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梵我一如に仏教は密着したのでは?

 ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

みんなの回答

  • otherwind
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回答No.9

>有神論・無神論については 失礼しました。ここんところ この議論ばかりしていますので 定義も何も出さずに 口走ってしまっていました。すみません。 仏教の無我というのは我が無いということを決して意味せず、「我がない」という虚無主義を一つの極論として徹底的に否定する中観、非有非無ですし、 日本の真言宗の仏性(仏になる潜在的な可能性)は、外部に超越者があることを決して意味しない内在即超越、超越即内在、 なので、多分、過去、何百年か、誰も有神論vs.無神論という、軸とはまったく無縁と思っていることについて、言われるのであれば、相当に、ご自身の用語の定義ですとか、文章の書き方ですとか、練らないと無理な気がします。突飛というか、誰も分からないような気がするんですね。 つまり、こういう掲示板のような媒体で、いかがでしょうと、自分の回答はもう決まっていて、他人が何を言っても、自分が端から持っている結論に当て嵌めていくという仕方では、何にもならないような…。 むしろ、もっと長文を練れる媒体の方が適切な気がします。

noname#80116
質問者

お礼

 そうですか。納得はできないですけれど 分かりました。  

  • otherwind
  • ベストアンサー率40% (12/30)
回答No.8

> ブッディスムは 縁起=無我=空観が つらぬいている。こうご説明いただいたと受け取りました。これで はっきりしたことになります。わたしの言葉では 無神論に立つという性格づけです。 うーーーん(^o^;)。 縁起=無我(空というのはよく分かりません。「xxxではない」という否定に対して「空」と訳してしまうと、「空なるもの」という実体があるような誤解が発生する危険があるような気もします)を「関係主義」(主義というのはシステムという意味で言われていると思います)と呼ばれるのは分かる気がするのですが、何故「無神論」という言葉がでてくるのかは、私にはまったく分かりませんでした(^o^;)。 まあ、brageloneさんの人生がそれで幸せであれば、それで良いんですが…。 もしかすると、人間の通常の意識で認識できるものは、縁起だけで、まあそれを人間にとっての宇宙とすると、その宇宙(認識世界)の外部に、宇宙創造神があるかないかは知らない、分からない、思考不可能である、という思考だと仰っておられるのだとすると、それは神は無いということとは正反対ですよね。神は無いと断言できる立場とは180度異なりますね…。 あるいは通常の意識が縁起だとしても、それは通常の意識なんだから神があることは通常の思考ではできなくても体験はできると言う言説は可能な気がしますし…(仏教がそうであると言っているわけではもちろんありません)。 はたまた思考できなからこそ神というような言説も可能な気がしますし…。これは、まあ、そう「神」というものを定義してしまうわけですね(仏教がそうであると言っているわけではもちろんありません)。 brageloneさんの中には何か論理があるのでしょうが、一切ご説明がなかった(と思います)ので、私には、全く分かりませんでした。 そもそも…… 「いわゆるブラフマン(言語、ロゴス)と一般に常識でなんとなく決めつけられているところのものは、実はアートマン(主体)である」 (主体から認識世界のすべてが流出するというまあ唯心論、唯心論が自動的に有神論ではさすがにないですよねぇ)、という文脈で古代インドのどこかでバラモン教の人が言っていたのか、 あるいは、 「ブラフマン(言語、ロゴス)は、アートマン(規定的である物)である」 つまり、言語が概念に対して優位である、という文脈で古代インドのどこかでバラモン教の人が言っていたのか…… 文脈がないところで、文の意味は分からないですし…。もちろん、そのような文言が何故「有神論」なのかも、私には全然分かりませんでした。

