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ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――
あらためて問いたいと思います。 【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。 * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。 【問い1】 ブッダは 神か? 【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か? 【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか? 【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか? 【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?
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ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ○ 生老病死を四苦というくらいですから・つまり生をも苦と言うくらいですから 少なくとも出発点は 悲観論であり 徹底的な諸行無常論であるのではないか。 悲観論につきましては、四苦八苦の八苦、例えば、「愛別離苦:愛する者と別離する苦しみ」、「怨憎会苦:怨み憎んでいる者に会う苦しみ」らは、確かに生での苦しみかと思われます。 また無常論につきましては、例えば三島由紀夫等もこれら“無常観”に影響されたとされています(下記サイトをご参照くださいませ)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 (“三島由紀夫と唯識”の箇所です) 従いまして、仰られますように、「徹底的な諸行無常論」と考えられます。 > ○ その限りで虚無思想であるとさえ捉えられます。しかも ここで 虚無ないし悲観ないし無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだのではないか。 “四諦”を釈尊が説いたとされております(つまり、いったんは“苦”を受け止め、それは避けられるものではなく、諦念思想でもって、“苦”を処理していくものかと察せられます)。従いまして、仰られますように、「無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだ」と考えてなんら支障はないものと察せられます。 > この《仏性》観が現われたので ブッダのあたかも神格化ないしかれ独りのみの《極度に偉大な超人的存在》化が つられて出て来がちになったのでしょうか 《仏性》観が現われる前、つまり、上座部仏教の折から、すでに「神格化」がなされていたようでございます。例えば、大パリニッバーナでは、釈尊の意向を無視し、遺骨に対しては、相当な“価値”を見出すようになり、争いすら起こったといわれています。 これは、愚見でございますが、釈尊がご存命中は、呪文等は原則禁止したなど、超越的概念を取り込むことには否定的だったかと記憶しております。ですが、入滅後すぐには、例えば古い経典のひとつであるスッタニパータ(あまり大乗仏教では重視されない経典かと思われます)でも、以下のような記載があり、入滅後直後には“神格化(仙人化)”がなされていたかと考えられます。 698詩 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である”仙人”(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。 また釈尊の十大弟子-目連も、“神通第一”とされ、超越的概念が取り入れられていることが示唆されます。 つまり、入滅後では(ほとんど直後には)、釈尊の神格化が著しく進んだと推察されます。 > ○ 無神論であることは とうぜん 《絶対》という想定を《無》で受けたものであるからには 片や《有》で受けたところの有神論と同等の《非思考なる信仰》の一形態である。 ☆ と考えるのですが いかがでしょう? これは愚見ではございますが、 「今回明らかにされたたとえば《無》については それは 有神論と無神論とに分かれる前の《ひとり満ち足りている存在》のことを おおむね 指し示したかたちである。」 とのご質問者様の意見とは少し異なっております。つまり、“スッタニパータ”はじめ、さらには大乗仏教の基礎となった“般若経”につきましても、“呪術的”な要素も含まれていたかと思われます。つまり、入滅後の著しい神格化(超越的存在化)が生じたこと、さらにまた、《無》というそこに価値を見出すのが非常に困難なものに対しまして、ひとびとは“信”の対象にするとは少なくとも愚生には考えにくく思われるからでございます。 お役に立てれば、幸甚に存じます。
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- yokaboyoka
