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生物の精密さは神の証明となるのか

しばしば、生物の構造やメカニズムは極めて緻密かつ精密で、神が作ったとしか考えられない、と言った話を聞きます。 しかしそれを聞いて思ったのですが、むしろそれらは神の存在を否定してるような気もします。 生物は理にかなったとても精緻なメカニズムで動いている。 逆に言えば生物を動かすには非常に精緻なメカニズムが必要。 それを神が作ったとしたら、神と言えどもメカニズムに頼らなければ生物を作れない。 すなわち、神とは優秀な技術者にすぎず、なおかつその優秀さは人間の技術者の延長線上の優秀さにすぎない(そのレベルに人間がいずれ到達できるかは別として)、ということでしょうか。 もしもこの世に知能は高いけど凄く不器用な生き物がいたとしたら、人間が作った機械を見て「人間とは神だ!」と思うかもしれない。 それと同じレベルの話のような気がします。 生物の精密さ、緻密さは神の証明たりうるのでしょうか。

みんなの回答

回答No.15

korikuno586さん おはようございます。 korikuno586さんの質問を「生物」から「自然」に拡大して、回答を試みます。 「人間とは自然に対する主観であると同時に、自然のうちに含まれている客観である。」 哲学的には逆説の命題ですが、私には、前半が自然科学、後半は人文科学(文学)のことを言っているような気がして、私には妙に納得する命題なのです。 ベルクソンの考え方で言うと、前半が物事を外から見て相対的に考える科学、後半が物事を内からみて絶対的に考える哲学。 例えば、森を私は散歩をしている時、自然と一体になる感覚を覚えることがあります。 自然との一体感を感じる時、古代ギリシアの自然哲学も、そのような感覚から生まれたのではないかと思ったりします。 さて、話をキリスト教の聖書に飛ばすと、下記のような一説があります。 「目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現われており、これを通して神を知ることが出来ます。」ローマの信徒への手紙1章20節。 中世において、聖人トマス・アクィナスは「神学大全」で下記のことを言っています。 「神の存在はそれ自体を通じてではなく、被造物における類似を通して認識されるべきである。それと言うのも、原因は自らに類似したものをつくり出すからである。だから、もしも神の存在が被造物的存在における類似を通じて認識されるのであれば、その実体も被造物的実体における類似を通じて認識されるものでなければならない。」として神の存在を肯定してます。 しかし中世が終わり、近代の実証主義のイギリス経験論における科学の萌芽ともいえるフランシス・ベーコンは、類似という考え方に限界を指摘し、宗教の真理とはまったく違った経験主義的な真理の世界こそ、まさに哲学の世界であり、この世界においては法則を知ってそれに従うことによって、つまり「知識は力である」が故に「神の贈与によって人類に与えられたものとなっている、自然を支配する」という任務と共に、その自然認識の新しい方法として「自然をむき出しにして変化させ処理するべきである」と唱え、著書「ニュー・アトランティス」の中で 「天地の主なる神よ、あなたはみ恵みにより、(中略)聖なる奇跡と自然の働きと、人工のみわざと、その秘密を知らしめ、あらゆる種類の詭計と幻想とを識別する力を授けられました。(中略)書物で学ぶところに依れば、あなたが奇跡を行い給うのは聖なる特別の御旨のためでありますから(なぜなら自然の法則はあなた御自身の律法に他ならず、それを越えるのは大いなる理由があってのことでありますから)・・・」と 自然法則は神の律法としています。 しかし、現在の科学にも通じているのかもしれませんが、ベーコンから派生した実証主義者の世界観はポパーによると どこから世界について何ごとかを知るのかという問いの出発点に対して、実証主義者は自分の感覚を通じてであると答える。私はいわば完全な無知な状態で生まれ、その後で知識の一切は感覚印象を通じて生ずる。すべての知識が感覚印象から生じてくるならば、なぜ私は感覚印象以上のものが存在すると信じるのかという問いに対し、実証主義者の答えは簡単で 「そのようなもの(神)はもはや存在しない。」と。 現在、日本は科学至上主義で正月は神道の神社に行き、盆休みは仏教において親戚の集まりを楽しみ、キリスト教のクリスマスはケーキで祝うという、無宗教なのか多神教なのか私にはわかりませんが、korikuno586さんの見解をお聞きしたいのは、次の点です。 1)各個人、個人が自己にひとつの観念の世界をもっているのに関わらず、世界を見ることにおいて一致するのはなぜか? 2)わたくしが世界(神)を産出したのか(神は人間が観念として創造したものにすぎない)のか、あるいは世界(神)がわたくしを産出したのか? この個人が信じる立場の違いにより、korikuno586さんの質問の回答は多様であるとおもわれます。 長文になりましたが、korikuno586さんの見解をお礼にていただけると幸いです。

