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「1」は、存在していますか?

「1」は、存在しているに決まっていると誰もが思うでしょう。 子供でも、1個のリンゴや1匹の犬などから、「1」を理解していますと言うことができます。 しかし、「1」を理解していることと、「1」が存在していることとは、厳密には違います。 「1」の存在は、証明されていますか? それとも、「1」の不存在が証明できるのでしょうか? たとえば、この世には、完全な円形や球形の模型がありません。 すべて近似表現型に過ぎません。 円や球は、概念であって、実在の有無を問わないようです。 「1」も概念であって、実在している必要はないように思います。 「存在」の定義が、違っているために、混乱しているだけでしょうか? 実在していなくても、我々の頭脳・知能において、概念として存在しているということでしょうか? すると、実数1も純虚数iも、存在という点では、大差無いように思います。如何でしょうか?

みんなの回答

回答No.24

No.11, No.14にて回答したものです。 「【1】の存在を証明する」とは、すなわち、 「認識主体を何に置き換えても、【1】という概念形成は必ず生じる。」(言い換えると、「【1】という概念形成は認識主体によらない。」) と等価であると考えます。 すなわち認識主体の所をイヌ、ネコ、ミミズ、蚊、ノートパソコン、いや、「石ころ」に置き換えても成り立つことが言えれば、存在するとしていいと思います。 概念形成には記憶能力のみでは不十分で、論理能力が必要だという論旨ですが、そうではないことを含めて、述べてみます。 1.「石ころ」がたった一つだけ存在しつづけているとします。割れることもなく、傷つくこともなければ、「石ころ」自体に「記憶」として刻み込まれるものはないので、時間の経過や空間内での位置・移動・速度すら、「石ころ」にとっては存在しないのと同等です。 2.「石ころ」が複数個、ある箱の中にばらまかれているとします。箱がずっとそのままであるならば、「石ころ」は、たった一つだけ存在し続けているのと変わらないでしょう。 しかし、箱が揺さぶられたり、傾けられた途端、「石ころ」は箱にぶつかったり、他の「石ころ」とぶつかったりします。「石ころ」の表面には目に見えないような小さな傷が入ることでしょう。箱の一部が凹むかもしれません。そのような関係の跡は、「全体の内部の記憶」として残ります。 ぶつかるといった関係の回数は、石ころの表面の傷や箱の傷として記録(記憶)されていきます。 犬に吠えさせつづけ、止めさせることと、 箱を振り続け、振るのを止めることと、 これらの【一回】【一回】といった概念形成は、それを観測する認識主体が必要でしょうか? それとも、「石ころ」だけでも十分でしょうか? 私は、「(何らかの)関連性をもつ・もたない」といった概念区分が形成されうるところに【1】という概念形成が成り立ちうると考えます。 すなわち、「(何らかの)関連性をもつ」こと自体が証明可能であるならば、【1】の存在証明が成立すると考えます。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

証明の前提が、概念「形成」なのかなぁー? よく分かりません。 ところで、「1は、基本単位だ」という定義があったはずです。 そこから、色々と展開してみましょう。 1は、基本単位なので、唯一の存在である。 ダブルスタンダードということにはならないだろう。 1は、唯一なので、絶対の存在でもある。 相対的な1では、物差し・単位として失格となる。 1は、唯一・絶対なので、完全な存在である。 不完全な1という想定は、有り得ない。 1は、完全なので、永遠の存在である。 始まりがあったり、終わりがある1という想定が、有り得ない。 1は、不生不滅なのである。 1は、基本単位であればこそ、遍く適用されるから、公平・平等である。ゆえに、1は、普遍である。 さて、このような「1」は、この世のものでもあの世のものでもない。何かを連想しませんか?

