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道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

 ○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう?  ☆ という問いです。    趣旨説明です。  《心が傷つく》ということは 次のようだと考えます。それによると 気持ちを明確に表に出したほうが よいと 一般的に言って 思うのですが いかがでしょう?  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。  * 《悪は 存在しない》――すなわち 内面において おのれの自由意志が へそを曲げることによって 心のゆがみとして 悪は起きるが ならば 悪は 少なくとも 外面には 存在していない――ゆえ。   cf.《Q: 悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html  2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。  3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合がある。それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるというに過ぎない。  4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになる。  5. 存在は 独立存在であると同時に 社会的な関係性よりも成り立っているからである。  こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう?  * この《なぜ》のほうは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html において みなさんから  ご回答をいただき――ありがとうございました―― かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。  * そのつてでは 《〈羞恥心〉現象》――この内容については 上の質問のNo.24&26を参照されたし――が はにかみ屋のおとなしさから 明るい開いたおとなしさへと 世界の窓を開け道を拓いたという見方が出ています。続編としての質問ですから そのあたりについても どうぞ 自由なご見解をご教授ください。

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回答No.23

本来、感情をあらわにすることに躊躇する必要はありません。 感情というのは、前のご質問で話題ししていた帯域の非常に広い ところからの出力にすぎないでしょう。 感情のみを取り出すと、言語表現と同じように帯域がかなり狭くなります。 感情も、言語表現も、論理思考もその背後にある帯域の広い ところに裏打ちされていて、感情は、そのバロメータにすぎません。 機能の一部であることに気付く必要があります。 前に動性道徳と表現していたダイナミックな帯域の広い領域が、 現実的で具体的経験に基づいて培われ、醸成されているのであれば、 感情、論理思考、言語表現等のいずれも、その発信を躊躇することなど あり得ません。ここに正、誤、善、悪の基準やら、規範はありません。 (ここで繰り返しになりますが、「人間が存在するところ対立が起こる」を肯定しているうちは、成立しません。) >なぜ 常識は そうではないのでしょう? とはいえ、問題は、具体的行動にあります。 具体的なものごとに対して、80%快、20%不快という風に感じますが、 その対応としての具体的行動は、80%やる、20%やらない訳にはいきません。 感情表現ならともかく、トータルとして60%快が上回っているならもはや 行動に移ります。