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ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――
あらためて問いたいと思います。 【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。 * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。 【問い1】 ブッダは 神か? 【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か? 【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか? 【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか? 【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?
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ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ○ 生老病死を四苦というくらいですから・つまり生をも苦と言うくらいですから 少なくとも出発点は 悲観論であり 徹底的な諸行無常論であるのではないか。 悲観論につきましては、四苦八苦の八苦、例えば、「愛別離苦:愛する者と別離する苦しみ」、「怨憎会苦:怨み憎んでいる者に会う苦しみ」らは、確かに生での苦しみかと思われます。 また無常論につきましては、例えば三島由紀夫等もこれら“無常観”に影響されたとされています(下記サイトをご参照くださいませ)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 (“三島由紀夫と唯識”の箇所です) 従いまして、仰られますように、「徹底的な諸行無常論」と考えられます。 > ○ その限りで虚無思想であるとさえ捉えられます。しかも ここで 虚無ないし悲観ないし無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだのではないか。 “四諦”を釈尊が説いたとされております(つまり、いったんは“苦”を受け止め、それは避けられるものではなく、諦念思想でもって、“苦”を処理していくものかと察せられます)。従いまして、仰られますように、「無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだ」と考えてなんら支障はないものと察せられます。 > この《仏性》観が現われたので ブッダのあたかも神格化ないしかれ独りのみの《極度に偉大な超人的存在》化が つられて出て来がちになったのでしょうか 《仏性》観が現われる前、つまり、上座部仏教の折から、すでに「神格化」がなされていたようでございます。例えば、大パリニッバーナでは、釈尊の意向を無視し、遺骨に対しては、相当な“価値”を見出すようになり、争いすら起こったといわれています。 これは、愚見でございますが、釈尊がご存命中は、呪文等は原則禁止したなど、超越的概念を取り込むことには否定的だったかと記憶しております。ですが、入滅後すぐには、例えば古い経典のひとつであるスッタニパータ(あまり大乗仏教では重視されない経典かと思われます)でも、以下のような記載があり、入滅後直後には“神格化(仙人化)”がなされていたかと考えられます。 698詩 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である”仙人”(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。 また釈尊の十大弟子-目連も、“神通第一”とされ、超越的概念が取り入れられていることが示唆されます。 つまり、入滅後では(ほとんど直後には)、釈尊の神格化が著しく進んだと推察されます。 > ○ 無神論であることは とうぜん 《絶対》という想定を《無》で受けたものであるからには 片や《有》で受けたところの有神論と同等の《非思考なる信仰》の一形態である。 ☆ と考えるのですが いかがでしょう? これは愚見ではございますが、 「今回明らかにされたたとえば《無》については それは 有神論と無神論とに分かれる前の《ひとり満ち足りている存在》のことを おおむね 指し示したかたちである。」 とのご質問者様の意見とは少し異なっております。つまり、“スッタニパータ”はじめ、さらには大乗仏教の基礎となった“般若経”につきましても、“呪術的”な要素も含まれていたかと思われます。つまり、入滅後の著しい神格化(超越的存在化)が生じたこと、さらにまた、《無》というそこに価値を見出すのが非常に困難なものに対しまして、ひとびとは“信”の対象にするとは少なくとも愚生には考えにくく思われるからでございます。 お役に立てれば、幸甚に存じます。
