂れてます。拭いて、拭いて →※注意喚起 惚けてどうする!!! 状況設定:場所は国会議事堂前あたり、 時は早朝、警備待機の警察官一人、巡回の警察官一人、 通行人の手にはライターとタバコを所持 ●不安がよぎる ↑ ならば、こういうのはどうでしょうか? 『むすんでひらいて』を歌う むーすぅーんでぇ、ひーらぁーいいて、てぇーをぉぉうって、むうすんでぇ~♪ まーたひらいてぇ、てぇーをぉぉうって、その手を~♪ ぷるぷるぷる その手は頭にもってっちゃダメダメ なぜ? 状況が状況、頭の上に手をもっていけば…その手には何を所持していましたっけ?ライターとタバコでしたよね?近くには誰がいましたっけ?ましてや、その場はどんな場所?警察官には注意義務がありますよね。みせびらかすように高らかにライターとタバコをちらつかせれば、挙動不審と職務質問もしくは職務妨害したとしてしょっぴかれるやも。李下に冠を正さずです。警察官には注意する義務がありますから、その義務を怠れば注意義務違反と職を問われかねない。おおごとにならん先に時と場所を通行する人も気づかいせんと。角つき合わすはめになったらえらいこっちゃぁ。 では、その手はどこへ? あーた、それはやっぱヒザでしょー ヒザのばしたまま腰曲げて、手をヒザにもっていけば…腰がイテッ、テテテと。すかさず腰に右手をあて、さするさするさする。決して不自然ではありません。トシですから自然です。危機回避。朝の体操。 【リスクヘッジとリスクフリー】 http://teiiyone.com/blog/2006/11/post_41.html 【ポートフォリオ】 http://teiiyone.com/blog/2006/10/post_4.html http://www.mhlw.go.jp/shingi/0102/s0207-3f.html http://www1.mhlw.go.jp/houdou/0903/h0331-4.html
お礼
大変遅くなりました。 一番の問題は、例の参考ページ、証券会社のものでしょうか、 これは、以前もご紹介いただいたのですが、 正直な所、あまり関心がないのです。 で、にもかかわらず、再度のご紹介、如何なものかと。 ひょっとして、お仕事の関わりとか、余計な思案を巡らして、 正面から、リスク管理のあれこれも、あまり意味の無いことで。 そこで、熟慮の結果、今回お礼が遅れたのは、多忙と言う事で押し切ろう。 今月、読みかけた本。 1)「零度のエクリチュール」バルト 2)「複製時代の芸術」ベンヤミン 3)「地下室の批評家」ジラール 4)「アナーキスト人類学のための断章」グレーバー 5)「お金に正しさはあるのか」中正昌樹 6)「ミミヲキリ、ハナヲソギ」黒田弘子 7)「フロイスの見た戦国日本」川崎桃太 8)「村と領主の戦国世界」藤木久志 1~3は、相性が悪く、1)だけは、再度読み直す事とし、他は、目次と解説でお引取りをお願い。 4~8は、概ね通読、ただし、5)は少々引っかかって、読み直しの為、保留。 そのうち、6)の鎌倉時代の農民による六波羅への御侘言と言いますか「片仮名申状」、たった13条から成る片仮名書きの文章を、300ページ以上の詳細な研究、大変勉強になります。 網野史観に一部異を唱えつつ、片仮名・平仮名・漢文の使い分けを、階級的に説明、網野片仮名表音説と比較して、若干、黒田説が優位なのかと思いつつ、芋づる式に8)へ。 此処でも、網野史観の影響があるものの、律令時代の「出拳(すいこ)」による、利息の起源らしきものと、戦国期に至る、無利息の預け物や利息に対する嫌悪感の存在、はたまた、村ぐるみの治安の為の処刑と保険システム、等など、社会的経済的秩序の成立過程を「村の自立」を通してお勉強。三角形のよど掛も何処へやら。
補足
お礼の続き 根本的に、もしユートピア主義者でないなら、あなたはまぬけでしかない。 ジョノソン・フェルドマン (アナーキスト人類学のための断章 デヴィット・クレーバー) 2003年に邦訳が出されたインドの女性作家アルダティ・ロイの反戦エッセイ集「帝国を壊すために」に収められている第一のエッセイに「貨幣」論という点で非常に興味深いエピソードが紹介された。・・・、タイトルは「無限の正義という名の算術 The Algebra of Infinite Justice」である。・・・ 「無限」に相当する英語の〈infinite〉は、数学用語としては、微分・積分における無限小や無限大、あるいは無限集合などを表現するのに用いられる。高校の時に習うことを簡単に復習すると、近代数学では、本当ならその「定義」からして、足したり引いたりできない「無限なもの」を計算するためのルールを発展させてきた。