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「1」は、存在していますか?
「1」は、存在しているに決まっていると誰もが思うでしょう。 子供でも、1個のリンゴや1匹の犬などから、「1」を理解していますと言うことができます。 しかし、「1」を理解していることと、「1」が存在していることとは、厳密には違います。 「1」の存在は、証明されていますか? それとも、「1」の不存在が証明できるのでしょうか? たとえば、この世には、完全な円形や球形の模型がありません。 すべて近似表現型に過ぎません。 円や球は、概念であって、実在の有無を問わないようです。 「1」も概念であって、実在している必要はないように思います。 「存在」の定義が、違っているために、混乱しているだけでしょうか? 実在していなくても、我々の頭脳・知能において、概念として存在しているということでしょうか? すると、実数1も純虚数iも、存在という点では、大差無いように思います。如何でしょうか?
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- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> No.24での補足欄 しかし、実数「1」でも虚数「i」でも、実は同様のことが言えそうなのです。となると、ダブルスタンダードかな?ははははは・・・ <<< 「1」にしても「i」にしても、「関連性」なくしては存在し得ないと考えられるので、同等と扱っていいでしょう。 >>> No.11 回答欄から === 物理学的な視点から。。。 虚数(純という文字は不要)は、量子力学での「量子」の存在確率と密接に関連している波動関数に含まれています。 端的に言えば、虚数が存在しなければ量子は存在し得ない(正確には、「考えることが出来ない」)わけであり、量子からあらゆる物質が構成されていると考えるならば、「虚数が存在しない」=「あらゆる物質が存在しない」(正確には物質について考えることが出来ない)と等価になってしまいます。 <<< >>> No.28での補足欄 事物に内在しない性質を書いても、机上の空論ということでしょう。 <<< 事物に内在する(あるいは、しない)「性質」というより、事物と事物との「関連性」から生じる・立ち現れるということです。 たとえば、添付図の立方体は立体視可能ですが、「1」つのものを別の角度で撮影したものなのか、もともと「2」つのものを角度を変えて並べただけなのかは不明です。「立体視する・される」という関係の上において「1」という可能性が示唆されるだけであり、この場合「1」という性質が事物に内在されているとは言い難い。認識主体との「関連性」からのみ「1」か「2」かが、「立ち現れる」というべきものです。
すみませんが回答を全部読んでいません。そのうえで、おゆるしいただければ 点の存在を証明することができれば、1の存在証明になるかと思います。 全体性の証明のためには部分要素の存在の証明が、 部分要素の証明のためには全体の存在の証明が必要だと思われますが、 全体も部分要素もどちらも仮設的な概念ではないでしょうか。 宇宙と地球は補完し合う概念となっており、 全体がわからないと部分要素がわからず、部分要素がわからないと全体がわからないというように、 1という全体は1という部分要素と、あいたがいに補完するかたちで存在を仮設せしめていると思います。 こうした意味で、全体と部分要素の包括される概念である点の概念、定義をもちだしますが、 点の存在証明となると、不可能のような気がします。どうなのでしょう。 他の回答はおいおい読ませていただくつもりです。
お礼
No.35をご覧下さい。
- pupurpu
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1というのは根本存在で人間の深い部分にかかわる概念ですから、 これを不存在が証明する、否定するというのは誤った狂った見方だと思いました。 1で始まり、0の存在を証明し、1は1本の線と表されその組み合わせで文字や+-*/の記号も1の組み合わせでできてます。そういう形としての側面や数字としての側面、記号としての側面、いろいろありますので、不存在証明は狂ったまさに迷信、誤った理解や考え方だと思います。 深くは自己否定や不信という精神に結びつくと深い部分では思います。 ですから、1は宗教哲学、ひいては生命哲学まで探求できるものであり、 また1でしか表現できない生命論もあるので認識を深めると浅い知識で遊ぶのは危険だと思います。 「すべては1つである」という言葉のとうり。 不存在の証明で真理をゆがめます。ですから迷信で信じてはいけないものです。 つまり1神教や二元論、0という円や、円の調和という状態の表現。こういうことに結びつくということも認識されるといいと思います