korikuno586
質問者

お礼

1)各個人、個人が自己にひとつの観念の世界をもっているのに関わらず、世界を見ることにおいて一致するのはなぜか? 客観的な世界は1つであることと、人間の機能にそこまで大きな個人差がないからだと思います。 その世界から受け取る個々人の脳内に投影される観念世界については個々人の脳機能等の個人差によって千差万別だとは思いますが、情報の発信源(客観的世界)が同じであり、その情報を受容する側(人間)の個人差がそこまで大きくなければ個々人の精神内に投影される観念世界には大きな差は産まれないと考えられます。中には個人差がものすごく大きな人もいるかもしれません。そういう人は生きて行けずに死ぬか、天才だとか狂人などと扱われているのではないでしょうか。 もう1つ、人間にはテレパシー能力がないので、自己内の観念世界を他人に伝えるには言葉や、あるいはボディランゲージなどの非言語的なコミュニケーションツールを使わないといけません。そしてこれらのコミュニケーションツールは送信側と受信側で共通規格がなければ成立しません。 すなわち、内容自体は全く違っていても他者に共通規格の言語でそれを伝える時点で相手に理解できる内容(すなわち相手の観念世界の世界観)に翻訳されてしまいます。 よって観念世界が全く違う相手と会話をしていてもそれを認識することができない、ということもあるかと思います。 2)わたくしが世界(神)を産出したのか(神は人間が観念として創造したものにすぎない)のか、あるいは世界(神)がわたくしを産出したのか? 少なくとも神という概念は人間が産出したものでしょうね。 神という概念に相応しい実体が客観的に存在するかどうかと問われれば、知らん、としか答えられませんが。

  • stmim
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回答No.14

>どうでしょうか。人間も一定の入力に対して一定の出力をする存在とも考えられるわけで、自律していると真に言えるのかはなんとも言えない気がしますね。 私自身がどう考えているか?と聞かれたならkorikuno586さんの考えに同意します。 人間が自由意志を持っているかどうかは疑わしいと考えています。 この部分は「創造論者」がどう考えているか、という説明です。 >その理論だと神も人間を作るのに土塊という材料を使ってるような気がしますね。 聖書には土塊からアダムを作ったとありますが、土塊がないとアダムを作れないかどうかは不明です。そもそも宇宙を作ったのは神ですから、何も存在しないところから土塊を作ったのは神でして、それを併せて考えるなら、神は何も存在しないところから人間を作ったとも言えます。 >両者のどちらが凄いと感じるかは主観にすぎないのでどっちでも良いと思います。 とすると、もし神が存在するなら人間は単純な構想であろうというのはkorikuno586さんの考えだと思いますが、客観的にみてどっちでもありえるということでしょうか? 創造論者としてはまず、この複雑で精緻な構造は何らかの設計者が存在していることを意味するのかどうか?を確認したいでしょう。 もし同意されるのなら、それは神なのかどうかという議論になります。korikuno586さんの議論が関係してきます。 しかし、同意されないのなら、精緻なほうが神の存在を示唆するという話にまでは到達しないでしょう。 そして普通の科学的な考えをするなら、同意せずに偶然と選択により精緻な構造は出現することが可能であるという議論をすることになるでしょう。