qsxdrfvgyh
質問者

補足

しかし、実数「1」でも虚数「i」でも、実は同様のことが言えそうなのです。となると、ダブルスタンダードかな?ははははは・・・

回答No.23

記憶と論理は違うでしょうね。 犬と言わず、コンピュータメタファーをやれば、「1」が 存在するのはメモリーであり、CPU動作中であっても、 伝送中であっても、一種のメモリー内部です。 ロジックには、時間経過が必要なのに対して、 「1」の概念に時間軸は関係しません。 どこに位置していても移動中であっても「1」は「1」ですね。 もちろん、その記憶の出し入れはロジックですし、認識するにはロジックは不可欠です。 しかし、「1」の存在は、どこかと尋ねられればメモリーと答えざるを得ませんよ。 ロジックは認識に不可欠とはいえ、そこに存在はしません。 論理空間の中に存在する・・なら、記憶だけでは認識ができませんから、理解できますが・・。 でも、これだけだと、メモリーに固定されている「1」は存在しないことになる・・つまり、「1」を話題にしていない=論理空間に存在しない状態では、「1」は存在しないことになるので片手落ちだと思われます。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

うーん。 やはり、「1」は幻のような、虹のような出現の仕方なのでしょうか? 条件が整えば、存在を感じるけれども、当たり前に目の当りにできるというものではないと思います。 「1」の存在を感じるにも、準備が必要なのでしょう。 存在か不存在か、条件は?前提は?いよいよ、終盤でしょうか?

回答No.22

A いま、リンゴ食ってんだよ。   B そうなの。 A うまいよ。   B うそでしょ。チャットじゃわかんないしね。 A うそじゃねーって。   B ホントに、そこにリンゴなんてあるの。 リンゴを食べているAにとってはリンゴは存在していますが、 Bからみるとそのリンゴが存在しているかどうか認識できません。 しかし、AもBもリンゴという概念を共有しお互いに理解しあって います。少なくとも、AとBの間では、リンゴという共通概念が存在していることになります。Aは、今食べている青リンゴをリンゴと言っており、Bは赤いリンゴをイメージしています。 Bにとっては、リンゴは記憶にある概念にすぎず、具体的実物は、Bの知覚範囲にはありません。Aがリンゴを食べているという情報を聞き、それを信じようが信じまいがリンゴの実物はありません。 リンゴが存在するのはBの記憶です。 Aにとってリンゴは今まさに手につかんで口に含んでいるリンゴが 存在しており、Bがどうあれ、リンゴが存在しています。 このAが手につかんで食べているリンゴも直ちにAの記憶に格納されて実体のリンゴはどんどん過去に消えているわけですから、結局、このAのリンゴも存在する場所はAの記憶となります。 以上から、「1」についても同様に、それが存在する場所は記憶ということになります。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

「リンゴ」という記号と「1」という記号が、同様に扱えるのかどうかは、分かりませんが、結論としては、「1」が存在する場所は記憶であるという回答ですね。 先ほどまでの展開では、「論理能力」があるから、「1」という概念が存在できるらしいということでした。 「論理能力」を「記憶力」に置き換えるべきでしょうか? 再度、犬に登場いただきましょう。犬には、多少記憶力があるはずです。 色々と覚えているらしいです。飼っていて、そのように思いました。 「1」という概念は、犬の記憶力に存在できるということでよいですか? 論理能力までは必要ないということでよいですか? やはり、犬は「1」を理解し、「1」という記号を介するなどして概念操作可能な状態にいるのでしょうか? どうも、記憶力だけではないように思います。 とりあえず、「論理能力」あたりがいいように思います。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

どうなのでしょうか、ねー? 犬は、記憶力があって、「1」を理解してるかもしれませんが、 論理能力はないので、「1」という概念を存在させられるほどではないと思います。

回答No.21

 回答番号:No.18  はい、えばったことはいえませんが、私も精進をいそしむ端くれです。  私たちの教えは唯一者が、多なるものに反射している。それがこの世、あの世である。全てであるとなっています。  この世、あの世での反射たる現象には一はどこにもあるわけがない。  知作業でも、感覚知覚でも出会えるわけがない。  せいぜい多様、多なるこの世、あの世に一が普遍・遍在している。  それは一とのて呼応にある、唯一の全体あるとしか景仰するしかない。  景仰という実感生活での、存在でしかない。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

