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悪は 存在しない
《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。 もとに戻って この質問をします。 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。 以上について 成否・当否を おおしえください。 なお ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。 ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。 ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。 これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。 問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。
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こんにちは。 言葉を超えたイメージを議論するのは 本当に難しいですね。 > 《自由意志》の扱い方を きちんと まとめることが 大事になると考えます。 これを考えていて躓いてしまいました。 絶対は、理屈を超えており 私たちはただ受け入れるしかありません。 絶対に由来するものは、否定できません。 絶対に由来するものが、この相対世界にやってきた段階で 善悪に評価が分岐します。 だから、厳密に言葉にこだわれば「絶対悪」も「絶対善」もありません。 善悪が分岐する以前の状態を指し示す言葉があれば話は分かりやすくなりますが 残念ながらそのような言葉はありません。 ただ、善悪が分岐する以前の状態は、否定できませんから ●「善悪を超えている存在(状態)」を分かりよいように「善」と規定する。 ●それで、全体が説明できるか、やってみよう。 ということですね。 では、説明を続けましょう。 もし私が絶対につながっているなら 絶対に由来するものが私に注がれているなら その注がれたものは何人たりとも否定できません。 よって、私を根本から否定することは出来ません。 同様に、brageloneさんも根本から否定することは出来ません。 相対世界にいる全ての存在は、根本から否定することは出来ません。 (そういう意味では 聖書という物語は人格神にしてしまったところが失敗だと思います。) 私たちは、どういうわけか、相対世界に来てしまいました。 そして、相対世界にいる全ての存在は、根本から否定することは出来ません。 つまり、相対世界では「多様性の受容」が「善」であり 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だと思います。 これが「自由意志」の前提だと考えます。 (多様性がなければ、そもそも自由はありませんね。) (多様性の受容が行動化すると「隣人愛」になるのでしょうか。) (重ね重ね、人に限定しているところが失敗ですね。) ところが > 存在(=生命・人間という生命体)を存続するのが 善である。 個という生命体を維持するために 私たちは「排他」というシステムを持っています。 (異物の、体内への侵入を許しません。) > 自然から生まれた人間の行いに不自然なものは無い筈だ といった言説は一見説得力を感じますが 私たちが獲得した「排他」のシステムは「自然から生まれた人間の行い」 ではないだろうか? このとき、「自由意志」とは「他存在の受容」と「排他」の どちら側に存在するのか? はたまた、軸の取り方が間違っているのか? なんて、あたりまで考えて、今、躓いてます。 希望としては「多様性の受容」が「自由意思」を生む、なんて 方向性になると、全体の見取りがよくなってくる気がします。 何だか、brageloneさんの質問に答えるスレッドじゃなくて brageloneさんに質問するスレッドになってきてますね(笑
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- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 ●宇宙の果てにまで到るほど 飛んで行きます。 ↑ あのね、なんぼ肩がええいうても そこ(宇宙の果て)まで放り投げるかね???遠投 信じれんわぁー 何? “信じるものは すくわれる” ってかー?! これまた、えらい信心深いことを… “あたるもはっけい あたらぬもはっけ” どないやっつーの!!! ええっ 何??? 「ホントウニ スマナイト オモウ」 あのね、(-_-;)uuu… (-_-;)uuu… (-_-;)uuu… ちょっとは手加減したらどないやー!!! オニ オニー オニコーチ!!! おもい~こんだ~ら~ “試練の道”で“未知との遭遇”ーUFOに乗ったらじきやで、ってか?! ぴゅーいー 三(/ ^^)/ 三(/ ^^)/ 三(/ ^^)/ ≡≡≡ヘ( ^-^)ノ hey!おまち-☆ 帰還 ただいまー(*^^*)v 【驚異の小宇宙 人体III 遺伝子】 http://www.showtime.jp/tv/nhk/jintai/ 【QNo.3646831 無意識と‘「記憶を司る脳領域」の作用’との違い?】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3646831.html 【QNo.4338027 現代芸術における表現形式は どうなんですか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4338027.html 【QNo.480852 愛の反対は何ですか?】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa480852.html ★ 【QNo.3689191 男と女】ANo.20 ☆ 正直に言って 意味が取れません。フラ語の単位を落としたってことを言いたいのですか? ↑ 【QNo.3689191 男と女】(ANo.20から一部抜粋) 女性は子供を産むという前提でいろんな場面で法律的にも保護されている。女性は出産でカルシウムを失うことが多い。骨粗鬆症然り。肉体的な性差への配慮がなされている。給食のおばさんのお昼寝タイム然り。ところが、肉体は男性の骨格をそなえた性別女性だったり、肉体は女性であっても子供を産むことがなかったら、男女平等の名のもとに、これまでなされてきた女性への性差への配慮が小さくなりはしまいか。と、こんなことを口走ろうものなら田舎のばあちゃんが怒鳴りだしそうだ。「わしら、子供を産もうが休みなく畑さでてるださ、そんなの関係ねえー!」いやいやばあちゃん、それはそれだども法律では一応女性であるということで守られていること結構あるもんよ。 田舎のばあちゃんは果たして、女性に属するのか男性に属するのか???