お礼
「1」の熱烈なファンのように感じました。 でも、ピタゴラス教団のようには、ならないでくださいね。 おそらくは、そのようにはなっていないと思いますが。 お互い、不存在証明を泳がせておくくらいの余裕を見せてやりましょうね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答番号:No.21:多様なご回答の中の片隅から、再度。 この世、あの世での反射たる現象には一はどこにもあるわけがない。(補充補足:見れば見るほど、思考とか行為という意識活動をすればするほど、水面に無限の月が生じて、われこそ実在であるので、意識活動はわれを対象としなさいと、迫るだけ。) (補充補足:従って)知作業でも、感覚知覚でも(真の1に)出会えるわけがない。 せいぜい多様、多なるこの世、あの世に一が普遍・遍在している。 それは一とのて呼応にある、唯一の全体(補充補足:創造全体という、唯一の全体で)あるとしか景仰するしかない。(補充補足:実はこの唯一の創造全体を、本当は神の一人子というのに、キリスト教でこのことをきちんと分かって教えてくれているお方にはまだお会いしていない:つまりあの世とこの世という創造界を一人子というのに。) (補充補足:あの世この世にある意識としては、)景仰という実感生活(実感行為)での、(対象)存在でしかない。 (回答へのお礼欄:) qsxdrfvgyhさん:偏在(遍在)しているけれども、隠れているように思います。 krya1998:“遍在”って、どういうことなんでしょうかね?よくいわれますよね。 qsxdrfvgyhさんはこのことばのまやかしや矛盾を感じませんか? “遍在”って、実はそのもの自体ではないのでしょうか。 アレキサンダーって、大物かもしれないけれども、ヒンドゥの聖隠者との会話が伝わっています。 『聖者よ私はなんでも与えよう。望みは何かのぞみのものは何か。』とアレキサンダーが聞いた。 聖者は、『そなたの存在が太陽を遮っている。そなたに一番大事な事はそなたがどくことだ。』と応えた。というのは60年前、中学の世界史での授業でした。 ここ数年思う事は、私がどけば、その一なる遍在が現れる。ということだなと。 遍在って、何かの対象の背後に隠れているのではなく、私が遮っているのだな。そこにあるのに。 湖水(わが意識)に月影がある。 こちら鎮まれ(静れ)ば、月影は現れる。そういうことかな。隠れていない存在。 そのものであるのが遍在である。と思えるのですが。 なお、アレキサンダーは確かに大物でした。 インドの王国を征服したとき、マハラジャ(王)に『お前の願いはなんだ』と聞いた。 マハラジャは応えた、『王、マハラジャであることだ』と。 アレキサンダーは、『では、そうしよう』と応えた。 これはあの世この世に対して、それを出た界としての態度として私たちは大事にしています。 なお、みなさんのご回答は理数系の知識に理解がないと充分な理解ができませんね。
お礼
素粒子の更に先を探究すると、「ひも」らしいのですよ。 なんとなく「1」に思いませんか?(冗談ですけど)
補足
ご指摘のとおり、「偏在」ではなく、「遍在」でした。 僕のイメージは、内在的な遍在です。 属性・性質・特性として、共通する「もの・こと」かなと思います。 「1」は、事物に遍在しているのではないかという視点です。 唯一・絶対・完全・公平・平等は、嘘っぽいけれども、遍在・普遍くらいは、事物に内在していてもいいかなと思います。
- pupurpu
- ベストアンサー率15% (29/192)