noname#80116
質問者

お礼

 otherwindさん ご回答をありがとうございます。  有神論・無神論については 失礼しました。ここんところ この議論ばかりしていますので 定義も何も出さずに 口走ってしまっていました。すみません。  基本的にまとめた文章がありますので やや長いですが 是非目をとおしていただいておくと この質問を別にしてでも 一般的にも 話が進むと思います。自慢するようですが 読んでみてください。  《Q:(キリスト教)自由主義神学の自由度は?= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3941603.html 》そのANo.10です。  なお 《縁起=無我=空観》の《空観》は たしかに 《空》と言えば《空》というものがあるように響きますので 《空観》と言うようにしています。同じ縁起の事態を 苦として捉えるか それをひっくり返してのように 楽の側面として(もしくは 楽の視点から)捉えるか という内容で把握しています。  あと 《外部》を《神》と言うと たしかに それは 擬人法で――むろん 仮りに想定として――表現しています。文字通りのことではなく 表象不可能のものを 代理して表わしている場合です。  《ブラフマン》も 類型的にそういうものでしょうし 《アートマン》は わたしの解釈では ブラフマンのたとえば働きを 分有しているそのことを仮りに代理して表現するものだと言えると思うのですが いかがでしょうか。  ですから 広く言って 無神論のばあいには このような代理表現が いっさい無いということだという定義です。ですから 《ダルマ / ブッダ》を持ち出せば これは ブラフマンに匹敵する代理表現であり 有神論の部類に入るという捉え方になります。いささか自信があります。いかがでしょう?

noname#58770
noname#58770
回答No.7

そうか… 仏教というものは存在しなかった。 実体などない。 これで終わりますね。 彼らのロジックをそのまま使えばよかったんだ。

noname#80116
質問者

お礼

 ヤッホー !!  いまここで otherwindさんから 講解とも呼ぶべき説明を受けています。なかなか 手ごわいです。(通俗的な表現で ごめんなさい)。  個人の主観におけるつまり内面における或る非対象(外部? 内部?)に向けての《こころの伸び あるいは こころざし》 そのような生きた動きとしての信仰にかんする説明は 言語表現として 持つことが出来ますし 多くの表現の体系が出来ていますが そしてしかも その説明内容にかんして 他の人たちが 共感し同感しこころで同意し そのひとつの主観を 共同化するまでに成りえますが   成りえますが 初めに あたかも上から全体として その全員のための《おしえ》が 無条件に 刷りこむようにして 持たれるものではない。たとえば仮りにたとえ《愛せ》が すべての人に共感を得て同意され教義として持たれたとしても その中味の解釈は 一人ひとり ちがうと言わなければならない。うんぬん。  うまい論理をみつけましたね。  だから すべては うつろい行く経験思想であるという答弁は 出てくるかも知れない・・・かっ? 

noname#80116
質問者

補足

 お礼欄のあとに書きます。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教というものは存在しなかった。  実体などない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これでいいようです。  うつろい行く経験思想を 仏教という名のもとにひっくるめて 延々と 紡ぎ続けていく。教勢――信徒の数?――が ブッダ主流派として有効な教理であるかどうかを決定する?  (昔は 生死をかけた法論というのが ありましたが)。  自民党のごとく 右から左まで 幅広くていいと考えているのかも知れません。案外 結束は堅いのでしょうか。  そういえば サリン事件のあとになっても オー○真○教の教理に対するきちんとした批判は 出ていないようですね。 ★ 仏教というものは存在しなかった。 / 実体などない。 ☆ これで いいんですよ。あとは 世俗的に優勢であるかどうかになって来ます。おしえの内容が 相対的なものであるだけではなく あとは どれだけ人気があるかどうかにかかってくることになります。水物です。それにしても 《末法》とはよく言ったものですね。  そう言えば これまでは カリスマ人物の魅力が大きかったとも見ました。  そうしますと   (1) 経験思想であるということ。 (2) おしえとしては 相対的な内容である理論や教訓物語が 延々と続く。 (3) 教勢の拡大・維持に その生死がかかっている。 (4) otherwindさんのように 思想として基礎がきっちりしている場合 それは けっきょく 哲学の問題として 見るものがあると捉えるべきである。仏教という括りは あまりにも 広すぎる。 (5) ただし ゴータマの思想というものは あったかも知れない。つまり 仏教という括りにするから ややこしくなる。なぜなら ブッダは 経験思考と体験との人為的な極致であっても あくまで相対的な哲学の成果として捉えなければいけない。 (6) つまり 宗教というものは 初めから なかった。 (7) わづかに 信仰をかたちづくる契機は あったのかも知れない。

