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ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――
あらためて問いたいと思います。 【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。 * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。 【問い1】 ブッダは 神か? 【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か? 【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか? 【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか? 【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?
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ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ○ 生老病死を四苦というくらいですから・つまり生をも苦と言うくらいですから 少なくとも出発点は 悲観論であり 徹底的な諸行無常論であるのではないか。 悲観論につきましては、四苦八苦の八苦、例えば、「愛別離苦:愛する者と別離する苦しみ」、「怨憎会苦:怨み憎んでいる者に会う苦しみ」らは、確かに生での苦しみかと思われます。 また無常論につきましては、例えば三島由紀夫等もこれら“無常観”に影響されたとされています(下記サイトをご参照くださいませ)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 (“三島由紀夫と唯識”の箇所です) 従いまして、仰られますように、「徹底的な諸行無常論」と考えられます。 > ○ その限りで虚無思想であるとさえ捉えられます。しかも ここで 虚無ないし悲観ないし無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだのではないか。 “四諦”を釈尊が説いたとされております(つまり、いったんは“苦”を受け止め、それは避けられるものではなく、諦念思想でもって、“苦”を処理していくものかと察せられます)。従いまして、仰られますように、「無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだ」と考えてなんら支障はないものと察せられます。 > この《仏性》観が現われたので ブッダのあたかも神格化ないしかれ独りのみの《極度に偉大な超人的存在》化が つられて出て来がちになったのでしょうか 《仏性》観が現われる前、つまり、上座部仏教の折から、すでに「神格化」がなされていたようでございます。例えば、大パリニッバーナでは、釈尊の意向を無視し、遺骨に対しては、相当な“価値”を見出すようになり、争いすら起こったといわれています。 これは、愚見でございますが、釈尊がご存命中は、呪文等は原則禁止したなど、超越的概念を取り込むことには否定的だったかと記憶しております。ですが、入滅後すぐには、例えば古い経典のひとつであるスッタニパータ(あまり大乗仏教では重視されない経典かと思われます)でも、以下のような記載があり、入滅後直後には“神格化(仙人化)”がなされていたかと考えられます。 698詩 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である”仙人”(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。 また釈尊の十大弟子-目連も、“神通第一”とされ、超越的概念が取り入れられていることが示唆されます。 つまり、入滅後では(ほとんど直後には)、釈尊の神格化が著しく進んだと推察されます。 > ○ 無神論であることは とうぜん 《絶対》という想定を《無》で受けたものであるからには 片や《有》で受けたところの有神論と同等の《非思考なる信仰》の一形態である。 ☆ と考えるのですが いかがでしょう? これは愚見ではございますが、 「今回明らかにされたたとえば《無》については それは 有神論と無神論とに分かれる前の《ひとり満ち足りている存在》のことを おおむね 指し示したかたちである。」 とのご質問者様の意見とは少し異なっております。つまり、“スッタニパータ”はじめ、さらには大乗仏教の基礎となった“般若経”につきましても、“呪術的”な要素も含まれていたかと思われます。つまり、入滅後の著しい神格化(超越的存在化)が生じたこと、さらにまた、《無》というそこに価値を見出すのが非常に困難なものに対しまして、ひとびとは“信”の対象にするとは少なくとも愚生には考えにくく思われるからでございます。 お役に立てれば、幸甚に存じます。
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オコリザルです。 >仏であるお釈迦様は人間には煩悩があるなどと言っていますので、人間信仰ではなかったでしょう。 こうは言いましたが、お釈迦様は慈悲を施したらしいので、それは人間を愛することの表れではないでしょうか。 慈悲は救う事の求めがかなわないことを知らせる憐れみです。 釈迦さまにとっては救えぬことへの償いが慈悲なんでしょう。 この行いはどこかしら「殺人戦闘マシーン」なんですよ。
補足