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ほかの視点からですが私の捕らえ方を以下に述べたいと思います。 1.一なる神は始まりの意識。体験したい存在。常に変化している。 2.仏陀は神の一側面であり神。 我々も神の一側面であり神。 3.仏陀は一なる神の意図を理解している人間であり神。 我々は神の意図を理解していない人間であり神。 4.仏陀も我々もブラフマンの一側面。 梵我一如の意味:自我を超えた時に神であることを体験できる。 日本神道の鏡(カガミ)のガ(我)を抜くと人は神であるという意 味と同じ 勾玉はガを取ると真魂(神魂:神が操る魂)となります。 アートマン:自我の本質と書かれている。 自我を捨てた(超えた、十分管理された) 状態がゴール。つまり無我の境地。 5.諸法無我とは4と同じ意味。 仏陀は我々より多くの回数、物理次元で生きた(死んだ)神の 一側面。 我々は仏陀より生きた(死んだ)回数が少ない神の一側面。
補足
yokaboyoka さん こんにちは。ご投稿を寄せていただきありがとうございます。 そうですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 2.仏陀は神の一側面であり神。 我々も神の一側面であり神。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういうふうに 突き抜けた内容を一気に表現する仕方は わたしも嫌いではありません。じじつ ここでも ○ われわれはみな一人ひとり ブッダである。 ☆ と言って来ていますし あるいは ○ ひとは 〔小文字の〕キリストである。 ☆ と表現することがあります。 ただし 定義をきちんとしておかねばならないということもあります。 いま上のように表現された場合には ★ 一側面 ☆ この言葉の定義が大事でしょうね。わたしなら ○ あたかも指先で触れられている。 ○ わたしは 神に向かって こころの明け もしくは 伸びを持つ。 ○ 神は わたしをすでに覆っている。 / わたしはあたかも魚のごとくすでに網で掬われている。 ☆ などと――必ずしも定義ではないのですが―― 説明します。 ★ 日本神道 ☆ にかんしましては わたしのつぎの文章を合わせて たたき台になさってくださるとよいかと思います。 【Q:神の音】その回答No.11 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5460412.html ○ 無我=アートマンに非ず ☆ にかんしては ブディスムは わたしのアートマンが 真理としてのブラフマンと一如というふうには説かないと思います。もしくは アートマンにしてもブラフマンにしても 仮りの姿であると言い続けるものと考えます。つまり 信仰としてのなのですが無神論に立つと捉えています。これについては Hidocchi さんとのやり取りを参照してくださるとありがたいです。 No.110・149・203・272 です。 なお 同じく《無我》について それが必ずしも《わたし》を離れることではないという命題がありますので ご紹介します。 ▲ (ナーガールジュナ:無我)~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは 存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。 (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩) という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。 (中村元『龍樹』2002 pp.225-226) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ * 何回も生きた死んだと言われると ついて行けないところがあります。DNAが同じ存在は ふたりといないでしょう?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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(1) ◇ 哲学に回答をするのはいやなんです。貴兄を忌避していることはありません。 ★ ご自身の言葉が それを言ったのです。《忌避している》かどうかの問題ではありません。撤回するか 言葉どおりにしているか どちらか一つでしょう。 ◇:そうでしたか。老人ボケかな。私がそういう言葉を発したとは真に軽はずみな思いあがりですね。無論、撤回しますよ。何を撤回するかって?貴兄にいった言われない言葉をです。調子よくそのことを忘れていたのですね。何か在りましたね。撤回しますよ。 (2) ★★ 独特のご見解であるようです。 ★ というのは たしかに揶揄する気持ちが入っていますが それは ブッダないしブディスムの系譜を踏まえてのご見解であるかという疑問を持つからです。 むろん ブディスムとはいっさい関係なしに そういうご見解を持つことは 何の問題もありません。ところが ここは ブディスムの見解をどう処理するかを問うています。