ここに感情の機能があります。 そして、だからこそ、ダイナミックでなければなりません。 特に他人の権利に関わる行動は、時間経過に伴って変化する作用、反作用に俊敏さが必要なんだと思います。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  なるほど。なるほどですね。  そろそろ 出番であるかのように 現われてくださいました。  かなりのことが 全体的に つながって 捉えることができるようになります。  ★ 動性道徳と表現してい〔る〕ダイナミックな帯域の広い領域  ☆ これを そう言えば 今回の途中から わたしも  ○ 自己表現  あるいは 自己の表現  ☆ という言葉で 言い表わそうとしています。すなわち この自己表現のうちで  ★ 感情というのは、前のご質問で話題にしていた帯域の非常に広い / ところからの出力にすぎないでしょう。  ☆ つまり 冗長になりますが  ○ 《自己表現》は 人間の行為にかかわる全帯域における出力である。むろん 感情をも含む。  ☆ と規定するとよいですね。考えてみると  ☆☆ 相手が 最初に みづからの心に歪みをもって 自己表現するとき わたしは すでに えっ? とか はぁっ? とかいうふうに 感情表現をもって 反応している。  ☆ という意味合いのことを 今回 言って来ています。  こうして つながって来るというものです。  どうして 今回 このように 感情を それとして 取り上げたか。こう考えてみると どうも 感情は いわば対話の先端かつ尖端を形づくってのように ひとは それを受け取りがちである このような実情からなんでしょうかねぇ。  そのような感情の受け取りに際しての《快不快》にかんして  ★ 感情表現なら ともかく、トータルとして60%快が上回っているならもはや / 行動に移ります。ここに感情の機能があります。  ☆ という見方であれば 逆に 不快が 過半数の部分を占めているとすれば 躊躇することもある。一たん 立ち止まって考えてみる。こともありうるのでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そして、だからこそ、ダイナミックでなければなりません。  特に他人の権利に関わる行動は、時間経過に伴って変化する作用、反作用に俊敏さが必要なんだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と結ばれております。《自己表現》の醍醐味といったところでしょうか。  と こう述べて来て 課題がないわけではありません。  ★ (ここで繰り返しになりますが、「人間が存在するところ対立が起こる」を肯定しているうちは、成立しません。)  ☆ これです。《理論また理想は そうかも知れないが 現実は どうかな》の問題とからんでいるようです。この問題の説得が つづくと思われます。《狭き門》であるようにも感じられます。やりがいもあるようです。  そして この「人間が存在するところ対立が起こる」説に対しては 《悪は 存在しない》よりも もう一度視点を変えて――つまり そこでは 《存在は 善である》という想定で出発しているけれども この視点を変えて――  《存在は 善悪を超えている》http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.htmlという切り口での基礎理論も 重要になるようなのです。  ○ 人間存在は 互いの対立を超えた自然本性から成っている。しかも そうであるがゆえに 時には 互いの対立をあそぶ もしくは もてあそぶ傾向を持つ厄介な動物である。  ☆ は どうでしょうか。  ところで  ○ 《羞恥心》トリオは そして かれらを受け容れる日本人たちは その社会の中にあって みづからの《自己表現》を全開にする道を開いた。  ☆ という言い方で言って いいですか?  * ここんところ 十一時の声を聞くと 就寝の時間にしています。わづかの差で 翌る朝でのお応えになったようです。

