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無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?
おしえを乞うにあたり 次の論考を出発点として踏まえたいと考えます。 ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html ☆ そこでは ▲ さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。 ☆ と言います。では ○ さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか? ○ 無明としての《根本的な生存欲》とは 何であって どうせよと言うのでしょう? 納得のいくまで尋ねつづけますので よろしくお願いします。
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こんばんは、bragelonneさん。 ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか ☆ は読みましたか? 読みやすく解説していますよ。よかったらこれの感想を聞かしてください。 ↑ 解説をちょろっと見ました。読むというほどはまだ読めてはいません。 ちょろっと見たなかで何を思ったかといえば… 【QNo.2797136ほにゃらか形而左右学 影】ANo.8 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2797136.html 『駆け込み訴え』太宰 治 ふみふみと読書しつつ、こちらの問いをあわせて考えてみました。読んでる本のP94~P105(12ぺージ中1ページ挿し絵)に『駆け込み訴え』のお話がありP105ここで主人公の告白があります。主人公自身が自身の名を宣言しています。12ページほどの中に紆余曲折があり、こころの葛藤が、いや、こころの叫びが狂おしいほどに名を求めて止まない。『はないちもんめ』ではないけれど、「名を呼んでおくれと」名を呼ばれる日を夢みその身を焦がし待つ、待つことに疲れたかのように受け身(受動的)ではなしに能動的にその名を自ら高らかに宣言する。性同一性障害からの脱却とも見紛うラストシーン。スポットライトにあたることを避け、影の中にその身を潜めていた思い。心の奥底に押し殺していた思いが封印を解かれたように一気に溢れ出す。影から抜け出て眩い光スポットライトを浴びる。影から抜け出る中で、影の中に押し込め置き去り葬り去った思い。名も無き思いの片割れは心の奥底深く深く沈みゆく。等価交換とも見紛うなりすまし。何かを手に入れる変わりに何かを手放す。手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。 の、お話みたいだなと。 あっ、そうそう * 長野県に川上村があるそうです。元気なムラとして。レタス村だとか。 ↑ 和歌山県に北山村があるそうです。元気なムラとして。じゃばら村だとか。 http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/ へへ 飛び地繋がり~♪ お隣りへ飛んで、大阪府へ 【大阪における地代の実態と変遷】 http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/
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相も変わらず屁理屈ばっかり言ってるね。 >無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう? 理屈を捏ねること、理屈を捏ねなければ只それだけの事(さとり) >さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか? 生存欲は人間に備わった事実、どうもこうも出来ないだろ、事実の徹底、理屈を捏ねない。理屈を捏ねなくなったら、無明(迷い)から悟へ
お礼
ご投稿に感謝します。 ★ 相も変わらず屁理屈ばっかり言ってるね。 ☆ たぶんわたしの透き通ったものの見方に向き合って ご自分のこころの中をそのように見たのでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう? 理屈を捏ねること、理屈を捏ねなければ只それだけの事(さとり) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ぢゃあ そもそも誰かさんがいちいち《煩悩》と言わなければ それなりにすんなりとその――たとえ負の状態であったとしても その――煩悩と呼ぶ前の煩悩の状態をひとは 難なくつねにときの経つとともに切り抜けることができているでしょう。 ★ 理屈を捏ね ☆ たのは誰でしょう? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか? 生存欲は人間に備わった事実、どうもこうも出来ないだろ、事実の徹底、理屈を捏ねない。理屈を捏ねなくなったら、無明(迷い)から悟へ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だから《理屈を捏ねたのは誰でしょう?》 その問題にまで触れているなら いい回答だったのではないでしょうか? というよりも ★ 理屈を捏ねなくなったら、無明(迷い)から悟へ ☆ というように《無明》と《明知》とをわざわざ分けてしまうという考え方が人びとに影響を与えているので 世の中はその歩みが滞ってしまうのでしょう。 おそらく ★ 理屈をこね ☆ ても捏ねなくても もともと心はやすらかであると言っていればよかった。 そういうことを言いたいのではないですか?