お礼
littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 全体として 何のこっちゃ? くだんの事件に関する被害者の見解として わたしの仮想インタヰ゛ュ―は おおむね 賛成ということで いいのかいな? あとは 追って 補足欄にて。
補足
補います。 ★ オニ オニー オニコーチ!!! ☆ オニでない者が オニになるから味が出るんや。 手加減せえへんで。 とお礼欄につけ加えておけば よかった。 まだ ほかの参照サイトは 読んでません。ほかの回答で補足欄などが空いているから そこを使います。 ひとこと 添えるのみ。 * ちょっと 言い過ぎたかな。仲が親密すぎてしまう。 * 人気ランキングに復活したよ。あんじょう答えてや。被害者から見た悪の問題やで。
- littlekiss
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おはようございます、brageloneさん。 ●できましたら 女性の意見を聞かせていただけませんか? ↑ ちょっとまって、 ≪女性≫の意見って?←ココ、ミソちゃうん??? 「女性への暴力は、女性の普遍的人権と基本的自由を侵害するものである」 ↑ うーん、この≪女性≫ちゅうのがだんだん捉え難うなってきとうから厄介やー “ 女性の定義? ” ああ、以前に質問あげたとき、質問があがったとき、にも考えさせられてんけど 【QNo.46437 人の心の中には、鬼が棲でいますか?】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa46437.html 【QNo.3689191 男と女】ANo.20 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3689191.html それにしても、恩に着ますって…『夕鶴?』ー鶴の恩返し まー、それはそれとして ≪女性≫と言葉が先におかれてると何かやり難いわー 何が、やり難いかといえば… この括り 女性の立場からの意見やろ? 込み入った複雑な事件をここ≪女性≫に固守してみてけば へたすると、理想像なる女性像を内につくりあげてしまうかもしれへんやん 女性であるまえに人であることに意識がはたらき難うなる 言い方変えたら、人みな女性と思い込んでしまいかねへんやん あやうい あやうい なんでこない出だしの言葉で止まって先へ話を進めんのかと疑問をもたれることやと思うわ。うん、さっき本棚から本を一冊引っ張り出してきて読んどったんよ。えっ?何の本かって?『医学史と数学史の対話――試練の中の科学と医学――』川喜多愛郎 佐々木力 著 中公新書 P196~【第六章 臓器移植医療をめぐる省察】―――――P226~〔苦悩の中の臓器移植〕(一部抜粋) [川喜多]: ところで、ここにどうしても素通りできない話が残っています。それは日本における脳死・臓器移植論議のいわば弁慶の泣き所と言うべき論題です。移植推進論者の決まって持ち出す「殺し文句」はこうです。「今ここに放っておけば死が必定の心臓病患者がいる、移植という現代的な医療技術によって彼の命を救うことができる、しかもそこに善意のドナーがいる、こうした条件が揃ってなお、お前はそれを見殺しにできるのか?」。それは心臓移植を内心おぞましい技術と感じている人々をもたじろがせる議論です。前に私は私が仮にその技術をもっていてそうした情況に置かれていたらうんと悩んだ末、もしかしたらメスを取るかもしれないと正直に申しました。 脳死体から臓器がもっていかれる、死後有無もいわれぬうちに …そして、移植―――――誰知ることのない肉体へ これを、誘拐・監禁・性的虐待とみれば、みれなくはない。 脳死―――――人は死んでいるのか? 【致死的な移植関連疾患のクラスターにおける新規アレナウイルス】 http://www.nankodo.co.jp/yosyo/xforeign/nejm/358/358mar/xf358-10-0991.htm 【感染症速報】 https://www.forth.go.jp/cgi-bin/promed/search.cgi?title_link=20070423-0360&button_detail=on
お礼
littlekissさん お早うございます。 いま帰って来ました。ちょいとお仕事。 で だめなんかいな。 わたしの言う《女性の意見》というのは ○ 人間としての見解のほかに 男であるわたしが見逃がしているかも知れないところ つまりは 女性であるなら 容易に きちんと分かると思われるのに見逃がしてところ これが知りたいという意味です。 だめですか?