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  • hakobulu
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回答No.7

一部修正です。 オバマさん、最初の式ではリンカーンの聖書をちゃんと使ったようですね。 やり直しの時には聖書を使わなかった、というテレビの報道を上の空で聞いて残念と思ったのでした。 ガセネタ流してすみません。  

noname#80116
質問者

お礼

 了解しました。だいじょうぶです。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.6

#4です。 > 安寧第一のためにこそ 互いに 異なる考えを 差し控えるのではなく きちんと 述べ合って 明らかにし合い 出来るところは すり合わせつつ 共通の理解を つねに 得つつ 共生していくのだ。 :同感です。 それ以外のなにものもありはしません。 前回も『「相手に対して 問い質す」のは正しくはある』 と述べました。 しかし、 『が、(常識という視点からは)ふつうではない。』 とも続けました。 正しいのになぜふつうではないのか。 ということに関しては、 「他者からの(感情的)影響だと制御が難しい場合が往々にして生じる。」ために、 「人間というものはその手の制御が難しいものだということに関してお互いに暗黙の了解がある」からです。 (たとえば友人間において)「>離反という結果」をもたらしたとしても、おためごかしの友人ごっこを続けるよりは圧倒的に有意義なことでしょう。 >  ○ 常識では 感情を 凹凸の凹のほうつまり 抑制するほうを 選んでいることに関して なぜか。  ☆ これに関して 得た一つの結論は 凹という二分の一のそのまた二分の一の選択肢として 社会の統治のためだというものです。 :石器時代などよりさらに前の人類当初の祖先たちは凸だったと思われますが、社会当時のために凹を身に着けていった、ということでしょうか。 私としては、単に他者の脅威から自分を防衛するため、つまり一種の慎重さ、あるいは臆病さの結果ではないかと思っているのですが。 社会秩序よりも本能の変形という感じでしょうか。 >外から来る悪に《傷ついた》と感じる疑似体験を持つのは おそらく われわれ人間が うそから自由になることのむつかしさを いやというほど知っており その無力感が 外から来る悪に対して 忌々しさを感じさせるところからくるのではないか。 >忌まわしいというのは 自分の非力に対するものでもあるわけです。これが 共鳴しているとすれば 疑似的な《傷つき》体験を持つ こう推し測りました。 :実際、同じような現象が身に降りかかったときに、その現象を悪とみなす人もそうでない人もいるでしょうから、おっしゃりたいことはわかります。 しかし、全くの素人的発想になってしまうのでしょうが、有無を言わせぬ悪、あるいは圧倒的な悪、というものはやはり存在するのではないでしょうか。 個人にとっての「傷つき」が全て内面の歪みによるものという捉え方は、やはりよくわかりませんね。 自己投影的な悪も少なからず存在するというのであればまた話は別ですが、一般的に悪と認識されてきたもの全てに対して存在しない、と言い切るわけですよね。 私の理解が足りないのかもしれませんが、このへんがどうもよくわかりません。 地震で家が倒れるのは家の構造が軟弱だったから、というのは確かに事実でしょうが、しかし、そうであったとして、構造さえしっかりさせれば地震など無いも同然、という発想をする必要があるのかな、というイメージです。 間違ったことをおっしゃっているとは思いませんが。 > ○ 悪は 現象として 起きているが 悪そのものとしては 存在していない。  ○ 心が 傷つくのは おのれの内面における《ゆがみ》をめぐるその現象としての悪による。 :悪を凌ぐ方便としてはよろしいんじゃないでしょうか。 しかし、現象であるならば原因があるはずで、それはどういったものか、ということのほうにむしろ興味が湧きます。 >(うそから自由になることのむつかしさを いやというほど知っており) その無力感が 外から来る悪に対して 忌々しさを感じさせるところからくるのではないか。 :大体同感できる箇所ですが、ここも、私にすれば、 (元から持っていてそれと気づかない)ある種の忌々しさが無力感を伴って個人の内面にゆがみを生じさせ、外から来る刺激に対して不必要なほどの悪を捏造してしまうのではないか。 としたいところです。 捉え方の問題なので、おっしゃっているように殆ど差異はないものと思われますけれども。 >忌まわしいというのは 自分の非力に対するものでもあるわけです。これが 共鳴しているとすれば 疑似的な《傷つき》体験を持つ :ここが要点なのかもしれませんが、この論理の元になっているのは、非力であること自体が悪である、ということになりませんか? >★ 自己変革  ☆ は みづから意識しつつ 意志によって 積極的に おこなうという性格のものでしょうか。ううーん。わたしの場合 いまの段階では 《あやまつなら》というように 受け身の姿勢を想定しています。 :この部分は勉強不足で、よくわかりません。 「あやまつなら」がどのような意味で「受け身」となるのか。 また、自己変革とどのように関連(あるいは対応)するのか、もう少し噛み砕いていただけないでしょうか。 > * あっ。これは そもそも 最初のウソは その時点で 不本意と本意との間のゆがみを伴なっており わたしは そのことを知っていますね。そのあと 社会的な関係性の世界において 再確認することになるのでしょうか。これなら 受け身ですね。もっと 積極的な《ゆがみと傷つきにかんする気づき および そこからの自己変革》が あるでしょうか。 :同様に、この部分もよくわかりません。 bragelone さん頭良すぎるんだよなあ。 いや私が・・なだけか。 ご面倒でなければ教えてください。 どうも場当たり的な回答しかできなくて申し訳ないです。  