なるほど。 なんとなく分かる気がします。 偏在しているけれども、隠れているように思います。 そのような印象です。

noname#100496
noname#100496
回答No.20

脳の思考に依存してる限り、存在の証明はできません。脳は宇宙の主役ではないからです。脳は科学、論理の手法で、相対的に、概念的に、理解する事しか出来ません。真理を知るためには、脳を排除して、宇宙の主役と直結する事です。脳が発達していない、動物や赤ちゃんが、宇宙の主役と直結してる見たいです。また今話題のマヤ文明の、数学、天文学は、脳の思考を超越しています。だからマヤ文明は、宇宙の主役と直結した人がいたのではないかと思われます。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

そのような進化が、優位であれば、適者生存の原理が働くでしょう。 論理能力の方の進化が、優位であれば、そちらが栄えるでしょう。 もちろん、直観やひらめきが、パラダイムシフトの原動力になってきましたから、単純に論理能力だけとは、言い切れない面はあります。 その際に大事なのは、無矛盾な方はどちらなのかということでしょう。 排除でも直結でも超越でもありません。 現実の記述に優れた道具を持てているのかという点です。 論理能力は、現実世界の像において、テストされていると思います。 論理能力のみで完結していないのであって、必ず事実で試されるのでしょう。 論と事は、密接に関係してこそ、有意義なようです。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

「論と事は、密接に関係」に類似するものとして、 理論と実践とか 知行合一とか を連想しました。蛇足ですが、メモさせていただきます。

回答No.19

 回答番号:No.18  「論理空間」という言葉に出会いました。  この世、あの世を出たところは「○○空間」といえるのか。  存在するという動作と『時間・空間』がという結果現象が、我々には不可分であれば、あの世・この世を出た「○○空間」は時間・空間という存在形式には依拠しないのでしょう。  そしたら「○○空間」は空間ではないということになり、存在という結果のない、結果たる存在のない空間である。  存在のないところに、1は存在する。1の存在は存在がない空間である。  ということは、存在のない空間を存在の界で証明しなければいけないのでしょうね。  それは存在の境界を示すことでしょうが、知作業と感覚経験の外という以上は表現できません。  「『そういう世界を認めない』というのは、知作業と感覚経験での言い草だ」という言葉を投げつけることになりますね。  ここで限界です。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

「論理空間」は、前期ウィトゲンシュタインの概念ですから、後期では捨てています。ですから、不完全な道具です。 >「○○空間」といえるのか。 という視点は、全く正しく、空間でも時空でもないのだから、存在的・科学的な偽装の印象を持ちます。 存在論的・哲学的な「何か」なのですから、「論理空間」ではなく、単に「論理能力」でいいと思います。 そして、それは、進化によって獲得した才能のひとつだと思います。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

「論理空間」に代わる、しっくり来る名称はないかと思っていましたが、krya1998さんとの対話の中で、ヒントをいただき、シンプルな名称に至りました。後から思えば、何でもないことですが、なかなか見つけられないことがあります。「灯台下暗し」なのでしょう。

回答No.18

 qsxdrfvgyhさん、気のつけなかったことを提示してくれました。  その通りと存じます。  概念として、観念としては、一応出発や基点としてということにも通じますね。  部下の人事配置換えや、その筋へのもらい下げには、公益上余人を以って替え難い、などと縷々陳情したものですが。  配偶者だって、自分にとっての自分だって決して余人をを以って替え難くはないですね。  ○○は○○にとって、○○上、掛け替えがない。ということは本当はないですね。  そのときの気持ちはそうであっても。  つまりは多、多様が我々の世界の有り方でしょうね。  絶対者など出すな、という縛りですが、我々の世界を、この世もあの世も出たところにしか、唯一はないでしょうね。  このものがある。それはこういう経緯、こういう要素存在している。  そういう経緯の要素も、そのものの要素も他にもある。  1というものは、経緯と要素で成り立っている、具体的存在には存在し得ない。  そんなことをさんざん教えられてきたのに、私も漸くその意味性を見ることができています。   これから皆さんのご見解を拝読いたします。ありがとう御座いました。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