補足
補います。 ★ 【QNo.46437 人の心の中には、鬼が棲でいますか?】 ☆ については 以前にすでに わたしの意見を述べた気がします。 本能は 無いと考えたほうがとよいと思います。 すべては 想像力です。どこまでも 伸びて行きます。うそから出た想像力のばあい よけいに 宇宙の果てにまで到るほど 飛んで行きます。ただ それだけです。 《旧い人》には 《鬼が棲んでいる》と言える側面は まだ 残っています。ただ それだけです。 ★ 【QNo.3689191 男と女】ANo.20 ☆ 正直に言って 意味が取れません。フラ語の単位を落としたってことを言いたいのですか? 今年になってから辺りから 文章が ぽつっ ぽつっと出されるかっこうになっていると感じます。以前は 判じものとして 難読のところもありましたが 現在は それ以上であります。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 ☆ すでに落ちて来ている石に注意せよとのこと。 ↑ と、注意書きがあったので ヘンゼルとグレーテルではないですが、 道に迷ったら落ちてる石の後を辿れば… ・あなたは すくわれていますか ・情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか ・道徳規範は 愚の骨頂。(感情について) ・悪は 存在しない ↑ ここの中に石があんじゃないかと ダー――ッと、乱読 個別にみてけば、一見なんの繋がりもなさそうなのだけれど… 共通点は、漠然とした問い(骨) 組み立てるには… 漠然ともの考えるよか、ちょこっとコロモ着せた方が 考え巡らせやすいかなと。
お礼
こんばんは littlekissさん。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 個別にみてけば、一見なんの繋がりもなさそうなのだけれど… 共通点は、漠然とした問い(骨) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《あなたは すくわれて・・・》のほかの三つは 互いに けっこう つながっていますよ。《悪は 善の損傷》という線で。 《情欲は・・・》は いまでは 少しは まとまった考えを持てて来ていますが 方向性もなく 船出しています。 この《悪は存在しない》は 必ずしも 検証していたわけではなかったのですが 断乎として 主張したいという思いがありました。むろん 吟味・検証の場なのですが。 《あなたは すくわれて・・・》は きわめて単純な問いなのですが 現代人にとって 大きな問いかけになるのではないかと思っております。ほんの少しの隙間が埋められるかどうかによって 世界の見方が変わってくるのではないかという思惑があります。 それにしても littlekissさんというお名前は 個性的ですよねぇ。よくつけられましたね。これは これだけのことです。
補足
できましたら 女性の意見を聞かせていただけませんか? 込み入った複雑な事件ですが 初めの二つが 参照サイトです。 三つ目に わたしの意見を述べています。恩に着ます。(こう言うのは 二度目のようですが)。 ● ヰキぺディア:サビーヌ・ダルデンヌ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%8C ● 来日したときの会見 http://www.sonymagazines.jp/new/sabine/report.html ● 《Q:情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか》 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4668146.html そのNo.9お礼欄
- littlekiss
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おはようございます、brageloneさん。 ・あなたは すくわれていますか ・情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか ・道徳規範は 愚の骨頂。(感情について) ・悪は 存在しない 禅問答(レス&Q=レスキュー) 『浮草』 http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26445/story.html 『終着駅』 http://homepage2.nifty.com/cs-vision/meigakurabu%205.html 【地域資料コーナー】 http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/data/mienohon/147.html 『陰徳記』 http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimages/11729.htm 石ひろってきました。
お礼