そうですね。 ○ ゴータマ・ブッダには 出来のわるい部分があった。 ☆ および ○ われわれは一人ひとり誰もが ブッダである。 ☆ というふうに述べておきましょうか。 ★ 慈悲 ☆ については一筋縄では行かないようですので 次の質問と趣旨説明をかかげます。 【Q:慈悲は 経験現実か】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。 《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2 まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって( 人間S語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの( 普遍A語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。 ▲ (ヰキぺの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~ 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、 【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、 【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。 したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は 【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。 【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。 (一) 衆生縁とは 衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。 ☆ (これは =【S語】か?) (二) 法縁(ほうえん)とは、 すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。 ☆ (これは ≒【S語】か?) (三) 無縁とは 慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。 ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?) この三縁の慈悲とは、 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、 第三は 仏の哀愍の心であると言える。 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。 Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。 Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
汎神であるが故のバランス 揺らぎ振動しながらの統一力
お礼
これは 直前(No.42)のやり取りと同じようですね。 ここでもまた おとぎ話を引いておきます。 ▲ (イザヤ書11:1~10)~~~~~~~~~~~ エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。 目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。 弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。 その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。 子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。 わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。 水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。 その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。 そのとどまるところは栄光に輝く。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
一神の支配ではなく汎神性があったがゆえに自然に適合し食物連鎖を保ちながら共振の淘汰の中で長い年月をかけて食物連鎖のバランスの形成ができてきたと考えられる。
お礼
一点だけ見方を異にします。 ★ 一神の支配ではなく汎神性があった ☆ 唯一神と汎神論〔またいわゆる多神教〕とは けっして互いに違わないですよ。 ○ 《ひとり満ち足りている存在》なる唯一神は 全体という意味で《一》ですが もしそれを現象として捉えるなら――言いかえると 目に見える現象が 目に見えない唯一神とかかわりを持つと想定するなら―― とうぜん多くの神々もしくは汎神性として ひとは認識してみるものと思われます。 ★ 食物連鎖 ないし 自然淘汰 ☆ が有史以来のそのまま推移するかどうか。わたしは 何らかのどんでん返しが起こると思っています。かえって根拠のとぼしい話を出します。 ▲ (イザヤ書65:17~25)~~~~~~~~~ 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 初めからのことを思い起こす者はない。 それはだれの心にも上ることはない。 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。 わたしは創造する。 見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。 わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。 そこには、もはや若死にする者も 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。 百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。 彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく 彼らが植えたものを 他国人が食べることもない。 わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。 彼らは無駄に労することなく 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。 彼らは、その子孫も共に 主に祝福された者の一族となる。 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。 狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、 蛇は塵を食べ物とし わたしの聖なる山のどこにおいても 害することも滅ぼすこともない、 と主は言われる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
