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感情の不思議な性質について

哲学か心理学かで迷ったのですが。 感情ーたとえば僕が誰かを好きとか嫌いとか、ほかのいろいろな感情は、僕自身の脳と心の中に抱く(生まれる)ものです。 でも同時にそれらの感情は必ず向ける対象を必要とします。一人相撲では感情は現れようがありません。感情を向ける対象が存在するからこそ感情が生まれます。当たり前ですが。 つまり感情は自分と外の世界(主として他人)との関係であるとも定義できます。 上の2つをまとめると、感情は自分の内面に存在するもので、かつ感情は自分と自分の外部との関係そのものであるということになります。 これは主観の世界のとても根源的な性質です。当たり前と思う人も多いと思いますが、僕自身はこの性質にとても驚きます。感情は自分の内に存在し、同時に外部との関係であるということに。 客観世界ではまずありえないことだからです。内と外に同時に存在するということは。量子力学の不確定性原理あたりを除けばですが。 こういうことは心理学ではどう定義されてるでしょうか?また脳科学でミラー細胞が発見されて、その性質とも深く関係してると思うのですが、そのあたりの説明はされてるのでしょうか? 事情にお詳しいかたおられましたら助言をよろしくお願いします。

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  • ruehas
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回答No.4

こんにちは。 質問者さんのご考察は、正に「感情の性質」というものを的確に捉えており、文句の付けようがありません。ここまでご存知ならばたいしたものだと思います。では、これを心理学や脳科学で整理するとどうなるかということで宜しいでしょうか。 まず、感情に対象が存在するのは、それは「情動反応」というのは自分に与えられた環境の変化に対して発生するものだからです。 「大脳辺縁系(扁桃体)の情動反応」といいますのは、自分に与えられた環境の変化に柔軟に対応し、適切な行動を選択するためにあります。 「大脳辺縁系」には身体内外のありとあらゆる知覚情報が入力されており、この入力に対して「利益・不利益の価値判断」を行い、「情動反応」を発生させます。つまり、大脳辺縁系といいますのは知覚入力として得られた「外界の情報」に対して価値判断を行うのがその役割です。我々動物は、この判定結果を基に与えられた状況に対応した行動を選択しています。 この判定結果は直ちに身体広域のあらゆる神経系に出力され、我々の身体に以下のような様々な行動や反応を発生させます。 「運動神経系:無意識行動の選択」 「感覚神経系:注意状態への移行」 「自律神経系:生理状態の活性化」 「中枢神経系:覚醒状態の亢進」 大脳辺縁系に情動反応が発生しますと、我々の身体にはこのような変化がいっぺんに発生します。これを「情動性身体反応」といいます。そして、このような情動反応によって身体に表出された「情動性身体反応の結果」が喜怒哀楽など特定のパターンに分類の可能となった状態を「感情」といいます。つまり、感情とは情動反応が身体の外に現れ出た結果を分類したものです。 大脳辺縁系の情動反応とは、環境からの知覚入力に対して発生する「心の動き」であります。従いまして、感情というのは必ずや外界の対象と何らかの関係を結ぶことになります。 只今申し上げましたように、「感情」とは知覚入力を基に大脳辺縁系で発生した情動反応が身体に表出され、認知・分類の可能になった状態をいいます。 例えば、 「心拍が上昇して身体が震える:情動性自律反応」 「腰が抜けて顔の表情が変わる:情動性行動」 「視線が固まってしまう:選択的注意状態」 「脳内にノルアドレナリンが分泌される:覚醒状態の亢進」 このような身体反応の発生が大脳皮質に知覚され、そしてここに、 「自分は今、恐ろしいものを見ている」 このような「状況判断」が加わりますならば、それは間違いなく「恐怖」と分類することが可能となります。そして、このような反応によって情動の発生が知覚され、認知されることを大脳皮質における「情動の原因帰結」といいます。これにより我々は、自分が何に対してどのような種類の感情を発生させているのかということを自覚します。 さて、この結果は学習されます。そして、学習は大脳皮質と大脳辺縁系の両方で別々に行なわれます。 何時、何処で何があったのか、このような詳細な情報は大脳皮質に保持されるものであり、我々は通常、これを「学習記憶」と呼んでいます。