• ベストアンサー

ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

 あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#135843
noname#135843
回答No.46

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ○ 生老病死を四苦というくらいですから・つまり生をも苦と言うくらいですから 少なくとも出発点は 悲観論であり 徹底的な諸行無常論であるのではないか。  悲観論につきましては、四苦八苦の八苦、例えば、「愛別離苦:愛する者と別離する苦しみ」、「怨憎会苦:怨み憎んでいる者に会う苦しみ」らは、確かに生での苦しみかと思われます。  また無常論につきましては、例えば三島由紀夫等もこれら“無常観”に影響されたとされています(下記サイトをご参照くださいませ)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 (“三島由紀夫と唯識”の箇所です)  従いまして、仰られますように、「徹底的な諸行無常論」と考えられます。 > ○ その限りで虚無思想であるとさえ捉えられます。しかも ここで 虚無ないし悲観ないし無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだのではないか。  “四諦”を釈尊が説いたとされております(つまり、いったんは“苦”を受け止め、それは避けられるものではなく、諦念思想でもって、“苦”を処理していくものかと察せられます)。従いまして、仰られますように、「無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだ」と考えてなんら支障はないものと察せられます。 > この《仏性》観が現われたので ブッダのあたかも神格化ないしかれ独りのみの《極度に偉大な超人的存在》化が つられて出て来がちになったのでしょうか  《仏性》観が現われる前、つまり、上座部仏教の折から、すでに「神格化」がなされていたようでございます。例えば、大パリニッバーナでは、釈尊の意向を無視し、遺骨に対しては、相当な“価値”を見出すようになり、争いすら起こったといわれています。  これは、愚見でございますが、釈尊がご存命中は、呪文等は原則禁止したなど、超越的概念を取り込むことには否定的だったかと記憶しております。ですが、入滅後すぐには、例えば古い経典のひとつであるスッタニパータ(あまり大乗仏教では重視されない経典かと思われます)でも、以下のような記載があり、入滅後直後には“神格化(仙人化)”がなされていたかと考えられます。 698詩 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である”仙人”(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。 また釈尊の十大弟子-目連も、“神通第一”とされ、超越的概念が取り入れられていることが示唆されます。  つまり、入滅後では(ほとんど直後には)、釈尊の神格化が著しく進んだと推察されます。 > ○ 無神論であることは とうぜん 《絶対》という想定を《無》で受けたものであるからには 片や《有》で受けたところの有神論と同等の《非思考なる信仰》の一形態である。  ☆ と考えるのですが いかがでしょう?  これは愚見ではございますが、 「今回明らかにされたたとえば《無》については それは 有神論と無神論とに分かれる前の《ひとり満ち足りている存在》のことを おおむね 指し示したかたちである。」 とのご質問者様の意見とは少し異なっております。つまり、“スッタニパータ”はじめ、さらには大乗仏教の基礎となった“般若経”につきましても、“呪術的”な要素も含まれていたかと思われます。つまり、入滅後の著しい神格化(超越的存在化)が生じたこと、さらにまた、《無》というそこに価値を見出すのが非常に困難なものに対しまして、ひとびとは“信”の対象にするとは少なくとも愚生には考えにくく思われるからでございます。  お役に立てれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。  ううーん。論証していただいたと思います。感謝申し上げます。と同時にわたしも やはりもっともっとさらにさらに経典に分け入って 研究および論証ができたらなあと思いました。とうぜんそういうものなんでしょうね。  諸行無常を徹底させて行った。その先には まさに消え入るというかのような涅槃があって しかもこの状態において 或る種の安心を見たということなのでしょうか。解脱を得たのでしょうか。  このさとりの系譜から とうぜんのごとく 仏性の説は現われ出ることができた。  ただし この仏性の説とは別に シャカムニの入滅に際して その神格化は始まった。これは さとりや仏性の問題とは別個に いわば通俗的な事象として 行なわれるに到ったもののようである。  諸行無常あるいは諸法無我の説に立つなら とうぜんのごとく 経験世界が仮りの現象として成り立っているというのと相即的に 超経験の世界については いわゆる無神論である。  ただし とは言っても ブッダは 無記という捉え方をしているかも知れない。つまりは 相対世界を超えた絶対の領域については 有るとも無いとも言わないという姿勢であったかも知れない。  つまりはこれは もしそうであるなら 非思考という態度である。《経験思考を超えた領域の問題である》と捉えた。  これは わたしは 大きくは信仰のひとつの形態であると捉えたいと思うのです。  神については考えを及ぼさないし 触れない。言いかえると 神の想定じたいは 受けとめている。つまりは 神との関係として 非思考という態度ではある。  つまりは 無神論もしくは《無記神論》としての信仰であると捉えたほうが 一般的ではないだろうか。信仰を無記とする信仰(非思考)。なぜなら 非思考の態度じたいは 一たん採用していると捉えられる。  どうなんでしょう? 神の想定に対して 片や その想定は要らないとするのと 片や 想定を有とも無とも決めないとするのとでは違うと思われます。もし後者であるなら 正当な無神論であって それは 信仰をいっさい表現しないかたちの信仰であるように思われます。なぜなら それは 経験思考を超えているという前提の領域じたいは 認めているし 受けとめていると考えられるからです。むろん 信の対象にするのではないですが。  有神論と無神論とは 非思考という柱を挟んで背中合わせに互いに同等な《信仰》の形態であるように思うのです。  おわづらわせ申すと思いますが どうでしょうか。  * つまりは 無神論は 経験世界に絶対的に閉じこもるのではないと思うのです。もしそうであるなら 超経験世界に対して 信をめぐらすのではないが こころは開かれている。ならそれは 非思考というこころないし人格ないし存在のあり方であるように思われます。