存在してます。 あなたの文章の中に「1」が出てきてます。それが現実の存在の証拠です。 質問文に実在してます。見てわかりますが。それが実在してないというのはあるものが見えないといってるのと同じです。 これは個人の固有名詞と私という代名詞の違いで、1とは代名詞のように見ればいいと思いますが。 つまり、私は実在するかという問いを考えてみるといいでしょう。 私とは誰にでも当てはまります。 つまり哲学的に言えば1=私という最初の始まりとして自分があり、それは1と同義と捉えるのも面白い解釈と思いますが。 もし実在がなければ存在のなく概念もありません。物体としての1はありません。プラスチックで{1}を作ったといってそれが実在というなら現実に実際存在してるかといえば、プラスチックせいの1の形のものは存在しています。 近似値といいますが、それは意識のレベルで見方が変わるということで、あるレベルにおいて完全が発生しているというのも出来ると思います。つまりは、捉えようによってはどんな風にも解釈するのが人間です。 無という事を言って無という漢字や読み方が存在した瞬間それはもはや存在の中の「無」という事になります。という事ですから「 」と書いて無と表現するのが本当かもしれませんね。現実に「ある」というところに存在があるという理解にたてば、無が字として存在するという当たり前のことから考えれば、実在とは存在であるなら、文字も1つの真理の1側面の姿という事で、人間も生まれて死んでいく間変幻し細胞も生まれ変わり姿も変わりますが、本来別人なんですがそれを意識の流れから自分といいます。赤ん坊のときと老人のときも自分といいます。変わらない実在に自分が存在するのかと聞くように、それは全部の姿が自分と言う実在の1側面の姿であり存在という事だと思います。ですから文字の「1」も存在であり、1側面の姿であり存在ということです。 しかし1=私という定義をしたように、この存在を否定するというお遊びは頭がおかしくなる狂った症状を人に与える効果があると思います。 こういう遊びで精神的に狂ってくるような提案は害があると思います。 これは本当の迷信だと思います。
お礼
すべて正しい記載だと思います。 結局、「1」という性質・特性を現実世界の様々な事物から、「切り出している」あるいは「切り出せている」、「切り出す才能がある」場合、概念「1」の存在を認識できるのではないかと思います。 1=私と解釈する遊びも、追究すると、面白い発見があるかもしれませんが、遊んでるうちに狂うようでしたら、お勧めできないことになりそうです。遊べる人は、やってみてもいいと思います。
補足
論・事・苦を英語風に読むと・・・ 狂うほどではなくても、苦しいのかなぁー
- bananasand
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>存在か不存在か、条件は?前提は?いよいよ、終盤でしょうか? コンピュータメタファーを続けます。 「1」は、半導体メモリーのプラス静電状態であり、 磁気メモリーの磁化状態であり、伝送中の例えばプラス5Vです。 いずれも広義のメモリーであり記憶であって、明確に存在が認められます。条件は、それぞれの技術の国際規格の規定であって明確です。前提も正常に動作する物理層の存在と実際の動作です。 人間の「1」は、 前提はそれぞれの人間がものごとについて記憶を出し入れして、認識するという能力、条件は、「1」の共通概念の共有、 そして、「1」が格納され存在しているのは記憶 ではないでしょうか。
お礼
メモリーにおける「ある状態」の有る無いを「1」と「0」にしているということだと推定しました。 つまり、「1」と「0」だけの二進法体系における「1」の例示であって、それは「有」の代用ということだと思います。 そこから、記憶に「1」が存在しているという一般化をするのは、少し無理がありますが、認識能力にも着目している点は正しいと思います。 勿論、メモリーの例を出さなくても、記憶力は重要で関係ありますから、回答の内容としては、正解の方向にあると思いました。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
No.24です >>> 証明の前提が、概念「形成」なのかなぁー? よく分かりません。 <<< 「概念形成」は擬人的な記述です。 もう少し正確に述べるとすれば、たとえば「石ころ」の場合 1.「石ころ」が外部との相互作用の結果「何らかの変化が生じた」とします。このことが「たった一度しか起こりえないこと」(交換不可能な出来事・取り返しのつかない出来事)であれば、可算不可能な出来事としての「1」として記憶され得ます。たとえば、木っ端微塵に吹き飛ぶとかです。 2.「石ころ」が外部との相互作用の結果「何らかの変化が生じた」とします。このことが「くり返しうる単位」(なんらかの意味の集合として交換可能な出来事、たとえば傷が付く)だとした場合、「石ころ」に「人間」を置き換えるならば、そういった「くり返しうる単位」を「くり返しうる概念」として捉えることでしょう。