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『こころ』の「上五」1

 日本語を勉強中の中国人です。夏目漱石の『こころ』を読んでいます。「上五」の中に理解できないところがありますので、皆さんにお伺いしたいと思います。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/773_14560.html 1.するとその端(はず)れに見える茶店(ちゃみせ)の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡(めがね)の縁(ふち)が日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。 (1)「ふいと」と「出し抜けに」のニュアンスは微妙に違いますか。文中の「ふいと」と「出し抜けに」は交換してもよろしいでしょうか。 (2)「眼鏡(めがね)の縁(ふち)が日に光るまで」とはどんな状況でしょうか。暗いところから明るいところまでということを指すのでしょうか。 2.先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中(うち)には判然(はっきり)いえないような一種の曇りがあった。 (1)「声は沈む」とはどういう意味ですか。「声は低い」という意味でしょうか。「声は沈む」はよくない意味を持つ表現でしょうか。 (2)なぜ先生は「態度は落ち付いていた」、「声は沈んでいた」、「表情の中(うち)には判然(はっきり)いえないような一種の曇りがあった」でしょうか。その三箇所の描写で読者に伝えたいことがよくわかりません。  また、質問文に不自然な言い方がありましたら、ご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

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  • hakobulu
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回答No.3

1.するとその端(はず)れに見える茶店(ちゃみせ)の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡(めがね)の縁(ふち)が日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。 (1)「出し抜く」という他動詞もあって、これは、「他人が気付かないうちに自分だけ何かをする」という意味です。 「出し抜けに」には本来このようなニュアンスが込められていると言って良いでしょう。 #2さんのおっしゃるとおり、相手がいないのに出し抜くという表現は使いません。 a.{先生らしい人がふいと出て来た}は、単なる状況の描写です。 『先生らしい人が出し抜けに出て来た』という文に変えることも可能です。 この場合は、そのことによって「私」が驚かされたというニュアンスも同時に強調されることになりますが、漱石は、それをくどい表現と(無意識的に)考えたので採用しなかったのでしょう。 b.{そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。}は、その声で先生が驚いた様子(あるいは先生を驚かせる意図)も同時に表現しています。 『そうしてふいに「先生」と大きな声を掛けた。』という文に変えることもできるでしょう。 この場合も、急に声を掛けられて先生が驚いた様子は窺えますが、「私」が急に声を掛けた、ということのほうに重点を置いた表現と言えます。 (2)「眼鏡(めがね)の縁(ふち)が日に光るまで」の意味は難しいので、全くの推測でお答えします。 上五の初めのほうに「両方に楓(かえで)を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。」という文があります。 広い道とはいっても、楓はそこそこの樹高もありますし葉も繁っていたでしょう。 薄暗い道と考えて良いと思われます。 物が光って見えるのは反射角も関係すると思いますが、日光が眼鏡の縁に当たって「私」の目に反射する確率が、そのような場所では低いのではないでしょうか。 つまり、よほど側に行かなければ縁に反射する光を認識することが難しいということでしょう。 また、当時の眼鏡の縁は非常に細いものだったはずです。(今でも細いものはありますが) 単純に、近くに寄らなければ眼鏡の縁が判別できないような薄暗い道だった、という解釈もできると思います。 2.先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中(うち)には判然(はっきり)いえないような一種の曇りがあった。 (1)「声は沈む」には「声は低い」という意味も含まれます。 ただ、それだけではありません。 力の無い、苦しさや悲しみを押さえているような声、というニュアンスを持ちます。 その苦しさや悲しみが重すぎるので声までもが沈んでいるわけです。 悲しさや辛さで押しつぶされそうになっている気持ちを反映している声、といっても良いでしょう。 「悲しみに沈む」という表現もありますね。 (2)「態度は落ち付いていた」と「声は沈んでいた」はセットになっています。 「落ち着いていた」「沈んでいた」は、いずれも「静」の感情と言えます。 しかし、「表情の中(うち)には判然(はっきり)いえないような一種の曇りがあった」 というのは「動」の感情を表わしています。 具体的には「私」に対する疑いの気持ちです。 他人を疑う時の気持ちには後ろめたさが伴ないますから、それが表情にも出るということでしょう。 「私の後(あと)を跟(つ)けて来たのですか。どうして……」 の「・・・ ・・・」の部分でその疑いの感情を表わしています。 「誰(だれ)の墓へ参りに行ったか、妻(さい)がその人の名をいいましたか」という文が出てきますね。 疑いの内訳は、『「私」が先生の奥さんから「誰(だれ)の墓へ参りに行ったか」聞いているのではないか』ということです。 本質的には、『「なぜその人の墓参りをするのか」という理由も「私」が知っているのではないか』という疑いです。 「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」という答えを聞いて、 「先生はようやく得心(とくしん)したらしい様子であった。」という文につながるわけです。 なぜ先生は、「誰(だれ)の墓へ参りに行ったのか」ということをそれほど知られたくなかったのか、ということになりますが、この時点でそれを知ると読む楽しみが半減してしまいます。 漱石が読者に伝えたかったことは、 「>しかし私にはその意味がまるで解(わか)らなかった。」 という「私」の感覚です。 後の展開につながる布石とも言えるテクニックと言えるでしょう。 ここは素直にそのテクニックに乗せられておく場面です。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 いつもお世話になります。ご回答ありがとうございます。他動詞の「出し抜く」で解決する方法を覚えておきます。「ふいと」と「出し抜けに」を文に入れニュアンスをそれぞれ分析していただき助かりました。「眼鏡(めがね)の縁(ふち)のご解説に納得できました。「声は沈む」の感覚もよくわかりました。「一種の曇りがあった」とは疑う気持ちなんですね。それが知らなかったのです。推理小説のようで、読みたくなる気持ちになりました。本当にありがとうございました。大変参考になりました。

