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ゴータマ・ア=ブッダのペテンの証明
スッタニパータの一節から 次のゴータマ氏の受け答えではまづい。と異議をとなえます。 ▲ (スッタニパータ:<7、学生ウバシーヴァの質問>) ~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1069 ウバシーヴァさんがたずねた、 「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」 1070 師(ブッダ)は言われた、 「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」 1071 ウバシーヴァさんがいった、 「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」 1072 師は答えた、 「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」 1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」 1074 師が答えた、 「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」 1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」 1076 師は答えた、 「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆(1) 《論議》は――哲学としてならば――続きます。一般にボディサトワなる者は つねに衆生に説明を成す義務があります。(説教というよりはです)。 (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。 (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。 (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。 これを問います。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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それだと私の観念世界自在通過説とは全然違うんだね。 観念世界にすでに地を踏みしめる私にとって、肉体が滅びる事は変化であって死ではない。 どうだまいったか。 これで不死は説明した。 こういう商売をしているんだがね。 引用された言い方だと、常在は無く消滅すると言っているね。 でもこれは間違いを言っているわけじゃないんだよ。 釈迦自身は涅槃に常在し、彼以外の人々は、常在の安らぎを得ずに、繰り返し輪廻という死の経験を繰り返す。 そう言ういつもの教義の一部じゃないか。 もしかしてこれらの伝承は、彼の死後インドの風俗で修正されながら語り継がれたことで、彼の本心を表していないかもしれない。 宗教が、宗教のみを目的とするのはいつもの事で、証拠の無くなったその痕跡かもしれない。 釈迦の言葉と意思はこの伝承に残されてはいない。 私の考えではそれは実にありえる話だ。 だって私、無の境地や無の悟りがなにを意味するか、まるわかりだもん。
- hikaricom
- ベストアンサー率25% (195/772)
☆(1) 《論議》は――哲学としてならば――続きます。一般にボディサトワなる者は つねに衆生に説明を成す義務があります。(説教というよりはです)。 ➖説明を成す義務などはない。自ら衆生を救い導く役割を担っているかも知れないが…。 まず、あなたの云うボディサトワという単語を正しく定義されてはどうでしょう。 (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。 その通り (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。 人の本質は、精神であり、魂であり、自我です。 そこには時間は存在せず空間は存在しない。 しかし有限宇宙に肉体を持ち今ここに在る私という存在は、魂という自己の本質を無とするならば有限宇宙との動きの差によって生じる意識は、有と無を共有した存在とも言える。 ただ、あなたが無限という言葉を使う時、その定義が明確でないのではないかと思う。 無限とは、時間空間の果てしない広がり、拡張といった概念、考えに過ぎないことを理解する必要がある。あなたの云う有限もしかり、あなたがそこに在ると決定した認識、または知覚した情報でしかないこと。 滅んだもの。死んだ人は、有限なる肉体を持たず、よって有限なる世界、無限なる宇宙について測ることも語ることもない。識別と言っていますが、これは肉体の機能を持って初めて可能なこと。滅んだものは、肉体を持たないのであるから識別は出来ない。滅んだものは、論議は出来ないのだ。その通り。仏陀は、そんなことは知らないと言っているのではないのであって、生きている私らに語らうことはない。と唯質問者に対して応えて上げているのでしょう。その時、この場では最良の答えを与えているのではないでしょうか?更に、この比丘が気を利かせて、あなたの云う疑問を聞いてくれていたら良かったですがね? この言葉尻を取って、仏陀は説明できないじゃないか、ペテンだ!などと言うのはどうかな?そもそも、あなたに語り掛けているのではなく、その時代、その時のリアルタイムで目の前のよく知る一人の比丘の認識の度合いに応じてあるイントネーションやリズムで語って上げていることを覚えておかないと、文字を並べただけのこの類いの本を読む場合、あなたのような疑問はついて回るでしょう。仏陀の言った言葉の覚え書きが何百年か後に中国語に翻訳され、また更に翻訳を重ねた本を中村先生だかの現代訳で読む。これはかなり疑いを持って差し引き勘定しながら読まないといけないと思うよ。般若心境でさえも、今だに誤訳が発見されるのだから。目くじら立てて、2500年前の人を批判するのもどうかと思うけどね(笑) (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。 ……。
