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責任の範囲
人間には少なからず責任がつきまといます。 何かをしたとき、例えば交通事故を起こした場合。営業ノルマを達成できなかった場合。役職に就いた場合。これらは法や規則によりその責任が明確に示されるケースがほとんどです。 しかし、アフリカの民が飢死する。犯罪が多発する。戦争がなくならない。これらを世の中が悪い、私には責任がないとは言い切れません。逆にいくばくかの責任を取れと言われても困ります。 また極論すれば、建設現場から落下した鋼材の下敷きになっても、死んでしまった以上は「そこを歩いていたアイツも悪い」と考えたほうが、大きな次元から見ると正しいのかもしれません。 責任の限度はどこにあるのでしょうか?その範囲は誰が決めるのでしょうか?そもそも責任とはなんでしょうか?できるだけやさしくお教え願います。
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責任は義務を意味すること(1)もあるし、義務に違反した罰を負担すること(2)を意味することもあります。あるいはリスクを負担すること(3)を意味する場合もあります。 責任(1)は行動や選択の自由(自由意思)を前提として発生し、権利(恩恵)の反対給付として発生すると考えられます。義務(2)、すなわち罰はその集団の規範に反した行為に対して与えられる制裁であり、秩序を維持するために設けられます。責任(3)は、リスクを負担する受け皿として比較的にふさわしいものに負わされます。 法的責任は法律が決め、社会的責任は社会世論が決め、道義的責任は道徳が決めます。その範囲や程度は、時としてあいまいで議論となります。 神喪失者・未成年者や心神耗弱と自由意思との関係には、誰がどう判定するのかや年齢の規定などには議論のあるところです。また、そもそも人間に自由意思があるのかという点に関しては、通常はあると一般的には考えられています。罰を受ける場合には、故意によるものと過失によるものが考えられます。たとえ無過失の場合でも、法律により責任を問われる場合もあります。原因と無関係に負わされる責任は結果責任と呼ばれます。損失が発生すれば誰かが負担せねばならず、便宜的に法律が決めることとなります。 すべては創作です。自己責任でおねがいします(笑)。
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責任とは 1 自分がしなくてはならないつとめ 2 悪い結果が生じたとき、そのつぐないをひき受けること と辞書にあります。 責任の限度や範囲は 主観的判断に基ずくものと客観的判断によるものとがあります。 主観的判断は人それぞれの意思や感情によってさまざまです。 客観的判断は法律や社会的常識によります。 両者の判断の違いによる問題も数多く生じますが、一般的には客観的判断が優先されるのでしょう。 しかし、法律では許されても、という言葉があるように 良心に基ずく解釈や判断が消えて無くならないこともあります。
お礼
主に二番目の捉らえ方で意見が分かれるようです。仮に結果がよいとしても責任はあると思います。結果の良否に拘わらず責任を考えなければ、責任は「つぐない」にすりかえられるでしょう。どこかで客観的な線引きを必要とするものの、割り切れなさは残ってもしかたないと思います。ありがとうございました。
- bananasand
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>不慮の事故の被害者に全く責任がないと言い切れるでしょうか。 言い切れます。逆に、責任という言葉の重さからして、言い切らなければならないのです。 これは、被害者の責任ではなくて、因果の中の運の話でしょうね。 運、不運に責任があるというなら法はいりません。不可抗力ならまだしも、加害者は過失なんだから悪気はない、たまたま起こったことなんだから被害者にも責任があると言うことにはなりません。 確かに、落下物の事故は、落下した物があって、下に人がいて事故になりますが、事象の原因は、非常に複雑です。 その人がたまたま現場をその時間に歩いていたということに責任があるなら、その直前に世間話を持ちかけた人にも責任があり、その世間話である某首相の漢字が読めない事にも責任があり、某首相を教育した小学校の担任にも責任が及びます。 そう首相が漢字をちゃんと読めていればその事故は起こらなかったのです。 しかし、そうではありません。首相が漢字がちゃんと読めるように教育しても、そのままでは同じような事故はまた起こります。 人がいてもいなくても、物を落下させないようにすること、あるいは、落下する可能性がある場合、その下のエリアは絶対に人がいない状態にしておくということが責任です。 姉歯建築士による耐震偽装で、そのマンションを選んでしまった住民にそれを選んだということについて責任があると思いますか? 不運だとは思いますよ。 しかし、断じて責任はありませんし、被害者に責任はないとしておくことが再発防止でもあり、責任の明確化なのです。