そういう意味で 回答としては《独特》になります。 ブディスムを結論としてないがしろにしてもかまわないわけですが その推論としての経過を明らかにするのが ここでの回答になります。 ◇はい、よく判りました。ブッディズムって仏教のことでしょう? 実は私たちはブッディズムもキリスト教も普遍的だし、私たちの教えも普遍的であると認識しておりますので、同じ土壌、同じ土俵だと思ったのですが、そうじゃないのですね。そういう意味のブッディズムでしたら、扉をこじ開けて入室などは致しません。 ★★ (要約) 歴史的ないきさつとして ヒンドゥイスムに同化されたブディスムというのもありますね。 ★ という受け答えになると考えます。たとえご見解がヒンドゥイスムに関係なくとも そういう回答の事情のように受け取ります。それは ここでは 《諸法無我》説の取り扱いに触れておられないところが 問題なのではないでしょうか。 ◇はい、それは私の今未だ個人としての漸く会得させていただいている状況で外の風になれておりません。
補足
krya1998 さん お早うございます。22日 日曜日のあさです。 三百件を超えていた投稿数が きれいに削られて いま60件です。 ええっ それにしても そんなに削られるの?といったところなのですが ひとこと お事割りを申しておこうと思いました。 それは ご質問の《神の音》のほうの問題です。 ずばり神の音が 直接に 人間や自然の世界につながっているとは 見ませんで 問い求めておられるお答えに到らなかったことを ひとこと 確認の意味でお伝えします。 それというのも ほかのご回答を くだらんと言い しかもその罵倒のことばのみを言ったあと 言いっ放しになっています。 その説明も ほかのご投稿の内容に沿ってなら出来ますが どうも krya1998 さんは 神秘思想派で直観派でおられるようですから それもかないません。言わずもがなとすべきかと思います。 そのことを ひとこと お事割りしておきたいと思いました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
★独特のご見解であるようです。 ◇独特というのは、普通は、とか言う語に対応しております。私は奇人変人、異端で結構ですが、あまりこういう使われ方は感心いたしません。まづ アヴァタラは知りませんで 調べました。 ★「ヰキぺ:アヴァターラ」 ◇こういう解説も少し偏りがあるかとも存じます。 ★紀元後の最初の1000年の後半、インドで仏教が栄えると共にブッダが9番目のアヴァターラであると言われる事が顕著になり、それはヒンドゥー教に同化された(これがインドでの仏教の衰退に寄与した)。 ◇該博なお知識ですが、あまり関係のないことです。 ★どうなんですかねぇ。家康も権現でしたね たしか。 ◇家康の権現さんをここであなたが出すとは、・・・・。 ★ 梵我一如は ひとつの世界観を構成するとは思いますが もしこれにもとづくなら 人間であるならだれもが そのアートマンにおいて 究極の存在(ブラフマン? ブラフマー?)と一体であるという理論になると考えますが 違いましょうか?《ひとり満ち足りている存在》としてのブラフマンは 超経験の世界です。ほかは すべて 経験の世界に属すということになると思います。そういう理論であるはずです。経験存在としての人なら人をいま取り上げますが その人は みな平等であり 完全に例外なく自由対等であると唱えていることになると考えます。 ◇そういう本質、生来持ってきている自己の根源を出しているか、じぶんとしているか。そうでないかの違いですね。それをマヤというのです。 ★これははっきり ヒンドゥイズム〔のみと規定するのも 狭いのかも知れませんが〕に採り入れられたブディスムであるようです。そういう歴史上のいきさつがあるのだと捉えます。 ◇そういう分析も在りうるのでしょうかね。私はそれはどうでもいいのですが。
お礼
お応えします。 (2) ★★ 独特のご見解であるようです。 ★ というのは たしかに揶揄する気持ちが入っていますが それは ブッダないしブディスムの系譜を踏まえてのご見解であるかという疑問を持つからです。 むろん ブディスムとはいっさい関係なしに そういうご見解を持つことは 何の問題もありません。ところが ここは ブディスムの見解をどう処理するかを問うています。そういう意味で 回答としては《独特》になります。 ブディスムを結論としてないがしろにしてもかまわないわけですが その推論としての経過を明らかにするのが ここでの回答になります。 ★★ (要約) 歴史的ないきさつとして ヒンドゥイスムに同化されたブディスムというのもありますね。 ★ という受け答えになると考えます。たとえご見解がヒンドゥイスムに関係なくとも そういう回答の事情のように受け取ります。それは ここでは 《諸法無我》説の取り扱いに触れておられないところが 問題なのではないでしょうか。