- tumaritou1
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出来る事にはお答えします。 ○ 根本的な生存欲とは 何なのでしょう?>>「命そのものです」 (1) それが無明すなわち煩悩だというのであれば ここに言う《心の矛盾》のことでしょうか?>>無明とは「自分自身が分からない」と云う事にあたります。煩悩とは「自我意識の悶え」と思います。人間の苦しみ、或いは悩みとは「心の矛盾の又の名です」 (2) すなわち 《根本的な》と言っても それがそのまま《無意識》のことではなく また《意識》だけのことでもない。となりましょうか?>>意識をするか?しないのかにもかかわらず人間には根本的な求めているものが有ります。或いは希求するものが有ります、或いは漠然としたあ憧れと云うものが有ります。云い方を替えたなら素朴な疑問、或いは大いなる疑問と言っても良いかも知れませんが、心の奥底から湧き上がってくる疑問が有ります。「自分は誰なのか?」その答えが自我意識に問いかけている問いです。 疑問も悩みも全ては「無意識の根底から湧き上がってくる感情です」自覚できない処から湧き上がってくるものですから、深刻な問題とも云えます。 (3) あるいは ひょっとすると 《無意識》裡において 意識になって現われる無明としての生存欲もあれば つねに無意識にとどまって意識活動に対してその無明つまり煩悩を明知へと転換させるはたらきとしての仏性もある。のでしょうか?>>パス (4) 仏性は 無意識にとどまりつづけるけれども 意識活動に対して働きかけ その作用が心において有効であり実現するときがある。《心の秘密が分かる瞬間》である。という実体験は どのように他人に伝えられるか?>>仏性は言葉を持っていません。従って書いたもので表す事は出来ません。強いて言うならば「仏心宗」「教外別伝」「禅問答」等で伝わっています。誰にもわかりやすくと云うと聖書や仏典となるかも知れません。 説明すればするほど分かりにくくなって、返って長い説明のための説明が必要となっていると思います。伝えられないといった方が「話が早いかも知れません。」 (5) 《神に会って和解が成立した》ことは どのようにして人びとに伝えられるか?>>(4)と同じです。 (6) どうも心の奥のことを究めることは どのように社会の中での行ないとつながっているのかが 分かりにくい。こういう印象を持ちますが どう解き明かしますか?>>見て明らか、聞いて明らかです。 7) つまりそういう心理分析や精神の分析であれば ひとは仏性があり神のもとにあるから だいじょうぶですよと言っているのとほとんど変わりありません。この悪口をどう破りますか? どうでしょう?>>ほとんどの人は大丈夫と言えます。それが健常者と言う人達です。命そのものの意思と仲たがいした人には「神経症、自律神経失調症、精神疾患」と言うふうになります。是は心の矛盾の別名です。もっとひどい仲たがいになった場合には、心は背中合わせになっています。心が分裂してしまったと云う事です。「自分が何者か?」が本当に分からなくなってしまう事です。
補足
tumaritou1 さん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 根本的な生存欲とは 何なのでしょう? >>「命そのものです」 (1) それが無明すなわち煩悩だというのであれば ここに言う《心の矛盾》のことでしょうか? >>無明とは「自分自身が分からない」と云う事にあたります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは基本的な問題点でしょうね。 (あ) 《根本的な生存欲》とは 「命そのものです」か? つまり 《欲》と言うのであれば ひとの意志が何らかのかたちでかかわっていると思われます。そうではなく この意志を超えた《命》が問題になっているのでしょうか? なぜなら (い) ★ 無明とは「自分自身が分からない」と云う事にあたります。 ☆ というところを そのように解釈したのですが? つまりは 《根本的な生存欲》と《無明》とをつなげる見解に立つと見なしてのことですが? もしそれでよければ (う) 無明とは 命にかんして それが自分の意志のあり方をも超えていて その力のあり方や働きが分からない。みづからの命について分からないし その限りで《自分のことなのに自分自身が分からない》という見解でしょうか? もしそうであるならば 特にブッダのおしえというほどのことでもないと考えます。 (え) ★ 煩悩とは「自我意識の悶え」と思います。人間の苦しみ、或いは悩みとは「心の矛盾の又の名です」 ☆ この部分につきましては 取り立てて ブッダが説いたかどうかなどは関係ないと考えます。きわめて普通のことです。 (お) ★ 「自分は誰なのか?」 ☆ が根本的な問いなのですか? 誰なのか・何なのかが分からなくても けっこう幸せに一生を送る人びともいると思いますが どうでしょう? ブッダはそんなことを問題にしたのですか? つまり そもそも《自分自身が分からない》ところの無明が その問い求めだったのですか? (か) でもその答えは 《いのち》なのでしょう? と言いますか これくらいのことは ひとは誰でも分かっているのではありませんか? (き) ★ 疑問も悩みも全ては「無意識の根底から湧き上がってくる感情です」自覚できない処から湧き上がってくるものですから・・・ ☆ でもわたしの感覚では 悩みませんが・つまり解決へ向けて考えることを悩みと言いますが 疑問は つねに《話しが通じない》ということです。これは あくまで社会性つまり人間どうしの交通関係において起きてくる問題なのですが それが《「無意識の根底から湧き上がってくる感情です」》か? どうもことをむつかしくしようとしていませんか? (く) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >>仏性は言葉を持っていません。従って書いたもので表す事は出来ません。強いて言うならば「仏心宗」「教外別伝」「禅問答」等で伝わっています。誰にもわかりやすくと云うと聖書や仏典となるかも知れません。 説明すればするほど分かりにくくなって、返って長い説明のための説明が必要となっていると思います。伝えられないといった方が「話が早いかも知れません。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 明確に述べています。それならすべては 直接の人間どうしの交通にゆだねられるのだし そこでしか伝わらない。これが明らかになりました。あいまいな答えを与えるひとが多いのです。 (け) ★ >>ほとんどの人は大丈夫と言えます。それが健常者と言う人達です。 ☆ これは わたしのブッダ観とは違います。《健常者》についてもとうぜん 《無明》がある。《無明》の中にある。と言ったのではないですか? その後 大乗仏教とやらが すべての人には この無明を明知に転換することのできる仏性があるとも言ったのではないですか? 精神疾患は別の問題だと考えますが どうでしょう?
ブッダは、生存欲が無明だとは言ってません。生存欲だと、動物も該当しますが、動物は自我は無く、元元無我です。ブッダは、自我意識が無明で、悟りの妨げだと言ってます。そして脳の自我を、休ませて、無我になれば救われると言ってます。仏教で、瞑想や座禅として実行されてます。人の心は、不調和世界の脳と、調和世界の自然の心、仏の心が、合体して出来ています。しかし現代人は、脳の思考である自我が、自分だと錯覚しています。脳は不調和な存在だから、科学は自然を破壊し、自我は対立と争いばかりで、また宇宙の主役ではないので迷いばかりです。他方、調和世界の自然の情緒は、人を育て、心を癒し、社会を調和へ導きます。昔の日本人は、生活に脳を休めて、間や情緒を入れる方法を考案してきました。だから本当の自分は、脳の思考が休んだ時現われる、仏の心です。脳の思考が休んだ時や、心が中庸、中道の時、脳波がアルファ波になると、人の心が仏の心、自然の心と交流して癒されます。だから脳の思考を休める事が、無明を無くし、悟りを開く道になります。幸い日本には、脳を休める方法が、たくさんあります。仏教では、座禅、瞑想、伝統文化では、雅楽、文楽、能、歌舞伎、日舞、演歌、民謡、落語、茶道、華道、浮世絵、和歌など、編み物や職人芸など、手先の仕事は、脳が休みます。