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。微妙に 焦点の当て方が違うのか それとも 基本的な善悪観から違っているのか。まだ 読み返す回数が少ないのですが どちらにも 当てはまるように受け取ってしまうわたしが います。どうしたものか 思案しながらのお応えです。  ★★ このようなものである(=最初の傷つきというものが人間には必ずもたらされる)ために必要とされるのが「自己変革」ということではないか、と漠然とですが考えています。  ☆ この《自己変革》につきましては 正直に言って よく飲み込めていません。憶測で わたしのほうからは 《あやまつなら われ あり》という場合の《気づき》の例を出しました。こちらのほうは 《あやまちに気づいたとき わたしが わたしである》というものです。  ウソの場合は ついた時点で 意志(こころ)からの歪みに気づいているはづですが それが あやまちだと気づいたときに 再確認するという意味で 例として 出したものです。その再確認のあと やっと 《自己変革》することになるので 《受け身》であると捉えたものです。もっと 積極的な自己変革の場合が あるのかなと思ってのことでした。  ○ 悪は 存在するか。  ☆ をめぐって どうも 見方によっては 互いに 真っ向から 対立した見解であるようにも思われます。精確には 《現象としては 悪は 存在する》と言っていますので  ★(α) 個人にとっての「傷つき」が全て内面の歪みによるものという捉え方は、やはりよくわかりませんね。  ☆ ここらあたりの問題になるでしょうか。そしてこのことは  ★(β) しかし、全くの素人的発想になってしまうのでしょうが、有無を言わせぬ悪、あるいは圧倒的な悪、というものはやはり存在するのではないでしょうか。  ☆ とつながっていると思われます。(β)は 《悪と呼ぶ現象が 存在する》ことに問題はないのですが このばあいは 《圧倒的な悪》によって 心が傷つくことはないし あり得ないという命題の問題です。恐怖に震えることは 傷つくこととは 別だという考えなのですが どうでしょう? すなわち みづからの心に歪みがないのならば そのように外から来る悪によって 肝っ玉が震え上がったとしても 心が傷ついたということではないという見立てです。恐怖体験による後遺症があるという場合は 弱さの問題だと捉えます。そしてこの弱さの問題にかんしては  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >忌まわしいというのは 自分の非力に対するものでもあるわけです。これが 共鳴しているとすれば 疑似的な《傷つき》体験を持つ :ここが要点なのかもしれませんが、この論理の元になっているのは、非力であること自体が悪である、ということになりませんか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というご指摘ですが どうですかねぇ。もしおっしゃるように  ★ 非力であること自体が悪である  ☆ としますと この非力という悪によって ひとは 心が 傷つくでしょうか? 傷つかないと思うのです。歪みがなければ どれだけ 《うそからの自由を実現し得ぬという弱さ》を持っていても 傷つくことはないと思うのです。後ろめたくはないはづです。この弱さは 人間の条件であるに過ぎませんから。  ですから   ○★ 感情を露わにしてでも 『「相手に対して 問い質す」のは正しくはある』  ☆ ことは人間関係において ふつうであるという現実も ありうるとは 思うのです。歴史と伝統にそぐわないという場合があるかも知れませんが 可能性を排除する理由もないように考えます。  言いかえると 共同自治のためには   ○ 感情をあらわにする応対の仕方も 感情を抑えるそれも どちらも ありうる。  ○ けれども 統治の方式としては 特に 日本社会の場合には おそらく すすんで 感情を差し控えるのではなく 道徳規範の提示によって(つまり お上からのお触れによって) まづ 思考停止に陥り あたかも条件反射としてのように 感情抑制の動作に入る。のではないかという仮説。  ☆ このように なお 考えております。  ★ (たとえば友人間において)「>離反という結果」をもたらしたとしても、おためごかしの友人ごっこを続けるよりは圧倒的に有意義なことでしょう。  ☆ この文章を わたしは誤解したのでしょうか 上のような見解をまだ持ち続けています。どうでしょうか。