その他の回答 (59)

noname#98473
noname#98473
回答No.39

No.26の回答で 天界とは文字通り太陽、月といった天体 根源神であるヴィシュヌ神とは地球 悪魔のドラゴンとは地球上生物群 ある時 地球に異変があった 彗星の衝突のような天体現象のような それをきっかけに他の生物群と違い人間は知性をもった。 それが生命の木と知恵の木の意味 であったり 龍が頭と胴体を切断されたという表現になったのでしょうかね。 得られた情報を集積して科学的に判断するかぎりでは。 人間は知性を持つことによって融合する生命体から切り離されたけれども 心を通して生命体とどこかでつながっている 自分という意識はしっかり持っとけよ 自らを点とする 私という点は存在する 部分を持たない点としての素粒子 考えない 考えれば点ではない 心という場を自分一人が占拠するラーフ ただ観る 心は空 外界を反映する 自然の中 生起する思考は雲のよう 眺め ただ行き過ぎるのを   観る                              `

bragelonne
質問者

補足

 ならば ふつうの経験思想である。分かった。  ただし  ★ 生命の木  ☆ は どうもこの地球上の人間や生物の《生命》に限るというのは 狭いように感じられます。  それは 何も地球外生物の問題ではまったくなく――それについては 無記です―― やはり超自然・超経験の領域というものの想定が かかわってくると思われます。  つまり 嫌がられる《絶対》のことですが これは 《〈経験科学の及び得る経験世界〉に われわれの存在の世界を限るかたちで決めつけない》ということをのみ意味する。こう採ってもらってかまいません。窓を明けておきたい ただこのひとことのみです。  少なくとも聖書の《生命の木》は そう解釈しなければならないでしょう。ユグドラシルの木だとか神話のそれだったら 経験世界に閉じ込めてもかまいません。神話の神々というのは そういうものです。(すべて人間の想像の産物であるという意味です。聖書のは この想像力を超えているところを わざわざ想定しようとしている。そう読まなければ きわめてくだらん物語りです)。  ○ 《自我》の説に物言いがあります。  ▲ 自我( das Ich )・超自我( Ueber-ich )・エス( Es / id )――英語では 順に the I // Over-I ( Super-I / Super-ego ) // it  ☆ 欧語の自称は イッヒもアイも イーヨ・ヨ・ジュ・ヤーも すべて エゴー(ギリシャ・ラテン)が崩れたかたちです。いわゆる《エゴ》です。   * ego の -g- は 容易に -ch- (つまり -k- の音)と交替します。またこの -g- は しばしば -w- とも交替します。     ・ go - went - gone     ・ William ∽ Guillaume     ・ がいがいわやわや←がやがやわやわや   * そのあと この -w- がそのまま落ちます。対格活用のヲ→オ(発   音上)。そのあと -y- が イの音に釣られて出て来ます。     ・ ego > ewo > eo > io > iyo > yo > jo / je     ・ ego > eko > ek > ekh > ikh = ich   * イの音が現われるのは たとえば ヨシ>ヨキ>ヨイ>ヨェ>      >エェ / ィエィ>イイ 〔cf. ヨネ(米)∽イネ(稲)〕  これをわざわざ《自我》という別の語で言い表わさなければならない理由は何もない。かえって混乱するか それとも 阿呆と見られるだけである。  《エス》なんかは 《それ もしくは あれ》と言っているに過ぎぬ。鬼か何かに出遭ったときに 《あれぇーっ》という《あれ》である。にやにやして《あれ》とか《あっち方面》とか言ったりする。  《超自我》も《理性》も何もかも この《わたし》の行為能力であり そもそも自然本性の一部である。超自我・自我・エスのすべてをまとめて 《わたし もしくは われ》である。  わざわざ《自我》という言葉を使うのは また使いたくなるというのは よほど《わたしがわたしでない》状態にあるとしか考えられない。  《わたしはわたしである。 / わたしがわたしする》 これでおしまいである。  