ご返答賜りまして、どうもありがとうございます。Hidocchiです。 > これらをおしえていただきました。 いえいえ。「優れた質問文には、すでにその回答となる部分が多分に含まれている。」といわれております。愚生は、意見が等しいところは、そのまま例を挙げるなどして、追加させていただき、一方意見が異なる部分につきましては、愚見を述べさせていただいたに過ぎません。 > もう一点先走りするとしますと おそらくブディスムの中で 浄土教の系譜は 阿弥陀仏を立てる有神論であるのではないか。こうも 推し測っています 確かに、仰るとおりかと存じます。愚生の家は真言宗(密教系)ですが、如来像・曼荼羅があり、それらと自己とを同一化することが、悟りへの道と 説いているようでございます(松長有慶著「密教」からでございます)。この考えも有神論のひとつのあり方と考えております。以前、教えていただきました“記紀神話”もそうでしたが、日本人にはそうした(有神論としての)信仰の方法を、とってしまう傾向があるのかもしれません。 > 質問のゆくえは いまは成り行きにまかせます。 すみませんが、愚生の方も少しばかり様子見とさせていただきたく存じます。 それでは、こちらこそよろしくお願い申し上げます。
お礼
Hidocchi さん もうすでにわたしは納得しております。あとは みなさんが 恨みっこなしでおしまいと言えるようにと見ているのみです。 ご回答をありがとうございます。 まぁ それにしても どこから――変な言い回しを使いますが――湧いてくるのかと この質問は 異常な状態ではあります。湧いてくるというのなら 日本人の哲学も棄てたものではないと思うほうがよいでしょうか。それとも お地蔵さんのまわりでまだあそびつづけていましょうか。はないちもんめで たのしんでいましょうか。 あぁ そう申せば 大日如来は あたかもブラフマンに匹敵するかたちだったでしょうか。日蓮もしくは法華経は少々 有神論が経験世界にもしゃしゃり出てきたような感じではあります。瞑想世界もひろがっているかのような。(たぶん こちらの方面は 深入りしないとは思います)。 ブッダの弟子たちも ブッダと同じ修行の到達度合いであったというのは 聞いていたはずですが この質問に際して 活用し得ていませんでした。これをお聞きしてよかったです。 ★ “記紀神話”もそうでしたが、日本人にはそうした(有神論としての)信仰の方法を、とってしまう傾向があるのかもしれません。 ☆ それでいて 無宗教とか無信仰とか言っていますので もう少し自覚的になるなら 案外 日本人は ふつうのまともな信仰観を多くの人びとが持つようになるかも分かりません。このふつうさは 世界に誇れるまでの姿を表わしてくるかも分かりません。どうでしょうかね。 ありがとうございました。 様子見とまいります。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん、このご質問にどういうふうにとうこうすればいいのか、わかりませんでした。それにしても盛大ですね。 【問い1】 ブッダは数数のアヴァタラのおひとりですよね。 ブッディっていうのは私たちでは宗教的理性、判断力と思っています。 ブッダはブッディを最もご自身で具現している、神と私たちを繋ぐお方であると存じます。 境壁というのを頭においてください。 こちら側は人間たち、この地上に面しています。 その向こうは、無窮なる神、根源者、究極者に面しています。 そういう方が人として現れたブッダであると存じます。 カルマの強制ではなく、自らの意志でおいでになった方を神人、グルと呼びます。 【問い2】 仏性は、私たちは人間に備わった能力、宗教上の判断力、その理性性と認識しております。ですからそれを充分に発揮している方は仏性の境地におられると存じます。 【問い3】 地上の普通の人という存在は映像であり、架空だという認識におります。 内在し、意識しているこのアートマンで根源者に繋がっているのだと存じております。 この根源者を現すことばの一つがブラフマンというのだと存じます。 【問い4】 ブッダはそういう意味でアートマンとして完璧に自己認識し、ブラフマンに一体になった個たる意識、存在でありましょう。 【問い5】 ブッダは神に一体になった個たるアートマン、人間です。 この境地になることが、人間全ての定命であるという教えを精進していて、それは正しいとぞんじております。
お礼
ご投稿をありがとうございます。 独特のご見解であるようです。まづ アヴァタラは知りませんで 調べました。 ▲ (ヰキぺ:アヴァターラ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A9 ヒンドゥー教において、アヴァターラ(Avatāra)とは不死の存在、または究極に至上な存在の「化身」「権現」(肉体の現れ)である。 ・・・ 紀元後の最初の1000年の後半、インドで仏教が栄えると共にブッダが9番目のアヴァターラであると言われる事が顕著になり、それはヒンドゥー教に同化された(これがインドでの仏教の衰退に寄与した)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《究極の至上の存在》の化身は いくらも出ていて その一人にブッダがいるとのこと。 どうなんですかねぇ。家康も権現でしたね たしか。 梵我一如は ひとつの世界観を構成するとは思いますが もしこれにもとづくなら 人間であるならだれもが そのアートマンにおいて 究極の存在(ブラフマン? ブラフマー?)と一体であるという理論になると考えますが 違いましょうか? 《ひとり満ち足りている存在》としてのブラフマンは 超経験の世界です。ほかは すべて 経験の世界に属すということになると思います。そういう理論であるはずです。経験存在としての人なら人をいま取り上げますが その人は みな平等であり 完全に例外なく自由対等であると唱えていることになると考えます。 これははっきり ヒンドゥイズム〔のみと規定するのも 狭いのかも知れませんが〕に採り入れられたブディスムであるようです。そういう歴史上のいきさつがあるのだと捉えます。