  • heygibson
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回答No.5

でたー

noname#80116
質問者

お礼

 ううーん。  まぁ そうかも。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

>感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう? :単純に考えて(というかそれしかできませんが)、時と場合によるということにすぎないと思います。 たとえば、昼は淑女で夜は娼婦のような振る舞いが理想の女性像などとも言われます。 事実ではある(否定される方はおられないと思いますが)がどのようなタイミングで露にするのか。 が問題になるということはあるでしょうが。 >  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。 :確かにそういう視点はあるでしょうが、しかし、きっかけとなるものが外から来たのであれば、それによって傷ついたと表現するのが妥当ではないかと思います。 少なくとも、あり得ない、と言い切るのは疑問と感じます。 >  2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。 :このような場合に限定してであれば、確かに(絶対的な)悪は存在しないと言うことは可能かもしれません。 この場合、 「>自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。」というよりは、 そういったものを持っていればこそ、やってくるものを「悪」と感じる。 という側面もあるように思われます。 ですから、個人的にはむしろ、 「>その歪みによって 傷つく」というよりは、 「(すでに)傷ついているものが悪を自ら招来する」という捉え方のほうがしっくり来るかもしれません。 しかし、その最初の「傷つき」が何によってもたらされたのか。 という問題が残ります。 これに関して解明することはまた別の問題になるでしょうが、このようなものである(=最初の傷つきというものが人間には必ずもたらされる)ために必要とされるのが「自己変革」ということではないか、と漠然とですが考えています。 ここで述べたいことは、 悪は存在すると捉えるべき。(1) つまり、 歪みがなくても人は傷つくのではないか。(2) ということです。 3,4,5に関してはおっしゃるとおりと思います。 >こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう? :「>かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。」 ということなので参考URLを拝見しましたが、さっぱりわからず・・・(-_-;) brageloneさんの質問に答えるなどと大それたことをする気になった自らを反省したところですが、せっかくここまで書いてきたことですし、ごり押し的に(=おそらく真意とは外れているでしょうが)続行してみます。 >相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう? :「相手に対して 問い質す」のは正しくはあるがふつうではない。 というように思います。 「常識=ふつう」ですから、「>そうではない」ほうが自然です。 常識とは個を抑制して集団に利するという精神?のもとに作られた了解事項でしょうし、しかし個を抑制することのみで全て事足りるわけもなく、さらに抑制が過剰に作用する場合も当然あるわけで、それが「正しくない」方向に作用することは容易に推測できます。 ではなぜそのようなものが常識としてふつうとされるのか。 人は感情と理性の両方を行ったり来たりしつつの生だと思いますが、両者は互いに関連し、影響を与え与えられつつ。 ということになっているでしょう。 ところが一個人の中でもその調整がうまくいかないことが多いのが人間の性で、まして他者からの(感情的)影響だと制御が難しい場合が往々にして生じる。 諍いの発端となり、集団の秩序が乱れやすくなる。 「>問いただす」ことによる切磋琢磨やら向上やらよりも(多少下降しても良いし何しろ)安寧第一というのが「常識」の基本精神なのだと思います。 つまり、(現在の進化段階においては)人間というものはその手の制御が難しいものだということに関してお互いに暗黙の了解があるのでしょう。 「正しい」と予測される行為を抑制してでも常識は守られるべき、と一般に(暗黙的に)考えられているのは、これが理由ではないでしょうか。 しかし、「制御できる」人々にとっては、何とも摩訶不思議なものだなあ、と感じる。 ということだと思います。 瞬間的な反射能力が普通の人の百倍ある人がいるとすれば、交通信号がなぜあるのか不思議に思うことでしょう。 このへんに関連する(と私が思う)最近の出来事はオバマ大統領の就任です。 ほんの半世紀ほど前まで、いやもっと近い過去においても、黒人の大統領が誕生するとは誰も想像すらしていなかったはずです。 時が変えた、とも言えるでしょうが、時が実質的な主語であるはずもなく、やはり変えたのは人間の思考の(地道な)集合であったのでしょう。 常識というものも、そのように段階的に変化していくのではないかと思います。 今でもクークラックスクランなどは、おそらく彼らなりの常識ゆえに歯噛みしているのでしょうが。 (変わらないように見える)常識の大勢が変わるということはあるのだと感じます。 ところで、リンカーンが宣誓に使ったのと同じ聖書を使う予定だったらしいですが無かったようですね。 同じものであればさらに盛り上がっただろうに、と少し残念。 どうも、「>忌憚のない(見解を)」とおっしゃっているのを、 「好き勝手なことでもOK」と勘違いしたかのような投稿になっているような気もしますが、一度回答してみたかったので。  