その時に、はじめて可算可能な「1」という概念が生じることでしょう。 このことは、コンピュータの記憶素子として有名なフリップ・フロップ回路での「変化」が「0」か「1」を表すのと等価になるでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%97 何度もくり返していますが、 すくなくとも、「1」には、「唯一」という概念と「くり返す(単位)」という概念の二つを多義図形的に有しています。 もっと言えば、「1」という形にこだわるなら「I」(アイ)や「l」(エル)との多義性も有しています。 「石ころ」のレベルでも字面(形態)としての「1」の多義性ではなく、「他との関連性」において、概念・意味としての「1」の多義性と重なります。 すなわち、「他と関連性を持つ何か」が存在するならば(多義図形的に解釈可能な)「1」(という概念)は存在するといえるのではないでしょうか? >>>1は、基本単位なので、唯一の存在である。 ダブルスタンダードということにはならないだろう。 1は、唯一なので、絶対の存在でもある。 相対的な1では、物差し・単位として失格となる。 1は、唯一・絶対なので、完全な存在である。 不完全な1という想定は、有り得ない。 1は、完全なので、永遠の存在である。 始まりがあったり、終わりがある1という想定が、有り得ない。 1は、不生不滅なのである。 1は、基本単位であればこそ、遍く適用されるから、公平・平等である。ゆえに、1は、普遍である。 <<< ですが、下記のようにも言えると思います。 === 1は、基本単位であり、かつ、唯一の存在である。 すなわち、「基本単位」と「唯一」のダブルスタンダードということに他ならない。 1は、唯一なので、絶対の存在でもある。 かつ 1は、相対的な量を表すことも出来る。 たとえば、コップ一杯の水とか、コップの大きさを不問とすれば、相対的な量を表しうる。 1は、唯一・絶対なので、完全な存在である。しかし、0.999...という無限の9が連続する形式にて「1」を記述可能である。無限に記述しなければならないという観点からすれば、不完全な1ともみなしうる(No.11にて引用済み) 1は、完全なので、永遠の存在、すなわち始まりがあったり、終わりがある1という想定を為し得ないという。しかしながら、他との何らかの関連を一切持ち得なかったならば、始まりも終わりもないことになるだろうし、○○と他との何らかの関連が開始されたときに「1」という概念が生じるとすれば、その時点を「始まり」とみなすことも出来る。 「1は、不生不滅である」とみなすことも出来るでしょうが、上述のように、「関連性がない」から「関連する」へと移行するときに「1」という概念が生じるとすれば、「1」は生まれては消えると捉えることが出来ると思います。 1は、基本単位かつ唯一絶対である。(交換可能な基本単位として)公平・平等である一方(唯一絶対的であるゆえ)交換不可能でもある。 「1」は普遍であり、かつ普遍ではない。 と言えるのではないでしょうか? ===
お礼
素晴らしいです。見事です。 「基本単位」から論理的に展開したはずの記述をことごとく否定できていると思います。 「基本単位」だけでは、充分ではないのではないでしょうか? 何が不足なのか? 一見正しそうな論理の罠は、なぜ生じたのか? 論述偏重では、見失うものがありそうです。 事実でテストされてこその論理だとすると、どの事実を観察すべきなのか? 考察は、まだ続きそうです。
補足
事物に内在しない性質を書いても、机上の空論ということでしょう。
No8です。 生まれたばかりの赤ん坊に「1」は認識されているのでしょうか。 いつから「1」を認識できるようになるのでしょうか。 生まれたばかりでは世界を目で見ることが出来ませんし、自他の区別もできていないと聞いています。 赤ん坊にとって世界は唯一の「1」として存在します。というより世界は存在していないともいえると思います。 母親の顔を目で追いかけられるようになっても、認識の上では、その母親の顔や身体は赤ん坊自身の身体の一部と認識されているらしいです。 その後、自他の区分が可能になったとき、いきなり「2」が生まれるのではないかと推測します。数として認識しているわけではないと思います。我を認識しはじめ、我と我以外、世界と私を把握するようになる。 