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老子は無神論か?
- 老子は無神論の形態であると捉えることができる。
- タオイズムは「道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如」という信仰を持ち、有限の存在である自己の生命を道の無限性と結合し一体化することを求めている。
- しかし、タオイズムがこの問題について明確な答えを出していない場合、その思想は取り上げるに値しないものであると言える。
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こんにちは。 ~~~~~~ G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如 道:無限性:無為自然 人:有限性:人為不自然〔を超えて〕 ~~~~~~ 類型的には、そうなるのであろう、と思います。 老荘の《道》は、bragelonneさんの用語で言うところの《神》と同種の概念なので。 その正体が何だか分からない、どのようなものであるか、(生成の)メカニズムもわからない、だからこそ《道》とひとまず名づけているにすぎないので。 《道》(についての『老子』内の記述)は、直観や直覚というよりは、多分に思弁的な産物であろうかと思いますけれども。 階層的(?)には、 道 → 天・地 → 万物(or現象的存在) となるのでしょう。 そして、 天は擬人化されて、天帝や上帝と言った擬人的な神となる。 まぁ「人為不自然」となるのでしょうね。 出典は『荀子』(儒家)だと思いますけれども、 「人」 + 「為」 = 「偽」 の方がいいのかもしれませんけれども。 『荀子』の性悪に出てくる「偽」は、falseの意味ではなく、行為・deedの意味だそうで、原意からは外れますが、 この図式はわかりやすいと思います。 ~~~~~~ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。 ~~~~~~ 《ハカラヒ》ですよ。 そして、その《ハカラヒ》を捨てろ、と言っている。 この《ハカラヒ》を捨てろ(と言うこと)すらも、《ハカラヒ》です。 ~~~~~~ (7) 言いかえると あと一つ問題なのは ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか ~~~~~~ 私の理解ですと、 『荘子』ではこの面が全面に出てきますけれども、『老子』ではこの面は強くない、 ですよ。 『論語』もそうですけれども、 『老子』は、政治をする側の人間、為政者を対象にして書かれた著作であり、一般向けの書ではない。治世術ではあるけれど、《人間》の書でもなければ、《人間》の哲学でもない。 『老子』は、草の根を起源にする『荘子』とは立場がかなり異なります。 『老子』の中には、「民を分断支配し、さらに民に文明の利器や情報を与えず、おバカにしちゃえ。そうすれば、おバカな民は今の状態を幸せだと考え、国はうまく治まる(民のお腹を満たせさえすれば、民はお上に逆らったりしない。現代中国もこれと何ら変わっていない)」といった《小国寡民》といった考えが出てくるでしょう。 「聖人は不仁、百姓をもって芻狗(すうく)と為す」(第5章) ともあります。 http://www.k5.dion.ne.jp/~sasara-p/Tao-jigen-Lao-tzu-5.htm 聖人、つまり理想的な為政者は、民を可愛がってはいけない。情けなんかをかけてはいけない。そして、用済みになれば、芻狗のごとく捨てる(べきである)、ポイ捨てする。 天地がそうなんだから、為政者もこれに倣ってそうすべきだ、と説くんでげす。 ですから、 『老子』を《人間》の書なんて考えてはいけない。 ~~~~~ ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。 ~~~~~ 《道人一如》といった面が前面に出てくるのも、『荘子』ですよ。 書物『荘子』から書物『老子』を見ている。『老子』を『荘子』の文脈で理解・解釈しようとしている。 『荘子』から『老子』を見てもいけないし、『老子』から『荘子』を見てもいけないんでげすよ。 むしろ、 『老子』と『荘子』は、思想的連絡性が何の繋がりもない別な書と考えた方がいいんでげすよ。
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- kurinal
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>「これは 端的に言って 日本的霊性である」 人権を侵害しないでね。
- kurinal
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B様、こんばんは。 >「理論では必ず往生できるし している」 「統一的な「考え」」に対する「憧れ」は、判るのですが、 老荘思想と「理論では必ず往生」とは、 ミックス出来ないように思います。 >「それは もう取り上げるに足りない。のではないか?」 「往生」理論では、そうかもしれないですか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ >「理論では必ず往生できるし している」 「統一的な「考え」」に対する「憧れ」は、判るのですが、 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その分かったという内容は わたしが言おうとしていることと逆です。 理論としてその中で――理論の述べる範囲内で―― 往生できるし している。けれどもそのような・それとしてまとまった理論内容からは一歩離れた距離を置く。だから その理論どおり往生するのかどうか そんなことは知らない。と親鸞は言っている。こうです。 ですから 《憧れ》ではなく その反対です。 よく読んでね。
- kurinal
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B様、こんばんは。 所詮、 「福永(訳)」から出発した、とか 「親鸞から出発した」とか、 なんですか。
お礼
wwwww
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ぢゃあ ( a ) まづ『荘子』は 別扱いにするということですね。基本的に経験思想であると。 ( b ) 『老子』は ふたつに分かれる。信仰論として扱うのがのぞましい部分とたとえば《職業としての政治》論そのものである部分とに。 ( c ) ゴータマ氏の場合もそうだが 必ずしも《信仰》なる動態について 老子も知らない。わづかに 《道》を《非知》としての内容として想定しているようであるから これを神として 梵我一如・類型に当てはまる信仰の形態を打ち出していると見てもよいかも知れない。 ( d ) ただし それなのに 一部では《道人一如》なる信仰――非思考の庭――としての動態の姿をわざわざ人間の意志行為として(いわゆるブディズムで言う自力聖道門として)実現しようとするかに受け取れるところがある。これは 訂正しておくのがよい。絶対他力として。 ( e ) または 無神論の類型として捉えることも出来る。 ( f ) 《職業としての政治》にかんして: ◇ 治世術ではあるけれど、《人間》の書でもなければ、《人間》の哲学でもない。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『老子』の中には、「民を分断支配し、さらに民に文明の利器や情報を与えず、おバカにしちゃえ。そうすれば、おバカな民は今の状態を幸せだと考え、国はうまく治まる(民のお腹を満たせさえすれば、民はお上に逆らったりしない。現代中国もこれと何ら変わっていない)」といった《小国寡民》といった考えが出てくるでしょう。 「聖人は不仁、百姓をもって芻狗(すうく)と為す」(第5章) ともあります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( g ) 『職業としての政治』において《政治家が悪魔と手を結ぶ》というくだりを確認します。: ▲ (M.ヱーバー:政治家と悪魔) ~~~~~~~~~~~~~ およそ政治をおこなおうとする者 とくに職業としておこなおうとする者は・・・すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。 無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは ナザレの生まれ〔のキリスト・イエス〕であれ アッシジの生まれ〔の聖フランチェスコ〕 インドの王城の出〔のブッダ〕であれ 暴力という政治の手段を用いはしなかった。彼らの王国は《この世のものにあらず》ではあったが それでいて彼らは昔も今もこの世に影響を与え続けている。〔トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。 自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は これを政治という方法によって求めはしない。政治には それとまったく別の課題 つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きているのである。 (ウェーバー:職業としての政治 1919 脇圭平訳 pp.99-100) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( h ) ヱ―バーは でーでーてーさんがお好きなようですが わたしは大嫌いです。 ここは 利害関係が相反する案件について どちらか一方に不利になるようであっても決断をするといったほどの問題と あとは 誘拐犯やテロリストといかに向き合うかの問題があるのだと思います。《悪魔と手を結ぶ》というのは 表現のアヤだと考えます。 老子は この部分では たいした思想ではないようです。寄らしむべし 知らしむべからず。愚民政策ということのようです。