その他の回答 (2)

  • fuyumerei
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回答No.2

1-1難しい。。自分の中でもまとまりません。しかし、文中交換すると文意が変わっちゃうと思います。以下読んでもイマイチ根拠がわかってもらえないでしょうが、参考までに書いてみます。 「出し抜け」は行為の受け手にとって突然なんです。先生にとって「出し抜け」なんです。行為の主体にとっては突然じゃない場合に使うもんだと思います。相手を認識して初めて使われるので、発話者の意識下が一人ぼっち(発話者自分だけしか意識化にない)のときには使いません。 「ふいと」は行為の主体にとっても無意識的ですから、行為の主体、受け手どちらにとって突然かは問われないでしょう。そして、発話者の意識下が一人ぼっちのときに使います。 何言ってんだか自分でもよくわかりません。。 ○ふいと思い出した。 ×出し抜けに思い出した。 1-2 どんな状況かわかりません。私の語彙不足かもしれません。 近寄ったら、たまたま先生の眼鏡の縁が日に光ったことしかわかりません。だって遠くでも眼鏡の縁が日に光るっことありますもんね? 2-1 「沈む」は気持ちが暗くなるとか落ち込むとかいう感じですよね。高いとか低いとかに関わらず、そんな感じの声だったという話です。 2-2 ここでの先生の態度の理由は最後まで読めばわかりますよ。私がお答えするのは遠慮します。 これらの描写で筆者が読者に伝えたかったのは、No.1さんの回答のようなことを「文中の私」が思ったということです。言い換えれば、 なぜ「先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中(うち)には判然(はっきり)いえないような一種の曇りがあった。」のか「文中の私」自身がわかっていない ということを伝えたかったのでしょう。

awayuki_ch
質問者

お礼

 お久しぶりです。ご回答ありがとうございます。1(1)はとても理解しやすいと思いました。1(2)は先生が暗いところ(つまり日に当たっていないところ)から明るいところ(つまり日に当たったところ)までの一種の移動だと考えました。実は私もよく理解できません。先生の態度の理由はわからなくてもいいんです。私はいま「一種の曇りがあった」とはどんな感情を表すのかよくわかりません。いろいろ参考になりました。本当にありがとうございました。

  • enomena
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回答No.1

初めまして。 自信はありませんが、ご参考までに。 2-(1) 「声が沈む」 ここでは低い声と言うよりは、落ち込んだときに出すような哀しそうな声の事だと思います。 2-(2)先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中(うち)には判然(はっきり)いえないような一種の曇りがあった。 自分のあとをつけて来た私に対する反応です。 跡をつけられた人間は普通驚きますよね。 そして、何故跡をつけたりしたのか、相手に怒りのような感情がわいてもおかしくないと思います。 ですが、先生は驚かず、落ち着いていて、 どちらかと言うと哀しそうな声を出した。 でも動揺している様に見えた。 と言う意味だと思います。 あくまで個人的な意見ですので、間違っていた場合は申し訳ありません。 『こころ』はとても良い作品なので、ぜひ読破してくださいね! それでは、勉強頑張って下さい!

awayuki_ch
質問者

お礼

 朝早くご回答いただき誠にありがとうございます。わかるようになりました。ただ、「一種の曇りがあった」についての「動揺している様」という解釈はまだ難しいです。本当にありがとうございました。大変参考になりました。がんばります。

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