お礼
確かに自由主義国の現代社会ではおっしゃる解釈が一般的です。しかし例を挙げると、近代まではレイプの被害者にも責任があるとして、謗りを受けるのが一般的で、極端な場合は勘当すらされたものです。ひどい話ではありますが、当時の社会において全く理がないとは言えないからこそ、長く続けられた風習でもあります。今でも近い考え方の人はいるでしょう。私は同調こそしませんが、完全否定はしません。なぜなら私が被害者のパートナーだとしたら、彼女を責めないという確信が持てないからです。また姉歯建築士の件に関しては、ヒューザーと姉歯さんに罪があることは言うまでもありません。しかし、相場より安いマンションを安易に購入したこと、第三者に検査を依頼するなどの予防措置を取らなかったことにおいて被害者にも自己責任があるといえると考えます。被害者に具体的な義務は生じませんし、もちろん補修費用などを賠償請求する権利はあります。しかし、被害者が私には落ち度がないと言い張るなら思慮の浅い人だなと思うでしょう。再度のご回答ありがとうございました。
- bananasand
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責任には、2種類あります。 A、まず、刑事責任、民事責任、説明責任、会社責任等の類です。 交通事故、ノルマ、役職での責任であって、自己と社会、自己と第三者との関係にある責任です。法律、規則、常識、道徳、倫理などを基準とします。その基準に照らして、行動によって責任を果たすことが出来ます。違法行為で罪を犯したなら、刑罰を受ければ終わり、不法行為なら損害を賠償して終わりです。 B、もう一つは、外部社会に対する責任ではなく、自分の社会への責任です。この「自分の社会」は、みんなに共通する単独の社会というものが存在するのではなくて、自分の中にこそ社会が存在しているという視点です。各個人が自分の中に自分が把握している社会をもっているのだということです。 例えば、振り込め詐欺を職業とする人の「社会」は、金を吸い取る対象としての社会であり、ボランティア活動に奉仕する人の「社会」は、自分を生かす場として社会があります。前者の社会と後者の社会は、同じものを対象としていながら、全く別の色をしています。 この視点では、アフリカでの飢餓、多発する犯罪、戦争に関しても、その人なりの責任を持ちます。心ある人は、少なくとも痛みを感じます。 国内で、人権侵害があれば、自分の人権の侵害となります。犯罪があれば、自分が加害者であり被害者でもあります。 >いくばくかの責任を取れと言われても困ります この責任は、誰からも責任を取れとは言われません。 自分が、「自分の社会」への責任を自分が取る形です。 そのことが起きて欲しくないなら、将来それが起きないような行動にとることによってその分の責任を果たそうとします。 Aの責任とは異質ですが、こういった行動によって、「自分の社会」の色が変わり、自分も変わっていきます。 >建設現場から落下した鋼材の下敷きになっても、死んでしまった以上は「そこを歩いていたアイツも悪い」 なぜ、鋼材が落下してしまったのか。落下した原因を作った者に責任が発生します。そこを歩いていたアイツは、鋼材が落下することを予想できない状況である限り責任は全くありません。 >責任の限度はどこにあるのでしょうか?その範囲は誰が決めるのでしょうか? Aは法律、規則等が決め、その範囲が限界となります。 Bは自分が決め、自分自身がその限界です。 >そもそも責任とはなんでしょうか? 発生させてはならないことを発生させないということです。 判断基準がAとBで異なるに過ぎません。 事件の前には、事件を予想、予見しこれを避ける行動をとること。 事件の後には、事件を収拾し、二度と事件が発生しない対策を打つことです。 蛇足ですが、責任と自由は、裏表の関係にあります。 詐欺師が見る社会は、社会を騙さなければならないという大変不自由な社会であって、彼らはその中を生きています。彼らからみると隣人というのは騙す対象であるということです。その世界の狭さは、さぞ息苦しいかと思うんですけどね。