これに対しまして、大脳辺縁系(扁桃体)に獲得される「情動記憶」といいますのは、その知覚入力に対し「利益・不利益」、どちらの判定を下したかという極めて簡略なものです。これにより、我々は過去の体験を基に判定を下し、様々な環境の変化に対応します。 さて、大脳皮質には利益・不利益の価値判断を下す機能はありません。ですから、環境のからの情報に対して実際の判定を下し、情動や行動を選択しているのは大脳辺縁系ということになります。では、大脳皮質の役割とは、過去の学習記憶を基に選択された行動や情動の結果を認知・分類し、与えられた状況を正確に把握するということです。 ところが、反応といいますのは発生するまで知覚することはできません。当たり前ですよね。ですから、この学習結果の再現とは、知覚入力に対する大脳辺縁系の情動反応という必ずや「無意識の状態」から始まることになります。そして、果たして何時如何なる場合であろうとも、大脳皮質の認知が情動反応よりも先に行われるということは絶対にありません。これが、我々が自分の意志によって情動をコントロールすることのできない理由です。 このように、大脳辺縁系の情動反応をいいますのは学習結果に基づいて発生するものです。そして、その利益・不利益の「判定基準」といいますのは、環境から与えられた体験によって獲得されます。このようにして、我々は生まれ育った環境に発生する様々な変化に対応することを学びます。 さて、「感情」といいますのは我々の脳内に存在するものではありません。それは、知覚入力を基に発生する「心の動き」であります。では、我々の脳内で実際に存在するのは感情ではなく、環境からの作用に対し、この「心の動き」を発生させるための「判定基準」ということになります。 さて、このように我々の脳内に感情の内的要因として存在するこの判定基準を「内的動因」といいます。これに対しまして、対象として環境の側に存在し、この内的動因に作用する要素が「外的誘因」であります。そして、我々が何らかの行動を選択するための「動機」といいますのは、この「外的誘因」と「内的動因」よって作られます。 環境の側に「外的誘因」発生しますと、脳内では「内的動因」に基づく判定が行なわれます。そして、「行動選択の動機付け」といいますのは、これによって決定された欲求・目的に対して行なわれます。 「何かが欲しい」 「それが悲しい」 「恋人が愛しい」 我々の感情といいますのは、全てがこの「動機」に基づいて発生するものです。 さて、「外的誘因」と「内的動因」といいますのは不変的な相補関係にあり、どちらか片方だけでは成立しません。仮に環境に何らかの外的要因が発生したとしましても、脳内に対応する「内的動因」が獲得されていなければ、それが「外的誘因」として作用することはありません。逆に、はっきりとした「内的動因」が存在したとしましても、「外的誘因」が発生しないのであれば如何なる動機付けも行なわれることはありません。 では、只今述べました通り、全ての感情とはこの動機に基づいて発生するものです。従いまして、これがとういうことかと申しますと、環境における「外的誘因」と、脳内における「内的動因」、必ずやこの二つが両立しない限り、我々は如何なる感情も発生させることはできないということであります。 環境に存在する「対象」と脳内に発生する「感情」とは、このような関係にあります。 最後に、「ミラー細胞」といいますのは「大脳皮質・感覚野」における「知覚処理組織」でありまして、基本的には「大脳辺縁系の情動反応」とは何の関係もありません。 「知覚処理」といいますのは大脳辺縁系に入力が成される前の段階で、大脳皮質・感覚野において行なわれる作業です。「ミラー細胞」といいますのは特定の視覚情報に対し「選択反応特性」を持つ感覚野の組織であり、大脳皮質・感覚野に入力された視覚情報に対して知覚処理を行う「知覚器官」であります。ここで処理された「知覚情報」は大脳辺縁系に送られることによって価値判断の対象となるわけですが、こちらで発生する情動反応といいますのは飽くまで大脳辺縁系に獲得された判定基準に従うものであります。従いまして、ミラー細胞の反応特性と大脳辺縁系の反応結果には特に何の関係もないということになります。 但し、「ミラー細胞」というものがどのようにして作られるかということはまた分かっていませんので、これが生後学習によって作られるものであるならば大脳辺縁系における情動反応の結果がその反応特性の獲得に影響を及ぼすということは考えられます。ですが、現時点ではミラー細胞の反応特性も他の視覚野細胞と同様に形成されるものであるとするのが最も妥当であり、ミラー細胞と情動機能といいますのは、基本的にはこれらは異なる器官の異なる働きであるということで全く差し支えないと思います。