《われあやまつならわれあり。 / われあざむかれるならわれあり》――あやまちに気づき《われにかえる》なら われあり。あざむかれるとしても 欺かれることを欲していないわれにかえるなら われあり。  ちなみに 《われ考えるゆえにわれあり》は 《あやまつ / 欺かれる》そのあと《われ考える》というその段階のみを捉えて言ったものである。  ⇒【Q:フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院】わたしの回答No.6   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4858613.html  《ひとり満ち足りているあいつ(エス とはひょっとして 仏性?)》に見倣おう。――これは 半分ふざけて言っています。

回答No.38

No.7の回答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。  神とは? No.7のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  b:神の定義は 絶対 ということです。この経験世界を超えている という意味です。ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。相対的な相互関係としての存在ではない と自己を指し示すことになると思われます。  要するに 非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの 等々 です。 No.8の回答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇なぜ、こう(No.7のお礼のような考え)思ったのか?誰かの文章を読んでか?それとも経験と思考によるものか? No.8のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇なぜ、こう思ったのか?    b:表現が必ずしもどこででも見かけるのではないとしても ふつうの内容であると考えられます。  ◇誰かの文章を読んでか?    b:影響を受けていると言えば アウグスティヌスでしょう。そうですね。字句どおりとしては「ひとり満ち足りている」が かれの神を形容することばにあったはずです。ほかは 字句じたいとしては 類推によるものでしょう。  ◇それとも経験と思考によるものか?  b:つまり このとおりです。 No.11の解答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  b: 経験世界を超えている  ◇とは、どういう意味か?    No.11のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  b:この四次元の時空間から自由である。 という意味です。因果関係から自由な特異点である。という言い方でもよいのではないでしょうか?相対の世界によってまったく影響を受けない。つまり 絶対 であり それは 無限という概念でも説明できますね。 No.11の解答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  b:ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。  ◇ひとり満ち足りている状態を経験したことがあるのか? あるとすればそれは いつ、どこで、どういう時に? No.11のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  b:ありません。あり得ません。ただし その 予感 はあります。あるいは あたかも部分的な経験 ということです。  どういう情況かと言えば これは詳しく述べてもあまり役に立たないと思われます。ただ 大事なことと思うのは 相手がいたということです。互いにこころをあたかも照らし合わせているかのような状態になっていたという意味です。ただしわたしは相手にそのことを問い質したりしなかったので そしてその相手は初対面の人でその後会ったこともないので もうそれ以上は 知るよしもなくなっているというものです。