お礼
おっしゃるとおり、大まかな二種類の責任は、分けて考える必要がありますね。しかし、不慮の事故の被害者に全く責任がないと言い切れるでしょうか。法解釈上は過失がないにしても、被害者がそこに居合わせなければ、圧死という結果自体が生まれません。因果には責任がつきまとうという見解もアリかと思います。ありがとうございました。
- sakusya
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責任の限度や範囲は状況によるでしょう。或いは個々の認知度によって決められるものかもしれません。しかし、範囲や限度において全部―――言い換えると「自己責任」でしょうか。つまり全ての責任が自分にあるということはありえないと思っています。 俺は「自己責任」ということに主題を置いて、考えをまとめてみます。「自己責任」は、とある物事について最も大きな要素となったもの、或いはとある物事の一因が己にあったとき、そう呼ばれているのだと思います。そのつもりで「自己責任」と言っていないのであれば、その人は実は自己中心的な人間かもしれません。 自分が被った不利益の責任は自分にある。一見、責任感の強いかっこいい人だと思いますが、俺はおこがましいと思ってしまいます。人はそんなことがいえるほどに全能ではない、と思っているからです。もちろん、自分が被った不利益の“一因”は自分に“も”あるでしょう。ですが、不利益全てが自己責任ってのは話が大きくなりすぎていないか、と思うわけです。「原因」は「責任」とイコールではありません。「自己責任」なんていう人は、自分が失敗さえしなければ不利益を被ることはない、とでも思っているのかもしれません。そんなことはありません。不幸はちゃんと理不尽にやってきます。要するに、今まで己に何か不幸が起きなかった人は、別に自分がしっかりしているからでも、失敗をしていないからでもありません。 もちろん、失敗や事故が起きる要因を減らす努力はした方がいいでしょう。でも、それは自己責任論とは別の話です。なぜなら、あらゆる不幸を想定して、その「原因」を取り除くことはできないからです。端的に言えば、どんな不幸も原因の一部は自分の行動にあるということです。それでも、それらの要因を消さなかった責任は、問われるべきだと考えるなら、それは自由でしょう。昼間、何の気なしに公園を散歩していて、いきなり通り魔にでも遭った時、自業自得だったといって死ねるかもしれません(俺は御免被りますが)。ただし、それは個人の価値観として持っておき、公言すべきじゃないでしょう。 俺は軽々しく自己責任を唱える人たちが、そこまで考えてその言葉を使っているとは思えないのです。自己責任論は原因を単純化し、自己正当化の具にもなり得ます。状況にもよりますが、根拠のない問題をそうして単純にしてしまうのは、自分にとっても不利益だと思います。 捻くれていますが、下手をすれば自画自賛の理由にだってなります。「自分のせいで」はと思える人間は、状況が変われば「自分のおかげで」と思える、ということです。「あの人が不幸なのは自業自得」だと一笑し、「俺が幸せなのは自分の実力だ」と自画自賛する。自己責任が肥大化すると、このような人になると俺は推測してます。実際にいるかは知りませんが、いたら実におめでたい人だな~と思います。ひとつの不幸の原因が多岐であるように、ひとつの幸福の原因だってひとつじゃありません。自己責任というのは、実際問題ありえない(思っているのなら、おこがましいと思う)ですし、こうやって分析していくとむしろ安易な考えだとさえ思えるわけです。良くも悪くも、俺たち人間は一人では生きていけないのだなと、つくづく思います。 責任全てを誰か一人が負ったりすることは、現実問題ありますが、それは事実として解決にはなっていないと思います(要因である人たち全員が責任をとっていないですから)。責任の範囲、限度はその場その場での認識の具合にもよるので何とも言えませんが、全てが誰か一人の責任だなんてことはありえない、これは断言できます。
お礼