補足
eyasi2012 さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 正直に申せば 今回のご回答に不満です。 まるで縄文時代のさとりなら かくもあらんと思うのですが たとえば ★ 脳は不調和な存在だから、科学は自然を破壊し、自我は対立と争いばかりで、また宇宙の主役ではないので迷いばかりです。 ☆ と言っても いまこのようにインターネットで対話をしているのも 《脳と科学とそれなりの自我》によって出来ている部分が大きいのではないですか? ★ ブッダは、自我意識が無明で、悟りの妨げだと言ってます。そして脳の自我を、休ませて、無我になれば救われると言ってます。 ☆ だそうですが 《無我になれば》は 《なろうとする》のかそれとも放っておけばそのようになる時が来るのか どちらでしょう? eyasi2012 さんは ★ 脳の自我を、休ませて、無我になれ ☆ ましたか? つねに なれていますか? 悟りを得たのですか? あるいはこれまでに一体何人のひとが悟りを得ましたか? どういうふうに伝えられていますか? eyasi2012 さん あなたはその伝承に納得がいきましたか? ★ 昔の日本人は、生活に脳を休めて、間や情緒を入れる方法を考案してきました。 / 幸い日本には、脳を休める方法が、たくさんあります。・・・伝統文化では、雅楽、文楽、能、歌舞伎、日舞、演歌、民謡、落語、茶道、華道、浮世絵、和歌など、編み物や職人芸など、手先の仕事は、脳が休みます。 ☆ さぞ多くの人びとが悟りを得たことでしょうね。こうであるなら 何も仏教という方法は要らないのではないでしょうか? 何でわざわざ修行をしなければならないのでしょう? なぜブッダのおしえが消えないのでしょう? けっきょく気休めか金儲けだけなのではないですか? なんでいつまでも月並みの文句をならべて ブッダださとりだと言い続けるでしょう? eyasi2012 さんは 無我になったのですか? 無我とは一体何であるのか知っているのですか? ただただそういう文句があるから これを鸚鵡返しにしゃべっているだけなのではないですか? こうやって 人生の大半を使い尽くすのでしょうか? 人びとをもその《修行》に巻き込むのでしょうか? 日本人はもっと賢いのではないでしょうか? ブッダという名前に頭がやられているだけではないでしょうか? 少なくとも ブッダなどの言うことは分からんとまでは はっきりと言うべきではないでしょうか? 何で遠慮しなければならないのでしょう? 要らんものは葬ってしまったほうがいいでしょう。 と考えているのですが まちがっているでしょうか?
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
無明( 煩悩 )とは業と云うものかと思います。それは人間の営みそのものを言っていると思います。人間の営みそのものが業であり、罪であり、或いは悩みと云う事になります。 それは自分自身と環境との対立と矛盾と云う事になります。何故ならば自分自身の中に、環境と一つになっているものが存在しているからです。まさに厳然たる事実と一つになっている真人が自分の心に存在しているという事です。それが仏性と云うものですが、自分にはつかみにくく出来ています。 人間の心には動物と同じに今まで生きてきた歴史や感覚や感情などが、生まれた時から誰にも教えられなくとも備わっています。あの小さな蜘蛛や、蟻でさえ学校に行かなくても巣を作る事が出来ます。力学的には完璧と言うほどのものを作る能力が有ります。