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煩悩とは。
煩悩とは、悟りたいとか迷いを脱したいという求めでさえもそれにあたるのでしょうか? 悟りたいとか救われたいというのは煩悩にあたるのでしょうか。
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煩悩とは。 ○先ず、「煩悩」とはがわからないと何がなにやらになってしまいますね。 例えていいますと、苗を畑に植え放置すると雑草だらけになりますね。雑草の中に苗が埋もれてしまいますが、この例えでは雑草が煩悩なのですね。苗は煩悩にはなりませんよ。 つまり、心には様々な考えが去来します。その中で良き考えを育てることが苗を育てることと同じということなのですね。良き苗を植えても雑草のような煩悩は次から次に出てきますから、良き苗は放置されるわけですね。ここで言う雑草はというのは、ほとんどが肉体から来る欲求を抑えられないということなのですね。例えば、早く帰って悟りの本でも読もうと思っても,駅の近くに赤提灯があり、ふらふらととなるわけですね。つまり良き苗を植えたとしても育たないのですね。 「悟りたいとか迷いを脱したいという求め」は良き苗ですから、雑草にはなりえないですね。 個人の心が向上する方向の考え、発願ですね。これは良き苗、あるいは良き種ですから、煩悩ではないのです。良き種や苗が育たないような考えが煩悩なのですね。 誰しも生きていますから煩悩は次から次へとわいてくるものです。いくら勉強が熱心でもお腹が減れば食べないと死んでしまいますね。当然しっかり食べて運動して、勉強に励めばいいんですが、 食べることが大好きになりそちらのほうに行ってしまっては勉強できませんね。運動もそうですよね。適度な運動は大切ですが運動ばかりしていては勉強どころではありませんね。何をいっているかわかるでしょうか。生きること自体が煩悩なのですね。それをうまくコントロールしながら精神的目標を実現していくことが悟りの道なのですね。 「煩悩」とはがつかめましたでしょうか?
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煩悩を捨て去りたい気持ちは煩悩だから、結局、煩悩からは逃れられないのではないかという質問だと受け取りました。 誰かの言葉遊びにひっかかり真面目に悩んでますね。現実は単純で、悟りたいという意思で挑戦しながら、ある段階で悟りたい意志からも離れるだけです。
>悟りたいとか救われたいというのは煩悩にあたるのでしょうか。 そうです。それ煩悩。 ここの回答者で、悟ったことを言ってる人いるが、本当は煩悩の塊。 「煩悩の犬は追えども去らず」 ・・・煩悩が人に付き纏って離れないのを、犬がまといつくのに例えた言葉。 どんなひとにも一生付きまとうよ。
- 雪中庵(@psytex)
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煩悩とは、即物的・短絡的目標による充足感に流されることです。 「悟りたい」という欲求が煩悩かどうかについても、『人に威張りたい』、 『目先の苦しさから逃れたい』といった、短絡的理由によるならば、 それは煩悩に属します。 (そうした動機によっては、決して悟ることはできないのですが)
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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当初の内は熱心であればあるほど、執着と欲望の姿をとっていまして、どうしても煩悩という質であらざるをえませんよね。 それで尚更,精進も辛く難しい。それでもやっていく。 そしていつか動機も洗われてきれいになり、辛くも無く難しくもなくなる。もう執着や欲望での悟りたいや迷いを払いたいという気持ちではなくなる。 そんなことはどうでもよくなる。そういうことではないかと存じます。 小さな経験から。
- resistance450
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そして仏教徒は自己否定して滅びました。ニルヴァーナ。完。
それこそ正に煩悩の極みもいいトコですねえ。 とは言え、如何にも人間らしい煩悩で、 まことに結構ではありませんか。 煩悩が無ければ、悟りもない。 悟っては、また煩悩する。 デキるお人は、煩悩も悟りもない所で、少しだけ一休み。 この繰り返しは、死ぬまで続きます。 だって、人間だもの。
- hekiyu
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京都大学で猿を研究している有名なグループが あります。 そこでは、猿を数えるとき、一人二人と数えます。 他の点でも、なるべく人間と同じに扱おうとして います。話を聞いていると笑いたくなるぐらいです。 それほど猿は人間に近く、人格と言えるほどのものを 持っている、ということなんですって。 そんな猿にも、人間と決定的に異なる処があります。 それは悩みです。 猿は、どんなに賢くとも悩んだりしないそうです。 どんなひどい状況に追い込まれても、悩みません。 その理由ですが、猿は、将来を考えず、現代それも 今だけを生きているからだ、というのです。 人間は、将来を考えることができるので、種々の悩み があるのだ、というのが結論です。 さて、質問に対する答えですが、悟りたい、というのは 将来悟りたい、将来悟ることができないかもしれない と考えるから悩むのでしょう。 救われたい、てのも同じです。 つまり、これも将来を想うが故に発生するものであり 他の悩みと同じだ、と考えることができると思うのですがどうでしょう。
補足
ニルヴァーナとは何でしょう? 仏教徒が自己否定したとする仏典と、仏教徒が滅んだとする証明と、それがニルヴァーナにつながる過程を教えてください。