korikuno586
質問者

お礼

>聖書には土塊からアダムを作ったとありますが、土塊がないとアダムを作れないかどうかは不明です。そもそも宇宙を作ったのは神ですから、何も存在しないところから土塊を作ったのは神でして、それを併せて考えるなら、神は何も存在しないところから人間を作ったとも言えます。 聖書に書かれている内容が古代人の空想でないのであればまさに神は偉大としか言いようがないですね。 >もし神が存在するなら人間は単純な構想であろうというのはkorikuno586さんの考えだと思いますが いいえ。私自身は単純も複雑もただの主観であってそのありように根本的な差異は存在しないと思っています。 ある構造に対して人間の神経系がそれを複雑あるいは単純である、という風に分類分けしているだけだろうと思っています。 なので人間が複雑だから神がいるorいない、神がいるなら人間は単純or複雑であるべき、ともどちらも思っておりません。 生物の複雑さや精緻さを理由に神の実在を語る人たちの論理は「神は偉大である。なぜならば神の作りたもうた生物はとても精緻なものだからだ」というものではないかと私は思っているのですが、その論理だと神の偉大さを技術的なものに落とし込んでいるように思えて、いわゆる全知全能などと語られる宗教的な神を自らレベルの低い存在へシフトさせてしまっているのではないか? そう思ったのです。 なお、私自身はキリスト教徒ではないし、なにかしらの宗教への信仰心は一切ありません。いわゆる無宗教です。なので神とはこうあるべきとか、神がいる世界とはこういうものである、といった定義は持っておりません。 ただ宗教の論理とか哲学的なものについて考察したり議論したりすることは面白いと思っています。 信仰心を持つ人は神を信仰する際に矛盾する教義や神の定義をどのように受け入れているのか、興味深く思っております。

  • stmim
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回答No.13

また思いついたことを書かせてください。 korikuno586さんの説によると将来人間が人工的に人間を合成できるようになったら、人々はもはや神を信じなくなるのですかね。 神がやったことを人間もできるのだという証明になりますから。 でも、私は神様とはそうゆものではない。 人間が人間を合成できたとしても、神様を信じる人は相変わらず神を信じると思うのです。

korikuno586
質問者

お礼

>korikuno586さんの説によると将来人間が人工的に人間を合成できるようになったら、人々はもはや神を信じなくなるのですかね。 いいえ。そんなことはないです。今回の質問はあくまでも「生物の構造やメカニズムは極めて緻密かつ精密で、神が作ったとしか考えられない」という考えについての疑問ですので、神自体の性質や信仰心に関する心理学的な内容については言及していません。 そもそも神と一口に言ってもキリスト教の神とは限りませんしね。 心理学的に考えれば技術がどれだけ発展しようともなんらかの宗教の神を信仰する人は常に出続けると思います。 その対象がヤハウェか観音菩薩か帝釈天かは人それぞれでしょうけど。

  • stmim
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回答No.12

「生物の構造やメカニズムは極めて緻密かつ精密で、神が作ったとしか考えられない」というのは創造論の話だと思います。だとすると、通常の創造論の筋道から1ステップ飛んでいます。もともとこの話は進化論に対する反駁として考えられています。進化論はすべて偶然と選択によって進化を説明します。それに対して創造論では「極めて緻密かつ精密」な構造が偶然によって起きると考えるのはありえない。そこには何か生物を極めて巧妙に設計した者がいるはずだ、そのようなことができるのは神にほかならない、と。 korikuno586さんの説は神の存在を否定しているというより「神はもしかすると人間にもできる程度のことをやっているだけかもよ」と、神は存在するがそんなにたいしたことない、と主張しているように見えます。どちらかと言うと神の肯定をしている。でもおそらく神は存在すると主張したいわけではないのですよね。 「神と言えどもメカニズムに頼らなければ生物を作れない」という点に関しては神側の事情を考えてみます。 神が外見上人間に見えるものをつくり動かすことは造作もないことです。たとえそれが60億人であろうとも。しかし、それでは人間は神の操り人形でしかない。それは神にとっては意味のないことです。キリスト教では人間には自由意志があることになっている。神に背くことも従うことも自由です。そうした存在である以上、人間は神の意志とは独立した自律的な装置である必要があります。 神が世界を作る時に作った物理および化学の法則だけを使って人間のような複雑な存在をつくるとしたら装置として複雑になるのは当然です。生物の構造を単純にしようとしたら生物用の特別な法則を考える必要があったと思いますが、それはしなかったのでしょう。 神が人間をつくったことは、神のやったことの一部です。そして、それがひょっとしたら人間にもできることかもしれないとしたら神の価値は下がるかと言えばそんなことはないでしょう。神は土塊から人間をつくりましたが、人間にはとてもできそうもありません。人間は何を作るにせよもとの材料がないと作ることができませんが、神は材料なしにものをつくることができます。 話は変わりますが腕時計についてクォーツ時計と、スイスの職人が作った機械式の時計とどちらがすごいと思いますか?簡単な構造のクォーツ時計の方が科学的には進んでいるのでしょうけど、緻密で精密につくられた機械式時計のほうがすごいと私は感じます。 緻密で精密なほうが「神はすごい」という感じがしそうです。