無限に小さいyの値の増加分(Δy)を、これまた無限に小さいxの値の増加分(Δx)で「割る」ことによって有限な値が導き出されるというのは、よく考えてみれば訳の分からない話であるが、高校の受験勉強ではあまり突っ込まないでそのまま受け入れるよう教えられる。・・・こうした言葉のニュアンスを念頭において、「無限の正義という名の算術」というタイトルを理解すると、「その価値が有限ではないので、本来なら数値化して足したり引いたりすることが不可能なはずのものを、何らかの特殊なルールを用いて計算可能であるかのように装うテクニック」ということになるだろう。・・・ロイはエッセイの中で、そうした「命の勘定」の例として、オルブライト元国務長官の発言を引き合いに出している。 1996年に、当時アメリカ合衆国の国連大使だったマデリーン・オルブライトが、アメリカ主導の経済制裁の結果、50万人のイラクの子どもが死亡した事実をどう思うかと聞かれて、テレビの全国ネットで、こう答えた。それは「たいへん難しい選択だった」が、あらゆることを計算に入れれば、「払うだけの価値がある代価だった」と。オルブライトがこのような発言で職を解かれた、という話、どなたか聞いてます?彼女はその後も、アメリカ合衆国政府の意見と希望なるものの代表者として、世界中を旅して回っていますね。より重要なのは、イラクに対する制裁がいまだに継続しているということ。子ども達はしに続けている。(『帝国を壊すために』) 「50万人のイラクの子どもたちの死」が「払うだけの価値がある代価だった」というのは、答えに窮しての開き直りだとしても、すごい言い方である。(お金に「正しさ」はあるのか 仲正昌樹) 以上の諸事例から、百姓らのさまざまなたたかいにたいして領主らは、張本の処罰という対応策をとったこと、しかしながら、その張本は百姓ら全員によって固く守られ、容易には処罰できなかったことが明らかになったといえよう。 ひるがえって第七条に目を転ずれば、当条でもまた、地頭の処罰(追放)を受けている百姓の代表四人が、「これら御領に安堵して候わば、百姓御公事を仕り候とも、いかが百姓喜び候わん」とあるように、阿弖河庄百姓らによって強く擁護されている。当条から、張本を守る阿弖河庄百姓のたたかいを読み取ることができるだろう。 ところで、こうした張本を守るたたかいは、どのような意味をもっているのだろうか。中世の村について、その自力=基礎体力の解明が重要であるとみた藤木久志は、村の身代わりとして処罰された犠牲者に、万雑公事の免除や苗字の付与などの手厚い補償体制が村によってとられていたことをあきらかにした。例えば、元亀元年(1570)、近江国神崎群伊庭の「惣中」は、村の代表して織田信長の人質となった家にたいし、その代償として永代万雑公事免除の権利を与えたという。そして驚くべきことに、この家のかかり物一切の免除は、明治に至るまで続いたというのだ。(ミミヲキリ ハナヲソギ 黒田弘子) 婦人の堕胎 堕胎はすでに伴天連が渡来してきたころから、日本では頻繁に行われていたようである。 ある婦人たちは、出産後、赤児の首に足をのせて窒息死せしめ、別の婦人たちは、ある種の薬草を飲み、それによって堕胎に導く。ところで堺の市は大きく人口が稠密なので、朝方、海岸や濠に沿って歩いて行くと、幾たびとなくそこに捨てられているそうした子供たちを見受けることがある。もし母親が、出産後、捨てようと思う赤児に対して、なお幾ばくかの人情味を示そうとするならば、彼女らは赤児たちを岸に置き、潮が満ちてその児らを完全に殺すようにするか、それとも濠に投げる。そうすると通常は犬が来てそれらを食べるのである。(フロイスの見た戦国日本 川崎桃太) 前回のお礼に続く
お礼
失礼です、と切り返せないのがつらいですが。 私も数学は(も)苦手で、自信が無いから切り返せません(笑。 先月、DVDのお店にやっとダビンチコードのパッケージに中身が 早々借りてきて見たのですが、何を見たのか覚えていない中で、 「フィボナッチ数列」が印象に残っています。 1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89・・・ この数列は、兎の増え方から、カタツムリの殻、植物の葉の配列まで説明でき 簡単に総和も計算できまるらしいのです(私は良く知らないですが)。 確率も数学じゃないの、と言いたい所ですが、数学音痴、どうなんだろう。 たっぷり汗をかいて、内臓脂肪の解消が出来ると一石二鳥。 そうそう、決して、 自然は数学で出来ている、と決め付けているわけではないですよ。 此処では、穏かに「なぜ」に注目、有難うございました。