おはようございます。139から164と167を受けて、そのつづきです。 まずいただいた応答の第三章もみてみます。 前述のとおり、無・空を除外して、無神論者と有神論者においてであるならば、おおむねそのとおりと思うことが書いてあります。 > わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。 余談になるかもしれませんが、 X・(Y∋Zi) のイメージのようですね。 信仰は、Y・(X⇒Zi) とならねばならぬという風潮はありませんか? キリスト教の勧誘などを見るとたいへんこのような姿勢を感じます。 つまり、前者では、超経験は「外の思考」であるとして(非思考とおっしゃるのですが少しなじみのあるこちらを使ってもよろしいですか) 経験領域と属する人に、外圧のようにかかわっているという形です。 けれど、後者では、超経験が真であるから人は真なり という事項を、経験のおよぶところとするのです。そんな気配がないでしょうか。 > 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。 そのとおりでしょうね。二つは、さきほどの「外圧」型だと思います。 > このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。 いっそうの問題は、さきほどの「真ならば真なり経験」型が、言葉で説明すると袋小路になるのではないかということです。つまり > たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。 ということになるでしょう。 > コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。 > もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。 そうですね、それはできないのではないかと思うのですが、、、前提をすりあわせる議論が難しくなるのはたしかでしょう。 東洋思想は前提を切り崩すのだと思います。 《無限解体》という見方について、という応答をいただいていますので、移ります。 「非思考」ですが、 > 《或る日或る時 向こうからやって来る》というのは 《判断およびそれを打っちゃるという判断》に先行しています。 わかりました。さきほどわたしは「外の思考」と呼んでいます。あまり気にしないでいただければと思います。 無限解体をこのように表現していただいています。 >( a ) いわゆるものごとの相対化をおこなう過程 >( b ) 唯識論において識のみと見たその識も 仮想の現実であるとするように 相対化した見方じたいをも仮想の現実とする見方 >( c ) ひょっとすると それらのあといま再び三度つねに あらたな世界観を構築する(もしくは そのままそこであらたな縁起の過程としての世界観を得ている)ととなえる主観の問題。 緻密な考察だと思います。 not{not[not( Y-Zの経験行為)-Zの経験行為] -Zの経験行為} -Zの経験行為 .... Yにあたる項のあいまいさ、対象化の不可能性とも自在性ともいえる、トポロジックなありようで、観測問題以上の前提の切り崩しなのではないでしょうか。 空観。なのかもしれません。 ただ、最初におことわりしているように、 経験の領域 Y の為に措定するならば、わたしなら、 Yを前提として なのであり、無や空の定義をおこなったわけではありませんから、こんな書き方もある、という程度のことなのではないでしょうか。 ただ、 > * すべての判断を《仮想の現実》だと わざわざ言う必要はないとも考えます。経験世界に属するということであれば それは うつろいゆくものだからです。 という点に、ひとつだけ《恐怖》があるのです。それは、 not{not[not( Y-Zの経験行為)-Zの経験行為] -Zの経験行為} -Zの経験行為 .... をきわめると、 not{not[not( notY-Zの経験行為)-Zの経験行為] -Zの経験行為} -Zの経験行為 .... なのではないか、という難題なのです。 経験世界は、ないはずのものだろうか、ということです。怖い怖いなのです。
補足