  • otherwind
  • ベストアンサー率40% (12/30)
回答No.6

> ただたぶん真言宗の問題ではなく一般の場合だと思います。 brageloneさんの中に、ご自分の問題として、わがこととして、ご自身の人生にとって大事な問題、魂の叫びがあるに違いないことはもちろん否定しませんが、私にはちょっとピンときません。 というのは「仏教一般」なるものという宗派は現実にはどこにも存在しませんし、「仏教一般」なるものという教え、言説というはないわけですね。現実にはどこにも存在しない敵を相手に戦うと言っているように私には聞こえてしまうのです…。 日本の真言宗のこれこれの物言いはバラモン教に先祖返りしていると考えることもできる…という可能性を言われておられるのかと思いましたが、違っていたようですみません。(ちなみに私は日本の真言宗がバラモン教に先祖返りしているとは全く思っておりませんが、過去何百年、誰も思わなかった新説を立てること自体は、決して非難されるべきことではないと思っています。新説を立てること自体はどうでもよくて、そうすることで何が言えるか、そうすることで、brageloneさんがいかに幸せな人生を送れるかが大事なわけです。それが「と考えることもできる」という物言いの意味です。) 強いて言えば、ガウタマ・シッダールタさんが悟ったことは何かというのを原点であると考えることは可能かもしれませんので、それは何かと考えると、「いわゆる本質なるものは個体に内属しない」ということですね。阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)だということになっていますから、ガウタマ・シッダールタさんが気づかなくても気づいても、ガウタマ・シッダールタさんがいてもいなくても法=ダルマというやつです。ガウタマ・シッダールタさん以前にこのことに気がついた人は何人もいたでしょうし、ガウタマ・シッダールタさん以後も何十億人が気がつくことだということになっているわけですね。 さて、「私」なら「私」のいわゆる本質なるものが、私という個体に内属しないということが、気付きの内容になるのであれば、当然、日常の通常の意識において、あたかも私という本質があるかのように現象しているということが前提になっていますね。それが普通であり否定できない人間的現実であると。そうでなければ気付きが意味のない言説になってしまいます(^0^;)。 たとえば、ある人にとって、その人の恋人は世界で一番美しいということは、もちろん断言できます。ある人とその恋人との関係の中で、関係において、その恋人は世界で一番美しいわけです。これは断言可能です。が、では第三者から見たらどうか?それは分かりません。知らない、となります。 仮に、そういう考え方を仏教と呼ぶのであれば、私には、brageloneさんが、何故、仏教を無神論vs.有神論という軸で分けて考えようとするのか、何故、仏教は無神論でなければけしからんとお怒りなのかが、ちょっとピンとこないです。仮に過去2000年だか、誰も言わなかった新説をbrageloneさんだけが、ご自分の問題として、出しておられるというのが意図なのであれば、もちろんそれは疑っていませんし、真摯なお気持ちであると思っていますが、であれば、さすがに、もう少し、世界でご自身のみが使っておられる用語のご自身独自の定義を言って頂くですとか、どの宗派のどの教義が疑問なのか、引用ではなく、ご自身のことばで語っていただけたらもう少し分かるかなあと思いました。 >《一切衆生悉有仏性》 これ、日本の真言宗以外、誰か他の人がそれなりに重要なこととして言ってたりしますか?まあ日本の天台宗が言った方が先なのかもしれませんが、日本の天台宗ではこれはたいして重要ではない気がします。日本の真言宗以外では、日蓮宗ではまた別の形で、いま・ここの生命賛歌みたいなことはあるのかもしれませんが…。 いずれにせよ、仏教一般とおっしゃっておられることがピンときません。 確かに、わざわざ殺生することはないわけで、仏教以前からインドの求道者たちは、仏教以外でも、あるいは、原始仏教でも、アリとかわざわざ踏みつぶすことはないんで、まあ、気を付けて歩きましょう、という「こころがけ」は持ってはいたとは思いますが、別に全仏教の中心的教義、これがないと仏教ではないというか、仏教の一番大事なこととはピンとこないです。 強いて言うと、「本質は個体に内属しない」というのは、関係性という意味だけで、関係性という観点からだけ、関係性の”外部”にある…という物言いにしていることは宗派によっては有り得なくはないと思いますね。関係性が人間に認識できる世界の全てですから関係性の「外部」という言い方は、「外部」というのが実体としてあるように誤解されて捉えられてしまうという可能性があるので、誤解されるという意味で危険ですが、あえて、そのような文法をとるという宗派はありえると思います。そういう危険をおかしてもという真摯さからきていると思いますね。「内属しない」という否定形でしか言えないことを「どこでもない場所にある」と言ってしまうことで新たに見えてくるものがあるんじゃないかということになるでしょう。そもそも言語化が極めて困難なことを言語化していますので、ある宗派が特に大事にしていないテクストから、文脈を無視して一行取り出して、その宗派の他のテクストにぶつけて、矛盾を追及してみても、あまり生産的な批判ができるとは私には思えないですが、まあ、強いて言うと、「熱情恋愛」ですとか「惚れ込み」というものを考えてみると「恋は盲目」というのは実際には全くの嘘で、人間は惚れ込んだ相手の「あらさがし」を必死にするものですね(^0^;)。「惚れ込み」というのは「自分さがし」ですから、「本当の私を(私は知らないが)、この人は知っているのではないか」という気持ちなわけですが、「本当の私」なんていうものが、実際に私の外部に外在してしまったら、大変困ります(^o^;)。他人に客観的に分かられてしまうものであったら、定義上、本当の私ではないです。言語というのは一般的なものですから、かけがえのない、この世に一つだけの個別的な私の内容や意味を意味できてしまう言葉があっては定義に反しますから、恋人があなたに「君はこういう人だね」なんて言おうものならあなたは激怒するのが普通でしょう。本当の私を理解して欲しいという欲望が正に満足されないことをもって、解消するわけです。ほおーら、やっぱり、誰も本当の私を分かってくれないじゃないかという正にそのことが、本当の私が、どこでもない場所にあるかのような幻想を作っているわけですね。言い換えると、「私」というものは、ただ、私の外部にある(外在する、ある)、私が認識できる、すべての事象、全ての現象に対して、「これは私ではない」「これは私ではない」……、否定とか無我とか言うと思いますが、まあ、そういう永遠の”運動”がその周囲を旋回する”出逢いそこね”、つまり認識不可能、認識できる空間を宇宙と呼ぶなら、その意味だけで、関係性の”外部”という意味だけで、どこにもない場所にある、とまあ、言えないことはないですね。ただし、文脈が大事なのであって、文脈から切り離して、一文目の「外部」と二分目の「外部」は矛盾しているですとか、あるいは、そもそも認識世界が宇宙の全てならば、そこに「外部」があるのはおかしい、ですとか…誤解される危険はあるとは思いますね。内部の外部、外部の内部、内在即超越、超越即内在というのは誤解は受けやすいと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 補足欄の文章の途中に 変な  ​ が出ています。入力の画面にはないのに 現われます。あしからず ご了承ください。