出発点、基点と評価していただき、恐縮します。 現実世界は、「多」であり、「この世もあの世も出たところにしか、唯一はないでしょうね。」という部分には、全く共感いたします。 この質疑が、何かのひらめきに通じたようで、ちょっとした貢献になっていたら、幸いです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.17

追伸01 ☆「1」も概念であって、実在している必要はないように思います。 ● 「我思う故に我あり。」の我は必ず存在しますね。我は孤独でさびしい存在ですが確かにあるのですね。 眼も見えず、音も聞こえず、動きも出来ず、触ることも出来ず、さてこの孤独な我は他を認識できようか? そりゃだめでしょうね。 これを数学的に表現してみましょう。 孤独な我は存在しているから考えてるわけですね。これを、我はあるという表現でシンボル「1」と表現しましよう。 このシンボル「1」は我があるので必ず存在します。 これから導けないのは、「無い」という表現の「0」及び複数という表現の「2、3・・・」ですね。 何故なら我は無いといくら考えてもそれを考える我から逃れられないからですね。また、我以外に我なしですから複数の我があるはずないですね。 このように考えると、シンボル「1」は必ず存在し、それは我のみにより証明できますね。 むしろ、 無し「0」及び複数の「2、3・・・」は絶対に証明できません。これが証明できるのは我以外の複数の我が存在している場合だけですね。 つまり、この数学問答は複数の存在を前提にしたものではないでしょうか?  単数に立ち戻れば、単数のシンボル「1」の存在証明以外ありえないし、それはあなたの存在で証明済みの問題なのでは。 少なくともあなたはあなたの1の存在を肯定しているから他の世界を認識できるのですね。つまり、「0」、「2、3・・・」をですね。 ようは「1」は存在するし証明済みといいたいのですね。 哲学的回答ですがね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

僕は、「独我論解体」を支持しているので、ぴんと来ません。 相互依存的な関係性の中に我はあり、無縁の・完全自立した我のような想定には、賛同しかねます。 さらに言えば、存在的・科学的な茎根に、存在論的・哲学的な枝葉を接いだような印象です。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.16

