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無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?
おしえを乞うにあたり 次の論考を出発点として踏まえたいと考えます。 ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html ☆ そこでは ▲ さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。 ☆ と言います。では ○ さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか? ○ 無明としての《根本的な生存欲》とは 何であって どうせよと言うのでしょう? 納得のいくまで尋ねつづけますので よろしくお願いします。
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こんばんは、bragelonneさん。 ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか ☆ は読みましたか? 読みやすく解説していますよ。よかったらこれの感想を聞かしてください。 ↑ 解説をちょろっと見ました。読むというほどはまだ読めてはいません。 ちょろっと見たなかで何を思ったかといえば… 【QNo.2797136ほにゃらか形而左右学 影】ANo.8 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2797136.html 『駆け込み訴え』太宰 治 ふみふみと読書しつつ、こちらの問いをあわせて考えてみました。読んでる本のP94~P105(12ぺージ中1ページ挿し絵)に『駆け込み訴え』のお話がありP105ここで主人公の告白があります。主人公自身が自身の名を宣言しています。12ページほどの中に紆余曲折があり、こころの葛藤が、いや、こころの叫びが狂おしいほどに名を求めて止まない。『はないちもんめ』ではないけれど、「名を呼んでおくれと」名を呼ばれる日を夢みその身を焦がし待つ、待つことに疲れたかのように受け身(受動的)ではなしに能動的にその名を自ら高らかに宣言する。性同一性障害からの脱却とも見紛うラストシーン。スポットライトにあたることを避け、影の中にその身を潜めていた思い。心の奥底に押し殺していた思いが封印を解かれたように一気に溢れ出す。影から抜け出て眩い光スポットライトを浴びる。影から抜け出る中で、影の中に押し込め置き去り葬り去った思い。名も無き思いの片割れは心の奥底深く深く沈みゆく。等価交換とも見紛うなりすまし。何かを手に入れる変わりに何かを手放す。手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。 の、お話みたいだなと。 あっ、そうそう * 長野県に川上村があるそうです。元気なムラとして。レタス村だとか。 ↑ 和歌山県に北山村があるそうです。元気なムラとして。じゃばら村だとか。 http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/ へへ 飛び地繋がり~♪ お隣りへ飛んで、大阪府へ 【大阪における地代の実態と変遷】 http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/
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- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 ▲ (太宰) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あの村のマルタ奴(め)の妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たして在る石膏の壺をかかえて饗宴の室にこっそり這入って来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ↑ なんかこれって… 小っちゃいころ、身を守るおまじないのごとく口走ってた言葉をおもいだす。。。 ビビンチョカイチョ“あーぶら~いっしょーう~かーぶった” 油を一升って??? 【1リットルって何升なの?】 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q135192578 一升やと思ってても満たない…守り利いてねぇーアカンやん じょうずのてからみずがもる 柳の木の下に鰌が二匹 みずもしたたるいいおとこ いろおとこかねとちからはなかりけり hanayoridanngo いろけよりくいけ はらもみのうち ぼういんぼうしょくわざわいのもと 『女殺油地獄』 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M57/M571930/8.pdf 【脂肪燃焼メカニズム】 http://kurashi.hi-ho.ne.jp/diet/kiso/fat_combustion/index.html