「3」が認識できるのはもっと後になってからのことで、「0」はさらにそのずっと後の事件。 ところで、子供は教えられることなしに、数を数え始めることが出来るのでしょうか。 数の概念は、社会生活を営むようななった大人の分析的な脳から誕生したもののように思われます。生きていくために獲得した食料の分配の作業の中で、数の概念は形成されたのではないかと単純に思います。 そのときには数は実体を持った数だったと思います。どんぐり1個、2個と数を数えていたのでしょう。 数は1から順に認識されたのではなく、いきなり「複数」として認識されたのだろうと思います。 やがて数える実体的な数字がものの属性を表す概念として使えることを知るようになったと思います。そのとき数字は実体を失ったと思います。数字は概念としてしかもはや存在しなくなった。 計算する犬の話はわかりませんが、数を数えるチンパンジーは京都市動物園にいます。モニター画面にランダムに映し出された数字を、少ない数字から順に指で押さえていくのです。これとても、そのように何回も訓練されるによって、形と順番を覚えてしまったのでしょう。 彼らが数字として認識しているとは思えません。 「1」はものの属性であって、美や真や善と同じく意識の中で現象するのではないでしょうか。
お礼
>「1」はものの属性であって、美や真や善と同じく意識の中で現象するのではないでしょうか。 全くそのとおりだと思います。 属性を認識できる場合に、存在を感じ取ることができるようです。 属性を「切り出す」能力の有無に依存しているようです。 ですから、赤ん坊には無理なのでしょう。
補足
「1」は、属性なのだから、事物に内在しているという結論でしょう。 事物なしには、存在できないと言えるかもしれません。
>「1」も概念であって、実在している必要はないように思います。> まあそう定義すればそうですしそう定義しなければそうではないという話かと?
お礼
「1」の暗号を復号したとき、「神」と出たら、同じことが言えますか?
補足
神は、記憶の中にのみ存在するのでしょうかねぇ?
追加します。 >「1」単独での存在証明は・・・ それになりますと、認識外の存在証明、という事になるかと思います。 認識に基づいた仮定の存在証明なら数式によって可能ですが、これだとまだ認識を離れてはいないので、認識内の仮の存在という事になるものと思います。 証明するものが無いものを証明する、という事が可能かどうか? また、証明出来ないものがそれ自体において証明する、という事が可能かどうか? 仮定はできても証明が出来ないものは、いずれ証明される可能性があります。 しかし、認識外においての存在のそれ自体の証明は、証明されたと受け取る事ができないものと思います。 「1」が確かに「1」を証するものであっても、知覚の範囲外だからです。 不可知のものがそれ自体において証明しているのかもしれない、という事になるかと思います。 不可知の領域より見れば、認識の範囲は限られたものになります。 また、不可知の領域そのものを仮定する事も、仮定する基準さえ見い出せないと思います。 大変につまらない話になってしまいましたね。 通常の認識形態からいうとこんな感じでしょうか。 「1」は単位であり概念であるという結論になってしまいます。 「1」そのものが相対的な範囲を超えることはないという事にもなります。 何か物足りない感じがしますね。 誰か補ってくれる事を期待しましょう。 では、ご参考までに。
お礼
>「1」そのものが相対的な範囲を超えることはないという事にもなります。 ここは、全く正しい指摘です。相対的ではないのです。 そして、「知覚の範囲外」、「不可知」という指摘も、大正解です。 全く同感です。異論ありません。
補足
よく見ると、bird48さんの記述は逆ですね。 「相対的な範囲を超えている」と書けば、大正解だと思います。 そのように修正して、お礼欄を見てください。
お礼
なるほど。二つの写真があっても、同一物の2枚か、別物の1枚ずつかは、分からないでしょうという問いでしょうね? でも、同「一」、「1」枚ずつ、というように、1が内在しているように思います。つまり、普遍・遍在はありそうだという視点です。 これは、単なる印象として感じているだけですから、違うのかもしれません。 「関係性」あるいは「縁起」とも言うと思いますが、それはそれで、大事な視点で、比較するから、同一かどうかということになるのでしょう。ただ、比較しなくても、単一を考えれば、「1」は出てくるのではないかと思うのです。