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「1」は、存在していますか?
「1」は、存在しているに決まっていると誰もが思うでしょう。 子供でも、1個のリンゴや1匹の犬などから、「1」を理解していますと言うことができます。 しかし、「1」を理解していることと、「1」が存在していることとは、厳密には違います。 「1」の存在は、証明されていますか? それとも、「1」の不存在が証明できるのでしょうか? たとえば、この世には、完全な円形や球形の模型がありません。 すべて近似表現型に過ぎません。 円や球は、概念であって、実在の有無を問わないようです。 「1」も概念であって、実在している必要はないように思います。 「存在」の定義が、違っているために、混乱しているだけでしょうか? 実在していなくても、我々の頭脳・知能において、概念として存在しているということでしょうか? すると、実数1も純虚数iも、存在という点では、大差無いように思います。如何でしょうか?
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- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> No.8のお礼欄で 計算する犬をテレビで見たことがあります。 その犬は、論理空間を認識するほど脳が進化しているとは思えません。 しかし、ボードに書かれた足し算や掛け算ができていました。 数が分かっているようです。 その答えは、すべて「ワン」の繰り返し回数でした。 たとえば、「2×2」は、「ワン、ワン、ワン、ワン」です。 <<< ですが、あの手のパフォーマンスは、調教師の犬への指示(たとえば人目にはわかりにくい「止め」への指示がだされるまで、「ワン」と吠えさせ続ける)にて行われているそうです。(ご存じであれば、ご容赦ください) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1013855290 http://homepage3.nifty.com/iromono/kougi/ningen/node22.html さて、前回の回答が分かりにくかったかもしれませんので、端的に記しておきます。 >>> 交換可能な概念 対象物同士が交換可能であり、最小単位という概念、すなわち「1」という交換可能な概念を共有可能。 >>> 交換不可能な概念 (それぞれが交換不可能な)「唯一無二」「唯一絶対」という「交換可能な概念」を有しており、それらは(交換不可能ゆえ)「1(ひとつ)」という概念として取り扱われうる。 これらの両方、すなわち、対象物同士が交換可能か交換不可能かにかかわらず、「1」という概念レベルにて交換可能であると「扱いうる」とき、「1」は存在すると言えるでしょう。 (逆に言えば、「1」という記号を通して、人間という共同体は、最小単位という概念と、唯一性・単独性という概念とを想起しうるわけです) 犬にとって「1」という概念が人間と交換可能な概念レベルかどうかは、交換可能な「餌」で操られて「1」を「ワン」と吠えることと、かけがえのない飼い主との離別のときに「ワン」と鳴くこととが、同一概念(交換可能な概念)としての「ワン」として処理可能だと認識したときでしょう。 でも、その時には、忠実な僕(しもべ)として付き従っているふりをして、ある日突然、2x2の問題解答時に「ワン、ワン、ワン、ワン、ワン...」と「止め」を無視して吠え続けるかもしれません。。。
この世界が、仮の世界で影絵のような虚像なので、絶対的なものはありません。すべてが相対的です。原因は、不調和世界の脳と、調和世界の自然が交わる、シュミレーションの世界だからです。つまり不調和と、調和と言う、相反するふたつの世界が共存してるので、相対的にしか存在できません。絶対的な物を追求すると、自己矛盾の壁に当ります。中国の老子に、陰陽原理として説明されてます。陰に対して、陽が存在する事で、お互いに自分の存在を確認できます。宇宙の太極から、陰が現われて、次に陽が現われて、ぶつかり中和して打ち消しあって、また元の太極に帰ります。中和する時、宇宙の太極の情緒の癒しの無のパワーが発生します。だから心の中庸、化学の中性、和風文化の間、和食の中間の味、男女の性の空など、この世界の陰陽は、電気のプラスマイナス、化学の酸アルカリ、人の男女、天気の雨と晴れ、運の吉と凶、気持ちの悲しいとうれしい、漫才のボケとツッコミ、味の辛いと甘い、夫婦の勝ち気と内気、音の高いと低い、リズムの速いと遅い、倫理の善と悪、文明の創造と破壊、戦争と平和、自我と無我などすべては相対的にしか表現できません。
お礼