まして人間にはそれ以上の能力が備わっています。体の細胞の数も格段と多くまた複雑になっています。 命を長らえる、或いは保ってゆく事は、又その保つための機構が備わっています。その命そのものにも意思が有ります。その意志の事を「仏性」と言っています。その意志は自我意識には分からないように作られています。その意志が強くて、自我意識が強い事が人間の業と悩みと罪を作っています。 それが、どうして悩みになるかと云うと、矛盾が在るからです。二つの関係がどうしても両立していかない処に人間は悩みを覚えます。仏性は永遠そのもので出来ているからです。自我意識は有限しか理解出来ないからです。その有限と永遠の対立が人間の心に悩みと苦しみを作り出しています。 その解決が悟りと云う事になります。自我意識は説明する必要はないと思います。仏性は無意識界を司っています。人間の悩みとは意識と無意識との考え方の相違の事です。心の矛盾と云う事になります。心の矛盾の解決が悟りと云う事です。 自分自身を悩ませていたものが自分自身の心で在ったという事を知る事が悟り、という事になります。神に会って和解が成立した、という言い方でも良いかと思います。心自身の争いが集結するという意味になります。是が絶対の安心「涅槃」と云う事です。 その為には心が動き出す以前、心が発動する瞬間、つまり、意識と無意識が分かれる瞬間に、二つの心が出会う時が有ります。是が悟りと云う事です。どんな書物からでも教えてもらえ無いものです。心の秘密が分かる瞬間の事です。
補足
tumaritou1 さん ご回答をありがとうございます。 率直にわるくちを並べますので よろしければお答えください。 ★ 無明( 煩悩 )とは業と云うものかと思います。それは人間の営みそのものを言っていると思います。 ☆ 《業》は 《おこない》のことですよね。《根本的な生存欲にもとづくおこない》 これが無明である。という意味ですよね。 あっ わづかにこの《おこない》が積み重なりその後のおこないの原因となるといった見方が そこに伴なわれているということでしょうか? ★ それは人間の営みそのものを言っていると思います。 ☆ まづはこの見解そのものですね。 一気に飛びますが ★ 人間の悩みとは意識と無意識との考え方の相違の事です。心の矛盾と云う事になります。心の矛盾の解決が悟りと云う事です。 ☆ としますと ○ 根本的な生存欲とは 何なのでしょう? (1) それが無明すなわち煩悩だというのであれば ここに言う《心の矛盾》のことでしょうか? (2) すなわち 《根本的な》と言っても それがそのまま《無意識》のことではなく また《意識》だけのことでもない。となりましょうか? (3) あるいは ひょっとすると 《無意識》裡において 意識になって現われる無明としての生存欲もあれば つねに無意識にとどまって意識活動に対してその無明つまり煩悩を明知へと転換させるはたらきとしての仏性もある。のでしょうか? ★ その為には心が動き出す以前、心が発動する瞬間、つまり、意識と無意識が分かれる瞬間に、二つの心が出会う時が有ります。是が悟りと云う事です。 ☆ おそらく もしこの《悟り》が経験現実であるとすれば それはひとりの他者に伝わるということだとわたしは考えます。社会性があって初めて 明知だと考えます。 (4) 仏性は 無意識にとどまりつづけるけれども 意識活動に対して働きかけ その作用が心において有効であり実現するときがある。《心の秘密が分かる瞬間》である。という実体験は どのように他人に伝えられるか? (5) 《神に会って和解が成立した》ことは どのようにして人びとに伝えられるか? (6) どうも心の奥のことを究めることは どのように社会の中での行ないとつながっているのかが 分かりにくい。こういう印象を持ちますが どう解き明かしますか? (7) つまりそういう心理分析や精神の分析であれば ひとは仏性があり神のもとにあるから だいじょうぶですよと言っているのとほとんど変わりありません。この悪口をどう破りますか? どうでしょう?