amaguappa さん お早うございます。遅くなりました。ご回答をありがとうございます。 退会のご予定だとか。ま ご自身のお考えでしょうから とやかくも言えないでしょうかねぇ。毒麦を引っこ抜くわけにも行かず この現状で行くしかないと思われるので それぞれの方の判断なんですかね。 ふたつの論点があります。その前に 用語のもんだい二つです。 ★ 《外の思考》: 超経験は「外の思考」 ☆ たしかに非思考と言っても 想定したあと さらに想像や思考を及ぼすことになりますので 仕方がないかと思います。中核は 非思考だと思います。 ★ 《外圧》: 超経験は「外の思考」であるとして・・・経験領域〔に〕属する人に、外圧のようにかかわっているという形 ☆ たぶんこの《そと》という概念とそれにまつわる印象を避けたかったのでしょうね。人びとは――その定義はいま措くとして―― 内面に宿る仏性を 考えだし唱え出したのでしょうね。《外のみ》ではないよと言いたいわけです。《霊(つまり なぞの無根拠)が宿る》というわけのようです。 でもいづれにしても 外からやってくる呼びかけに答えるのは こころで同意する場合です。こばむ自由もとうぜんあります。そのような意味で アブラハムのばあいの如く 《外からの声》といった程度にしたいとは思います。受け容れる前では 《外圧》でしょうけれど。 さてまづ ★ 経験世界は、ないはずのものだろうか、ということです。怖い怖いなのです。 ☆ これは 諸法無我が なお舌足らずだという問題ではないかと思います。もしくは 無神論という原点にただしく立脚しているなら この諸法無我という理論じたいをも 仮想の現実だと見ることができると考えます。言いかえると 理論じたいも 経験現実であるということだと思います。 つまりは もし超経験世界が 想定のかぎりででも 絶対であるなら――それを 有神論で受けようと無神論でそうしようと―― それに対するわたしの関係という事態が発生しています。つまり 非思考のなぞのことです。 この無根拠のもとに わたしという存在として・およびわたしにとって 経験世界はある。ということだと思います。神がみそなわすのでなければ ものみは空しいといった聖句はなかったですか? 検索しても見つからないのですが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ X・(Y∋Zi) のイメージのようですね。 〔ところが〕信仰は、Y・(X⇒Zi) とならねばならぬという風潮はありませんか? キリスト教の勧誘などを見るとたいへんこのような姿勢を感じます。 ・・・超経験が真であるから人は真なり という事項を、経験のおよぶところとするのです。そんな気配がないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ amaguappa さん ですからわたしは 秘蹟を取り上げ それを水の洗礼に絞り その間違いを問うています。それは 信仰つまりその中身として《外の思考》 これの教義規範化と組織化の時点で 個人の信仰は自死を迎えているという見方に達しました。 どうでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Yにあたる項のあいまいさ、対象化の不可能性とも自在性ともいえる、トポロジックなありようで、観測問題以上の前提の切り崩しなのではないでしょうか。 空観。なのかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ ここで トポロジーが出てくるのですね。参考にしました。
神とは ひとり満ち足りている 佛は一人ではない。 書道 最強のデータは、時代によって変わります。しかし存在します。 概念として「書」が本質です。 「道」が真実。 「諸法無我ではない有」=本質を真実にするプロセスが真実の「姿」。真実自体ではありません。無から無をつむぎだしながら静である「書」と無音である「道」を動的に無心に結びつけるのが、書家。呼吸です。父子・師弟・主従の旋律と和音の波動が底にあるのです。 在とは 歴史的・社会的一個人です。個人は哲学的に概念で捕まえることは出来ません。美のみです。 捕まえることが出来るのはその弟子だけ。 しかし、本当の真実とは、無知です。たとえば、偶然、一等賞の宝くじをすでに買っているのにきづかない無知の自分です。こころの古いアルバムにおさめられた純粋無垢な本当の自分です。 神は弟子を取らない。
ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。 > 神の想定に対して 片や その想定は要らないとするのと 片や 想定を有とも無とも決めないとするのとでは違うと思われます。もし後者であるなら 正当な無神論であって それは 信仰をいっさい表現しないかたちの信仰であるように思われます。なぜなら それは 経験思考を超えているという前提の領域じたいは 認めているし 受けとめていると考えられるからです。むろん 信の対象にするのではないですが。 有神論と無神論とは 非思考という柱を挟んで背中合わせに互いに同等な《信仰》の形態であるように思うのです。 以前、「有神論と無神論とは互いに同等な《信仰》の形態である」主旨の内容につきまして、同意させていただきました(以下の記載でございます)。 ○ ゆえに 有神論という形態を採ろうと 無神論として放っておこうと 両者は互いにまったく同等である。 意見を等しく致します(愚生の返答でございます) (http://okwave.jp/qa5224310.html No.62からでございます。) そして、その後、ブッダについて調べてみたのですが、“神格化”のスピードが想定していたものよりも速かったことに気づかされた訳でございます。