二元対立的な理解のようですね。 結論としては、「1」では無いということなのでしょうね。 この現実世界は、不調和であり、相対的であるという視点のようです。 その世界観は、そのとおりだと思います。 しかし、「1」が無いとは、ならないでしょう。 むしろ、「1」と「マイナス1」の組を例示すべきだと思いますよ。 反するものの共存とぶつかり合いという動的な変化の相として見るのは、常識的な印象を受けます。 無理なく、実感に即しているように思えます。 ただ、「1」の存在証明にも存在否定にもなっていません。
- cyototu
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#10です。 >実数1も純虚数iも、存在という点では、大差無いように思います。 本論からずれてしまいますが、このことに関しても触れておきます。私ならこの文章を -1も純虚数iも、存在という点では、大差無いように思います。 と書きますね。私が高校で始めて数を2乗して負になるものがあると聞いた時には驚きましたが、それよりももっと驚いたのは、中学校で2から3を引けると教わった時でした。私はその時、そんなの嘘だと思いました。だって、ここに二つのリンゴが在った場合、どうやって三つのリンゴを取り除くんだと思ったからです。そのうちに先生は数直線だ何だと理屈を付けて私を煙に巻き、そのうちに負の数が存在することに疑問を持たなくなりました。 ところが、それは単に慣らされただけで、本当の意味はまだ良く分からなかったのです。大分後になって、負の数とは、足し算の逆演算、すなわち引き算に常に解が在るようにするために、数の概念を拡張して新たに取り入れられた数に名付けられた名前であることが判るようになりました。数学を構築する時に、ある演算に対して、それは出来ない、あれも出来ない、という規則を作っても無矛盾な論理体系を作ることが可能です。しかしそれよりも、その演算を施す集合を十分に広げておいて、出来るだけ演算の例外を少なくしておく方法で無矛盾な論理体系を作ることも可能なのです。どう言うわけか、数学者はこの二つの可能性のうちの後者が好きなようで、出来るだけ例外を少なくしたいようです。蛇足ですが、どちらの論理体系の方が、この宇宙を記述するのに便利かは自明なことでは在りません。それは、やってみなくては判らないことです。その便利さ如何と言うことに関わりなく、数学ではたまたま例外の少ない論理体系を選んでいるというだけです。 さて数学のその後の発展で、2次方程式、3次方程式など、n次方程式を解こうとした時に、解の範囲を実数だけにしてしまうと、n次の方程式に解がない場合や、解が1つだけの場合や、2つだけの場合と、いろいろな例外があることに気付きました。ところが、2乗して負になる虚数まで許すと、n次方程式には必ずn個の解があり、例外なく解が存在するように出来ることが判って来たのです。それは、負の数字を許すと引き算が常に出来ることと同じです。そこで前にも言った数学屋さんの嗜好から、例外の少ない論理体系を作ろうと言うことで、虚数という概念を数学に取り込んだのです。 そう言う意味では、負の数も虚数も同じ論理で導入された概念であると言うことです。ですから、虚数は不可解だが、負の数は理解できるという人がいたら、その人は支離滅裂な人と言うべきです。もし虚数に神秘性を感じているのなら、是非、負の数にも神秘性を感じて、論理の一貫性を保持して下さい。 蛇足ですが、負の数をイメージしたかったら数直線を描けば良いように、複素数をイメージしたかったら、x軸を実数にとり、y軸を虚数 i の前に付く実数の係数にとった2次元平面を考えれば宜しい。これを複素平面とかガウス平面と呼んで、数学では数直線と同じように日常茶飯事に使われています。
お礼
正数から負数への拡張(数直線による理解) 実数から虚数への拡張(ガウス平面による理解) は、まさにそのとおりだと思います。 ただ、この問いの中心テーマは、「1」だけです。 「1」の存在だけを扱いたいのです。 拡張は、別のテーマですし、それはまた別の機会にしたいと思います。
- 来生 自然(@k_jinen)
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そもそも「存在」とは何なのでしょうか? 「存在」するから「認識」できるのでしょうか? 「認識」できるから「存在」するのでしょうか? 「存在」の証明とはどうするものなのでしょうか? === 物理学的な視点から。。。 虚数(純という文字は不要)は、量子力学での「量子」の存在確率と密接に関連している波動関数に含まれています。 端的に言えば、虚数が存在しなければ量子は存在し得ない(正確には、「考えることが出来ない」)わけであり、量子からあらゆる物質が構成されていると考えるならば、「虚数が存在しない」=「あらゆる物質が存在しない」(正確には物質について考えることが出来ない)と等価になってしまいます。