noname#98811
noname#98811
回答No.37

わたしは削除後に登録だけしておくんです。 幽霊会員をきめこむはずなのですがつい手がのびますねぇ。 水の洗礼のほうに書くべきとも思いましたが、あれは低空飛行の与太話ではすまないのですね。 といっても意見は前と変わりありませんが、 洗礼が先立つのではなくて洗礼が先立つように仕向けた組織が先立つということが、やはりややこしい問題で整頓しにくいところでしょう。 意味解釈する視座においては組織が先立っていて、歴史においては洗礼が先立っているというような難しさですね。 歴史学の陥る視点のパラドクスみたいなものかなと思います。 ひとりきりではないもののひとり満ち足りている存在 ということでよいのなら、ブッダはそのようにあるとしてよろしいのではないでしょうか。 ブッダはあらゆるもののうちに、実体ではなくて息をふきかける法身との力として存在していると考えるのではないですか。 仏性を境地と表現することはできないでしょう。場所や実在として無ですが前記のようにして備わるというふうに考えるところですね。 そこで世界を実体とはとらえないけれども、世界はそのように備わるとするものでしょう。 だから神でもブッダでもみなのうちにおいて力であるし、 あるか?と問えばアプリオリには無で、意識できてからなんて説明になるんでしょうかね、西洋人向きには。 ところでケトゥですかぁ。あっはは。ケツだとおもうなあ。 青天の地べたにぺったんとつけて おむすびを食べるのに便利でキュートな。

bragelonne
質問者

お礼

 ですから 信仰の――その言葉化は おのおの主観においてあり得ますし 自由ですが―― その表現を教義化すること およびその教義にもとづき組織化をおこなうこと これらの人間の行為は先立つものではない。こう分かっていると考えます。  信仰の言葉化とそして教義化とのあいだに きわめて重い違いを表わす断層が横たわるという認識です。なぞとなぞのままの受け取りから 有ないし無というどちらか一つの極みに固めてしまう人間の決めつけへと移るからです。組織はこれをさらに固定させます。  (個人の内面における言葉化にあっても 有神論か無神論かいづれか一つに決めるのがふつうですから そういう意味での決めつけはあります。でも それはすべて 表現の問題なのです。《神よ》と呼びかけるか それとも《無い神よ / もしくは 神は無いのだ》と声を発するかの違いは なぞを一極のほうに固定するものではありません。  いわゆる偶像崇拝として――観念の偶像の崇拝として――どこを見てもそういう固定が 実際には まかり通っているようではありますが。もともとは 固定するものではありません。信教・良心の自由の範囲だという意味です)。  これらの認識は 《ひとり満ち足りている存在》と《わたし》との関係から得られるものです。ブッダはどこに位置するか? こういう問いになります。  つまり憶測で言えば こうです。もし《信仰を得た者をブッダである》と言うとすれば 《だれもがブッダである》となります。  いやいや目覚めている人は稀れだと言っても それは まだ眠っているのではなく すでに目覚めたあと眠りに入ったというふうに採ります。ゆえに《だれもがブッダである》。ならば ゴータマ・ブッダは われわれの内のひとりであり ふつうに互いに自由かつ対等であるとなります。このことを問うています。どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 amaguappa さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。二つの問いともまだ説得されません。その疑問をつづります。  ★ 意味解釈する視座においては組織が先立っていて、歴史においては洗礼が先立っているというような難しさですね。  ☆ これは おっしゃるように歴史学としてなら それでよいのかも分かりませんが 信仰という現象をあつかう哲学としては 肝心の中身がはっきりしない憾みがあります。  というのも 《すべてにおいて信仰が先立つものであった》と――たとえばアブラハムの事例を思い浮かべているのですが――捉えるのでなければ 話は始まらないと考えるからです。言いかえると 《歴史においては洗礼が先立っている》の《洗礼》の中身を明らかにする必要があります。つまりは 聖霊による洗礼が先立つという基本命題です。(時間的にというよりは 考え方においてです)。  ところが 実際は 《意味解釈する視座においては(――* そして現実の人間関係においても――)組織が先立ってい》るというのは 根本的なあやまちです。この組織があるかぎり 修復することも復元することも出来ないという判断が 一般になると考えます。  ★ ひとりきりではないもののひとり満ち足りている存在 / ということでよいのなら、  ☆ これは よくないですね。定義の問題として それでは《神》にはなりません。《絶対》ではありません。  《神は〈ひとりきり〉であるかどうか これが人間には分からない。分かるか分からないかが分からない》と言わねばならないからです。  あるいはまた  ★ 法身  ☆ は 《実体》ですよ。  ▲ (ヰキぺ:三身) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 法身(ほっしん):宇宙の真理・真如そのもの、仏性。  ○ 報身(ほうじん):仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。  ○ 応身(おうじん):この世において悟り、人々の前に現れる釈迦の姿。  ■ (法身)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  真理(法)の身体の意味で 永遠不変の真理(真如)の当体をさ〔す〕  (中村元ほか編集:岩波仏教辞典)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 仏性を境地と表現することはできないでしょう。  ☆ これにつきましては 次の見方などを参照していただきたいところです。あたかも仏性にもとづきと言い得るほどのかたちでひとは 信仰を得 それとしての境地に到るというものです。  ☆☆ (【Q:水による洗礼は要らないのではないか? ――サクラメントについて――】No.9補足欄から書きなおしたもの) ~~~~~~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5406034.html   或る晴れた日わがこころにおとづれた何ものか その何ものかにわたしはふと さとることがあって なおなぞであるそのものの方へとわがこころを回(めぐ)らす。  こころを回らしたあと 《なぞを受けとめこれをこころに受け容れた》という受領証を発行します。このわたしの経験的な意志行為によって《信仰》が成り立ちます。  つまりその証書にわがこころのハンコを押すことが 《信じる》という行為です。つまりなぜなら その署名捺印が こころの明け もしくは 伸びとして《信じる》という行為になります。要するに《そのなぞを受け容れる》ことです。  受け取りに先立つところはすべて 向こうからやって来る現象です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 揚げ足取りですが げんみつさが必要です。  ★ あるか?と問えばアプリオリには無で  ☆ ここは 《アプリオリには 有か無かが分からないし 分かるか分からないかが分からない》と規定するべきだと考えます。