お礼
littlekiss さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ▲ (太宰) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ マリアが・・・香油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なんかこれって… 小っちゃいころ、身を守るおまじないのごとく口走ってた言葉をおもいだす。。。 ビビンチョカイチョ“あーぶら~いっしょーう~かーぶった” ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんなん知らんなぁ。まぁ そのおこないは飾りのようなことだから。・・・ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 一升やと思ってても満たない…守り利いてねぇーアカンやん じょうずのてからみずがもる ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そやけど 次のように言うております。 ☆☆ (No.33お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・というマリアの行ないとその心は 変な言い方ですが前祝いをするかのように イエスの復活をたのしみにしているようにもとれます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ひとつぶの麦 もし死なずば・・・だとか。十字架への切符はもう与えられていたとか。だから そのあとのこととして。・・・UFOやからねぇ。 ★ 柳の木の下に鰌が二匹 ☆ どじょうは 《鰌》か。《泥鰌》ともだとか。 ★ 【脂肪燃焼メカニズム】 ☆ あぁ そう言えば 白いぶーちゃん。 ★ 『女殺油地獄』 ☆ これはあとに回します。 * ことしの夏はほとんどなかった。
補足
★ 『女殺油地獄』 ☆ についてです。 近松門左衛門についてもこの作品についても とんと暗いままですが。しかも このPDFの論文について おそらく――その作品の一部に焦点を当て しかも《修辞学的分析》のみを目的としているということで 読んだ限りでは――妥当性のある中身だと受け取りました。と断りがきをした上でですが。 それでも 別の見解を持ちます。というお応えをつづります。 うまく引用部分を掲げづらかったのですが。―― ▲ 柳沢浩哉「お吉殺しの場」(『女殺油地獄』)の修辞学的分析――説得力をコントロールする修辞技法――〕~~~~~~~~~~~~ (B)の分析を続けよう。(B)において徳兵衛は、自らの行為を弁護していないと同時に、〔* かれの継子である〕与兵衛に対する心情も極めて間接的にしか語っていない。(B)が白己の弁明であり、話題が与兵衛に対する親の態度をめぐるものであることを考えればいずれも奇異なことであるが、これも次の(C)の〔* 発言の〕説得力を高めるための配慮と考えられる。 ・・・ 〔* もともと 次につづく(C)という発言を効果的ならしめるために布石を打つというような修辞法の原則にのっとり〕説得力を抑制しながらもこの場にふさわしいせりふを作るという(B)の難しい条件を、近松が高度に練られた修辞で乗り切っていることがお分かりいただけるであろう。 (31~32頁) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (B)や(C)のせりふを省いたかたちで引いていますから 何が何だか分からないと思われますが 要は 修辞法の問題ですから 次のことが唱えられているということに注意すればいいと思います。 ○ (B)のせりふが 自己の弁明のためでありながら 自己の行為をあまり弁護していないと言わざるをえない。これは ひとえに次の(C)のせりふの説得力を高めるための配慮である。 ☆ そういう修辞法なのだという議論のようです。おそらく作品として成功しているようですし 論者の説も妥当性があると考えられます。 ちなみに このために次のような論証をもしています。 ▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ アリストテレスが弁論の締括りに要求される要素として挙げている四つのポイントを列挙してみよう。 (1)聞き手に、自分に対する好意を抱かせること。 (2)話者に有利な事実は誇張し、不利な事実は控えめに見せること。 (3)感情的に盛り上げること。 (4)弁論の内容をまとめること。 ・・・(C)の最後の部分は、これら四つの要素をほぼ全て満たしている。 (35頁) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というような具合いである。 しかも わたしに物言いがあります。 ○ 文学作品は いかに虚構であっても 登場人物は 一人ひとりそれぞれが生きた人間として 貫かれていなければならない。 ○ その思想(生活態度)に移り変わりがあったのなら そのいきさつをしっかりと説き明かさなくてはいけない。 ○ というよりそのことが おもな狙いでありその出来の良さで作品の値打ちが決まるものである。 ○ 読者(ここでは観客ですが)の意向に沿うようなことがあっては・つまりそのために修辞法を使うようなことがあっては 文学は娯楽になるというものである。 ○ 娯楽は娯楽で 存在理由があるだろうが そこでの《修辞学》は どうでもよいと考えられる。その成功は 文学の価値を高めはしないからである。 ○ 文学の文学たるゆえんは 思惟における判断やその行為の決定および実行について 一回性であることにある。この世界にあって・このじんるいの歴史の中で 一回きりの行ないであることだ。 ○ それをたとえ虚構においてにしろ描き切れたかどうかである。 ○ 描き切れたなら 登場人物は生きる。そのことをとおして――つまり 事実でなくても虚構におけるしかも真実をとおして―― 人間が生きる。 ○ でたらめの題材や話題をあつかっていても そこに一人の人間にとって 主観内のことであっても真実が問い求められているなら 人間は生きる。 ☆ ですから そうでなければ すべては娯楽のためである。(村上春樹も どこらへんからか途中より この娯楽作品であることに甘んじるようになったと判断しています)。 クリスマス・ツリーは すべての飾りを取っ払っても ツリーであると言いたいわけです。
オコリザルです。 考えすぎないように一応言っときます。 伝承される三位一体説の通りに、神と人間の関係に聖霊を挟んで個人的に検証している最中なんです。
お礼
《三位一体》についてのもっとも新しいわたしの捉え方は 次の質問でのやり取りにあります。みなさんのためにも掲げておきます。 【Q:《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5151923.html 最新の回答からさかのぼって読んでいくかたちを初めに採ってもらってもよいかと思います。
オコリザルです。 >《悪意を抜く》 ですよね。 救うも、救われるもない。 それこそ真です。 自助の基本から、自らから悪意を抜いたなら、言ったもんが勝ちゆえに言葉がはさめないでしょう。 人間存在の一個として悪意に勝利して、のちは聖霊魔法たる神々の計らい次第です。 そこでニコニコ顔のマイポケモンがセレビィです。
お礼
文学においては 真実なんでしょう。 哲学における根拠はありません。
オコリザルです。 自慢話です。 悪意の守っていた城門のさらに下層たる無間地獄を垣間見る幸せです。 文脈からして、、、、。 地獄から悪意を抜いた。 そして鬼すらも住まないならば、どこが地獄であろうか。 鬼門もなく往来自由。 そのように世界をつなぐ。 ゆえに時わたり。 最後に謙遜して言うならば「我はセレビィ」。
お礼
★ 地獄から悪意を抜いた。 ☆ 地獄と呼ばれる境地にあるひとの心の状態から《悪意を抜く》ことは 人間ができるものとは思いません。うそつけと思います。 それだけは分かります。
オコリザルです。 28についての打ち明け話です。 例え話で持ち出しますが、 たとえばお釈迦様の輪廻に関する見解ならば、当時のインドの宗教に基づいて、 「そうですね、あなたの宗教観に基づくと、あなたの心象にはそのような輪廻のありうる世界観(世)が広がっているのは解ります」 と、当時の信仰を理解したうえで、 「でもそんな世界はないのですよ」 と、そんなもんありゃしねーの意味で無と伝えたのでしょう。 そんな「無」の方便なりが伝聞されているお釈迦さまでないかとの見解を、私は28で今度は「無」なんぞ「そんなもんありゃしねー」と無の悟りそのものを打ち消そうと試みたのです。 何者がそうまでも逃れようとしているのか? 記述されている言葉を引用するなら、はるか過去は業、似たような言葉なら滅びの子と、なるでしょう。 そこで建設的な提案として自らの経験に基づいて推奨するのが、 生きながらに入滅を果たす。 この心がけを悟ることです。 想定される幻の代表格である悪意との、悪魔を通じて結んだ契約により実践したチキンレースにでして、かつて生きながらに入滅を果たすことを試みる(そのような過程が)私の運命に逃れようもなくありました。 それは過去のことでして、故に悪意への勝利があり、悪意をわがこととしない心情が芽吹き、悪意の守っていた城門のさらに下層たる無間地獄を垣間見る幸せです。 あっけないはったりに過ぎないんです。 そんなもんありゃしねー の、悟りです。
お礼
残念ながら わたしの理解を超えています。 と正直にお答えせざるをえないと考えます。 ☆☆ (No.32) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうですね。直前のご回答へも記しましたが 前から理解のし難かった箇所が 今回にも出て来ました。 ほとんど全部が ご自分でも文学的な表現だとおっしゃっていますが なんともどういう思索または事態であるのか 分かりかねているところです。時が熟しわたしに理解が訪れるのを待ちます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