オコリザルです。 No2のご返事をまたづに息抜き回答です。 疑うべきもない実存の起点たる現在と、過去や将来を展望するに当たって私は輪廻の概念を応用しません。 ESP用語として未来予知は私にとって普通のことです。 輪廻でなくこれは「時わたり」と表現します。 人知の怠慢によりそこには往来する感覚が必要なので、この「時わたり」は聖霊魔法です。 ポケモンになぞらえるとゼッケン251番セレビィの得意技です。 現実を超越するには聖霊の力をかります。 ポケモンには1番から番号が振ってありますが0番のポケモンを表明したいところです。 個人的な話でした。
お礼
primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 昨夜は久しぶりに二時を過ぎて起きていたわけで このご回答を残しつつも睡眠のほうへ靡きました。 ううーん。 ★ 「時わたり」 ☆ これは どうでしょう どこまでも煮詰めて捉えようとすれば どうでしょう その未来なり過去なりのことがらを見とおすこと つまりは 行動を伴なわない認識の問題に帰着しませんか? どうもけちをつけるようでいけませんが ○ わが《根本的な生存欲》の過去から未来への遍歴を見とおすと言いましょうか そういう認識ではなく 現在のおこないにとってどういう意義があるか これが分かればしめたものなのですが どうでしょう? ★ ポケモン ☆ につきましては 相変わらず知らないので残念です。 ★ 個人的な話でした。 ☆ なのにこのように楯ついたのは そこから突破口が開かれるかも分からないからです。どうですかねぇ。ま 気長にまいりましょうか。
オコリザルです。 それでは ブッダのさとりとは何だったのか こちらに参加しそこなったので輪廻についての考えです。 前世、現世、、来世、「世」が問われていますね。 この異なる世の行き来に、死は仲介しません。 死を仲介するならばそれらは前生、現生、来生、と表現するのがしかるべき言葉です。 洋の東西を問わないで、ありがたいお坊さんの説法でも実際には「世」でなく「生」を問うています。解釈違いでなく聖典が所詮その程度だからです。 世は心とかかわりがあります。 唯脳的表現から抜け出していませんが、たたき台として以下の論理を提示します。 個人的に写真が趣味なんで、見るという行いを接点にして「世」に関する認識まで発展させた論理です。 眼球の構造は医学的に解明されています。 眼球から脳につながる神経は約200万本。 多いようですが200万画素のチョー古臭いデジカメと同じ粗い情報しか伝達していないことを意味します。 人間は色を認識していることが生命として自慢なのですが、神経組織として色を認識する範疇は極めて狭いです。ところが視野いっぱいに色が付いています。このオールカラーは神経構造に基づくと脳に情報として伝達されていません。したがって脳の空間を認識する能力と視野を認識する能力は密接にかかわっています。以前は唯脳的認識により脳にコンピューターグラフィックのような演算能力により脳内に構成された世界こそが「この世」であると表明しましたが、実際は世という言葉を離れた「現実」たる表現と重なっているのがこの世です。 その「現実」「実在」は愛ですね。それはさておき、、、。 世の行き来にわざわざ命がけの往来はありません。 現実イコールこの世、またはズバリ世界であれば、時系列的に存在する現在を離れた過去は前世です。将来展望は来世です。存在に備わる脳の能力に認識できる範疇はそんな感じです。わざわざ世になぞらえて問うのは大袈裟すぎるかもしれませんが、「縁起」かかわりであれば過去を我と言う一つの個のみで問うても仕方ないので、過去なり将来なりを問うに当たって「世」を含めて占うのはごく自然です。あくまでも孤独な「個」としてそれをしても意味がありません。 現実がシャバ世界に見えていたお釈迦様は真実をつかみ損ねたのかもしれませんね。 その程度のかつては偉人であっても大袈裟に騒ぐほどではない哲学者です。
お礼
primeape さん ご回答をありがとうございます。 【Q:それでは ブッダのさとりとは何だったのか】 ☆ これは 二つの主題があって 論点が分散するようだと思いました。一つひとつ掲げるのがよいと。 さて どうなんでしょう ・ 現実を見よ。 ・ いま・ここに立て。 ・ 過去を必要に応じて現在に寄せ集めて。 ・ いまその現在において・この現在のもとに 未来を捉えよ。 ・ わたしとして。 ・ そしてそれだけではなく わたしが世界としても 世界に向かえ。 ・ 過去を集めて未来に向かう現在の世界と向き合え。 ★ 現実がシャバ世界に見えていたお釈迦様は真実をつかみ損ねたのかもしれませんね。 ▲ (仏教辞典:娑婆=しゃば) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ サンスクリット語 Sahaa に相当する音写。 われわれが住んでいる世界のこと。 sahaa は《忍耐》と意味する。西方極楽世界や東方浄瑠璃世界と違って 娑婆世界は汚辱と苦しみに満ちた穢土であるとされたため 《忍土》などとも漢訳されている。 なお 仏滅から弥勒菩薩の56億7千万年後の下生(げしょう)に至るまで 娑婆世界は無仏で 地蔵菩薩などがその間の導師であるとされる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このようでしたら ★ その程度のかつては偉人であっても大袈裟に騒ぐほどではない哲学者です。 ☆ と言われますが 果たして ★ かつては偉人で・・・哲学者で ☆ あったのでしょうか? いったい無明とはどういうことで そこからのさとりとは何だったのでしょう?