noname#80116
質問者

お礼

 どうでしょう。  ★ 自己変革  ☆ は みづから意識しつつ 意志によって 積極的に おこなうという性格のものでしょうか。ううーん。わたしの場合 いまの段階では 《あやまつなら》というように 受け身の姿勢を想定しています。――ちょっと 考えてみます。  * あっ。これは そもそも 最初のウソは その時点で 不本意と本意との間のゆがみを伴なっており わたしは そのことを知っていますね。そのあと 社会的な関係性の世界において 再確認することになるのでしょうか。これなら 受け身ですね。もっと 積極的な《ゆがみと傷つきにかんする気づき および そこからの自己変革》が あるでしょうか。うううーん。  * リンカンの聖書 を オバマは使えなかったのですか? 知りませんでした。宣誓を あとで やり直したことは 知っていますが。

noname#80116
質問者

補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。  一度 お話をしてみたかったです。ところが 今度 ハコ ブ ルさんだと正しく認識しました。なぜか ハコ ボ ルさんだと思いこんでいました。すみません。何でもないことです。  ★ 常識というものも、その〔* 黒人大統領の誕生という〕ように段階的に変化していくのではないかと思います。  ☆ ファビアン主義と言いますか なかなか 《常識》に立脚したむすびを掲げていただいたので――賛同すると思いきや いぢわる魂が むくむくと 頭をもたげてまいります―― このメタ常識にも 歯向かう豪胆ぶりを《発揮》することに決めました。  ★ 安寧第一というのが「常識」の基本精神なのだと思います。  ☆ こうは 考えられませんか? 安寧第一のためにこそ 互いに 異なる考えを 差し控えるのではなく きちんと 述べ合って 明らかにし合い 出来るところは すり合わせつつ 共通の理解を つねに 得つつ 共生していくのだ。――たぶん 例の《おのれの欲するところを ひとにもほどこせ》と《おのれの欲せざるところを ひとにおこなうなかれ》との違いなのでしょう。ということは 歴史と伝統の問題になるでしょうか。  じっさい 細かいことを言えば 友だちどうしなら 互いの異なる意見を いやというほど 明らかにし合って 互いに ばか呼ばわりでもして けんかを通じて 共同の主観を築き上げていきますよね。とは言うものの 離反という結果をもたらす場合も けっきょく あるので これも 一概には 言い切れないというところでしょうか。  ○ 常識では 感情を 凹凸の凹のほうつまり 抑制するほうを 選んでいることに関して なぜか。  ☆ これに関して 得た一つの結論は 凹という二分の一のそのまた二分の一の選択肢として 社会の統治のためだというものです。もっぱらの公民の世界から見ると 道徳規範を掲げることによって その威厳から 市民らは あたかも思考停止になり ただちに 同じくあたかも条件反射のごとくに 感情を抑制し 《公的安寧》に随順することをよしとする統治術だというわけです。その歴史の重みがあるというものです。――たぶん 四分の一の確率で 妥当な見方だと思っています。  あとは それによって心が傷つくところの悪が 外からやってくる場合のお話です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    悪は存在すると捉えるべき。(1)  つまり、    歪みがなくても人は傷つくのではないか。(2)  ということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの現段階での結論は  もしそうであれば  ○ そのように外からやってきた悪による傷つきは 《疑似体験》である。  ☆ というものです。したがって   ○ 悪は 現象として 起きているが 悪そのものとしては 存在していない。  ○ 心が 傷つくのは おのれの内面における《ゆがみ》をめぐるその現象としての悪による。  ☆ と いまのところ 固執しています。  ★ そういったもの(* ゆがみ)を持っていればこそ、やってくるものを「悪」と感じる。  ★ 「(すでに)傷ついているものが悪を自ら招来する」という捉え方のほうがしっくり来るかもしれません。  ☆ この二つの見方については 表現の問題として捉えるなら 《悪がおのれの心の内面において起こる》説と 矛盾しません。したがって このとき どうしても 《表現の問題にすぎない》と言い張り続けて  ★ 少なくとも、あり得ない、と言い切るのは疑問と感じます。  ☆ に対してさえ かたくなに抵抗しようと思うわけは 考えるに こうです。外から来る悪に《傷ついた》と感じる疑似体験を持つのは おそらく われわれ人間が うそから自由になることのむつかしさを いやというほど知っており その無力感が 外から来る悪に対して 忌々しさを感じさせるところからくるのではないか。  忌まわしいというのは 自分の非力に対するものでもあるわけです。これが 共鳴しているとすれば 疑似的な《傷つき》体験を持つ こう推し測りました。いかがでしょう。  あとは 《自己変革》のことですね。  ★ このようなものである(=最初の傷つきというものが人間には必ずもたらされる)ために必要とされるのが「自己変革」ということではないか、と漠然とですが考えています。  ☆ 少し 角度がちがうかも知れませんが わたしの場合は  ○ あやまつなら われ あり。(欺かれるなら われ あり。)  ☆ を持ってくるところです。