noname#98341
noname#98341
回答No.36

知恵の木の実を食べるものはラーフ 生命の木を知る者はケートゥ 二人は元一体だった。 エデンの園へ

bragelonne
質問者

お礼

 あははは。  まぁ 梵我一如――あるいは 物我一如もあると聞いたわけだけれど――ならば すべての存在は互いに 《不二》だろうよ。  つまり不二にして 不可分離ではない。ないどころか 区分・区別はされていると言う。  だから  ★ エデンの園  ☆ はもうふるいと思うよ。  ★ 生命の木  ☆ はさすがに通史的だろうけれど。

noname#98341
noname#98341
回答No.35

龍とはまた龍樹 生命の木 知恵の木の実を蛇にそそのかされて食べ生命の木と切り離されたアダムとイブが 生命の木の意味を知る時 ユダヤの神 キリストの主 とは何かを知る

bragelonne
質問者

お礼

 ke-two くん お早う。投稿に余念がないね。あぁ わが蒙を啓くのだったか。  それはそうと  ★ 生命の木  ☆ は通史的ゆえ それでいいだろうけれど  ★ 善と悪を知る木 知恵の木は――科学による開発の問題にそのまま絡まるとは言うものの―― 原罪の問題としては もうすでにぜんぶ解決されていると捉えなきゃならんと思うのだが?   →【Q:われわれは原罪を犯せしや?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html  いまそういう主題でキの字だけでも出そうものなら かえって神は いぢが悪いということにならないとも限らない。つまり アダムらにへそを曲げさせておいて 独り子のイエスを送ってやっとそのへそ曲がりを元に戻すちからを与えたという話になってしまう。うんぬん。  まぁだいたい真夜中の声を聞くと眠りに就くのだが そしてきのうもそうしたのだが 朝が明けてみると 今回の質問はえらく繁盛しておりますな。あぁ 寝坊 寝坊。  * 現代人にとっては もう原罪は問わずして 《自然本性》という出発点でよいと思うのだが? しかもこの質問のごとく そこに《仏性》が宿るのか? の問題がある。