この件につきましては、入滅後には、遺骨のやり取りで、もめごとが生じたことからも、お察しいただけるかと存じます。 従いまして、今回のようなご返答内容を述べさせていただいた次第でございます。 釈尊は元来“超越的存在”には言及していませんでしたし、むしろ無神論者であったかと思われます。さらに申しますと、“思想家”、“実践的修行者”といっても差し支えはないとも思われます。ですが、入滅後、すぐに神格化が起こり、“有神論”とみなされてしまった と考えを新たにした訳でございます。 ですが、ナーガルジュナのように、「空」観思想を説き、もしくはその考えに感化されたひとたちがどのような信仰形態を採ったかにつきましては、愚生の方でももう少し調べてみたいと思っております。 事を複雑化させてしまい、誠に心苦しいのですが、現在の愚生の意見は上述のとおりでございます。 ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。
お礼
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 前回のご投稿に当たろうと思ったら No.149でした。こんな状態にあいなっております。 でも むかしお寺の境内で缶蹴りやら何やらをして遊んだ頃のことを思い出します。よくテレビドラマでは 地蔵さんのまわりで子供たちが遊んでいるあの光景です。 わたしを助けてくださっている方もおられるので 語弊のある言い方になってしまいましたが 以前の情況から様変わりをして来ていますので そのぶん 安心しています。 シャカムニの神格化が入滅後起こったこと。つまりは従って ブッダ(ないし菩薩)の修行では 同等の境地に到ったひとたちが何人かいたということ。 そして 思想の原点というべき広義の信仰にかんしては 無神論であったこと。相対性においていっさいを見たということ。 これらをおしえていただきました。 したがって――先走りすれば―― 仏性は 修行をとおして得るところのそのつどの境地にかかわっていること。相対性の世界においても 限りなく完全な相対性――つまりは空観――に近づくという過程はあるとされること。 もう一点先走りするとしますと おそらくブディスムの中で 浄土教の系譜は 阿弥陀仏を立てる有神論であるのではないか。こうも 推し測っています。 シャカムニと同等の境地に到った人たちが何人もいたということ これが 鍵になったと思います。ありがとうございました。 質問のゆくえは いまは成り行きにまかせます。 今後ともよろしくお願いいたします。
- hosiboshi
- ベストアンサー率9% (15/158)
そうです。 そうです。 わかりません。 おそらくそうだと思います。 諸法無我のさらなる上の境地に達しているのだと思われます。 修行によって諸法無我を知り、それを悟ったうえでさらなる上の悟りを開かれたのではと思います。
139の応答を受けての164の続き したがって、第二章の次の部分にも変更を唱えます。あるいは、要らない考察であるとします。 > これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。 > そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ > X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 非思考(通常のいいかたでは判断止揚)として、 《考える( Y-Zの経験行為 )ではない》《信じない( nonX超経験否定における-Ziの経験行為 )》 をひとまとめにはできます。 しかし、無を信じる は含みません。さきに述べた無限解体は、 not{not[not( Y-Zの経験行為)-Zの経験行為] -Zの経験行為} -Zの経験行為 .... です。 おそらく、経験領域のほうへやや寄っているという眺め方が生じうるのですが、 そのように見る他者Z’においても、その観測Y'におけるZ'の経験行為は無限に解体されます。 第二章の後続部分へは展開していきませんので、ひとまずここまで。
補足
No.164よりつづきます。 (3) 《無限解体》という見方について ★★ (No.164) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 無・空を、経験の領域 Y の為に措定するならば、わたしなら、 Yを前提として、経験の解体経験の領域 とするでしょう。脱構築という言葉は別の用語に取られていますが、脱構築といった意味のくくりにしたいのです。 経験領域に階層化を起こすものであり、その経験も階層化されねばならず、またその経験も階層化されねばならない、無限解体の領域です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3-1) ★ 非思考(通常のいいかたでは判断止揚) ☆ この用語にかんして みみっちい反論をしますと 《判断止揚》と言うと なお思惟および判断という人間のはからいがかかわっている嫌いがあるというものです。エポケーでしょうか これもはからいが かかわると思います。《或る日或る時 向こうからやって来る》というのは 《判断およびそれを打っちゃるという判断》に先行しています。 (3-2) 《無を信じる》と表現するかどうか。 これについては No.164お礼欄の第二段落に触れましたように 《無神》という代わりに《無》と言いたいというひとのために わづかな可能性として取っておくとは考えております。(《但し書き》のたぐいとしてですね)。 (3-3) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さきに述べた無限解体は、 not{not[not( Y-Zの経験行為)-Zの経験行為] -Zの経験行為} -Zの経験行為 .... です。 おそらく、経験領域のほうへやや寄っているという眺め方が生じうるのですが、 そのように見る他者Z’においても、その観測Y'におけるZ'の経験行為は無限に解体されます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 複雑であるようです。 ★ 脱構築といった意味のくくり / 経験領域に階層化を起こすもの ☆ どうも二つないし三つの側面があるように感じるのですが? ( a ) いわゆるものごとの相対化をおこなう過程 ( b ) 唯識論において識のみと見たその識も 仮想の現実であるとするように 相対化した見方じたいをも仮想の現実とする見方 ( c ) ひょっとすると それらのあといま再び三度つねに あらたな世界観を構築する(もしくは そのままそこであらたな縁起の過程としての世界観を得ている)ととなえる主観の問題。 ☆ けっきょく そもそも《空観》は これらのすべてを含むものであるかも知れません。 ぎゃくに言えば その意味での《空》は おっしゃるように《おそらく、経験領域のほうへやや寄っているという眺め方》であって 《非思考》とはたしかに別としなければならないとは考えます。 そしてまさに《判断止揚》つまり 《判断の限りなき揚棄の過程》であるように映ります。 ちょっと単純に仕分けしてしまったかも知れません。ううーん。どうなんでしょう? * 《信教・良心の自由という公理》については どこかで触れておきたいこだわりがあります。《有か無かが分からないものを 仮りに有か無かで 代理して表現することは 自由となっている》 この内容は残したいですね。 * すべての判断を《仮想の現実》だと わざわざ言う必要はないとも考えます。経験世界に属するということであれば それは うつろいゆくものだからです。
補足
Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。 ううーん。論証していただいたと思います。感謝申し上げます。と同時にわたしも やはりもっともっとさらにさらに経典に分け入って 研究および論証ができたらなあと思いました。とうぜんそういうものなんでしょうね。 諸行無常を徹底させて行った。その先には まさに消え入るというかのような涅槃があって しかもこの状態において 或る種の安心を見たということなのでしょうか。解脱を得たのでしょうか。 このさとりの系譜から とうぜんのごとく 仏性の説は現われ出ることができた。 ただし この仏性の説とは別に シャカムニの入滅に際して その神格化は始まった。これは さとりや仏性の問題とは別個に いわば通俗的な事象として 行なわれるに到ったもののようである。 諸行無常あるいは諸法無我の説に立つなら とうぜんのごとく 経験世界が仮りの現象として成り立っているというのと相即的に 超経験の世界については いわゆる無神論である。 ただし とは言っても ブッダは 無記という捉え方をしているかも知れない。つまりは 相対世界を超えた絶対の領域については 有るとも無いとも言わないという姿勢であったかも知れない。 つまりはこれは もしそうであるなら 非思考という態度である。《経験思考を超えた領域の問題である》と捉えた。 これは わたしは 大きくは信仰のひとつの形態であると捉えたいと思うのです。 神については考えを及ぼさないし 触れない。言いかえると 神の想定じたいは 受けとめている。つまりは 神との関係として 非思考という態度ではある。 つまりは 無神論もしくは《無記神論》としての信仰であると捉えたほうが 一般的ではないだろうか。信仰を無記とする信仰(非思考)。なぜなら 非思考の態度じたいは 一たん採用していると捉えられる。 どうなんでしょう? 神の想定に対して 片や その想定は要らないとするのと 片や 想定を有とも無とも決めないとするのとでは違うと思われます。もし後者であるなら 正当な無神論であって それは 信仰をいっさい表現しないかたちの信仰であるように思われます。なぜなら それは 経験思考を超えているという前提の領域じたいは 認めているし 受けとめていると考えられるからです。むろん 信の対象にするのではないですが。 有神論と無神論とは 非思考という柱を挟んで背中合わせに互いに同等な《信仰》の形態であるように思うのです。 おわづらわせ申すと思いますが どうでしょうか。 * つまりは 無神論は 経験世界に絶対的に閉じこもるのではないと思うのです。もしそうであるなら 超経験世界に対して 信をめぐらすのではないが こころは開かれている。ならそれは 非思考というこころないし人格ないし存在のあり方であるように思われます。