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オコリザルです。 二度の補足要求でbragelonneさんと見解について特に正す点が無いことを了解できました。 ほぼ同一の解釈であり教養や知識にも優れたbragelonneさんに、私から観想のような事を述べる必要はなさそうです。 神の定義で思いついたのですが、人間が絶対ではないと定義しても、絶対の神への信仰は持ちうるのではないかとも考えました。神への信仰が絶対に及ぶ心境です。 それは無の悟りとは表現しないで、どちらかと言うと完全非思考と言った方がいいでしょう。 私の何も考えない状態になれる特技を定義するならそんな感じです。その中身は信仰のみには限らないで、生きている自覚全般に及びますけどね。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 オコリザルさん ○ われわれは おのおの誰もが ブッダである。 ☆ これでいいのですね? ○ われわれは 一人ひとりが 〔小文字の〕キリストである。 ☆ とも表現してみたいところですが これは語弊があります。つまり 括弧書きが必要でしょうね。 ★ どちらかと言うと完全非思考と言った方がいいでしょう。 ☆ ブディスムは 阿弥陀仏信仰としての有神論を別とすれば けっきょく ○ 《完全なる相対主義》 あるいは 《絶対としての相対 / もしくは 相対としての絶対》――つまりは 世界はまったく相対的な時空間のみという見方―― ☆ であるようにも このやり取りをするほどに考えました。 ★ 神の定義で思いついたのですが、人間が絶対ではないと定義しても、絶対の神への信仰は持ちうるのではないかとも考えました。神への信仰が絶対に及ぶ心境です。 ☆ これは そうでしょう。つまり 《絶対》のことを 相対の世界にあって相対としての存在でしかない人間が 何を考えても何を言っても どのように言葉で規定してみても 《絶対》はまったく痛くもかゆくもないということでしょう。 おそらくそのような関係――これは 人間の側からのみ言うことになるのですが そのような神との関係―― これが そのまま《信仰》という非思考のことであるでしょう。そのときにはわづかに われわれのこころが その窓を明けたかのように感じられますし もしくはやはりこころがそちらのほうへ伸びたかに感じられるのだと思います。 このこころの明けもしくは伸びを おのれがみづからの内面に認め受け容れたとき 信仰は成り立つのだと考えます。 つまりはこのこころの明けをあたかも促したかのようななぞのおとづれ これが 聖霊による洗礼であると考えます。 そしてこれをなんで水による洗礼としても 儀式のかたちでおこなわなければならないか。こういうことも考えていました。 ○ 仏性 ☆ はこの神なる聖霊にひとしいのか? これが問い求めのひとつですね。
- IdeaMaster
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b:神の定義は 絶対 ということです。 この経験世界を超えている という意味です。 ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。 相対的な相互関係としての存在ではない と自己を指し示すことになると思われます。 要するに 非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの 等々 です。 ◇なぜ、こう思ったのか?誰かの文章を読んでか?それとも経験と思考によるものか?
お礼
◇ なぜ、こう思ったのか? ◆ これは異なことを! 表現が必ずしもどこででも見かけるのではないとしても ふつうの内容であると考えられます。 ◇ 誰かの文章を読んでか? ◆ 影響を受けていると言えば アウグスティヌスでしょう。 そうですね。字句どおりとしては 《ひとり満ち足りている》が かれの神を形容することばにあったはずです。ほかは 字句じたいとしては 類推によるものでしょう。 ◇ それとも経験と思考によるものか? ◆ つまり このとおりです。 こんなことがかかわってくるのですか?
- IdeaMaster
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【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。 神とは?
お礼
この定義も けっきょく ○ 《絶対》 ☆ ということを示しています。 ○ 《この経験世界を超えている》 ☆ という意味です。 ○ 《ひとり満ち足りている》なら 《何ものかとの関係が要らない》 ☆ ことです。 ○ 《相対的な相互関係としての存在ではない》 ☆ と自己を指し示すことになると思われます。 ○ 要するに 《非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの》等々 ☆ です。どうでしょう?