オコリザルです。 私はこのような憎まれ口を言うほどにぴんぴんしてますよ。実際のそのようにしました。無間地獄は通いなれた庭です。 これに関して、そのようにしたというのは、おっかなーイ言葉である、「生きながらに入滅を果たす」を、実践する試みをしたとの意味です。 その後、伝心により伝わった煩悩を理解する際に繰り返し思い出し、追体験するのが繰り返し地獄に落ちる体験です。 霊媒師としての荒業です。 何せ伝心ですから煩悩を吐き捨てた輩は等しくこのお笑い草の無の論理を経験しているでしょうが、本気で恐怖するゆえにそれが私にも伝わるんです。 無の悟りとは、、、。 そんなもんありゃしねー。 です。 私に話しかけるとおっかないですよ。
お礼
ご投稿をありがとうございます。 そうですね。直前のご回答へも記しましたが 前から理解のし難かった箇所が 今回にも出て来ました。 ほとんど全部が ご自分でも文学的な表現だとおっしゃっていますが なんともどういう思索または事態であるのか 分かりかねているところです。時が熟しわたしに理解が訪れるのを待ちます。 ★ 私に話しかけるとおっかないですよ。 ☆ そうですね。最近でこそ――つまりこの半年くらいでしょうかその最近でこそ――積極的に話しかけることもし始めたかなと思っていますが 以前は ずっと受け身でいつづけました。こちらから話しかけたことはなかったのでした。
オコリザルです。 しかしなんですね。 このご質問も3ページにまで落ちて、せっかく悪口の限りを仕込んだのにまたしても応答がないですね。 補足ですが、 「生きながらに入滅を果たす」 これはありえないから、無は方便なんです。
お礼
primeape さん ご回答をありがとうございます。 質問への反応がどうであるか これは 問題になりません。多ければ多いで多いなあとか 同じ人たちが回答者だなあとか感じるところはあるでしょうが それだけのことですから。 補足の部分は その前の文章においても 解釈が得られ難かったところです。残念ながら そのときのままでいます。
いつもお世話になっております。Hidocchiでございます。 愚生もこれら”対話”の中で、いろんなことを学ばせていただきました。 のみらず、今までのbragelonne様のご見識も知ることができ、感激の極みでございます。 この場を借りし、厚くお礼申し上げます。
お礼
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 なにぶん到りませんで わたしの気づかない早とちりや勇み足があっただろうとおそれています。 たいへん貴重なご文章を投稿くださり ありがとうございました。 この経験をさらに活かしてすすむ所存でいますので なにとぞ今後ともよろしくお願いもうしあげます。 ありがとうございました。
オコリザルです。 No28は、このところご無沙汰している仏教徒さんのそれらしい発言の無さに対する噂話の一環でして、別にbragelonneさんに食ってかかった訳じゃないですよ。 われは無であると信奉しているか、われは有ると言い切れないだけか知りませんが、その手の人たちとの対等な土俵で対話する試みはかなり難しいです。それを無を信仰するということの内訳として書いてみたんです。
お礼
primeape さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですか。そういうことがあるでしょうね。 わたしは 感覚人間なのです。ただそのままは出せません。しかもこの面談でない場では 無理です。でもその抑える力が ぎゃくに 反対方向ににじみ出ることもあるのだと思います。いいとは思いませんが そのくらいは感情を出しても 全体として 文章のこころつもりをねじ曲げはしないと思っております。 とにもかくにも のれんに腕押し 蛙の顔に小便といった情況に 苛立っているのでしょうか? そのあたりご無理を言うようですが さっと聞き流しておいてください。 と思います。
オコリザルです。 >《その文学の手法を使って表現した物語が 実際の経済活動としてもそのように成功しているので その物語が 哲学の世界でもそのまま成功すると思っておられる》のではないでしょうか。 これに関してはもはや純粋哲学はまっぴら御免の心情です。 たとえば書道に接するとき、達人の書とはかかれている字面でなく、字体から溢れる人生そのものともいうべき、心に触れ、それに響くがのごとく読み取るものと解ります。 20代の頃は油絵も嗜んだのですが、自ら書くほうはともかく、良い油絵を鑑賞するコツとは、心象をいかに再現するかであり写実に徹した絵は、ごく一部の一流の絵描き以外は駄作のみであると解ります。 そして現役で写真趣味なんですが、内面に写した心の心象模様と、目の前に広がる自然界の色模様を一致させ、その両者を対話させる中から、風景を切り取る。それがシャッターを押す瞬間です。 ここまではごく普通に美術鑑賞できる人なら、モノの本で誰かが同じようなことを言っていたと覚えもあるでしょう。 その程度のごく普通に感性の話です。 ところがこの感性の話を哲学で論議するととんでもないことになります。 想定する議題はこうです。 