原因イコール責任ではありませんから、誰かひとりに責任を負わせるとは不条理でもありますね。しかし、連帯責任はもっと不条理です。どこかで線引きはしなければなりません。ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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責任ということを、出されている例示、例えば話のように考えることは間違いであります。 交通や営業などのこと、社会生活では確かに全く被害者に責任がないということではないことも多いことでありますが、それはケース・バイ・ケースでしょう。 責任は原因があること、その原因に関与していること。 そこに不注意か故意が伴っていること。 あるいは宗教的にはカルマとか、そういう運命、そうなる原因となる行為を前世とかでしていること。 でしょう。最後のはここでは問題外でしょう。
お礼
やはり因果には責任が伴うのですね。責任とは明文化されたものだけではありませんね。ありがとうございました。
- magga
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pokoperopoさま、こんにちは。 私の思うところを書いてみますね。 ●基本的な責任として考えられることとして 『感覚や現象に対してどのように感じるか』 があると思います。これは自己責任といえると思います。 他に自分の行為の範囲の中で、「生命のネットワークの中で法則に則って自分にとって幸福になるための行為をするか、不幸になる行為をするか」と「その結果」は自己責任といえると思います。 結んだ約束事や生まれる義務についても自己責任でしょう。 多因多果の現象世界において決定的な責任と言い切れる物も少ないと思います。 <<しかし、アフリカの民が飢死する。犯罪が多発する。戦争がなくならない。これらを世の中が悪い、私には責任がないとは言い切れません。逆にいくばくかの責任を取れと言われても困ります。>> 「責任」は僕もしっくりきませんね。 複雑な多因多果の現象世界ですから。 義務という視点から言えば、 「幸福になりたい。悩み苦しみは嫌でなくなってほしい。努力は実ってほしい。今なすべきことがすぐにひらめいてほしい。」という希求を持った生命のネットワークの中において幸福に暮らすためには、必要を満たした生命は必要を満たせない生命を支援する義務が少なからず生まれてくると私は思います。 何か参考になれば幸いです。 幸福であれノシ
お礼
私はアフリカの子供を支援しています。自由意志であれ「責任」を感じたからです。責任論はともかく、この世界にすむ以上無関係とは言い切れません。ありがとうございました。
- 相談 蟻(@soudan-ari)
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#No1さんの、>飲み屋のつけなどは1年経過すると時効を迎えます。 初めて知りました。売買とは違ってサービスの場合、値段の根拠が曖昧とも感じますね。 許容される範囲の失敗や過失などの場合、帳消しとか再チャレンジは可能です。そうした場合、誰にもある間違いや・良くある失敗などですね。それが日常的に不利益を発生させる場合は、外されたり・減給になったり、解雇になる場合もあるでしょう。その場合は、不利益を被っている側(顧客・上司・会社など)から要求される事がありますね。これらも、社内マニュアルとか、規準・規範などの常識の範囲内とも考えられます。 しかし、責任となった場合、以上を含み法的な賠償責任が発生するでしょう。被害者が著しい損害を受けたり、日常生活に支障が発生した場合。或いは、社会的な名誉や信頼が損なわれた場合などです。相手側から訴えられる事によって責任が発生する。どちらにしても法などとの関連が前提になるのではないでしょうか? 誰にも迷惑を掛けてない場合、責任は発生しないように思われます。でも環境破壊などは、社会に対して損害を与えています。訴えられる事で責任が発生します。しかし、夫婦や親子関係などには、前提として責任があります。そして、それを破った時に責任が発生します。世の中には、そのような責任もあると言えます。それらから、守るべき責任が有って、それを破った場合に責任(法規制)が発生すると感じます。注意が必要ですね。 >建設現場から落下した鋼材の下敷きになっても、死んでしまった以上は「そこを歩いていたアイツも悪い」と考えたほうが、大きな次元から見ると正しいのかもしれません。 この場合、管理責任が当然発生します。あるいは、機械を運転していた場合は、運転手の操作責任、更に意図的・計画的な場合は刑法なども適用するかもしれません。よく言われる業務上過失です。被害に遭った人は運が悪かったでは済まされません。家計の大黒柱であれば、被害者は個人で済まなくなりますから。 外国の場合でも、国際法や人道的見地から、又難民などは周辺の国々にも影響を与えます。以上 広くて難しいテーマだと思います。