#10です。 #15さんのフォン・ノイマンの証明について一言。 質問者さんは、真偽に関するカントの分類をご存知だと思います。カントによると、真偽の判断には、分析的真偽と総合的真偽と言うそれぞれ違ったが2種類が在る。分析的真偽とは、その命題、およびそこに現れた言葉の定義を分析するだけで真偽の判断が出来るような種類の真偽です。例えば、   「甲であるならば乙である」が真であるならば、「乙でなければ甲でない」も真である、 などの類いの真偽の判断です。この真偽を判断するには実験や観測をする必要がなく、言葉の構造を分析するだけで良い。数学で論じられる真偽の判断は全て分析的真偽の判断です。 一方総合的真偽とは、例えば、   「手に持った石を離すと下に落ちる」 という命題に対する真偽の判断です。これは、分析的真偽とは違って、この命題の構造や言葉の定義を幾ら分析してもその真偽は判断できず、実験や観測のみがその真偽の判断を可能にしてくれる真偽です。実際、人工衛星の中では石は落ちませんから。数学を除いたあらゆる自然科学で論じる真偽の判断は全て総合的真偽の判断です。 このことから、数学はこの自然界の真偽を論じる学問ではなく、我々の頭脳が生み出すことができる概念や言語の中のあらゆる可能性を探る、ある種の言語学であることが、カントによって明らかにされました。したがって、カント以降では数学は自然科学ではなく、人間の生み出したある種の言語や概念についての整合性をさぐる人文科学に分類されるようになったのです。しかし、歴史的な経緯で、今でも大学の数学科が物理や天文と同じ建物の中にあるので、数学を自然界の真偽を解き明かす理科系の自然科学の学問の一種であると誤解している方が一杯いるようです。 したがって、もし質問者さんの「存在」の意味が、この自然界の中に存在するのかどうかと言うことでしたら、数の存在に関してのフォン・ノイマンの証明のみならず、数学によるあらゆる証明は、この自然界の在り方とは無関係です。したがって、その証明が数学的に整合していても、1の存在の総合的真偽に関しては何も言えません。 また、もし質問者さんの「存在」の意味が、自然界の存在とは無関係に、我々の頭脳の中に在る概念として無矛盾な整合性を持った1という概念が存在するかどうかと言う分析的真偽のことだと言うなら、フォン・ノイマンの証明によって、「1は存在する」という命題は分析的に真であると言うことが出来ます。 この質問は「神は存在するか」と言う問いと同じで、カントは彼の真偽に対する発見を直ちに、その当時カソリック本部のバチカンで承認されていた20程の神の存在に関する証明に応用したそうです。そして、彼は、その証明が全て分析的な意味での存在の証明であり、神に関して総合的な意味での存在の証明は一つもないことを示したそうです。別な言い方をすると、バチカンによって公認されていた神の存在の証明は、この自然界に実際におられる神に関することには何も触れておらず、我々人間の頭脳の中の概念の中だけにおられる神に関しての証明だったとのことです。 私が#10で触れた自然界の不連続性から導き出される1の存在とは、ここで言う総合的判断の下でその存在が確認されたと言っているのです。他の回答者さんのお答えは、どうやら現実にある自然界の中の存在とは無関係な、したがって我々の頭脳が生み出した概念の中にのみ存在する分析的真偽に関するコメントのようです。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

カントによる「分析的真偽」と「総合的真偽」について、教えていただき有難うございました。 僕の場合は、ハイデッガーの分類の方が気に入っています。 つまり、存在論的・哲学的な分析と存在的・科学的な分析という分類です。 「分析的真偽」は、存在論的・哲学的な分析に対応するでしょう。 それは、完全に論理を尽くそうとする態度に通じているはずです。 「総合的真偽」は、存在的・科学的な分析に対応すると思います。 こちらは、徹底的に事実と矛盾しないことをテストされるはずです。 そこで、「1」の存在証明は、存在論的なのか、存在的なのかですが、勿論、哲学カテなので、存在論的です。 しかし、そこを浮き彫りにする上では、存在的な考察は、助けになるでしょう。 こんなふうに考えています。 大変、意味のある、有意義な回答を付け加えていただき、重ねて感謝いたします。

noname#130082
noname#130082
回答No.15

有名な数学者のフォン・ノイマンは、集合を使って自然数(正確には順序数)を構成してみせました。 まず、集合というものがひとつでも存在するならば、その部分集合として空集合∅は存在する。それを0と書く。 すると、世界には、少なくとも0という実体が存在することが分かったので、これを元とする集合 {0} を作れる。これを1と書く(これで、1の存在は証明された)。 すると、世界には、0と1が存在することが分かったわけなので、集合 {0,1] を作ることができる。それを2とする。2が存在することが分かったので、3=[0,1,2} が作れる。 という具合にして、 4={0,1,2,3}, 5={0,1,2,3,4}, ... などの自然数の存在がすべて示せます(本当は、さらにその先があるんですが)。 ・・・まあ、もっとも、あくまで「集合というものが存在するならば、0,1,2,...などの自然数も構成することができる」ということなんですが。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

なるほど。 集合を使えば、証明できるようですね。 集合と順序数との相互依存関係を前提として証明するということになるのでしょう。そのように理解しました。 そして、この証明は概念操作に含まれるようです。 人間向けの証明のようです。 この証明は、犬には、理解できないでしょう。 でも、犬でも、「1」を理解している可能性がありました。 「1」を理解することと存在証明することは、勿論、違うわけですが・・・存在証明は、人並み以上の知能でしか、できないようです。

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