お礼
ご回答をありがとうございます。 (1) ➖ 説明を成す義務などはない。自ら衆生を救い導く役割を担っているかも知れないが…。 ☆ そうですよ。おのれがその《つとめ》に自分から就いていると思っている範囲で よろこんで《説明をします》というボディサトワなる人びとが そうすればよいことです。 《義務》という言葉を ゆるく受け取ってください。あるいは外から強いられてのものではなく自己が内からすすんで引き受けたつとめと解してください。 □ まず、あなたの云うボディサトワという単語を正しく定義されてはどうでしょう。 ☆ これは いまはまだ漠然とでも受け取る人の受け取り方にまかせて話をすすめる考えです。 (2) □ その通り。 ☆ 同感です。 ただしこのあとのご議論では どうも違った内容へと移って行っているように思われますよ。 (3) □ 人の本質は、精神であり、魂であり、自我です。 ☆ 《自我》なんて言葉は 分かりづらいからこそ 定義があいまいなままでもよい文学的表現として生き長らえているのだと見ています。上品に言っても クソくらえですよ。《 das Ich 》 つまり《わたし》と言っているだけのことです。せいぜい《わたしなるもの》。 《本質》というのは これも文学的表現を別とすれば 《存在》という意味になると考えます。 ヒトの存在は 身と心とです。精神とは 心のことです。うんぬん。 この身と心とを 生まれつき備わった存在の内容として自然本性と言うと思います。うんぬん。 そういったふうに定義しつつ つまり別様にでもよいわけですから定義しつつ 議論しないと その場で足踏みをしているだけに終わります。 □ そこには時間は存在せず空間は存在しない。 ☆ めちゃくちゃです。 身と心との一体となった自然本性として生まれ来るヒトたるわたしは うつろいゆくものであり やがては朽ちるものです。時空間を生きています。 時空間を超えるという問題を たしかにいま 扱ってもいます。 □ しかし有限宇宙に肉体を持ち今ここに在る私という存在は、魂という自己の本質を無とするならば有限宇宙との動きの差によって生じる意識は、有と無を共有した存在とも言える。 ☆ (あ) 時空間を生きて限りのある存在なるわたしは そこでの物事の有る無しを超えたところを想定する。 (い) あるいは 時間過程としてのものごとの因果関係 これから自由な場を想定する。 (う) それは 非経験の場と呼べる。経験世界における相対的な事象からいっさい自由な場であると想定した。 (え) この想定に成った場が 《無限・絶対》のことだと説明されて来るようになります。 (お) すなわち 人間たるわたしにとって 《身と心から成る自然本性》の有限とそして《その身と心とを超えた非経験の場》の無限とが――想定にもとづくかぎりで―― あたかも一体となっている。 (か) 《魂》は 心ないし精神のことをも言うばあいがあります。《非経験の場》は それにちなんで言えば 《霊――アートマン・ルーアハ・プネウマ・スピリトゥス――》という言葉で一般に呼ばれるようです。 (き) 《本質》は 霊の想定をふくむ《存在》として広げたときには 《有限(身と心)+無限(霊我=アートマン)》という中身になります。アートマンは ブッダター(仏性)にひとしい。 □ 無限とは、時間空間の果てしない広がり、拡張といった概念、考えに過ぎないことを理解する必要がある。 ☆ その無限は 可能無限であり じつは 有限世界の内に属します。 無限大という数には それに一を足すことができます。つまりは つねに有限の量です。限りなくつづく可能性はありますが どこまで行っても数えられるのなら 有限です。 □ 滅んだもの。死んだ人は、有限なる肉体を持たず、よって有限なる世界、無限なる宇宙について測ることも語ることもない。 ☆ ここで《ほろんだ》と言っているのは いわゆる煩悩ないし無明がです。人が死んでしまったわけではありません。 つまりは 有限なる世界が《ほろんだ》という表現は 有限なる経験世界――有る無しや因果関係やから成っている――から自由な場のことを指し示そうとしているのです。つまりは 無限なる非経験の場であり アートマンのことです。 《無限なる非経験の場――要するに 神――》は 《測ることも人間の言葉で語ることもできない》。 すなわち 人間たるわたし = 有限(身と心) + 無限(霊我アートマン) というふうに ゴータマは この学生の問いに対して説明してやればよかった。 《応身 + 法身(および報身)》のことです。 いま・ここなるわたしにあって この《有限と無限とのきわめて矛盾するような一体》が 現実存在であると――想定に立ったかぎりで――言おうとしているのです。 ゴータマは この《一体性》が分からないのです。 応身=法身=報身なる一体は 三身常住という理論です。 ☆☆ (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。
- chie65536(@chie65535)
- ベストアンサー率44% (8742/19843)
「あなたはその説明をしていないのですから」と当方に説明を要求し、かつ「あなたの見解を回答としてよせてください。」と回答を要求しておいて >わたしが どんな投稿でもそれに合わせて 応答してくれると思ったら 大間違いです。甘ったれてはいけません。 と返す訳ですね。であれば当方も わたしが どんな投稿でもそれに合わせて 応答してくれると思ったら 大間違いです。甘ったれてはいけません。 と言わせて貰います。 色々要求しておいて、この言い草はどうかと思います。こんな人が哲学カテに居るとは思いませんでした。もうこのカテには近付かないようにしようと思います。 うっかり貴方に回答してしまわないよう、ブロック設定させてもらいますね。