noname#80116
質問者

補足

 otherwindさん ご講解をいただいたと存じます。ありがとうございます。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《一切衆生悉有仏性》 これ、日本の真言宗以外、誰か他の人がそれなりに重要なこととして言ってたりしますか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このように明言されたことが すべてだと存じます。ブッディスムは 縁起=無我=空観が つらぬいている。こうご説明いただいたと受け取りました。これで はっきりしたことになります。わたしの言葉では 無神論に立つという性格づけです。経験思考と体験との積み重ね その営為の極致を得たという宣言だと理解します。  《わたし》あるいは《外部》に触れておられますので 少し 上の性格づけにかかわって 世界観の具体的なあり方を問い求めたあと 最初の《仏性》のことに戻って来ます。  たぶん 無神論に立てば――と言っても 類型としては 無神論も けっきょく ひとつの信仰の形態だと理解していますが それは措きまして―― たいていは 《関係主義》の思想になると考えます。つまり ことは簡単で この関係の《外部》は 無であるという想定ということだろうと推し測ります。  ちなみに わたくしの場合 この外部は 有であると想定する信仰形態にありますが けっきょくは この《外部》は われわれ人間に認識不可能ですから(あるいは 表象不可能ゆえに 外部であるわけですから) つねに どこにいても いつまで経っても わたしたちを追っかけてきます。つまりは これは うるさいですし やっかいなので この世の経験思考において 《有か無か》で 手なづけようとしたことになります。otherwindさんの言葉で 《言語化》であり そういう想定上の《文法》をこしらえたと言えると思います。有神論と無神論とです。  ここから 《仏性》などの用語の問題に戻ります。wikiの《仏性》では   ​   大乗の大般涅槃経では全ての衆生の生命に「仏に成る種」、すなわ  ち仏性があると説き、・・・この仏性が顕現し有効に活用されている  状態を成仏といい・・・ とあります。日本人の多くは 小さな生物の生命を大事にしようという方面は 気をつけていないとしても 山川草木に仏性があって ありがたいと思っているはづです。あるいは 《岩波 仏教辞典》では    大乗仏教で説かれる・・・《法身》は 真理(法)の身体の意味で  永遠不変の真理(真如)の当体をさし・・・。   法身は・・・人格性を持たないものであり 《応身》は歴史的世界  に現われたブッダの身体であって 人格性を持つものではあるが無常  な存在であるのに対して 《報身》はその両者を統合した仏身であ  る。それは・・・真理の生きた姿であるとされる。(《三身》の項) とあります。わたしが 重箱の隅をほじくった結果だとはとても思えません。こちらの説明は 明らかに 有神論なのです。平気で 無責任に 一般にこんなことがまかり通っているのでしょうか。  という物言いを ともかく 対話の玄関で 表に出されなければならないと思っています。いかがでしょう。