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2501039.html http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity312.html === 数学的な視点から。。。 実数(実という漢字があるから実在しているかのごとく錯覚する)も、 たとえば、 (1/3) * 3 と定義するならば、 (0.333...) * 3 = 0.999... ≡ 1 です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/0.999... === 哲学的な視点から。。。 さて、「対象」(実在しても不在であっても無であっても観念的であってもいい)は、一端「概念」的に「認識」されることでしょう。 たとえば、「この」リンゴとか、「この」私とかいった(柄谷氏の述べるところの)単独性は、他との交換不可能な状態を表していますが、そういった「交換不可能性・共有不可能性」(それぞれが「唯一無二」ないし「唯一絶対」という概念として捉えられる)という性質が「交換可能・共有可能」なわけです。 そういった記号化可能(共有可能・交換可能)な「概念」は、そういった「概念」を共有可能・交換可能な共同体内部にて、「存在」すると等価になりえます。 もし、そういった「共有可能・交換可能」といった「概念」が成り立たない場合、「唯一無二」とか「唯一絶対」とかいったことすら、「概念的に共有不可能・交換不可能」となり、あたかも「共同体外部」から、その「存在」を否定されるかのごとくに、相互に「存在」を否定し合うことになりうるでしょう。 逆説的には、そういった「否定」しあえるからこそ何らかの共通項が存在するといった考え方も可能になるわけですが。。。 いずれにしても、そういった意味での「存在」になりうると思っています。 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20040526 http://www6.plala.or.jp/swansong/000700karataninokonowatasi.html
- cyototu
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「存在」という言葉は多義的で厚みのある言葉ですから、それぞれの文脈の中でその意味が違ってしまいます。ここでは、物理学的に見た1の「存在」に限って論じてみましょう。その場合、1には二つの意味が考えられます。そして、その二つの意味において、物理学者は1がこの宇宙に存在していると考えています。 その一つは、この宇宙には不連続体が存在しているのか、それとも連続体でのみ出来ているのかという問題に絡んだ1の存在です。この宇宙の基本法則として量子力学が発見される前までは、この宇宙に不連続体が存在するかどうかが判らず、物理学者の間では論争の対象になっておりました。巨視的な世界で一つの粒子として見える物でも、それを半分に割ることができる。そしてその半分の半分もある。したがって、物の存在には1、2、3と数えられる物がないかも知れないという意見です。そうなると、1なる概念が物質的存在としての意味を無くしてしまい、頭の中にだけ存在するもっと抽象的な概念になってしまうように見える。 ところが、1900年にマックス・プランクによって光のエネルギーの存在形態としての量子の概念が発見され、この宇宙にも不連続なものが存在することが初めて明らかにされました。その後、1905年にアインシュタインがあの有名なブラウン運動の理論によって、液体を構成している物質には粒子という不連続な最小単位が存在しているとこを示す理論を提案し、それを肯定的に検証する実験が1908年にペランによって成されて、物理学者はこの宇宙には分子や原子と呼ばれる物質の不連単位が存在することを確信しました。実は分子という概念はそれよりも100年以上前に化学者達によって提案されていたのですが、それまではその存在を直接検証できる方法が発見されていなかったので、アインシュタインに多大な影響を与えたマッハの様に、物理学者の中には「不必要な仮説」として分子の概念を拒否する人達もいたのです。アインシュタインとペランによって不連続なものがこの宇宙に存在することが明らかにされたのですから、単に頭の中で抽象的に思い浮かべたものを数えるだけではなく、この宇宙の存在を語る場合に、物を数えるという行為が現実的な意味を持つようになった訳です。ですから、数学者にとっては1は単なる頭の中の抽象的な概念を論じるための定義ですが、それとは違って、物理学者にとっては1は物質的根拠を持って現実に存在していると考えています。 もう一つは、たとえ連続量であっても、その大きさ(長さ、重さ、速さ等々)を測るのには何を基準にして測るのかという基準を用意しておかなくてはならない。