観、心に声なき声を映し聴くことは他の生物にまで拡大する。 汎神性があるがゆえに他の生物の状態も我が事と同じ背丈で心に映す。 地球温暖化による環境の変化や自然界への過干渉による生物の多様性の喪失傾向から予測できる食物連鎖の崩壊の危機の提示は観念的な思索によらなくても誰もが抑制の必要を認識できる土壌ができた状態と言える。 科学その知が人類という種が生き延びる為に獲得したものであるなら その知の蓄積はまた人類の存続のために使われるべきものであるだろう。 便利さを追求する為に発達した科学が人類の存続自体を脅かし始める それがウロボロスの輪の象徴でもある。
お礼
ううーん。 そういうウロボロスなら 仕方がない。それとも ウロボロスと言えば 初めからそういう種類のものだったの? そりゃまた失礼しました。 だが それとブッダとどういう関係にあると見るか。だったらむしろ ○ 梵我一如 ☆ のほうに分があるようにも思える。 世の中の現象のすべては 仮りにそういう姿を採って現われているのだと言っていたんぢゃ へたをすると 何もしないでもよいとなりませんか? (ま 極端だったか)。 ★ 便利さを追求する為に発達した科学が人類の存続自体を脅かし始める ☆ これは しかしながら 科学の自己発展の道を閉ざそうとするものではないと言わねばならないでしょう。それとも 科学による自己修復には限りがあるということでしょうか? すすむも地獄 しりぞくも地獄なのかなぁ。 * ここで例のおっさんは 散逸構造の理論を出してくると思われる。自己運動をつうじて 新たな秩序を ものごとはみづから作り出していくのだとか。 わたしは 人間の〔科学的な研究をつうじてその結果を踏まえての〕意志行為が大事だと思う者ですが その意志行為を含めた意味での《自己組織化》といった目安が持てるかに思っています。 なんですか ここでも ★ 耳を澄ませ。世界の波動に聞け。 ☆ となりましょうか? どうなんですか。
オコリザルです。 > ★ 神を信じることと人間を信じることの違いでしょうか。 ☆ げんみつに言えば 《相対世界にある人間》を信じることはありませんよ。それは 信頼するとか信用するとかの言葉を用いると思います。(むろん 文学表現としては ありえますが)。 お釈迦さまやイエスさんを宗教上信じることも、神様扱いしているとは言っても人間を信じることですよね。 いわゆる無神の場合は、特定の誰かさんじゃなくて、等しく生命全て又は人間すべてお信じようとする事だと思います。 これは確かにちょっとおかしいか、またはかなり無謀でして、今では人間すべてを「愛する」又は「愛の光を見出す」事なんだろうと考えています。 仏への信仰は、自らにも仏性が備わっていることがほぼ常識である以上は、やはりそのような人間信仰です。 ところが、仏であるお釈迦様は人間には煩悩があるなどと言っていますので、人間信仰ではなかったでしょう。
お礼
オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 あぁ そういう意味でしたら こうです。つまり ★ 人間信仰 ☆ に関しては ○ 人間という存在について 絶大な信頼を寄せる。 ☆ あるいはすでに主題として出したことのある ○ 関係の絶対性 ☆ を言うものと思います。この《関係》というのは むろん 《人間関係》のことです。 ★ 人間すべてを「愛する」又は「愛の光を見出す」事なんだろうと考えています。 ☆ になるのでしょう。 ★ ところが、仏であるお釈迦様は人間には煩悩があるなどと言っていますので、人間信仰ではなかったでしょう。 ☆ まさにこの質問の問うところですね。 ★ 仏への信仰は、自らにも仏性が備わっていることがほぼ常識である以上は、やはりそのような人間信仰です。 ☆ になっていたかどうかですね ブッダにあって。 感覚的な物言いとしては ○ ブッダは みづからのブッダとしての境地を あまりにも人びととのあいだで へだたりがあるかのように説いたのではないか。 ☆ そういう嫌いがあるように思われます。 ということは われわれがブッダを乗り越えていかねばならないということにもなるようです。
水面に起こる波紋 心を震わす琴線 貴方の今までの生が全身全霊をかけてその機微を峻別し聴き分ける `
お礼
波紋を起こす世界 ――世界に波紋を起こした 起こす波紋の世界 琴線の揺れるわれら煩悩具足の凡夫 こころが跳ねる けれども ブッダではまやかしだ これをわがこころは聞き分けた 聞き分けるこころの波紋 波紋をよぶ世界 世界に起こる波紋 * だが これは 中学生あるいは高校生なら もう分かる理屈だ。 仏性をどう扱うか?
その昔、天界には、不死の甘露ソーマという飲み物がありました。この不死の甘露ソーマは「それを飲んだものは不滅の生命を得ることができる」とても貴重なものなので、天界の神々だけに飲むことが許されていました。 あるとき、天界では、ソーマによる神々の饗宴が催されていました。ところが、悪魔のドラゴン(竜)が、その饗宴にもぐりこんで、こっそりとソーマを飲んでいたのです。それを神々である太陽と月が発見したのですが、自分たちだけでは力不足で、とても太刀打ちできそうにありません。 そこで、太陽と月は、根源的な神であるヴィシュヌ神に、悪魔のドラゴンがソーマを盗み飲みしたことを告げ口することにしました。そして、太陽と月の報告を受けたヴィシュヌ神は、その場で、ドラゴンの胴体を頭と尻尾の二つに断ち切ってしまいました。 ところが、不死の甘露であるソーマを飲んでいたドラゴンは、死ぬことができず、ドラゴンヘッド(竜の頭)とドラゴンテイル(竜の尻尾)という、別々の生き物として生まれ変わることになったのです。それ以来、告げ口をした太陽と月に対して恨みを抱いたドラゴンヘッドとドラゴンテイルは、太陽と月を飲み込もうとして、いつも追い回すようになり、太陽と月は、ドラゴンヘッド(ラーフ)とドラゴンテイル(ケートゥ)を恐れて、逃げ回るようになったのです。 占いなんかどっちでもいいから 象意の意味するところを自分で考えてね。 これは象徴であって すべてを”知る”ための君にドンピシャの内容だからさ。 言葉にするな 想え 観よ 静寂の中 汝の内に私を観る