korikuno586
質問者

お礼

>そうした存在である以上、人間は神の意志とは独立した自律的な装置である必要があります。 どうでしょうか。人間も一定の入力に対して一定の出力をする存在とも考えられるわけで、自律していると真に言えるのかはなんとも言えない気がしますね。 >神は土塊から人間をつくりましたが、人間にはとてもできそうもありません。人間は何を作るにせよもとの材料がないと作ることができませんが、神は材料なしにものをつくることができます。 その理論だと神も人間を作るのに土塊という材料を使ってるような気がしますね。 >クォーツ時計と、スイスの職人が作った機械式の時計 両者のどちらが凄いと感じるかは主観にすぎないのでどっちでも良いと思います。

回答No.11

一定の比率で先天的障害をもった個体が誕生する事実から考えると、神の仕業とは思えんけど、、、、。

korikuno586
質問者

お礼

神をまともなものが作れない不完全な存在だと定義すればどうでしょう。 一神教系統の人には受け入れがたいかもしれませんが。

回答No.10

 前の回答の方が言っていますが、生物の精密さは、神の推定であって、証明ではないということですね。宇宙や科学を突き詰めていくとどうしても神の存在を認めざろうえないところに行くとききますが、それも神の推定ということです。    BSで、イギリス、コーンウォールのランズエンド岬(地の果ての岬)の取材をしていましたが、地球の自然界も微に入り細に入り精密で異なり、我々は一生かかってもその全ての地域を歴史を含め辿ることが不可能なのを思い知ります。(せかい縦断こころ旅ですね。) 精密さは神の証明ではなく、神が宿るという表現がふさわしいように感じます。 

korikuno586
質問者

お礼

宗教的な神というよりは感嘆詞としての神なのかもしれませんね。 cool ! とか awesome !みたいな言葉と同じようなノリなのかもしれません。

回答No.9

生物が精緻だって?無知にもほどがある。 ちゃんと生物学を勉強すれば、人間にも、猿だった頃の シッポの痕跡があり、胎児の頃は無意味に指の間に 水かきができてから消えるとか、DNAの97%は遺伝情報 の記されていないジャンク領域だとか、過去の経緯を 引きずったムダだらけである事が分かる。

korikuno586
質問者

お礼

高校生くらいで勉強しますよね、そこらへんは。 多細胞生物は一度形成された器官を場当たり的に使いまわしてるだけなのがよく分かります。 まさに進化がランダム性に依存するということの証明のように思います。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.8