- pokoperopo
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ぽこぺろぽです。ご無沙汰しておりました。浅学の身の私としましては、これまでのご質問には回答が難しかったので、遠慮をさせていただいておりました。 さて、煩悩とは私自身を示しているようにも感じます。特に欲するところもないのですが、《根本的な生存欲》には、抗えずにいます。ゴータマ君は、生存欲を棄てろと言っているのではなく、これを横に置いておけと言っているのではないでしょうか?こう申しますのも、生理的欲求は棄てるべきものではなく、中庸に抑制すべきものだと考えるからです。生き長らえる義務はないとしても、いつ死んでいいというわけではない、すなわち天寿があるのです。 拙答における曖昧性や錯誤をご指摘願うとともに、考察を深めてまいりたいと存じます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 わたしの考えを述べて お礼に代えます。 ★ 生存欲を棄てろと言っているのではなく、これを横に置いておけと言っている ☆ 《横においておけ》とは ★ 中庸に抑制すべきものだと考えるから ☆ ですか。この質問の前身である【Q:ブッダの性愛観は間違っていませんか】でも論点と見たのですが ★ 中庸 ☆ という徳は・つまりその説は ふつうに世間の人びとの知恵のひとつである。こう考えるのです。 ○ さとり ☆ の中に含まれるとしても そのまま等しいものとして置き換えてもいいのだろうか。置き換えただけでいいのだろうか。こういう疑問が残ります。 それに ★ 生き長らえる義務はないとしても、いつ死んでいいというわけではない、すなわち天寿があるのです。 ☆ ということであれば ○ 根本的な生存欲:とは それを失くすとわれわれ人間は生きていないというもの ☆ ということになりますが そういう解釈なのでしょうか? つまりそれだったら この生存欲としての《無明》を 《明知》に転換するという空観も縁起共生の説も さとりとしては 無駄であり無益であり絵に画いた餅となります。 わたしが分かっていてこう言っているのではなく いったい無明とはどういうことであり そこからのさとりとは何を言っているのか。探究せねばならない。こう真剣に考えます。 このように考えます。
お礼
しかも十字架上の人となって 神の子ならそこから降りて来いと言われても何も出来なかった弱いままのイエスでした。そこで息を引き取って埋葬されたあと 具体的にどういう事態があったのか知りませんが どんでん返しが起こったわけです。 イエスは よみがえったといううわさが流れ これがついぞ絶えなかったというその後の歴史です。ペテロらは うわさを流すも流さないも 自分たちが ぼんくら状態から打って変わって背筋の伸びた人間となったということですから 作為だとか偽善だとかと疑われても 何ともなかったようです。ひとことで言えば ○ ペテロたちは 浅はかな人間の状態から はっきりとそれぞれ《わたしがわたしである》状態になった。 ○ 《目覚めた》といえば《ブッダ》という言葉じたいがそういう意味であるようです。ちなみに 例のユダはこのように目覚め我れに還ったあと その癒やされた幸福の状態に耐えられず 自死をえらびました。 ○ ぼんくらなペテロらは この世の《光と影》とを超えてしまうという境地に到ってしまった。その境地において この世の善と悪とを超えてしまった。愛情と憎悪とのからみつきを超えてしまった。 ですから 太宰はこのようなイエスの死後に起きたペテロらのどんでん返しのことを知らない。書いていない。 ▲ (太宰) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あの村のマルタ奴(め)の妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たして在る石膏の壺をかかえて饗宴の室にこっそり這入って来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というマリアの行ないとその心は 変な言い方ですが前祝いをするかのように イエスの復活をたのしみにしているようにもとれます。 では ブッダは どうなのか。十字架に就くというそのことは あたかも《根本的な生存欲から自由になる》ことのようにも思われますが それは措くとしまして。このはりつけの死が――人びとのうわさにおいてに過ぎないことながら――よみがえりを得てしまったというその《生への回転》 これを ブッダは説いているのか? どうなのか? どのようにか? こういう問いです。