物理学者は、ある物の大きさを、その基準の大きさで割った物が数であると考え、その大きさがその基準の大きさと同じ場合に、大きさは1であると言います。そう言う意味で、大きさなる概念がこの宇宙に存在しているなら、1も存在していると考えます。 この宇宙を量的に捉えることに意味があるかどうかは、決して自明なことでは在りません。微分積分や高度な数学がまだ存在していず、せいぜい現在の小学校で算数として教わる加減乗除と、それ以外にユークリッド幾何学しか知らなかったガリレオが、まだそれを正当化できる証拠がほとんど存在していないのに、「数学は自然を記述する言語である」などととんでもないことを言い出したのは、私には神懸かりとしか言いようが在りません。しかし、その後の物理学の発展は、このガリレオの神懸かりがどうも正しかったらしいということを示しているようです。今までのところ、大きさという概念を使ってこの宇宙を説明できるという主張に反する事例に人類はお目にかかってはいないようです。ですから、物理学者はこの宇宙は大きさという概念で合理的に説明できると考えております。したがって、各々の事象で大きさの単位が存在していると考えており、それを1と呼んでおります。
お礼
なるほど。 分子や原子と呼ばれる物質の不連続体の単位として、現実に存在しているのですね。 また、たとえ連続量であっても、ある物の大きさを、その基準の大きさで割った物が数であると考え、その大きさがその基準の大きさと同じ場合に、大きさは1であると言い、大きさなる概念がこの宇宙に存在しているなら、1も存在していると考えるのですね。 しかし、これは証明ではなく、定義のようです。 定義には、様々な観点があるという例示にはなっています。 有難うございました。
No8です。 誤字発見しました。 郡数論(誤)→群数論(正)でした。すみません。
お礼
なるほど。 数の「群れ」の中に見つけるのかもしれませんね。
哲学にも数学にも素人ですがお邪魔します。 高校のときに郡数論というのを習った記憶があります。 郡を構成する集合においては次の4つの性質が存在するという定義だったように思います。 ・零元の存在(その数(零元)に集合内のどのような数(要素)を乗じてもその数(零元)になるような数(要素=零元)が存在する) ・単位元の存在(その数(単位元)に集合内のどのような数(要素)を乗じても乗じた数(要素)になるような数(要素=単位元)が存在する) ・逆元の存在(0(零元)でない数(要素)は足すと0(零元)になる集合内の数(要素)が必ず1つ存在する。) ・加減乗積が集合内で可能 ここに「存在する」と書いていますが、その内実は「概念として存在する」という意味と理解していいと思いますので、質問者さんがおっしゃるような理解でいいのではないでしょうか。 あるX軸上の単位元(1)は、点ですので幅も太さもありません。目に見える太さを持ったものとしての「1」はどこまで追いかけても追いつけない不可思議な存在です。 それは概念として存在するのみと考えていいように思います。 虚数は苦手ですが、同様に考えて概念として存在するので「1」と一緒ですよね。 確か、i×i=-1となる数iを純虚数というのでしたよね。 数直線上にモデルを描けない数字なのでどうしても苦手でしたが、数学を専門にされている方は、この虚数がイメージできるのでしょうね。
お礼
実数1も純虚数iも、「概念として存在するのみ」という結論に、異論ありません。 つまり、認識能力の進化によって獲得したのが、おそらく「概念操作」であり、この「概念操作」の展開できる「(ウィトゲンシュタインの言う)論理空間」が、存在の「場」であろうと思われます。 しかし、本当にそうなのでしょうか? 計算する犬をテレビで見たことがあります。 その犬は、論理空間を認識するほど脳が進化しているとは思えません。 しかし、ボードに書かれた足し算や掛け算ができていました。 数が分かっているようです。 その答えは、すべて「ワン」の繰り返し回数でした。 たとえば、「2×2」は、「ワン、ワン、ワン、ワン」です。 計算とは、概念操作なのでしょうか? 大変、不思議に思いました。そして、別の何かではないか?と漠然と感じたわけです。このもやもやが解消しません。