- mmky
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参考までに 【問い1】 ブッダは 神か? 答え:YES God=神という解釈が混乱を与えてる。God=仏陀。神(かみ)=上(かみ)、つまり尊敬される上位の者という意味しかない。上の者を人は神と呼んでもよいがその場合、最上位に位するものが仏陀です。このときは「God Of Gods」あるいは「Master of Masters」を仏陀といいますね。そういう意味では仏教は一神教ですが仏陀は寛容ですから上(仏陀以下)を神と呼んでもよいとしているだけですね。 【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か? 2つに分けて 1)ブッダは 人間の境地か? 答え:NO 2)仏性は 人間の境地か? 答え:YES ・・全ての人間が有するものが仏性という意味。 仏陀は宇宙の英知、創造主ですから人間ではありえない。人間は仏陀が自身の英知の一部で創造した生物だから仏陀の一部、つまり仏性が宿っているということですね。 【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか? 答え:YES 仏陀は宇宙の英知であり宇宙そのものである。それゆえ、梵(宇宙)我(仏陀)一如(同じもの) 付け加えれば、仏陀の悟りは全ての宇宙即我(ご自身が創った宇宙ですから当然なこと)ですが仏教の高僧の梵我一如はよくて地球即我ぐらいのもの。 【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。 答え:無関係 「諸法無我」の意味解釈が間違っているだけでしょう。
お礼
補足欄の書きなおしです。 おしまいのところで ○ 神(かみ)≠上(かみ) ☆ と言いたかったのです。 ・まちがい: ○ かむぃ kamui ≒ かみ kami ・ただしい: ○ かむぃ kamui ≠ かみ kami ○ 諸法無我と梵我一如との関係について おぎないです。 ▲ (ヰキぺ:梵我一如) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。不二一元論ともいう。 ▲ (ヰキぺ:アートマン) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3 ○ 仏教における解釈 釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。無我を知ることが悟りの道に含まれる。しかし、個の中心にある「無」を知ることが悟りとされることもあり、この場合、「無」が「アートマン」と同じものだと捉えることもできる。 仏教が最終的にインドから消滅した理由に、「我はない」とした初期の仏教の教えにあるとする説もある。「我の中心にある偉大なアートマンは祝福に満ちて、花びらが舞降りている」という説明を聞くと人はアートマンを求めようとするが、「我は存在しない」という事など人は知りたくもない、というわけである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ゴータマ・ブッダがそうしたかどうかを 別として ブディスムは けっきょくアートマンもブラフマンもともに認めて 梵我一如の思想に戻ったということでしょうか?
補足
mmky さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。 ☆ この《神》が 異なる存在として二つより多くあるとおっしゃっているのですが それはまとめて一つ(つまり全体としての一)と見なして すすめます。 もはや復唱をはぶきますが 二点 疑問が残ると考えます。 まづ 【問い9】 《神であるブッダが 人間の境地ではない》とすれば 歴史上の人物であるゴータマ・シッダルタは この意味でのブッダではないということになりませんか? つぎに ★ 「諸法無我」の意味解釈が間違っているだけでしょう。 ☆ みなさんとともに つぎの説明を参照します。 ▲ (ヰキぺ:諸法無我) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91 諸法無我(しょほうむが、sarva-dharma-anaatman )は、・・・釈迦の悟った項目の一つである。すべての存在には、主体とも呼べる「我」(が)がないことをいう。 諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。 我とは「常一主宰」(常とは常住、一とは単独、主宰とは支配すること)のものといわれ、つまり常住である単独者として何かを支配するものを指す。 ・・・これは一般に有我論が説かれている最中に釈迦だけが主張した仏教の特色である。諸法無我は、インド在来の実体的な「我」の存在を否定し、あらゆる存在に常住不変の実体のありえないことを主張する。 ・・・この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。 〇 神の存在について 有為法だけでなく無為法を含めてすべての存在には主体とも呼べる我がないというのは、 (α) 他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我で あることを意味する。これは絶対者の否定ではなく、神などもまた我々 との関係の上にのみ存在することを意味している。 仏典の中にも神が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【問い10】 ★ 仏陀は宇宙の英知、創造主です ☆ と上の(α)とは 矛盾するように思いますが いかがでしょう? 《創造主》は 《絶対者》であることが一般です。 * なお ★ 神(かみ)=上(かみ) ☆ これは 日本語学では ○ かむぃ kamui ≒ かみ kami ☆ と説かれていることを添えます。大野晋『古語辞典』。
- IdeaMaster
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【問い1】いいえ 【問い2】仏陀とはどういう意味か? 仏性とはどういう意味か? 人間の境地とはどういう意味か?