従来から神の存在証明には、以下の3つがあります。 (1)神の自然神学的証明(一名、目的論的証明)・・・・・自然界の生物の仕組みはものすごく精巧にできている。こんな精巧で複雑なメカニズムは神があらかじめ計画して作ったとしか考えられない。だからきっと、神が存在するのではないか? この証明に対して、カントは、いかに生物が精巧に作られているからといって、神が存在するとは限らない、と言って批判しました。 ましてやダーウィンの進化論が知られている現在では、長い年月をかけて生物は自然選択によって現在の複雑な仕組みを作ったことが知られていますから、神の存在を必要としていません。 (2)神の宇宙論的証明・・・・アリストテレス・トマスの証明と言われ、以下のようなものです、 「この世界に動いているものがあれば、それを動かしているものがあるはずである。そして動かしているものがあれば、さらに動かしているものの、動かしているものがあるはずである。かくて世界の原因は無限にさかのぼってゆく。しかし、人間は無限にさかのぼれないから、どこかで第一原因とか、初動者に突き当たるはずである。その第一原因とか、初動者と言われるものが神である」 ・・・・・この証明も、カントによって批判されました、どこまでも無限にさかのぼるということは、行けども行けども果てしがないということだから、第一原因にも、初動者にも行き着かない、と。 (3)神の存在論的証明(一名、神の本体論的証明)・・・・・・一切の経験を度外視して、ただ概念からのみ最高存在者の現実存在を推論するもの。 この存在論的証明が西欧の神の存在証明の「本線」。 聖アンセルムスはいいます、 「神は完全無欠・全知全能の存在者である。完全無欠・全知全能なのだから、存在を含む。なぜって、存在を含まなかったら、神が全知全能・完全無欠という定義に反するからだ。よって、完全無欠・全知全能の神は存在する」 さらに近世のデカルトの証明は以下のものです、 「人間は不完全の、偶然の存在である。不完全とか偶然の観念があるということは完全・必然の観念もなければならない。しかるに、神は完全で、必然的な存在者である。よって、神は存在する」 この存在論的証明をカントが批判しました、 「完全無欠とか、全知全能というのは神の述語である。しかるに存在は述語ではない。主語に外から付け加えられる定立である。すなわち、神という主語にはもともと完全無欠・全知全能という述語が含まれていて、それを分析的に展開したものに過ぎないが、存在は述語ではないから、神にもともと含まれているものではなく、外から付け加えるもの。だから神がいかに全知全能・完全無欠であっても、神が存在するとは限らない」 こうしてカントは従来の西欧の神の存在証明をことごとく批判し、それを葬ったと言われます。 あなたは「生物の精密さ、緻密さは神の証明たりうるのでしょうか」と言いますが、確かに神のような最高存在者を推定することはできますが、神が存在するとは言えないと思います。 必要条件とは言えても、十分条件とは言えません。 ダーウィンのように「自然」であっても、構わないのですから。

korikuno586
質問者

お礼

従来からの神の存在証明を読んでると、もはや子供の屁理屈を難しい言葉で修飾しただけにしか思えませんね。そりゃ論破されるだろ、と思います。 生物の精緻さもおっしゃる通り、単に今の人類では技術的に再現できないというだけであってそれが神の存在証明とイコールにはならないでしょうね。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.7

しばしば、生物の構造やメカニズムは極めて緻密かつ精密で、 神が作ったとしか考えられない、と言った話を聞きます。 しかしそれを聞いて思ったのですが、むしろそれらは神の存在を 否定してるような気もします。    ↑ 説得力ありますね。 神の存在を、神が創った生物の精緻さに求めるなら 御指摘のような結論を導出出来るのでは、と 思います。 精緻さに求めるなら、人間がその精緻さに追いついたら 人間は神になることになります。 そうすると、今までの神はどうなるのでしょう。 神などという概念は所詮は人間が創り出した概念なので そうした矛盾が出てくる訳です。

korikuno586
質問者

お礼

感覚的には細胞の構造など(現状の)人智の及ばない精緻な構造を見て神のような上位者を連想すること自体は分からないでもないですけどね。 でもそこには理にかなった精緻さはあっても何か特別な超常現象があるわけでもなく、ただ現在の人類には解明しきれていないという量的な事実があるにすぎない、そう思います。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.6

こんな話がありますね。人類という存在はその地球の生命の歴史においても極めて特異的な存在です。すなわち、30億年を超える生命の歴史の中で、人類と同じような知的生命体というのは生まれたことはありませんでした。 というわけで、人類とは地球の中で独自に誕生したものではなく、ある極めて高度な文明を持つ知的生命体が何らかの理由で創造した生命体であり、我々はその創造主のことを「神」と感じる、というわけです。 UFOや宇宙人が各地で確認されながら、彼らが決して公的に我々と交流しようとしないのも、これで話の辻褄が合いますね・笑。

korikuno586
質問者

お礼

それが正しい場合、創造主とはやはりただの物理的存在にすぎない、ということになりそうですね。