sheep67
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。遅くなってすみません。 こちらの意図するところをわかってもらった上でこれだけ整然とした文章を書けるのはすごいなーと思いました。 >これを心理学や脳科学で整理するとどうなるかということで宜しいでしょうか はい、まったくそういう切り口でお返事いただけるのはありがたいです。 とても興味深く読ませていただきました。僕自身は脳生理学的な話はすごく理解力に欠けるので、これだけ整然と書いていただけるととてもわかりやすかったです。 やはり、心理学の方の回答は、哲学系の人とは違ってきますねー。とても新鮮です。 ミラー細胞については、その働きを聞いたときに関係あるかなーと思ったのですが、回答者様の整然とした文を読んでると、思わず引き込まれて納得してしまいますねー。(少なくとも現地点では、学問的にはそういう結論なのでしょうねー) とても面白かったです。こういう素敵な文章(説得力のある文)を書けるのはうらやましいですねー。かゆいところに手が届くというか、心理学的な知識に加えて文才もおありだなーと思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • Roman0
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回答No.5

> 感情は自分の内に存在し、同時に外部との関係であると > いうことに。  何か、違うものをごっちゃにしていますね。  心理学とかいう以前に、「同時に」の理解の仕方がおかしいと言えます。  端的に言えば、No.3 で指摘されているように、「外部との関係」によって「内部」が影響を受けて変化した、ということに過ぎません。しかも両者の間には信号や物質のやり取りがあり、関係による相互作用のメカニズムが謎であるわけでもありません。  電磁誘導は、コイルの外部の磁場の変化によってコイル内部に電流が生じる現象ですし、自動販売機は、コインとボタンという外部からの作用によって内部のメカが動いて商品の位置をストックスペースから取り出し口に変化させます。  こころ、というものを妙に神秘的なものと思いたいのではありませんか?

sheep67
質問者

お礼

神秘的、という言葉を取れば、僕は神秘的なものは説明、少なくとも論理的説明がつく現象ですよ、といいたい立場です。この世に神秘的なものがあることを否定しませんが、それが神秘的なゆえに理解できないものである、という立場が大嫌いな人なのです。ただまだ人知が及んでいないだけのものを否定する、あるいは無条件に肯定する、というのがどちらも好きではありません。不可思議なものであってもまずありのままに受け入れて、その事実を認めることから認識把握をし、その構造や原理を見つけていけたらいいなー、いやいけるはずだ、と、まーそんな感じです。くどいですが、それは心理学じゃない、といわれればそれまでですが。 お返事ありがとうございました。