littlekissさん ご回答をありがとうございます。 きょうは 朝がおそかった。一たん 三時ころに目を覚まし 当然まだ早いと寝なおして 起きたのが 十時。うすうす目ざめていたので おそくなってもよいと思って 寝つづけていたのですが それにしても このみごとなわざ!! しかも ほかの質問に回答をもらって けっこう忙しい。 ★ 禅問答(レス&Q=レスキュー) ☆ だと言いますが このご回答も 禅問答ですよ。少し前から そうですよ。 四つの参照サイトも てんで ばらばら。どうなってるの? ★ 石ひろってきました。 ☆ じゃあ 分かりません。何か いいことをしたということですか? ★ 浮草 ☆ は ストーリが あるとは思ったけれど ほかのは 詳しくはわからない。つまり 何を捉えればよいのかが 分からない。 質問群は つながりが 捉えにくいですか。それとも もっと おもしろくせぇいということですか。まだまだ 頭の使い方がたらんというような。
補足
No.44への補足です。 ★ 《Q:愛の反対は何ですか?》~~~~~~~~~~~~~~~ 他の誰でもなく、自らの身に向けて語っているのではなかろうか 自らの犯した過ちにわけのわからない畏怖をおぼえるのではないだろうか 我が身のうちに潜むあさましさをかき消すように あいということばを口ちづさむのではないだろうか あいという名のことばのやさしさにときにふれ あいという名のことばにときにきづつき あいという名のことばになみだする こぼれおちるなみだ くやしなみだ うれしなみだ はずかしさをつくろうなみだ あいってなんなんだ! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 知らんの? 相手とのあいだに 一方通行か双方通行か いづれにせよ 方向性が決まり しかも わたしの意志の内容によって プラスかマイナスかの向きが決まる。相手に対する思いやりか嫌悪か 愛情か排除か このどちらかの向きをもって わたしは 相手に 意志疎通をおこなう。コミュニケーションですね。 この交通の関係ないしその過程 これが 一般に言う《愛》です。 ですから 知らない人は別として 知り合いや目の前にいる人に対して その関係として 向きがまったくないという無関心であれば それは 意志の自殺行為です。一人にだけ その無関心となるという場合でも その一人が 人類を代表します。意志の死である無関心が たしかに 愛の反対概念です。 好きも愛 嫌いも愛 けんかも愛 いぢわるも愛・・・だが 無視は死であり 愛ではない。 ★ 【驚異の小宇宙 人体III 遺伝子】 ☆ 見たいと思ったけれど 有料だって。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 ●…注意が必要ですねといったおざなりのことしか 言えず 弱っていますが。 車走らせ前方に落石注意の標識 http://webweb.s92.xrea.com/picture_p/m/rakuseki1.php http://aym.pekori.to/koneta/archives/cat5/ それを目にした後、ハンドルを握りながら 「どないして注意するんじゃい!!!」 と、口走ったものです。。。 【厚生労働省】 http://www.mhlw.go.jp/topics/ 【食品に含まれるカドミウムについて】 http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/cadmium/index.html 【ホタテガイ副産物の有効利用システムの開発】 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sk/kgs/douritsu/seika/kousi03.htm
お礼
littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それ(落石注意の標識)を目にした後、ハンドルを握りながら 「どないして注意するんじゃい!!!」 と、口走ったものです。。。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すでに落ちて来ている石に注意せよとのこと。それも そうぢゃ。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんわ。 知識は無いので建設的な討論の中に入るのをためらつておりましたが、 >悪は 存在しない :この、やさしい事実に、すくわれることができたので、 お礼を言いにまいりました。ありがとうございます。 >悪は 存在しない :同意します。 存在するのは「ある個体」と「ある固体」のあいだの「ちがい」であり、 この「ちがい」のために生じる摩擦であり、 摩擦を止める媒体が無い(善が欠如している)場合に発生する 摩擦の進行と、その結果の過度の摩擦であり、 過度の摩擦による、摩擦熱・磨耗です。 火事や、こすりすぎによる穴です。 存在するのは「ちがい」であり「かんちがい」であり「まちがい」です。 「かんちがい」を「正しい理解」になるよう働きかける 「まちがい」を「反省・訂正・修正」する それだけです。 いま「善の損傷」について考えています。 ある個人αの中に善が不足しているとすると、 その個人αは不足しているのであるから善を得る必要があり、 善を得るためには 個人α自身が何ものかに善を求める必要があると思うのですが、 何ものに、どのようにして求めるべきか ということについて考えている次第です。 また何か思うときに、ここが開いていたら、 気分次第で現れるかもしれません。 現れないかもしれませんが。 読んでくださりありがとうございます。 .