「我は第六感をもって霊験をなしうるか」 感性と言えばすでに五感を離れているので、必然的にこれです。 とんでもない荒れ方をする質問になるのはだれもが解るでしょう。 無を目指す者が荒らしまくりです。 普遍的には無の煩悩の正体はむしろそれでしょうが、生を知らぬゆえに死を恐れる者の煩悩です。 生を知らぬ故に死を恐れ、さらに、死を認めようとはしないものとなり、信じることをやめようとする。 そのような魔物との対話は、半年ぐらい前までは、鬼神の助けを借りてそれなりにこなせましたが、かなりの疲労がたまるのでやめました。 身に覚えのある自虐的な方もいるでしょうが、人間存在を逸脱しているのであえて魔物と表現しました。「業」とか「地獄の住人」などとも表現可能ですが、存在が主観内に置いて、仮にそのように表現される煩悩にむしばまれたまま生きているのが、例えるなら娑婆世界です。いつまでも勘違いを続けるさまにはいい加減あきれるのみですが、乱暴に言い放てば「そんなもんありゃしねー」です。 よって、我はあるに終始して実りある発言のみとします。 そうすると文学表現ですが、私が書道を今、何か一筆書くとしたら、「心」と言う字を「まこと」と読む心境で書き表します。 ここからは更なる厭味攻撃です。 >実際に娑婆世界(仏道)とは潜り抜けるだけの「道」であり、生きながらに地獄をめぐるみそぎです。 その仏門を閉ざし、二度と道としてくぐらないつもりです。 聞こえのいい言葉ならこれこそ「解脱」と言うんじゃないですか。 でも、解脱を目指すのは仏教では裏切り者のすることです。 無を信仰するなら解脱をもって「生きながらに入滅を果たす」と表現してください。 娑婆はただそのように見えて感じてしまう心象のみの幻であり、真実はどこにもありません。 無の病理の蔓延る娑婆から手を引くことは、解脱でなく生きながらに入滅を果たすことです。 私はこのような憎まれ口を言うほどにぴんぴんしてますよ。実際のそのようにしました。無間地獄は通いなれた庭です。 我は無である、でこの現象を理解しようとしても無駄でしょう。 「うすらバカ」ですよ。無の信仰などは。
お礼
primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ですが 今回はおっしゃっていることが通じなくなっています。 もしわたしの発言に対する批判であるのならば そのように最後までつづけてください。途中からどうつながるのか分からなくなりました。 ブッダもしくはブッディストへの批判であるならば 主題またはその焦点を決めて論じてください。あたらしい論点なりその論旨なりが入れられているようにも見えますし あるいはこれまでの論旨をさらに補充しているようにも見えますが 全体として どこへ向かおうとしているのか つかみ難かったです。 哲学というと 生活からかけ離れたことを観念としていじくるとでも思っておいででしょうか? わたくしをそのように思っておられたということになりますよ。 現実は有力ですが それは無効のものの積み重ねであるという場合もあります。そのことを分析し人間と社会のあり方を――生活日常の問題として――考えるのが 哲学です。必要のないものごとが大手を振って歩いているという場合さえあるのです。 考え合っていることがいま実現していないことだからと言って 観念的で現実離れしているとは思わないでください。またそうは言わせません。わたしが言わせません。そのためにこうやって まさにそのための質問をしているのです。 遅々として進まないからと言ってやめるわけにはいきませんし まちがっていると考える必要はありません。
お礼
しかも十字架上の人となって 神の子ならそこから降りて来いと言われても何も出来なかった弱いままのイエスでした。そこで息を引き取って埋葬されたあと 具体的にどういう事態があったのか知りませんが どんでん返しが起こったわけです。 イエスは よみがえったといううわさが流れ これがついぞ絶えなかったというその後の歴史です。ペテロらは うわさを流すも流さないも 自分たちが ぼんくら状態から打って変わって背筋の伸びた人間となったということですから 作為だとか偽善だとかと疑われても 何ともなかったようです。ひとことで言えば ○ ペテロたちは 浅はかな人間の状態から はっきりとそれぞれ《わたしがわたしである》状態になった。 ○ 《目覚めた》といえば《ブッダ》という言葉じたいがそういう意味であるようです。ちなみに 例のユダはこのように目覚め我れに還ったあと その癒やされた幸福の状態に耐えられず 自死をえらびました。 ○ ぼんくらなペテロらは この世の《光と影》とを超えてしまうという境地に到ってしまった。その境地において この世の善と悪とを超えてしまった。愛情と憎悪とのからみつきを超えてしまった。 ですから 太宰はこのようなイエスの死後に起きたペテロらのどんでん返しのことを知らない。書いていない。 ▲ (太宰) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あの村のマルタ奴(め)の妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たして在る石膏の壺をかかえて饗宴の室にこっそり這入って来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というマリアの行ないとその心は 変な言い方ですが前祝いをするかのように イエスの復活をたのしみにしているようにもとれます。 では ブッダは どうなのか。十字架に就くというそのことは あたかも《根本的な生存欲から自由になる》ことのようにも思われますが それは措くとしまして。このはりつけの死が――人びとのうわさにおいてに過ぎないことながら――よみがえりを得てしまったというその《生への回転》 これを ブッダは説いているのか? どうなのか? どのようにか? こういう問いです。