補足
littlekiss さん お久し振りというのでもないですが こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ じゃばら ☆ って何ぞやと思ったら そういう柑橘類があるのですか。この歳になって知らなんだったら知らなんだ。 ○ 瀞八丁 ☆ なら子どもの頃から名は聞いていたけれど 北山村はどうもそのさらに上流のようですね。筏下りはおもしろそうです。夏ですし。休みでどこかへ行ったということもなかったから 一度行ったろかな。 ★ 【大阪における地代の実態と変遷】 ☆ これは URL間違いということで ほっとこう。 さて ★ 『駆け込み訴え』太宰 治 ☆ こういうユダの物語に――言葉はわるいですけれど――喰いつかれるのですか? うーん。――ただし 評言をうかがうと ★ 何かを手に入れる変わりに何かを手放す。手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。 ☆ という主題として読まれたとか。そしてこの同じ主題のもとに ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか ☆ もあるようだと。 えっとですね。聖書についていろんな読み方が為され ユダについてもいくつかの見方が与えられております。しかもその一つの太宰の読みとしてのこの作品じたいについても いろんな読みが与えられるだろうと思います。 例によって先生ぶった言い方になりますが――そしてそのことで今いろんな評言がみなさんからほかの質問とそのやり取りにおいて為されているようですが―― でも聖書の伝えようとしたことは ほかにあります。とお伝えせざるを得ません。 たとえば太宰が ユダに次のように語らせています。そしてそれらは 間違っていないと考えます。 ▲ 〔弟子の〕ペテロやヤコブたちは、ただ、あなた(* =イエス)について歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えているのです。 ▲ ペテロに何が出来ますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、・・・馬鹿な奴らだ。 ☆ このようにユダを除いたほかの弟子たち(このあとからは《ペテロたち》と言います)については まったくこのような状態でした。つまり言いかえると それは イエスが死ぬ前までのことです。ユダが次のように言うとき つまり ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。なんであの人が、イスラエルの王なものか。馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と語るとき 《ペテロたち》との考えの違いを明らかにしてみましょう。 ▲ 私は天国を信じない。神も信じない。 ☆ ペテロたちは 口でこれを信じると言っていましたが その内実については分かっていませんでした。イエスの死後分かったのです。 ▲ あの人の復活も信じない。 ☆ これは 誰もイエスの生前には分からなかったことです。実際そのことにイエスは触れて言っていましたが 誰も分かりませんでした。 ▲ なんであの人が、イスラエルの王なものか。 ☆ これは そのように王となって自分たちの国イスラエルをローマから解放してくれという願いを持った一般の市民たちの問題でした。 ▲ 馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍している。 ☆ これは次の一点を除いてそのとおりだと思います。つまり 《神の御子だと信じていて》も それが《はりつけの死のあと復活につながる》とは夢にも思ってもみなかったという点です。 要するに ユダでなくてもペテロらも ユダヤの王となって政治的に自分たちを解放するという意味での救世主であるとか あるいはそれまでの伝統としてのユダヤ教をあらためて再興するという意味での救世主であるとか そういうふうに思っていたに過ぎなかった。ということは おっしゃるように そのような願いと見立てのもとでは イエスの為すこと語ることにも いろんな尾ひれがついて ★ 手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。 ☆ としての世の中の変革が始まろうとしているのかなという程度の解釈だったと思われます。