noname#58770
noname#58770
回答No.5

こっちに書きます。 有神論と無神論は構造は一緒ですよ。 有無が同一なら、 結局、無神論者は否定しきれていないことになります。 だからこそ私は宗教をどう終わらせるか悩みました…。

noname#80116
質問者

お礼

★ 有神論と無神論は構造は一緒ですよ。 ☆ そうですね。そして ★ 有無が同一なら、/ 結局、無神論者は否定しきれていないことになります。 ☆ 同じく そうですね。ですから 無神論の場合は その《無神》について もはや虚構を作らないわけですから その《絶対なるもの》についての批判もふつうの評論も ほとんど無理です。  あとは 経験思想の合理性いかん 経験科学としての有効性いかんで 討議していくことになるでしょう。けれども この議論は 延々とつづくことになります。現実とのかみ合いのほうで 優劣が判定されると思います。  ですが 唯物論は 物質が けっきょく 《無神》という絶対なるものです。質料(もの)の究極でしょう。形相(イデア)の究極は 理神論の神もしくは ヘーゲルの《世界精神》だと思います。

  • otherwind
  • ベストアンサー率40% (12/30)
回答No.4

たとえば原始仏教からたとえば天台宗まで、且つ、いわゆる鎌倉日本仏教から、現代の日本の仏教まで、無我、つまり、仏教の殆ど全て、仏教の99.99%は無我なんだけれども、唯一、日本の真言宗だけは、一部バラモン教に先祖帰りしているという側面もないこともないと言うことを、仮説として建てて勉強していく、人と対話してみるということは可能なんじゃないかなぁ…と言われているのであれば(←勝手にそういうことかなと想像しているのですが)、そういう仮説を建ててみること自体はとやかく言われることではないと思います。 そう言う仮説を建ててみたとして、それであなたが何が言えるのか、そこから先が問題なのであって、その後を言ってもらわないと、他の人には何も言えないわけで、けしからんとも、素晴らしいとも言えないです。 自分が何を発見したかをもう少し詳しく言ってもらわないと、多分、誰もこれ以上は何も言いにくいかな……と感じました。

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。 ★ 仏教の殆ど全て、仏教の99.99%は無我なんだけれども ☆ そうなんですか。こういう割合としてお聞きしたのは 初めてです。ただ たぶん 真言宗の問題ではなく 一般の場合だと思います。それは 《一切衆生悉有仏性》の仏性や 法身のブッダもしくはダルマ これらが 無我説に抵触するのではないでしょうか。たとえば wikiでは ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  大乗の大般涅槃経では全ての衆生の生命に「仏に成る種」、すなわち仏性があると説き、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができると説いている。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏といい・・・ (《仏性》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  また 《三身》(URLは質問欄)では その内の法身について   法身(ほっしん): 宇宙の真理・真如そのもの、仏性。 とあります。これで うわべとして=骨格として 梵我一如と同じ理論になっていると解釈しました。  バラモン教と同じであること自体は まだ ありうるのかも知れませんが(でも 仏教は それを否定して成り立つのでしょうから やはり だめでしょうが) 問題は 《真理》を出してくるのなら もはや 絶対を想定していることになり これは いわゆる有神論になると考えられます。けれども 無我説は 無神論として成り立っているとも思われます。  このような矛盾があるのではないかという疑いです。  これは 仮説というよりは 疑問です。疑問をかかえたまま 教理を説くということになれば おかしいと思います。  そうして このうたがいが どちらに転ぶにせよ はっきりするならば 仏教という思想(もしくは信仰)が それとして 位置づけられると思います。位置づけが はっきりしないという物言いなのです。哲学は そういう要求をかかげ続けていると考えますが いかがでしょうかという問いになります。