sheep67
質問者

補足

返事が遅くなりすみません。 そうですねー、いわれることは、要するに単純なメカニカルな構造に不思議があるわけでもなく、それ以上でも以下でもない、とおっしゃっているんだと理解します。 え、回答者様の言われることはそうだとすればそれはまったくもっともなことであって、自己完結しています。きわめて客観的に振った考え視点の持ち主だとお見受けします。 ただ、んーなんといっていいのか、別に神秘的に思いたいわけでもなく、というより神秘的なことは嫌いです。 ただ、人は主観的な存在です(一義的には)。それゆえ、僕が質問で言いたかったのは、心と脳の機能に関する、切り口の違いについてのことなのです。 回答者様のお返事のような切り口でこの事象を認識すれば、言われるとおりの結論になります。ただ、ここが難しいですが、心理学の範疇に入るかどうか怪しいのですが、完全に主観的な立場に立ってこの事象を切ったときには、また別の視点があり、客観的、科学的とはまた少し違うひとつの体系が存在しえる、ということなのですが。 もっともユングの心理学などを聞くと、かなり不思議な部分にまで探りを入れてるなーと思うのですが。(集合的無意識や曼荼羅の話など、あまりよくは知らないのですが) あれはあれで、科学的証明は無理でも、いわゆる状況証拠的にこのような推論が成り立つ、という立場での意見の表明だと捕らえているのですが。 同時に、の理解の仕方がおかしいとお書きですが、僕が思うには、そのおかしさは、回答者様の心と脳の機能に対する切り口と、僕の切り口が違うことから来ているものだと理解します。 それは心理学じゃないといわれればそれまでなのですが。 あるいは投稿文の書き方も舌足らずだったかもしれません

  • mijinco
  • ベストアンサー率25% (87/346)
回答No.3

よく分からないのですが、 「つまり感情は自分と外の世界(主として他人)との関係である」というとらえ方が違うような気がするのですがいかがでしょうか。 自分と外の世界との関係から、「自分の中に生まれてくる思い」だと思うのですが…。 でしぁら、「感情は自分の内面に存在するもの」で、それは、「自分の外部との関係」そのものではなく、「自分の外部との関係から刺激を受けて自分の内面にうまれたものである」ということなのではないでしょうか。

noname#38051
noname#38051
回答No.2

心理学、哲学、はたまた量子力学、脳科学しろうとですが・・・。 感情、あるいは勘定といってもいいと思いますが、質問者のおっしゃる自他問題に加え、それをメタレベルで対象化する「it」=個の霊(通俗的スピリチュアリズムの文脈で考えてないですが・・・)のようなものが人間存在にはあると感じています。 ただ、感情の固定も文学や、ポリグラフや、その他量子力学、不確定性原理風のものでしか「記録」できないものとしたら、実に淡い、はかないものかとも思いつつ、人との歴史など考えると濃い、骨太いものかとも思い・・・難しいですね。

sheep67
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。 視野の広いご意見ですねー。 個の霊や、感情が明記できる対象かどうか、というのは またすごく難しい問題ですねー。僕もよくわかりません。 でもとても興味深いお話をありがとうございます。

noname#194289
noname#194289
回答No.1

専門家ではもないし又詳しくもありませんが同じような興味を感じています。ある心理学の本に自分というのは図と字の関係で考えるのが良いと書いてありました。心理学の教科書によく出ているルビンの杯で白と黒の境というものは白と黒の関係として存在しているのであってそのものとして存在しているのではないということのようです。われわれ人間は言葉を便利に使っていますが、同時に言葉にだまされやすい一例でもあるようです。つまり二つのものの境というものが関係としてのみ存在するのではなく輪郭線のようなものとして白と黒にとって第三者としてが独立して存在していると思ってしまいます。つまり二つが同時に存在しないと両方とも存在できないにもかかわらずわれわれは言葉によって一方だけでも存在できる(つまり白のことを考えないで黒と言い、黒のことを考えないで白と言うように)と錯覚してしまうのではないかと考えると貴方の質問が出てくる理由と関係があるように思いました。

sheep67
質問者

お礼

返事が遅くなってすみません。PCのトラブルでごたごたしていたもので。 回答ありがとうございます。 ルビンの杯の話は、おお!という感じです。まあ当然なんでしょうが同じことを考えてる人がいるんですねー。こういうたとえの話を聞かせていただくと、ちゃんと心理学を勉強してみたいなーと感じますねー。 また、こちらの質問の意図をよく汲んでいただきうれしく思います。 お返事ありがとうございました。