補足
neutralさん 朝になりまして お早うございます。ご回答をありがとうございます。 現実の生活の中で きちんと 考えておられるご様子に接し そういう場合には わたしは あぁ 話が抽象的だったかぁと思うことがあります。でも けっきょく 一般化して問い求めることになるのですが むしろ neutralさんの姿勢をこそ ★ 建設的 ☆ と捉えて歩む部分を 多くしていきたいと考えます。たぶん 具体的な事例を きちんと はっきり 出していくべしというところかと考えます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 存在するのは「ある個体」と「ある個体」のあいだの「ちがい」であり、 この「ちがい」のために生じる摩擦であり、・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この観点は ○ みづからの心に沿った《ほんとう》とそしてそれに反する《うそ》とに分け 善と悪とを捉える ☆ というよりは ○ わたしたちは 善だの悪だのと 頭の中で 細かい価値判断を言うことから離れよう。 ○ 存在は 互いに その自己表現において 自由であるのだから 互いに 必然的に 差異を生じさせる。 ○ 問題は この差異を どう 扱うかにある。 ○ つまりは 差異の互いによる認容 あるいは 異者の受容と呼ばれている解法が 有効なのではないか。 ☆ というふうに受け取りました。そのまま 《建設的である》と思います。そういうことなのだと考えます。 この《異者の受容 / 差異の認容》が実現していれば ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 存在するのは「ちがい」であり「かんちがい」であり「まちがい」です。 「かんちがい」を「正しい理解」になるよう働きかける 「まちがい」を「反省・訂正・修正」する それだけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と言えると思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ いま「善の損傷」について考えています。 ある個人αの中に善が不足しているとすると、 その個人αは不足しているのであるから善を得る必要があり、 善を得るためには 個人α自身が何ものかに善を求める必要があると思うのですが、 何ものに、どのようにして求めるべきか ということについて考えている次第です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ の問題について 逆に わたしのほうから ひとつの回答を提出したかっこうですが 全体として そうなるのではないかと考えます。 つまりは ○ 存在は 善悪の価値判断を超えており 言うとすれば 善である。(存在≧善)。 ☆ ですから すでに もともと その自然本性として 善の素を備えていると――強引にでも――考えるわけです。その《われに還ればよい》というきわめて暢気な考え方です。 お互い ★ 過度の摩擦による、摩擦熱・磨耗 / 火事や、こすりすぎによる穴 ☆ を出さないように 大きくしないように その初期から 差異の受容――つまりは まづ 互いに 意見が違うと互いに認識すること――から始めたいものですよね。 この質問は 期間が長くなりましたので 締めることになるかも知れません。もしその時には さらに 間接的な内容としてでも 続編を問うてみたいと思いますので いつでも ご投稿をお待ちしていたいと思います。ありがとうございました。 (お礼欄におさまらない長い場合には いつも 補足欄にて ご返事申し上げておりますので あしからず ご了承ください)。
- maimaisus
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maimai.susです。 ?この質問はこうですよね。 >《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。 もとに戻って この質問をします。 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。 以上について 成否・当否を おおしえください。 ですから。《存在は 善である》を定義の考察は基本的に、必要ないんじゃないの。 その訳は、存在を正確に認識するという事に関して偏りが生じやすいから。もしくは、正しく認識し難いから。 っという事を言っている訳であり、では何故、私がそう考えるのか、その理由を今までの回答で言っているのです。 >ひとの文章に対して ★ 間違っていると思いますよ。 ☆ という判断は 必ず 根拠を示す必要があります。 ★ そんなカメラのレンズに色を付けるような事 ☆ を きちんと 説明しないのであれば ただのいちゃもんつけだと断定します。 だから、もう一度、考えながら読み直してくださいと言っているのです。 今までの回答の中での事を、理解して下さっていれば、根拠も説明もわかるはずです。 もし、ただのいちゃもんつけだとお思いになるならば、それは、私の説明が悪いか、brageloneさんの理解力がないか、はたまた、両方なのかもしれないですね。