お礼
まだ 投稿してくれるようだね。なんだか友みたいだね。 ま それはそれとして ★ 言葉にするな ☆ ったって 言葉にするよ。 つまり この物語は成っていない。 1. ★ 悪魔のドラゴン(竜)――☆ とは何か? この問題は ちょっとやそっとでは解明できないはずだ。ゆえにまだ成り立っていない話である。 2. 悪魔のそもそもの成り立ちは 如何に? 3. 天界の成り立ち如何? 4. 《死》を初めて知ったときの認識と判断 またそこからの世界観の形成・・・こういった話で ひとつの主題をつくるはずだ。 5. ★ 不死の甘露ソーマ――☆ これは 上の《死》の主題つまり死生観とかかわる。そして《不死》は 《神》つまり ひとにとっては 神との非思考の関係 の問題そのものである。 6. ★ 天界の神々だけに飲むことが許されていました。――☆ これは 社会が 二階建て構造になったという国家形態の問題である。第二階のアマテラス公民の秀才たちは 優秀なのか それとも 冷酷なこころの持ち主なのか。 7. 同じく なぜ一階のスサノヲ市民らは アマテラスらだけにソーマを飲むことをゆるしていたのか? 8. ドラゴンによるソーマの盗み飲みは スサノヲらの当然の正当な欲求を表わしているのかどうか? 9. あとは ひがみ・やっかみ・うらぎり・かげぐち・そして仇討ちなどなど うしろ向きの話である。そのこころの内で 曲がったへそがどんでん返しを起こさなければ何も始まらない。 ☆ と書いておこう。
一般人は普通そういうものを口にしたくと思っている。 ということだ。 いいところに気がついたなと言いたいところだが 木を見て森を見失うな ラーフとケートゥについては 参考URLを添えておこう http://www.astro9.com/dragon.htm
お礼
そうですねぇ。 賛同のご見解を寄せてもらったと言いたいところですが これまでのやり取りでも触れたように わたしも分かっていないのですよ。 むろん憶測・推測のたぐいは持っていますし いまもそれは進行中です。 要するに 専門家はどう考えているのか 知りたいところですね。 しかも そうでなくても 仏性は 必ずしもブッダ自身の理論ではないかも知れないように――つまり生活者市民一般の思いや願いを理論にしたようなかたちであるとさえ思えるように―― 一般の方がたも大いに自由に どこまでも自由に ゼッタイ自由に 見解を表わしてもらいたいところです。案外 そういう見方・捉え方のほうが 方向を示唆することがあるようです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 一般人は普通そういうものを口にしたくと思っている。 ということだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《口にしたく ≫ない≪ と思っている》でしょうか? それとも 《口にした ≫い≪ と・・・》でしょうか? ま いづれにしても 哲学としての主題であり課題であると考えますので 質問設定は とうぜんだと言っていいでしょう。 ラーフとケートゥの紹介の労をとってくれてありがとう。 この方面や若い人びとの関心の行き先などにわたしは うといですから ありがたい 助かったとお伝えしたいところですが ただ かなしいかな わたしが超然的で人びとから見れば傲慢に映るほどだからか うらないは いっさいわたしは受けつけません。あしからずご了承ください。よかったら 哲学に翻訳しておしえてください。 また友が増えました。
補足
おぎないます。 あぁ こういうことですか? つまり ○ われらの尊敬するブッダの株を下げるやつは とうふの角にあたまをぶつけてしんでしまえ。 ☆ やっと分かりました。 でも これまでに ブッダの美女マーガンディヤー事件などなど いくらでも ブッダをおとしめて来ましたよ。いまさらですか? あ ということは これまでの批判はまだ聞かなかったことにすることが出来るが このいまの指摘については どうしても考えなおしを避けて済ますわけには行かなくなった。困った 困ったというのでしょうか? ブッダは 出来のわるい思想を遺したものだな。しかも二千年有余もわれわれは どうもだまされて来たとさえ思える。あぁ 困ったわい。 というところなのでしょうか? あぁ これでおもしろくなって来ましたね。 【Q:ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5224310.html 【Q:無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5170144.html 【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html 【Q:ブッダの性愛観は 間違っていませんか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5145751.html 【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html
木は鉛筆か?みたいなピントがずれた質問ばかりでどれも答えようがないな。 何が君には分かっているのかな? 洋の東西の統一場を考えているのかもしれないけれど 決定的に欠けているものがある。 それを言葉にしてはならない ただ 思う そして ざわめく心を澄まして観よ かそけき相 汝は自らの内に私を見いだす ラーフよ 汝の心の眼を開くもの 私の名はケートゥ
お礼
ご投稿をありがとうございます。 ことばでは言い表わせないという意味でしょうか? むろんそこを言い表わしていこうという趣旨です。
- IdeaMaster