お礼
下敷きの例でいうと、施工者の管理責任を問うて賠償されても、命は返らない。それならば社会より高い次元の因果律が働いたと割り切るしかないのかな。それもある種の「責任」かなと思ったわけです。責任にも様々な段階があり、社会、法、、道義、数え上げればキリがありません。ありがとうございました。
- didier
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責任の問題ですか。特段に、難しい問題ではありませんね。責任が、生まれたのは形而上学的に述べて、人間本性に根ざすものです。この人間本性は、自分が理性によって、責任を認知するか、認知しないかにかかっています。もし、自分のやったことに対して認知を覚えない人は、責任を感じません。反対に、自分のやったことに認知を覚える人は、責任を感じます。これは、当たり前です。 責任の限度は、個々人の感受性にかかっています。感受性が鋭い人ほど、普通の人なら、たいして責任を感じないことに対して、真剣に悩み、すさまじい責任、義務感を覚えます。 以上が、概論です。参考資料として、ルソーの「人間不平等起源論」、「告白」、ラスキンの中公クラシックスから出ている本等々があります。
お礼
浅学な私にとっては難しい問題です。示された文献は徐々に読んでいきます。ありがとうございました。
- happya7
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難しい質問ですね。 結論からいうと明確な答えはありません。当たり前ですが。 普遍の真理として考えると人は生まれてから死ぬまで自己責任です。 自立能力がない子供の頃は親が責任を負うということになりますが 最終はやはり自分の尻は自分で自分で拭くということになります。 しかし、社会の中で生活するとなると、その責任の所在は住む国や 地域によって異なると思われます。例えば人に損害を与えたときは民法 に基づき損害賠償責任を負うこととなりますが、飲み屋のつけなどは1 年経過すると時効を迎えます。居酒屋さんに飲み代を支払わずに迷惑を かける訳ですが、法律上は1年を過ぎると支払わなくて良くなる訳です よって、日本の中で暮らす限りは日本の法律の範囲内で責任を負う わけですが、日本の中でも地域によって人々の考え方は異なります。 また、法律上の責任はなくても道義的責任というものもあります。 それを感じたり、まわりから責められたりするのも結局、自分の住む 社会の風土で変わるわけです。だから、自分の生きる世界でどこまで 責任を負うべきか、責任を感じるべきかは自分が判断すべきです。 これは、何をしても自分には責任がないと思えばそれで良いと言って るわけではありません。自分の欲求のためだけに他人を殺したり、他人 のものを奪えば、必ず制裁を下されます。つまり、自分が生きる社会の 中で責任というものを考え、判断していくことが重要なのです。自分が 人生を生きる上で最終的に幸せだと思えるために、どうのように生きればよいかを考え、自分が果たすべき責任を果たしていきましょう。(*^_^*)
お礼
本来は責任に範囲も限度もなく、すべて自己責任なのでしょうね。責任が無限なら責任という概念すらないわけです。誰かが不利益を人のせいにして、その主張が広く認められたから「責任」が生まれたのでしょう。また野生動物は食っても食われても、責任とは無縁に生きています。人間が庇護の対象になったとき、その義務と権利が生まれ、そこに「責任」が生じたのでしょう。私も過度の庇護を欲せず、施さず、自己責任を念頭に置いて歩みます。ありがとうございました。
お礼
そうなんです。法律とは便宜的に規定しているだけなのに、責任の有無を法律に求める人が多いので、議論しても噛み合わないのです。法律家なら、法律と責任論は分けて語るでしょう。法律家も我が子が非行に走って、事件の加害者となったときに、「親権者として賠償責任は負うが、その他の責任は一切ない」とは言わないでしょう。子育てに失敗して道を誤らせたこと、社会に迷惑をかけたことを親として責任を感じるでしょう。単に概念としての責任は、原因と結果がある以上、それを理解できるところの人間にはつきまとうでしょう。ご回答は自己責任において参考にさせていただきます。ありがとうございました。