補足
● (No.35)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ えーとですね。 >★ 〔《存在は善なり》にもとづく《善・悪》を前提として 考えることは〕 「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考える ☆ ことは 正確な認識ではありません。 そう言う事を言いたい訳ではなく、 brageloneさんの《存在は善なり》にもとづく《善・悪》を前提とし て考えること。 maimai.susの「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考える。多角的認識。 と比べてみて、 どちらの方が存在を正確あらわしているかどうか。って話な訳です。 つまり私は、存在という事に関しては、前提に存在は善なりは、必要ないと思っている訳です。 ですけど、そもそも善・悪って言葉の意味としても正・誤とか上・下、左・右と同等種の言葉でないの。 * * * ★ そもそも善・悪って言葉の意味としても正・誤とか上・下、左・右と同等種の言葉でないの。 ☆ 考えや行ないについて 存在の持続にとって好ましく望ましいことを 善と言うという想定です。好ましくない場合を 非善つまり悪だと言います。 考えや理論について 《正誤》を判断して言うのは 存在の維持向上という善のためであるという前提が わざわざ 言う必要のないほど とうぜんのこととして あるからではないですか。 《美醜》は 善悪に関係なく 判断して決まりますが それが 存在にとって 善のために なるかを考えます。あるいは 悪にならないように どうすればよいかを考えます。つねに わざわざ そこまで 考えなくてもよいのですが だとすれば それらは 善でも悪でもない無記のものとして 《善なる存在》を基礎として 捉えられることがらです。 それに 《美醜》を持ち出すと言っても いまの質問としては 《考えや おこないについて》のことですから その点を忘れてはなりません。おそらく 善悪とは あたかも 別様に その認識がなされますが だからと言って 別世界のことだというものでもありません。花が美しいとか 容貌が醜いとか そういう問題ではなく そうではなく 《思惟や行為にかんすること》なのですから。 この場合の美醜は けっきょく 先の 正誤の問題と 同じように捉えられるでしょう。善悪を前提とした正誤であり 美醜であるとなります。 《上下 左右》は 存在とその持続のために 善であるかどうかが 一概には 決まりません。それだけのことです。それらは 思惟や行為ではないでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 【QNo.3607859 「花を手向ける」の「花」は何の花?】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3607859.html スティーブンス・ジョンソン症候群 去年だったかな、人と言葉を交わしていた中で 『スティーブンス・ジョンソン症候群』という名を聞いたのは… 風邪をひいて飲んだ薬によって他の病気を発症するとか 特段かわった薬でもなく、ごく一般に市販されている風邪薬 薬には、使用上の注意書きが必ず添えられている これこれこういう症状が出た場合は、 すぐに薬の使用を中止し、医師・薬剤師に相談をと けれど、ごくごく一般的な風邪薬ともなれば 添えられた注意書きあれど… ごくごく一般的な風邪薬ということもあり 安心感からか、注意も薄れる とにかく、症状を緩和させたいとの思いが急くからだろう 体質には、個人差がある 体調は一様ではない 体質は変化する A(B)にはよくてもB(A)にはよくなかったり 同一のA(B)であっても その時々の体調によっては、よかったりよくなかったり 知っているようで知らない自分の身体 コンビニでの医薬品販売、手軽に薬が手に入るようになった昨今 このあたり、今一度、注意してみていかなあかんのんちゃうやろか?