  • otherwind
  • ベストアンサー率40% (12/30)
回答No.3

自分の考えよう、捉えよう、本人の問題…という考え方はありえるかと思います。ただ、結局は一人一人の捉え方、解釈の問題であるというのも間違いではないでしょうが、友情というのか同朋というのか対話というものもあるわけですね(^0^;)。 梵我一如に対し仏教は無我と捉えることも可能ですし、仏教の長い歴史の中で結局梵我一如と同じようなことを言っているものが仏教の言説の中にはあると捉えることも可能ということを言われておられるかと思います。 一見、対立するように見える思想、たとえば梵我一如の思想に対し無我という思想が両方ともなくならいのは、多分、両方一理あるからなんじゃないかと思います。真面目に考えて、真摯に生きて、悩むと、こういう考え方もできるな、ああいう考え方もできるなと。死ぬまで考えることは止められない(^o^)と申しますか、ある一つの理論というものは、なんであっても人生、本当に安住できるものではないからではないでしょうか。 たとえば無我、人間主体に認識される諸現象はすべて(認識世界のすべて)は縁起であるから、恒常的ないわゆる本質なるものは個体には内属しないというのが実相であって、私ってこういう人なのと、あたかも、過去・現在・未来に恒常的な、固定的な「私」、アイデンティティというものがあるかのように、日常言語を話す、主語-述語の文法に則って話す、それは虚偽意識であるということは誰でもみんな分かっていて、けれどもそういう日常生活はやめませんね(^0^;)。それはそういう設定(責任主体があるという設定)で、人々が演技しているからで、別に、アイデンティティがあると信じているとか、虚偽意識であることに気がついていないとか、では実はないですね。 もしかすると仏教では気がついていないことになっているのかも知れませんが、実際には逆ですね。気がついていない人は有り得ない。新石器時代から人はみなそんなことはとっくにさとっていると思います。 日常には、そういう設定以外の語り方というものがないからだと思います。(とりあえずヨガとか、外界からの知覚インプットをなるだけ遮断するようなカプセルの中に寝転がるですとか、洞窟に入るですとか、瞑想ですとか、青空をずっと眺める、薬を使用する、等々によって、自分の神経インパルスを見るというようなことは通常の発話行為に含みません) 日常生活では、止められないこと、かつ、誰もが端から気づいているが止めないことに、気付けよとか、さとれとか、止めろと言われても、チャカチャカチャカチャーチャ、今では遅すぎた~♪という考え方も有り得ると思いますね。 できないことを理想として持つということは人間の思考は必ず観念論とか、理想論とか、形而上学になっていく過剰があるわけで、中道に留まることは難しいどころか、人間の思考が人間の思考である以上、有り得ないと考えることもできます。 すると、色々考ることが、遊び(死ぬまでの暇つぶし)としてあって良いと思われます。ただ、思考それ自体の正しさだけのために考える。 たとえば、天井からバナナが吊してある、足台があって、棒があるから、登って、棒で叩けばバナナが取れる。これはバナナを取るという思考の外部にある、思考それ自体とは異なる他の目的のための手段としてのみ思考しています。チンパンジーの思考。で、自然と一体、エコで考えると、そういう思考だけ思考するのはある意味理想です。 が、人間というもの、思考の外部に目的を持たない思考、ただ思考するためだけに思考するというのは、修行してもなかなかやまないと思います。 ただ思考それ自体の正しさのためだけに思考すること、これが人間の思考という名に値する思考ですが、これは暇つぶしであり、遊びです。そして暇つぶしとか遊びというのは実に人間的であり、素晴らしいことだと思います。 魚を食べるために採るのであれば、魚釣りは、魚を食べたいという目的のための手段に過ぎません。魚釣りが楽しいから魚を釣る。それは趣味です。自己目的的活動となります。人間的思考とは、趣味であり、遊びであり、暇つぶしであり、人間として素晴らしいことと考えられます。 (但し、宇宙とか自然とか実相とかからは疎外されてしまう、どんどん形而上学的に虚偽意識が肥大というか遊離していくという犠牲は払うことになりますが) 遊びは素晴らしいと思いますよ。というか人生、遊びと考えることは可能でしょう。 子どもはサンタクロースはある意味信じていない、親も信じていないとします。しかしながら、子どもはサンタクロースを信じていて欲しいと親が思っていると子どもが想像して、サンタクロースを信じている設定で行動したとします、親はそもそも信じていないのに信じているふり、子どもも演技ですね。これは日常会話の文法です。掟であり、しきたりです。 お父さん、何故、人を殺してはいけないの?掟だからです(^o^;)。 人間の通常の社会的行動(とりあえずヨガとかは除きます)は、そのように日常の掟に埋没して、演技として行われているのであって、自分に内在即超越、超越即内在な、仏性を、一年365日、みつめて行われているわけではないと思われます。 が、上記のサンタクロースの例ですが、潔癖に、けしからんと思ってしまってはつまらないわけです。そういう潔癖は有り得ますし、否定しませんし、人間誰しもそういう理想は持ちます、が、いつもいつもけしからんと思わないで、遊びと思う、そういう余裕もあって良いと思います。微笑ましいじゃないですか。人間は愛らしいわけです。