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◇No.19の改訂版◇ No.7の回答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。 神とは? No.7のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ b:神の定義は 絶対 ということです。この経験世界を超えている という意味です。ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。相対的な相互関係としての存在ではない と自己を指し示すことになると思われます。 要するに 非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの 等々 です。 No.8の回答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇なぜ、こう(No.7のお礼のような考え)思ったのか?誰かの文章を読んでか?それとも経験と思考によるものか? No.8のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇なぜ、こう思ったのか? b:表現が必ずしもどこででも見かけるのではないとしても ふつうの内容であると考えられます。 ◇誰かの文章を読んでか? b:影響を受けていると言えば アウグスティヌスでしょう。そうですね。字句どおりとしては「ひとり満ち足りている」が かれの神を形容することばにあったはずです。ほかは 字句じたいとしては 類推によるものでしょう。 ◇それとも経験と思考によるものか? b:つまり このとおりです。 No.11の解答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ b: 経験世界を超えている ◇とは、どういう意味か? No.11のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ b:この四次元の時空間から自由である。 という意味です。因果関係から自由な特異点である。という言い方でもよいのではないでしょうか?相対の世界によってまったく影響を受けない。つまり 絶対 であり それは 無限という概念でも説明できますね。 No.11の解答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ b:ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。 ◇ひとり満ち足りている状態を経験したことがあるのか? あるとすればそれは いつ、どこで、どういう時に? No.11のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ b:ありません。あり得ません。ただし その 予感 はあります。あるいは あたかも部分的な経験 ということです。どういう情況かと言えば これは詳しく述べてもあまり役に立たないと思われます。ただ 大事なことと思うのは 相手がいたということです。互いにこころをあたかも照らし合わせているかのような状態になっていたという意味です。ただしわたしは相手にそのことを問い質したりしなかったので そしてその相手は初対面の人でその後会ったこともないので もうそれ以上は 知るよしもなくなっているというものです。 ***************************** ※読みやすくするためにまとめたので、気にしないでください。(間にサルが入って分断されると見にくくなるので...)
お礼
なぜ この《改訂版》が必要だったのか。 同じものである。
補足
Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。 ううーん。論証していただいたと思います。感謝申し上げます。と同時にわたしも やはりもっともっとさらにさらに経典に分け入って 研究および論証ができたらなあと思いました。とうぜんそういうものなんでしょうね。 諸行無常を徹底させて行った。その先には まさに消え入るというかのような涅槃があって しかもこの状態において 或る種の安心を見たということなのでしょうか。解脱を得たのでしょうか。 このさとりの系譜から とうぜんのごとく 仏性の説は現われ出ることができた。 ただし この仏性の説とは別に シャカムニの入滅に際して その神格化は始まった。これは さとりや仏性の問題とは別個に いわば通俗的な事象として 行なわれるに到ったもののようである。 諸行無常あるいは諸法無我の説に立つなら とうぜんのごとく 経験世界が仮りの現象として成り立っているというのと相即的に 超経験の世界については いわゆる無神論である。 ただし とは言っても ブッダは 無記という捉え方をしているかも知れない。つまりは 相対世界を超えた絶対の領域については 有るとも無いとも言わないという姿勢であったかも知れない。 つまりはこれは もしそうであるなら 非思考という態度である。《経験思考を超えた領域の問題である》と捉えた。 これは わたしは 大きくは信仰のひとつの形態であると捉えたいと思うのです。 神については考えを及ぼさないし 触れない。言いかえると 神の想定じたいは 受けとめている。つまりは 神との関係として 非思考という態度ではある。 つまりは 無神論もしくは《無記神論》としての信仰であると捉えたほうが 一般的ではないだろうか。信仰を無記とする信仰(非思考)。なぜなら 非思考の態度じたいは 一たん採用していると捉えられる。 どうなんでしょう? 神の想定に対して 片や その想定は要らないとするのと 片や 想定を有とも無とも決めないとするのとでは違うと思われます。もし後者であるなら 正当な無神論であって それは 信仰をいっさい表現しないかたちの信仰であるように思われます。なぜなら それは 経験思考を超えているという前提の領域じたいは 認めているし 受けとめていると考えられるからです。むろん 信の対象にするのではないですが。 有神論と無神論とは 非思考という柱を挟んで背中合わせに互いに同等な《信仰》の形態であるように思うのです。 おわづらわせ申すと思いますが どうでしょうか。 * つまりは 無神論は 経験世界に絶対的に閉じこもるのではないと思うのです。もしそうであるなら 超経験世界に対して 信をめぐらすのではないが こころは開かれている。ならそれは 非思考というこころないし人格ないし存在のあり方であるように思われます。