回答No.34

b:ありません。あり得ません。ただし――ただしです ただし―― その《予感》はあります。あるいは《あたかも部分的な経験》ということです。  直前の二つの回答でのやり取りでわたしは こころの明け もしくは 伸びについて書いています。あたかも窓が開いたかのように 《ひとり満ち足りている存在》があるかのように予感した。 というものです。そしてそれだけです。  どういう情況かと言えば これは詳しく述べてもあまり役に立たないと思われます。ただ 大事なことと思うのは 相手がいたということです。互いにこころをあたかも照らし合わせているかのような状態になっていたという意味です。  ただしわたしは相手にそのことを問い質したりしなかったので そしてその相手は初対面の人でその後会ったこともないので もうそれ以上は 知るよしもなくなっているというものです。 b:ありません。あり得ません。ただし その 予感 はあります。あるいは あたかも部分的な経験 ということです。  どういう情況かと言えば これは詳しく述べてもあまり役に立たないと思われます。ただ 大事なことと思うのは 相手がいたということです。互いにこころをあたかも照らし合わせているかのような状態になっていたという意味です。ただしわたしは相手にそのことを問い質したりしなかったので そしてその相手は初対面の人でその後会ったこともないので もうそれ以上は 知るよしもなくなっているというものです。

回答No.33

No.8回答欄(そのまま掲載)~~~~~~~~~~~~ b:神の定義は 絶対 ということです。  この経験世界を超えている という意味です。  ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。  相対的な相互関係としての存在ではない と自己を指し示すことになると思われます。  要するに 非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの 等々 です。 ◇なぜ、こう思ったのか?誰かの文章を読んでか?それとも経験と思考によるものか? No.8お礼欄(そのまま掲載)~~~~~~~~  ◇ なぜ、こう思ったのか?   ◆ これは異なことを! 表現が必ずしもどこででも見かけるのではないとしても ふつうの内容であると考えられます。  ◇ 誰かの文章を読んでか?   ◆ 影響を受けていると言えば アウグスティヌスでしょう。  そうですね。字句どおりとしては 《ひとり満ち足りている》が かれの神を形容することばにあったはずです。ほかは 字句じたいとしては 類推によるものでしょう。  ◇ それとも経験と思考によるものか?  ◆ つまり このとおりです。  こんなことがかかわってくるのですか? ********************************** ◇「なぜ、こう思ったのか?」という問いに対して、それを認めて答えてますよね。。。

noname#117439
noname#117439
回答No.32

オコリザルです。 A44の続きです。 慈悲は信仰の歴史に現れているので実現可能なんでしょうよ。 私は直感的に「そんな必要はない」と受け取ります。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 慈悲は信仰の歴史に現れているので実現可能なんでしょうよ。  ☆ ということになるとは思います。それは 《誰もがブッダである》という命題から出てくると思いますから。  ただ どういう現実であるか。となると 不確かなのでしょうね。どうなのでしょう?  ★ 私は直感的に「そんな必要はない」と受け取ります。  ☆ 現実可能性をうたがう必要はない。そして 不確かだが それでも うたがい続ける必要はない。ということでしょうか?  ま これも 《直観的かつ直感的に》そのように導かれるかとは思います。  ううーん。そうなると これからは 哲学的な人間学ないし人間関係論が必要になるでしょうね。  こころの表面での動きとしての心理を扱う心理学ではなく さりとて そのような心理を無意識なる領域を想定したあとその無意識とのつながりにおいて分析し説明する精神分析でもなく 哲学的な慈悲の実践にかんする分析と思惟が 要請されるように思います。  ふつうに人間と人間関係のありさまについて 思索しつつ大きくこころを捉える。その動機やこころづもりが 相手との関係で如何に振る舞われることになるか。それが慈悲にまで到るかどうか。双方はどう捉えたか。うんぬんです。

noname#98384
noname#98384
回答No.31

bragelonneさん、どうも。 ウパニシャツドの梵我一如の梵とは超越的絶対者ではなく、内在的絶対者だと思います。 この点で超越的な絶対者を措定する有神論に対立してスピノザの汎神論に近いと思います。 しかし仏教は諸法無我を主張し実体を認めないですから、梵我一如という思想は持たないです。 一如というならば仏教は物我一如という思想ですよね。 次は神の概念のカテゴリーについて書き込んでみます。

