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信じないとは非思考の庭にて信じないと信じることだ
- 信じないとは非思考の庭にて信じないと信じることだ
- 信仰を思考に代えた宗教は、不要な思考や想像を排除している
- さまざまな宗教の形態は異なるが、共通して非思考の信仰を持っている
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こんにちは。 すこし調べてみたのですが、 《非知》という言葉は、バタイユが使っているらしいですね。 ──────────── ただ、この<非-知>がやっかいで、バタイユによると理性ではわかり得ない領域をさしており、ある究極の状態であるということなのである。さらにバタイユは<非-知>を説明不能の状態でありながらも、それを伝えるため言葉で語っているため二重の難解さが発生しているのです。 http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/1e21ffdf201798abcbf38cf64c862395 ──────────── 神秘主義でいうところの《神秘体験》の場を非経験の庭ととらえれば、 おそらく、 bragelonneさんのものと同じ構図になるのでしょう。 神秘主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9 仏教などですと、 《悟り》という言葉を使うとすこし問題がある───使い古される過程において、いろいろな不純物、夾雑物、解釈がはいっている。特に問題なのは、《禅》の怪しげな《悟り》、ナマザトリ!!───ので、 この境地、世界(?)、領域を《あのくたらさんみゃくさんぼだい・anuttara-samyak-sambodhi》と呼んだ。 これは、肉体を有する、その意味において有限な人間の到達可能な、最終的な《神(?)領域》ということになるんでしょう。 そして、 《anuttara》は、けっして、仏教の専売特許ではなく、 ジャイナ教では、《神さま領域・class of gods》を意味します。 そして、これがいかなるものであるか答えることができない・《anuttara》の領域です。 これを言葉にしたら、言葉で表現したら、その時点でウソになってしまう世界、領域・・・。 ──────────── anuttara: mfn. chief , principal ; best , excellent ; without a reply , unable to answer , silent ; fixed , firm ; low , inferior , base ; south , southern ; (%{am}) n. a reply which is coherent or evasive and therefore held to be no answer ; (%{As}) m. pl. a class of gods among the Jainas. http://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/cgi-bin/tamil/recherche ──────────── ほいで、 仏教の悲劇は、 インドの《ダルマ・dharma》という超多義語を使わざるを得なかったところあるんでげしょ。 《dharma》という言葉は、現象、存在、オシエ、道徳、法律、真理などなど、なんでも意味しますので。 ───大乗は、これを逆手にとった(笑い)─── 《dharma》のオシエ、道徳、戒律などが強調され、前面に出れば、《Theravada・テーラヴァーダ》になる。戒律主義になる。 現象や存在が前面に出れば、《あびだるま・abhidharma》哲学になってしまう。 歪んでしまう。 律、論、経などは、あくまで《anuttara》に至るための下準備に過ぎないんですがね~。 こんなことを言うと怒られてしまうかもしれませんが、 基本、変わらないんですよ、 仏教とバラモン・ヒンズー教の《ヨーガ学派》。 ほとんど同じ。 最後の一線、《anuttara》の領域のとらえ方、表現が違うだけ(笑い)。 そして、 ブディストの皆さんは、 「《ヨーガ学派》の説くヨーガでいたることのできる最高の境地、心的状態は《無想定》だ。俺らには、その《無想定》の上の究極のヨーガ《滅尽定》がある。だから、仏教の方が偉いんだ」 とおっしゃいます。 《信(仰)・zraddA》には、beliefやtrust、faithとかいろいろな意味がありますけれども、 結局は、ヴァスバンドゥーのいう《こころの清らかさ》になるんでしょう。《こころの明け》や《こころの空(あ)け》と呼んでもいいでしょうね。 ここに帰着する、もしくは、ここに源を発している、ということになる。 これを(聖)霊のハタラキと呼ぶか、如来蔵のハタラキと呼ぶか、はたまた、梵に抱かれようとするアートマンの欲求───欲求はまずいか、ならば、希求としておこう───と呼ぶか、 それはおそらく表現の違い。 そして、わたしはこれを《自性清浄心》と呼びます。 ☆☆☆☆☆☆ ん~、 ~~~~~~ D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 ~~~~~~ とある《聖霊》のとらえ方が違うんだよな~。 わたしは、聖霊を人間側の方に持ってきちゃうんで。 《もののあはれ》は、感性や情的な世界なので、 《とりあえず・ひとまず理性主義をとりましょう》の私の立場とは、相容れないです(ポリポリ)。