私は数学には無知なのですが、ちょっと引かれる質問なので・・・ 実数の概念規定というものになるのでしょうか 規定する基準が相対的に証明できうるものとして認知できているのかが前提となると思います。 証明できうる基準があって、規定が成り立ちます。 仮にその基準そのものが存在したとしても、対象との比較判断に用いるものとして認知していなければ、規定する、或いは規定したという認識が生じる事は無いものと思います。 通常においては 「1」は等量的な単位の最小のものとして扱われています。 これは既に実数の概念が植えつけられている結果であると思います。 実数の概念全体の認識が基準となって「1」という規定の認識を生み出しているものと思います。 この場合に「1」は、基準無しには「1」ではあり得ず また、基準の対象としての「1」としか扱う事ができないものです。 「1」は相対的な規定の「1」であり、「1」そのものにおいては「1」と規定できないものです。 「1」は相対的な概念の規定において存在する認識であり、「1」という認識が同時に基準とする、実数の概念全体を規定する基準にもなりうるものと思います。 「1」は対象の認識における概念の所産であり、「1」の認識を基準として対象に向けた時に、「1」の存在が成り立つのではないでしょうか。 >「1」も概念であって、実在している必要はないように思います。 その通りと思います。 対象の認識以前においては、必要もなければ、必要もないという意識すら無いと思います。 対象の認識において、始めて「1」の概念が生じ、「1」の存在が成り立つものと思います。 物理の世界では、観測者効果、という言葉があるそうですが それと似たようなものなのでしようか? ちょっと迷いながら、あれこれ書いてしまいました。 所詮、数学は素人です、ご参考にして下さい。
お礼
認識からのアプローチですね。大変、参考になりました。 「1」が相対的な「物差し」の役割を果たしているというように解釈させていただきました。 前にあった他の回答でも、「最小単位」という表現もありました。 基準や物差しとして存在しているらしいという指摘は、面白いです。 つまり、相互関係性、相対的関係の中で、捉えていくということがいいです。 「1」単独での存在証明とは違う、全体との関係(縁起にも通じる発想)で、捉えていくというアプローチだと思いました。 「多あればこその1」とでも言うべき観点でしょうか? でも、「1」単独での存在証明は、やはり不可能でしょうか?
補足
物差しですから、「最小単位」というよりも、「基本単位」、「基準単位」という方がいいかもしれません。
- bananasand
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地球が1個存在する。 そりゃそうだ。 1個のリンゴが存在する。 どこに? 1円が存在する。 どこに?一円玉?銀行口座?ウェブマネー残高? 「1」が存在する。 どこによ。 ウェブマネーが存在しているんなら、「1」だって存在してるじゃん。 だって、現に、こうして「1」のことを回答してるじゃん。
お礼
そうです。そうです。 概念として、「1」を使いこなしています。 「1」の存在は、疑いようがありません。 でも、「どこによ。」この問いが大事です。 どこに存在しているのですか? これが、今回の問いのテーマです。 よろしくお願いします。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
数学カテのような問答ですね。 「1」の定義ですか。 三平方の定理が証明される。であれば、「1」の定義は、円周内の三角形の図形から lim(x→0)[sinx/x] を1の定義とすればよいでしょう。 つまり、lim(x→0)[sinx/x] = 1 とするですね。となるのではなく、と定義するですね。(この定義の仕方は参照: http://izumi-math.jp/Y_Hirata/radian/radian.htm で提案されてます。) この意味はサインカーブの原点での傾きを1とするというものですね。この[1の定義]からパイなどのラジアン表示が導かれます。だから、これは存在を前提とした数学的な1の定義になり得えますね。当然、傾きは比の値ですから定義の1を基準にしてどのような値もとりえますね。このように「1」は数学的に定義できるものですね。 参考程度に
お礼
こちらも面白い定義です。 傾き1から「1」を定義してみるという発想ですね。 だとすると、n/nの方が、もっと簡単に定義できて便利そうです。 「n個の商品をn人で分配する時の一人当たりの配分個数1」という意味付けで解釈可能だと思います。 様々な定義が可能でしょう。 では、1の存在証明は不可能でしょうか? 証明は出来ず、定義のみ可能なのでしょうか?
お礼
なるほど。 止めの合図が出るまで、ほえているのですか。 ただ、遠吠えの「ワオーーーーーン」ではなく、短い吠えの「ワン」を断続的に繰り返す訓練によって、1回毎の吠えを反復することを理解しているように思います。2や3は理解していませんが、1だけは理解しているらしいと思いませんか?止めの合図が出るまで、短い吠えの「ワン」を反復する習慣が形成されているようだと思いませんか?つまり、計算とは、反復であり、習慣だというのが、後期ウィトゲンシュタインの結論でもありますから、習慣によって、「1」の反復を表現できていると見ることができるでしょう。 よって、止めの合図が出るまでであっても、計算ができていると言えるのではないでしょうか?