noname#80116
質問者

お礼

 otherwindさん ご回答を寄せていただきありがとうございます。  言葉遊びを承知の上で しかも どこか けしかけるような問いかけになっているかとも思うのですが 問題は はっきりしています。それに いやしくも思想であるのなら 思想であることにかんして みづからが 答えなければならないことであると 思っております。鼻息があらいでしょうか。  一方で 縁起=空観=無我説のほかに 他方で 法身なるブッダそして人に宿る如来蔵のその仏性 どちらをも 仏教は含むというお答えになるでしょうか。  うぅぅぅん。ひょっとすると 無神論と有神論と ふたつに分かれるというふうであるのかも分かりません。  いづれにしましても これは ブッディスムというお立ち場にある人びとが それぞれご自身で 公式に表明し説明することだと思うのですが。 ★ たとえば無我、人間主体に認識される諸現象はすべて(認識世界のすべて)は縁起であるから、恒常的ないわゆる本質なるものは個体には内属しないというのが実相であって・・・ ☆ このとき この《実相》という言葉が 問題になるのではないでしょうか。これが 《仏性》に通じていると言えば もしくは 《仏性》に則ってそのように見ると言えば 仏性というアートマン(我)があるということになるのだと思います。我説にのっとって 無我を説くということになります。・・・  この言葉遊びとそこに含まれる疑いは ブッディストの方々が 積極的に解かねばならないことではないでしょうか。  よろしかったら この問いかけにおつきあい願いたいと存じます。

回答No.2

貴方の、言いたい事、感じたい事は、自分の実存を、直に、感じたい 事。という解釈でよろしいでしょうか? その事を、答えてくれるものは、あなた自身です、貴方の心の中に、そ の答えは有ります。貴方には、確かに、判り難いですが、その問題を提 起した者が居ます、そして、その問題を、問題として、受け取っている 者が居ます。 貴方の中に、実存を疑っている者と、確かめようとしている者がいま す。貴方には、その感性があります。貴方が自分の実存を求めて、求め 切れないところの、もどかしさが伝わってきます。 貴方が求めていて、直に手にするためには「禅」をお薦めします。それ は、言葉では、手に出来ません。身体で直接得る、体得という事でない と難しい事だと思えるからです。 貴方は、命そのものの「意思」から、その問題の提起を受けています。 その答えも、命そのものに触れる事で、答えが出てきます。 禅とは、何か=「命そのものの意思」と言えます。鈴木大拙先生の著作 されたものを、お薦めします。私は、これで「道」にはいることが出来 ました。