お礼
こんばんは littlekissさん。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ コンビニでの医薬品販売、手軽に薬が手に入るようになった昨今 このあたり、今一度、注意してみていかなあかんのんちゃうやろか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 《注意書き》をよく読めば だいたい 防げるといった程度の問題なのでしょうか? それとも 読んでも はっきりした指示が分からないのが 一般であって かなり ふつうに 陥りやすい問題でしょうか。 服用のばあいの問題と 医薬品じたいの問題と 両方があるのでしょうね。共同自治という視点と場において 注意を呼び起こし 対処して行かなければならないようですね。 ほかに 比喩としての意味は ありますか。あっても 現段階では 発表は ここまでですか。 それとも 比喩・比喩でないどちらの場合にしても 個人的な情況も からんでいますか。 いづれにしても ○ 存在とその維持向上のためとして ひとつの部分に対して善であるものが ほかの部分に対しては 善ではなく 悪であるという事例。 ☆ なのですね。 病気と寿命は 必ずしも つねに つながっているとは――素人考えですが―― 思っていないのですが それにしても 注意が必要ですねといったおざなりのことしか 言えず 弱っていますが。
- maimaisus
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maimai.susです。 ですから、そう言う話ではないんです。もう一度、考えながら読み直してください。それで同じ答えなら、やっぱり私の答え方では、通じないと言う事です。どんな答えを出しても、brageloneさんのプラスになる回答は、私には出来ないという事ですね。残念ですが。 でもまあ、そんなカメラのレンズに色を付けるような事は、基本的には、むしろ間違っていると思いますよ。
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 ですから そういう話なんです。そうでなければ 質問から それてしまいます。 これだけ 説明すれば 通じると思っているんですが。 ひとの文章に対して ★ 間違っていると思いますよ。 ☆ という判断は 必ず 根拠を示す必要があります。 ★ そんなカメラのレンズに色を付けるような事 ☆ を きちんと 説明しないのであれば ただのいちゃもんつけだと断定します。
- maimaisus
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maimai.susです。 えーとですね。 >★ 〔《存在は善なり》にもとづく《善・悪》を前提として 考えることは〕 「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考える ☆ ことは 正確な認識ではありません。 そう言う事を言いたい訳ではなく、 brageloneさんの《存在は善なり》にもとづく《善・悪》を前提とし て考えること。 maimai.susの「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考える。多角的認識。 と比べてみて、 どちらの方が存在を正確あらわしているかどうか。って話な訳です。 つまり私は、存在という事に関しては、前提に存在は善なりは、必要ないと思っている訳です。 ですけど、そもそも善・悪って言葉の意味としても正・誤とか上・下、左・右と同等種の言葉でないの。
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 ★ そもそも善・悪って言葉の意味としても正・誤とか上・下、左・右と同等種の言葉でないの。 ☆ 考えや行ないについて 存在の持続にとって好ましく望ましいことを 善と言うという想定です。好ましくない場合を 非善つまり悪だと言います。 考えや理論について 《正誤》を判断して言うのは 存在の維持向上という善のためであるという前提が わざわざ 言う必要のないほど とうぜんのこととして あるからではないですか。 《美醜》は 善悪に関係なく 判断して決まりますが それが 存在にとって 善のために なるかを考えます。あるいは 悪にならないように どうすればよいかを考えます。つねに わざわざ そこまで 考えなくてもよいのですが だとすれば それらは 善でも悪でもない無記のものとして 《善なる存在》を基礎として 捉えられることがらです。 それに 《美醜》を持ち出すと言っても いまの質問としては 《考えや おこないについて》のことですから その点を忘れてはなりません。おそらく 善悪とは あたかも 別様に その認識がなされますが だからと言って 別世界のことだというものでもありません。花が美しいとか 容貌が醜いとか そういう問題ではなく そうではなく 《思惟や行為にかんすること》なのですから。 この場合の美醜は けっきょく 先の 正誤の問題と 同じように捉えられるでしょう。善悪を前提とした正誤であり 美醜であるとなります。 《上下 左右》は 存在とその持続のために 善であるかどうかが 一概には 決まりません。それだけのことです。それらは 思惟や行為ではないでしょう。