補足
★★(回答No.4)なお、当方は、貴方と議論する気が失せましたので、これ以上はお相手できません。 ☆ 今回のご回答No.9は 《気が失せた》No.4の時点から見て《これ以上の》ものになりましたね。 ということに触れて そのご投稿の労について多としたいと思います。 中身についてはなーーーんも考えてないんですね。
- hikaricom
- ベストアンサー率25% (195/772)
仏教の本質を学びたいのなら実践的修練を積まれてはどうでしょうか。 本を読んでも仏陀の教えを悟ることは出来ませんし、言葉の本質を理解することはまずもって無理でしょうから。 ヴィパッサナ瞑想など誰でも簡単に出来るシンプルな瞑想も本質を理解するのに役に立つと思いますよ。 あなたは、本を読み過ぎるくらい、たくさん読んでいられるのでしょうが、要因として言葉の意味が分からないと人は生理的に苛立ち、ヒステリックになったり、批判的に陥りがちにもなります。 よく辞書を引き、自分の言葉で念入りに単語を定義していかれてはいかがでしょうか。 まず、お部屋を日々清掃整理整頓するとか、当たり前のことを当たり前に実践されていかれることをお勧めします。 知識をいくら溜め込んでも、自分の弱さは克服できませんものね。 頑張って下さい。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~ (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。 (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえばここについて考えるところを述べてくれれば いいわけです。そうして情報交換をすすめて行けます。 それが 質問の骨子ですし このQ&Aなる場の目指すところです。
- hikaricom
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まぁ、尊大なあなたの態度を見ると、悟りにはほど遠く、何も分かっていないことがよく分かります。あなたは本に書いてあったことを知っているだけで、何も理解はしていないようですね。 スノッブとは、あなたの為にあるような言葉でしょう(笑)
お礼
中身はゼロぢゃないですか。 いちおう言葉を並べただけ。 ってことがやはりはっきりしました。 ご回答をありがとうございます。
- hikaricom
- ベストアンサー率25% (195/772)
素晴らしいですね。 仏陀の悟りとは、この世は無常であると説いた訳ですよね?ですから、執着することで、心の蟠りや現象に囚われるなと説いているのだと解釈します。私、つまり魂なる自我の性質は、完全なる静寂、平和です。そこに痛みも迷いも不安もありません。それが悟りです。しかし、肉体を持つ以上絶えず心は動揺し、煩悩は沸き起こる。なぜならば、人は命ある限り事に当り、問題に取り組まねばならないのだから。しかし、問題に直面し尚も無の心で無常の境地に至るならばやがて悟りに入るだろうという事だと解釈しています。 つまり肉体も常に水の流れのごとく流れさり、そこに留まるものではない。そこに肉体があるではないか。でも、それはそう見えているだけで、実は風や水と同様に激しく変化し続けている現象に過ぎない。ただ私という自我、或いは魂というところの本質だけが、完全なる静寂から有を創り出しているに過ぎず、囚われるなと教えているのだと解釈します。その魂に於いては生も死もない。つまり無だと説いているのだということで仏陀はその者に説いているだけのことと解釈します。 いずれにしても、仏陀は目の前の人そのものに語りかけているのであって、あなた様が質問をすることが出来たなら異なった説明をされたかもしれません。故に仏陀は誤解が生じることを知っており、書きとどめることを禁じたのではないでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 仏陀の悟りとは、この世は無常であると説いた訳ですよね? ☆ くだらん。そんなことは犬や猫でも知っている。 ★ 自我 ☆ をかんたんに持ち出すとは 何~~んも知らん証拠です。 ★ 完全なる静寂、平和 ☆ は 宇宙に飛んで行けば どこにでもあります。 ★ 無の心で無常の境地に至るならば ☆ 同じ意味合いで くだらない。《無の心》って何ですか? 分かったようにどこかで使えばよいとでも考えていますか? ★ やがて悟りに入るだろう ☆ これが ダメ。即得往生。即身成仏。理即・即・究竟即。 それに 推測を述べてどうするんか? くだらぬ。 ★ 本質 ☆ も 使い勝手が分かっていない。 ★ 囚われるなと教えている ☆ あほか。 ▲ 1076 滅びてしまった者には、それ(=存在)を測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。 ☆ どこが《囚われるな》なんだい? ★ その魂に於いては生も死もない。つまり無だと説いているのだということで仏陀はその者に説いているだけのことと解釈します。 ☆ これもただ口先だけ。 あとは 質問の論点から逸れてしまった。 趣旨説明だけでもしっかりと読んで 読み取ってください。
- hikaricom
- ベストアンサー率25% (195/772)
そうでしたね。 余計な書き込みでした。 例えば、私とは何か?心とは何か?肉体とは? この区分が明確でなければ、この答えを悟ることは難しいでしょう。 この三位が明らかでなければ、有も無も混濁した矛盾としてしか捉えられません。 まず、私という本質は何であるのか? そして、心とは何のことなのか? そこを明確に出来れば、仏陀の言う意味が少し分かるのではないでしょうか?