noname#80116
質問者

補足

 tumaritou1さん ご回答をありがとうございます。こころを込めて説明していただいたことに有りがたく感謝申し上げると同時に No.1のお返しでは まとまりのない内容となってしまったことをお詫びします。  批評の中に《ことば遊び》だから だめなのだとあると 感情的に抵抗があります。その感情に流されてもよいと むしろ判断したところがありましたと率直に認め 反省いたします。お詫び致します。  さて この質問は 卑下するためでもなく わざわざ自分を貶めるためでもなく 上の失態を根に持ったりその挽回を試みようとしたりするためでもなく そもそも 《ことばあそび》もしくは《ことば使い》の問題でした。つまり《理屈をこねる》ことを内容としています。  それは そもそも 仏教の側の説明がわるいのではないかという主張でもあるのですが むしろ《うわべ》のことを問題としています。すなわち 《無神論》であるなら それをつらぬきたまえ。真理を立てた《有神論》であるなら ほかの有神論と その類型としては 同じであり互いに対等だということを 認めたまえ。こうなります。どちらかに明確な答えを得られれば この質問はおしまいです。そういう性格の問いです。  ですから ★ 自分の実存を、直に、感じたい / 事。という解釈でよろしいでしょうか? ☆ というとき この問いを ブッディストの方々にこそ 問いかけたいという意味になります。すなわち あなた方は 自らの信条が いまの無神論であるか有神論であるかをめぐって ★ 〔どのように〕自分の実存を、直に、感じ ☆ ていらっしゃるのでしょう? となります。この一点なのです。分かっていただけるでしょうか。 ☆ 禅には あまり縁があったとは言えません。鈴木大拙にも なじみの薄いままに来ています。考え方の筋において 目の前に現われたときには 取り組んでまいります。または もし可能であるならば その禅の成果を この欄において ことばで表現していただければ それに越したことはないと思います。むろん ★ 体得 ☆ とおっしゃっているのですから 表象の問題ではないのでしょう。とは言うものの そのことをわたしも わたしの流儀で 分かっているつもりですので むしろ この質問では ことば使いとしての理屈を問うて むしろうわべの事柄を問題としています。  ブラフマンとアートマン そして 法身のブッダと仏性(如来蔵と言うのでしょうか) これらは いったいどう違うのか。単純な問いなのです。いかがでしょうか。

回答No.1

こんな昔の事は、判るはずは、無いような気がします。言葉遊びのよう な気がします。日本の200年前の言葉でも、今の人は、多分分からな いと思います。 仏教の経典と、今の仏の弟子たちと、本当に仏の弟子が何人居るのか、 疑問です。いたら、たまには説法して欲しいです。 言葉遊びだけでは、本当の事を、つかみ難いかと思います。

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。 ☆ 真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。 ☆ というのですから ブラフマンやアートマンはいざ知らず 《真理 / 存在》という言葉を 《遊び》と言い切ることは出来ないでしょう。   ★ 言葉遊びだけでは、本当の事を、つかみ難いかと思います。 ☆ 《本当の事を、つか》むために 《言葉遊び》から入るという手もあると思うのですが いかがでしょう。それに 仏教は 現代人にとっても 言葉遊びであるかどうか分かりませんが 通じる思想です。  この質問の背景としましては ブッディスムは 理論として縁起=空観を貫けばよいのであって つまりは言いかえると 無神論を貫けばよいのであって 法身や仏性を持ってくる必要はないのではないか。真理や存在のことを持ってくるなら ブラフマニスム=ヒンドゥーイスムと違わないものとなるのではないか。このうたがいが あります。真理や存在のことを 理論に持ち出すのなら 有神論にもなると言わざるを得ません。  ブッディスムは きわめて あいまいである。このうたがいを晴らしてくださいというのが 趣旨になります。  ちなみに 経験思想として(つまり 無神論のもとに経験思想として)縁起を出すのは いいと思うのですが この縁起説のもとに さらには具体的に具象的章に業(意思や行為)の説をもって その内容としています。これは 因果応報を唱えるということですが 同時に それが輪廻転生説を呼びこんで(もしくは その説のほうへ歩み寄って行って) 結局のところ いわゆる宿命論を形成したとするなら それも きわめてあいまいな思想に陥っていると考えます。  業の連鎖ははっきり決まっているという側面では きっかりと精確に論理立てた内容なのですが その論理を貫くなら 全体としてその思想は やはりあいまいです。基本理論の縁起は 空観でなければならないからです。業を種子としてのように運ぶアーラヤ識も 空において見なければならないのではないでしょうか。  すべては 覚りとして解脱し そのような世間の状態から抜け出るという一点突破にかかっていると言えるのでしょうが 逆の見方をすれば こうです。  すなわち 業(意思や行為)を善因か悪因かとして区別して規定したあと その応報を 教理として説き さらにこの因果応報の筋を 覚りによって絶つという二段構えを わざわざ採ったから そのような一点突破の思想となるのであって 二段構えを無くせば 何の問題も起こらないとも考えられます。  業(生きていること)は ふつうの概念だとしても その行為が余韻を持つことになって その余韻が種子であるかのごとく アーラヤ識に蒔かれると言うのであれば その認識 この余韻=種子の認識までで すでに 人は覚りを得たというのではないでしょうか。それ以上 引き延ばすのは かえって ねたみを引きずるために理論化しているようにも映ります。  大雑把ですが こんなふうに考えています。

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