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- kurinal
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ロビンソン・クルーソーは、、、フライデーと出会ったのは、判りませんが、 28年だったんですか。
お礼
あぁ 期間は もう覚えていません。 たしか土地の人間と出会って 金曜日だったので フライデーと名づけた。・・・ たしか 家もつくったりしたのだったと。・・・ ダンケ。
- kurinal
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>「その映画は まだ若い人のようですね。四年をがんばったということですね。 その男には 神さんは 必要なかったですか?」 砂浜に「HELP!」と大書したり、 「帆」の代わりになるようなものを見つけて、島を脱出したり、 していました。 ・・・祈ったかどうかまでは、判りません。 「(元)カノジョ」は、居たんですけどね。 >「ロビンソン・クルーソー」 了解です。
お礼
そうですか。四年は けっこう長いですよね。 助かってよかった。 あぁ。ロビンソンのようなイメージでいいのですね。 分かりました。 ご回答をありがとうございます。
- kurinal
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B様、こんにちは。 最近、面白い映画を見たんですよ。 「遭難して、たった一人、無人島に流れ着いた主人公が、 1個の「バレーボール」を「他者」に見立てて、 過ごして行く事で、なんとか助かる」 勿論?、洋画です。 ・・・面白くないことがあったら、 その(唯一無二の)バレーボールも踏んだり蹴ったりです。 遭難期間は4年ということでしたが、 主人公にとって、そのバレーボールは、 かけがえのないものとなったようです。
お礼
そんな映画 ありましたか。 こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ロビンソン・クルーソーでしょうか。 ロビンソンは 祖国で生活していたとおりに毎日の予定や計画を立て きちんと過ごして行きます。 のちには フライデーなる仲間も出来ましたしね。 その映画は まだ若い人のようですね。四年をがんばったということですね。 その男には 神さんは 必要なかったですか?
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ 《非知》という言葉は、バタイユが使っているらしいですね。 ☆ それは知りませんでした。 わたしは 《不可知とは何か》と問うたとき 不可知とは いかに《知り得ない》ことだとしても それは知り得ないと証明できたという場合だというのですから けっきょく経験事象なのだと分かりました。(そういう数学の定理か何かがあるのでしょうか?) それで かつて吉本隆明が 親鸞についての評論で《非知》という言葉を使っていたことを思い出し 《非経験の場》の概念的な説明に用いることとしました。 吉本は――もう詳しいことは覚えていませんが―― 向こう岸つまり彼岸にわたったときには それは《非知》であろうと言っていたようなどうだったかのような。 非経験の《非》を 非知でそろえた。といったところです。 あぁ ○ 「非-知 閉じざる思考」 ☆ という表題の本があるのですか。バタイユは読んでいませんが けっこうほかの本の中でバタイユについての紹介文や批評文を目にしています。しかし 思想の中身やこの著書については 知りませんでした。 それで 最近次のような用語に出遭いました。 ○ その掴み不可能性自体が掴めない ( incomprehensibilis incomprehensibilitas ) というものです。 ▲ (山本巍:神とは何か?) ~~~~~~~~~~ 《神は何であるか》 人間はこれを把握できるであろうか。しかしそれは・・・《神が何であるか》という問題そのものが理解しがたいということではなかろうか。 それは理解不可能性自体が把握できないことである。 人は《神が何であるか》を掴めない。しかしその掴み不可能性自体が掴めない( incomprehensibilis incomprehensibilitas )。 (山本巍:第一章 聖書の言語宇宙――ソクラテスとイエス in 宮本久雄・大貫隆・山本巍共著:『聖書の言語を超えて―ソクラテス・イエス・グノーシス』1997 pp.105-106 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただしこのくだりでは 出典を明かしていません。西欧の神学か哲学に出て来ているのかも知れません。 とにかく 《不可知 agnosticism 》は 神についての説明には マチガイです。 バタイユに難癖をつけるならば ▽ ある究極の状態 ☆ という表現は おおよそ《経験世界における究極》を言うのが ふつうです。ので 明解ではないと言わねばならないでしょうね。 △ (ヰキぺ:神秘主義) ~~~~~~~~~~~~~~ (しんぴしゅぎ、英: mysticism)とは、 絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場のことである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 確かに《非思考の庭》におけるヒラメキのことだとすれば 重なるとは思います。 ただし △ 最高実在、宇宙の究極的根拠 ☆ という表現は 不明瞭だとは考えます。 (あ) 《最高・究極》という概念は 経験世界における程度問題にかかわっている。ゆえに ふさわしくない。 (い) 《根拠》という表現も まだ舌足らずである。なぜなら 《非知》は 人間にとって《根拠であるか無いかが 分からない》ものだから。《非根拠》というのが ふさわしい。もっとも わたしは ふつうかんたんに《無根拠》と言っています。 そのつてで さとりをめぐる説明では: ◇ 人間の到達可能な、最終的な《神(?)領域》 ☆ というのは まさに実現しうるさとりを言うのかも知れませんが 《神》と人間とのかかわりについては まだ明らかにしていないと言うべきでしょうね。 ◇ これがいかなるものであるか答えることができない・《anuttara》の領域 ☆ これは これも 神についての説明には まだ足りないと考えます。さとりについてなら まだしもです。 非知なる神のナゾは じつは・じつに人間にも《それが いかなるものであるかを答えることができてしまい得る》と言わねばならないからです。 ただしその《神が分かった》という場合も それはあくまでその人の主観内部での本人だけの体験であるという条件のもとにあります。決して神体験は ほかの人と共有することは出来ない。 仮りに互いにその体験を説明しあって 互いに理解できてそれは同じ内容であると認め合ったとした場合 それでもその《神の共有》は あくまで言葉による思考の上での共有でしかありません。つまり 神が 思考によって把握できたという結果になってしまいます。《分かるか分からないかが分からないナゾ》であり続けるのでなければ 神ではありません。 ○ anuttara: きわめての上( ‐uttara )無き( anu- ) だと思いましたが。 ですから ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ブディストの皆さんは、 「《ヨーガ学派》の説くヨーガでいたることのできる最高の境地、心的状態は《無想定》だ。俺らには、その《無想定》の上の究極のヨーガ《滅尽定》がある。だから、仏教の方が偉いんだ」 とおっしゃいます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というのは 程度問題の世界だなぁと思われます。到るべきさとりの状態としてなら それでよいのかも知れません。 ですが 境地が上か下かをあらそうよりは 現実の問題を みなで知恵を出し合って解決するほうが 大事です。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《信(仰)・zraddA》には、beliefやtrust、faithとかいろいろな意味がありますけれども、 結局は、ヴァスバンドゥーのいう《こころの清らかさ》になるんでしょう。《こころの明け》や《こころの空(あ)け》と呼んでもいいでしょうね。 ここに帰着する、もしくは、ここに源を発している、ということになる。 これを(聖)霊のハタラキと呼ぶか、如来蔵のハタラキと呼ぶか、はたまた、梵に抱かれようとするアートマンの欲求───欲求はまずいか、ならば、希求としておこう───と呼ぶか、 それはおそらく表現の違い。 そして、わたしはこれを《自性清浄心》と呼びます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは そういうことなのでしょうね。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とある《聖霊》のとらえ方が違うんだよな~。 わたしは、聖霊を人間側の方に持ってきちゃうんで。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《一如》となるのですから。・・・ ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《もののあはれ》は、感性や情的な世界なので、 《とりあえず・ひとまず理性主義をとりましょう》の私の立場とは、相容れないです(ポリポリ)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そういうことでしょうね。表現している内容としては。 ここは 《かみ》という言葉を用いているかぎりで ほかの信仰形態との重なるところを捉えて 合わせ技のごとく この《感性の世界》を突き抜けたところの《非思考の庭》を言おうとしたものです。無理にでも突き抜けて行こうとしたものです。 じつは イスラームがありません。誰かがツッコミを入れるかと思って放っておいてあります。 それは 文字通りわたしには《分からない》からです。生活感覚として分からない。 特に具体的には 例のムハンマドの位置づけにかかわります。あたかも《梵我一如》の梵と我とのあいだに この唯一の預言者が割って入っていはしまいか? 言いかえると クルアーンが・そのオシエが この梵我一如なる《非思考の庭》に挟まって来ていないか? 思考ないし観念が 信仰の中に信念としてのごとく混ざっていないか? という疑問です。