お礼
その前提として提起された事柄と 質問の主題やたたき台としての趣旨とのあいだを どのようにつなぐのか? これを明らかにしようとはしない。いな し得ない。と見通しました。 さらによく考えて 回答を寄せるようにしてください。回答をです。それまでは 余計な書き込みです。 ご回答をありがとうございます。
- chie65536(@chie65535)
- ベストアンサー率44% (8742/19843)
>あなたはその説明をしていないのですから 哲学に「説明」や「証明」は不要です。 「説明しなきゃ何も主張できない」「説明しなきゃ主張が受け入れなれない」としたら、そんなの「もはや哲学とはいえない」です。 「結論のみを提示して、そこから議論していく」のも、哲学の1つの形だと思うのですが。 >それが 哲学カテです。 そのお言葉、そのままお返しします。 なお、当方は、貴方と議論する気が失せましたので、これ以上はお相手できません。本来、このサイトは「議論は禁止」ですし。
お礼
質問についてあなたの見解を回答としてよせてください。 わたしが どんな投稿でもそれに合わせて 応答してくれると思ったら 大間違いです。甘ったれてはいけません。 ご回答をありがとうございます。
- hikaricom
- ベストアンサー率25% (195/772)
何も知らずにインチキと言うのは無知そのものである。な~んつって(笑) 自分が「何を知っていて」、「何を知らない」のか?これを見極めなければ、知ることは難しい。 麻原と言うのは、そもそも弟子が持ち込んだLSDと洗脳によって狂わされたのであって、宗教を利用し、宗教を貶める陰謀であったこと。もともとはヨガ教室であったが、医師を内部に潜入させ幻覚剤LSDを持ち込んだのは麻原の意思ではない。 宗教がやばいとか、言ってるおバカな最近の若者は置いておいて、あなた様の疑問の持ち方はとても普通だと思います。 まず、この中での翻訳がどれ程正確な日本語訳であるかどうかは、差し引いて、まず、分からないあなた自身が定義できていない言葉を明らかにしてはどうでしょうか? まず”宗教”の定義は何ですか? 次いで、”精神”とは? ”心”とは?”肉体”とは?それらの定義をすぐ言えますか? 明確な定義が出来たら、もう一度、分かりやすく質問なさって見て頂けませんか?
お礼
なぜインチキと言っているか。ちゃんと書いてあるのに 分からない? あとは 余計な書き込みです。 ご回答をありがとうございます。
- pigunosuke
- ベストアンサー率19% (1063/5529)
そもそも神様なんて存在そのものがペテンと言えなくも無いでしょうが それを魂の拠り所としてる人が居るのが 世界の真実です ならばそれを インチキとかペテンとか評を落とす言い回しをするのは野暮です
お礼
ご回答をありがとうございます。 この質問は 総論ではありません。具体的な論点を出しての問いです。 ですから 総評を書き込まれても それだけなら 意味がありません。問うていない問題を取り上げておられます。 哲学カテなのですから よくお考えください。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 観念世界 ☆ というのは あたまの中に理論としてとか想像としてとか描いて持っているものを言います。ただ それだけのことです。 ★ 引用された言い方だと、常在は無く消滅すると言っているね。 ☆ 人間存在は 《有限(身と心) + 無限(ブッダター)》として成っている。無限のほうは 変わり得ないもので《常在》である。ただし それは《有る》として捉えた場合で 《無い》として捉えた場合も 互いに同等に自由にあり得ます。 つまり 《無い》と捉えた《無限》があるわけです。 そして これは もう《あたまの中の観念世界》とは無縁のものです。基本的に絶対的な隔たりがあります。 (隔たりが絶対的なものだからこそ その絶対なる無限が ここ有限なる世界にやって来るということは 考えられます。ただし 人間には分かりません)。 ★ 釈迦自身は涅槃に常在し ☆ という説明を成し得なかった、という問いかけです。 ☆☆ (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。