補足
littlekiss さん お久し振りというのでもないですが こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ じゃばら ☆ って何ぞやと思ったら そういう柑橘類があるのですか。この歳になって知らなんだったら知らなんだ。 ○ 瀞八丁 ☆ なら子どもの頃から名は聞いていたけれど 北山村はどうもそのさらに上流のようですね。筏下りはおもしろそうです。夏ですし。休みでどこかへ行ったということもなかったから 一度行ったろかな。 ★ 【大阪における地代の実態と変遷】 ☆ これは URL間違いということで ほっとこう。 さて ★ 『駆け込み訴え』太宰 治 ☆ こういうユダの物語に――言葉はわるいですけれど――喰いつかれるのですか? うーん。――ただし 評言をうかがうと ★ 何かを手に入れる変わりに何かを手放す。手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。 ☆ という主題として読まれたとか。そしてこの同じ主題のもとに ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか ☆ もあるようだと。 えっとですね。聖書についていろんな読み方が為され ユダについてもいくつかの見方が与えられております。しかもその一つの太宰の読みとしてのこの作品じたいについても いろんな読みが与えられるだろうと思います。 例によって先生ぶった言い方になりますが――そしてそのことで今いろんな評言がみなさんからほかの質問とそのやり取りにおいて為されているようですが―― でも聖書の伝えようとしたことは ほかにあります。とお伝えせざるを得ません。 たとえば太宰が ユダに次のように語らせています。そしてそれらは 間違っていないと考えます。 ▲ 〔弟子の〕ペテロやヤコブたちは、ただ、あなた(* =イエス)について歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えているのです。 ▲ ペテロに何が出来ますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、・・・馬鹿な奴らだ。 ☆ このようにユダを除いたほかの弟子たち(このあとからは《ペテロたち》と言います)については まったくこのような状態でした。つまり言いかえると それは イエスが死ぬ前までのことです。ユダが次のように言うとき つまり ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。なんであの人が、イスラエルの王なものか。馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と語るとき 《ペテロたち》との考えの違いを明らかにしてみましょう。 ▲ 私は天国を信じない。神も信じない。 ☆ ペテロたちは 口でこれを信じると言っていましたが その内実については分かっていませんでした。イエスの死後分かったのです。 ▲ あの人の復活も信じない。 ☆ これは 誰もイエスの生前には分からなかったことです。実際そのことにイエスは触れて言っていましたが 誰も分かりませんでした。 ▲ なんであの人が、イスラエルの王なものか。 ☆ これは そのように王となって自分たちの国イスラエルをローマから解放してくれという願いを持った一般の市民たちの問題でした。 ▲ 馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍している。 ☆ これは次の一点を除いてそのとおりだと思います。つまり 《神の御子だと信じていて》も それが《はりつけの死のあと復活につながる》とは夢にも思ってもみなかったという点です。 要するに ユダでなくてもペテロらも ユダヤの王となって政治的に自分たちを解放するという意味での救世主であるとか あるいはそれまでの伝統としてのユダヤ教をあらためて再興するという意味での救世主であるとか そういうふうに思っていたに過ぎなかった。ということは おっしゃるように そのような願いと見立てのもとでは イエスの為すこと語ることにも いろんな尾ひれがついて ★ 手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。 ☆ としての世の中の変革が始まろうとしているのかなという程度の解釈だったと思われます。