補足
IdeaMaster さん ご回答をありがとうございます。 ★ 仏陀とはどういう意味か? ☆ そのひとが思っている概念でもいいと考えますが 次のような定義をおきましょうか。とっかかりだけのかたちですが。 ▲ (ヰキぺ:仏陀) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80 仏陀(ブッダ、buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。buddha はサンスクリット語で「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 修正・訂正してすすめられてもよいと思います。 ★ 仏性とはどういう意味か? ☆ 同じくヰキぺの記事をひとつのたたき台とします。 ▲ (ヰキぺ:仏性) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7 仏性(ぶっしょう)とは、仏の性質・本性のことで、主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教の教理である。また『法華経』では、仏種(ぶっしゅ、「仏に成る種」)、『勝鬘経』では、如来蔵(にょらいぞう)などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である。 仏教では、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 特には 《山川草木悉皆成仏 / 一切衆生悉有仏性》というときのそれを ここでは考えに入れようと思っています。 ★ 人間の境地とはどういう意味か? ☆ 次の辞書の説明に従います。 ▲ (goo 辞書:【境地】きょうち) ~~~~~~~~~~~~~ (1)修養や経験を積んで得られる、心の状態。心境。 「無我の―」「悟りの―に達する」 (2)その人独自の心境の反映としての世界。 「新―を開く」 (3)その人がおかれている立場や身辺の事情。 「せっぱ詰まった―に立たされる」 (4)場所。土地。環境。[日葡] * 補足説明(4)が原義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 【問い1】 いいえ ☆ まだ保留します。 どうでしょう?
仏教においては、神について語ることは世界について語ることである。 つまり「神は非人格的秩序で世界はそれに適合すると見なす」 この非人格的秩序こそが法(ダルマ)の概念なのです。
お礼
gotab55 さん ご回答をありがとうございます。 いまひとつ分かりにくかったのですが。 ★ 仏教においては、神について語ることは世界について語ることである。 ☆ ということは 【定義1】になじむということでしょうか? そうではないということでしょうか? ★ つまり「神は非人格的秩序で世界はそれに適合すると見なす」 ☆ 《非人格的秩序》として《ひとり満ち足りている存在》を思い描いてもよいのでしょうか? ★ 世界はそれ(=《非人格的秩序》)に適合すると見なす ☆ この《世界》は われわれ人間が住む経験世界 ですよね? ★ この非人格的秩序こそが法(ダルマ)の概念なのです。 ☆ だとすれば この《法(ダルマ)》に 《経験世界 もしくは 人間の〈わたし〉》が《適合すると見なす》ということになりますね。 でしたら おおむねにおいて 【問い8】≒【問い4】 《法(ダルマ)》は《ブラフマン(梵)》に そして《世界 ないし〈わたし〉の内なる世界》は《アートマン(我)》にそれぞれ対応するようですから やはり 《梵我一如》になると思えるのですが 違いましょうか? ☆ どうでしょう?
オコリザルです。 ブッダと「人間」の関係、または仏性と人間性の関係、についていかがお考えですか。 史実に現れる「仏」とはごく単純に現代では人間のことを言うと考えています。
お礼
そうですね。 わたし自身の考えを述べよということでしたら それは 浄土系のブディスムになります。親鸞ですね。 ○ ゴータマという人は われわれと同じように その自然本性において 仏性を持つ。〔神の霊が宿るというのと同じに捉えます〕。 ○ ゆえに そのように仏性を宿す存在として ブッダ(目覚めたひと)と呼ぶ。 ○ つまり だれもがブッダである。 ☆ という見方です。という見方と同じでしょうか? ★ 史実に現れる「仏」とはごく単純に現代では人間のことを言うと考えています。 ☆ についてです。
オコリザルです。 長らく仏性に関しては意見交換してきましたが、「仏の現代語訳は人間」これのみが私の一貫した見解。 bragelonneさんの見解は明らかにはされていません。 これは信教の問題により、切り離しておく必要も、対話を継続させるためにはあり得ます。 信教から離した冷静な分析の限りでは、お釈迦様のみがブッタではないとお考えなのでしょうが、外堀は埋まったと言いうるのでしょうか。
お礼
オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 えっ? えっ? そうなんですか? ★ 「仏の現代語訳は人間」これのみが私の一貫した見解。 ☆ これは まだ飲み込めていないのです。 【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か? ☆ に対して そうであるというお答えなのでしょうか? ★ bragelonneさんの見解は明らかにはされていません。 ☆ わたしの見方は この問いの中にあります。 ひとことで言えば ○ 阿弥陀仏の信仰にあっては 神の信仰と同じようだが そのほかのブディスムでは 無神論での《無神》という神の信仰のもとに ふつうの経験思想を説いている。 ☆ これです。でもわたしは 外から見ていますので 何度もたずねなくてはなりません。はっきりさせたいと思っています。 ★ 信教から離した冷静な分析の限りでは、お釈迦様のみがブッタではないとお考えなのでしょうが、外堀は埋まったと言いうるのでしょうか。 ☆ いやぁ これもはっきりしません。そうではないと思います。いえいえ ふたたび そうではなくて ○ ブッダが何であるかが分からないのですから なんとも見方をはっきりさせられない。 ☆ のです。 さらに尋ねるべきは 【問い7】 仏性は 神の霊と同じではないのか? ☆ というふうにも問いたいところです。 こんな状態なのです。ぶっちゃけた話はです。
1X 2O 3失格 4同上 5仏陀は現実ではない。法を護持する人である。 というこたえです。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 ブディスムが ヱ゛-ダの《梵我一如》をしりぞけるのは分かりますが では 問います。 ★(α) 仏陀は現実ではない。(β) 法を護持する人である。 ☆ ですが 《人である》なら 《現実》であるはずですよ? つまり【問い2】で ★ 2 O ☆ すなわち《人間の境地である》というのですから。 ☆ (β)で《法》というのなら――細かい定義内容を問わないとすれば―― それは 宇宙の原理と言うべき《ブラフマン》とあまり違わないのではないでしょうか? その ★ 法を護持する人 ☆ であるなら 人は《アートマン(我)》と言えそうですから やはり 《梵我一如》とすでに おおむねでは 言っていることになると思うのですが どうでしょう? 【問い6】 ブッダは 神ではなく しかし人間の境地であるということであれば それは一体どういう現実なのか? ☆ つまりこれなら ふつうの人間の境地であり ふつうに教養があり勤勉であり人に思いやりのあるかたちで《法を護持する人》一般を言うことになりませんか? あるいは それでいいということでしょうか?
補足
Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。 ううーん。論証していただいたと思います。感謝申し上げます。と同時にわたしも やはりもっともっとさらにさらに経典に分け入って 研究および論証ができたらなあと思いました。とうぜんそういうものなんでしょうね。 諸行無常を徹底させて行った。その先には まさに消え入るというかのような涅槃があって しかもこの状態において 或る種の安心を見たということなのでしょうか。解脱を得たのでしょうか。 このさとりの系譜から とうぜんのごとく 仏性の説は現われ出ることができた。 ただし この仏性の説とは別に シャカムニの入滅に際して その神格化は始まった。これは さとりや仏性の問題とは別個に いわば通俗的な事象として 行なわれるに到ったもののようである。 諸行無常あるいは諸法無我の説に立つなら とうぜんのごとく 経験世界が仮りの現象として成り立っているというのと相即的に 超経験の世界については いわゆる無神論である。 ただし とは言っても ブッダは 無記という捉え方をしているかも知れない。つまりは 相対世界を超えた絶対の領域については 有るとも無いとも言わないという姿勢であったかも知れない。 つまりはこれは もしそうであるなら 非思考という態度である。《経験思考を超えた領域の問題である》と捉えた。 これは わたしは 大きくは信仰のひとつの形態であると捉えたいと思うのです。 神については考えを及ぼさないし 触れない。言いかえると 神の想定じたいは 受けとめている。つまりは 神との関係として 非思考という態度ではある。 つまりは 無神論もしくは《無記神論》としての信仰であると捉えたほうが 一般的ではないだろうか。信仰を無記とする信仰(非思考)。なぜなら 非思考の態度じたいは 一たん採用していると捉えられる。 どうなんでしょう? 神の想定に対して 片や その想定は要らないとするのと 片や 想定を有とも無とも決めないとするのとでは違うと思われます。もし後者であるなら 正当な無神論であって それは 信仰をいっさい表現しないかたちの信仰であるように思われます。なぜなら それは 経験思考を超えているという前提の領域じたいは 認めているし 受けとめていると考えられるからです。むろん 信の対象にするのではないですが。 有神論と無神論とは 非思考という柱を挟んで背中合わせに互いに同等な《信仰》の形態であるように思うのです。 おわづらわせ申すと思いますが どうでしょうか。 * つまりは 無神論は 経験世界に絶対的に閉じこもるのではないと思うのです。もしそうであるなら 超経験世界に対して 信をめぐらすのではないが こころは開かれている。ならそれは 非思考というこころないし人格ないし存在のあり方であるように思われます。