bragelonne
質問者

補足

 gotab55 さん こんばんは。No.4につづくご回答ですね。ありがとうございます。  ★ ウパニシャツドの梵我一如の梵とは超越的絶対者ではなく、内在的絶対者だと思います。  ☆ どうもわたしの印象〔ではいけませんが〕では 両方に当てはまるように思えるのですが? 特に《内在的》という場合には 《我=アートマン》のほうに重きを置いていると思いますが。    ▲ (ヰキぺ:ブラフマン) ~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3  ブラフマン (Brahman) は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。  サンスクリットの「力」を意味する単語からきている。特に、物質世界を変える儀式や犠牲(生贄)の力を意味する。そこから、単語の2つ目の意味が出てくる。2つ目の意味はヒンドゥー教の最高のカースト、ブラフミン (en:Brahmins) であり、彼らは上述のような力を持っているとされる。  神聖な書物であるウパニシャッドにあるように、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派 (Vedantic) の思想によれば、この単語が指しているのは、外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実である。それは純粋な存在と意識そのものであり、ある意味では「世界の魂」とも呼べるものである。  ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性として見なされ、個々人の魂を含む全ての存在に浸透している。それゆえに、多くのヒンドゥーの神々は1つのブラフマンの現われである。初期の宗教的な文書、ヴェーダ群の中では、全ての神々は、ブラフマンから発生したと見なされる。   Great indeed are the Gods who have sprung out of Brahman.   ( Atharva Veda)   偉大な事実は、ブラフマンの中から湧き出て来た神々である。   (アタルヴァ・ヴェーダ)  ウパニシャッドの哲学者は、ブラフマン = 「世界の魂」は、アートマン(atman、真我) = 「人類の内なるエッセンス」と同一であるとする。ヒンドゥーの神々の体系では、ブラフマンはブラフマーと同一のものと見なされる。ブラフマー(創造者)は三神一体(Trimurti)の神々の1つであり、ヴィシュヌ(保持者)と、シヴァ(破壊者)とは本来同一とされている。  ブラフマンは物質的宇宙の全体の背後にあるため、理性により提供される道具だけを使ってそれを説明しようとすると、人間の精神はすくんでしまう。ブラフマンは感覚を超えており、精神を超えており、知恵と知性を超えており、想像を超えている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 一如というならば仏教は物我一如という思想ですよね。  ☆ これは 唯物論という無神論に近いと思いますが つぎのように把握してみます。質料主義といえばいいでしょうか。  《相対としての経験世界が 世界のすべてであり そういうかたちで絶対である》というのだと捉えます。  《物》とは 質料とそれらの関係であり そのすべてであり そういうモノ相互の関係が 《我――これは 意識のことでしょうか――》とも関係しあっていると。  物言いです。  もし物我一如だとした場合 それでも 諸法無我なる原則がありますから 世界をこの《物我一如》として見ている人の意識も 移りゆくものであり 仮りにそのように世界が意識に映っているのみだということになりませんか?  《一如》として意識している――《空観》でしょうか――と言っても そしてそれが《法》だと言っても これらの《法=諸法 を意識したもの》が《無我》である。つまり根拠のあるものごとではなく 移ろい行く仮りの現象である。となるのならば すべては まぼろしだと言っていることになりませんか? ブッダたちは そんなことを真剣に考えていたのでしょうか?  でも 《仏性》の問題があります。これを持ち出すと  ★ スピノザの汎神論  ☆ にこちらも 近いということになりませんか? 仏説かどうか疑う場合もありますが 山川草木悉皆仏性というなら そうなると思われます。  結着はつかないですかね。

noname#98298
noname#98298
回答No.30

声なき声を聴き そこに住まうすべてのものが納得しながらすべてが活かされていくような道を探ぐり努力する談合 政治 真の民主主義の発現する場 その発露 その痕跡 民主主義は輸入されたものではなかった

bragelonne
質問者

お礼

 まぁ そうなんですけれど。  うたってしまわれても 何なんですがということになってしまう。  ま 詩として受け取りましょうか。  ★ 談合=寄り合い=井戸端会議  ☆ 直接民主制? いづれにしても 草の根会議の声がいつもいつも聞こえてくるようにしないといけないでしょうね。  優秀な人たちが ムラ(市町村)に就職するようになるといいでしょうね。  オバマが来ましたね。

関連するQ&A