補足
CUE009さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ brageloneさんに質問するスレッドになってきてますね(笑 ☆ これは だいじょうぶです。まさに たたき台ですから。まさに そういう過程を経るのが 哲学だと思っております。(そればかりではないかも知れませんが)。 ★ 絶対に由来するものは、否定できません。 ☆ 《絶対》=《無神》とする無神論なる信仰は 《〈絶対〉と〈この相対世界における人びとの存在〉との由来関係を いっさい 断つことによって その同じ関係を 受け容れている》のだと思います。《〈わたし〉なる存在》を 完全に 相対的なものであると規定して 扱う。 それは 一見 きわめて 冷酷で悲惨な感じさえもたらすような見方ですが このとき すべての人間存在について 《完全に 相対的な〈わたし〉なる存在》と規定し見ているからには 完全に 互いに 平等であり この平等において 互いに 自由であると主張するはづです。 すなわち ○ 絶対と わたし との関係は あたかも 絶対的である。 ☆ と考えられます。しかも それゆえにも 自由意志は 自由でありつつも あやまち得るという結果が得られます。《絶対的》だという《関係(つまり 信仰)》は 非思考だからです。なぞだからです。 ★ (そういう意味では / 聖書という物語は人格神にしてしまったところが失敗だと思います。) ☆ これは 表現の問題だと捉えると 分かりやすいはづです。 ○ 絶対 ―→〔人格化〕―→絶対者―→〔絶対と相対世界との関係の物語化〕―→創造主なる神 ☆ もはや 神と人との関係は 《父と子の関係》にまで物語が 伸びて広がります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、相対世界では「多様性の受容」が「善」であり 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だと思います。 これが「自由意志」の前提だと考えます。 (多様性がなければ、そもそも自由はありませんね。) (多様性の受容が行動化すると「隣人愛」になるのでしょうか。) (重ね重ね、人に限定しているところが失敗ですね。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは 特に 触れなくても よいと思いますが 細かく言えば こうだと思います。 ○ 存在の相対性ゆえに 自由意志は 曲がり得る。あやまち得る。 ○ 勘違いなどのへそ曲がりとしての自由度(遊び)もある。 ○ しかも 特別に 存在の持続を意識しないという場合も あり 自由度は さらに 広がる。 ○ つまり この《自由意志のあそび》から 個性が出て来て 《多様性》が現われる。そこに 悪にかかわる癖などが 加味されると なお 多様になる。 ○ ということは 《多様性の互いの受容》は もともと 存在の善の尊重と受け容れを基礎として その社会的な共同性として 実現してくると思われる。 ○ この結果 ★ 相対世界では「多様性の受容」が「善」であり / 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だ ☆ という共同主観が得られると考えられます。幸か不幸か この多様性は 人間のものです。ほかの生物にかんしては 人間の目から見ての多様性とその受容になります。一気に そういう宇宙全体的な平等現実をつくることは むつかしいように思うのですが? ひとによって 他の動物のほうを優先させてしまったなら 話し合いは 混乱します。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 個という生命体を維持するために / 私たちは「排他」というシステムを持っています。 / (異物の、体内への侵入を許しません。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも 他の生物に対する《排除》と人間どうしの《排他》とを区別する必要があると思います。人間・対・人間であれば 存在の排除ないし拘束(活動阻止)は 明らかに 悪です。 存在を愛するゆえに この悪を 互いの和解に導かねばなりません。この悪を もとの善の状態に復帰させて 存在を愛して行かねばなりません。 ○ 欠陥を取り除くことによってではなく 存在を互いに愛することをとおして 和解と癒やしにみちびく道が 用意されていなければならないし その準備に つねに 入っていて わが自由意志のあそびの内に ただちに その愛の実践に移れるように 緊張していることが 望ましい。(無理には 無理でしょうが)。 ☆ となると思います。