noname#96011
noname#96011
回答No.3

難しい言葉を並べ、難しい言葉の中のご議論の中に「真」があると思われる事は、悲しい事と存じます。

noname#80116
質問者

お礼

 sonoma52maさん 根気よく ていねいに おつきあいを切らずに ご投稿いただき ありがとうございます。  ★ 難しい言葉を並べ、難しい言葉の中のご議論  ☆ これにつきましては たしかに 本意ではありませんとお応えせざるを得ません。  今回の趣旨説明に むつかしい用語があるとも思いませんが 全般的に もしわたしの文章が 読みづらいということであれば――それは よく 頂戴するお叱りなわけですので―― 不本意をつづけていることになります。  こうお願いするわけには行かないでしょうか。つまり 難解な箇所を 一つひとつ 指摘していただくというわけにはまいりませんか。徹底的に こなれた言葉づかいで 表現することを心がけたいと存じます。  《言い訳》は こうです。  1.方針として まづ 読んで分かるように書く。  2.さらっと 読み流されないように つまり 重要な中身を伝えるために立ち止まってでも 注意を向けてもらえるように わざと ごつごつとした文章の流れを作る。  3.何ごとも はじめは むつかしいものです。最先端の哲学思想を扱っていますという自負です  ○ 《〈羞恥心〉現象》  ☆ これについて コメントするなどとして 質問に答えていただけるのではないでしょうか? たとえばですが いかがでしょうか?

noname#80116
質問者

補足

 ★ 盤珪禅師  ☆ について 明るくなくて ごめんなさい。  ★ その不生禅  ☆ すら――面目ないことに―― 初耳です。  ▲ 自己を運びて万法を修証するを迷いとす、万法進みて自己を修証するは悟りなり。  ☆ これは 真実だと思っています。  《万法進みて自己を修証》した結果 その成果として 倫理思想ないし道徳が得られるわけですが そして これを規範化する場合も 見られるわけですが 逆に この規範のほうから ものごとを捉えたり考えたりすると 必ずしも はじめのダイナミックな《自己修証》としての生きた道徳が ややもすると 死んでしまうことが あるのではないでしょうか。  さらに悪いことには   ▲☆ 《道徳規範》を笠に着た《自己 を運びて 万法を修証する》なら 迷いとなる。  ☆ でしょう。    このとき   ○ 感情表現に関しては どうか。  ☆ これが ここでの主題です。万法との関係 ないし 相手との関係において 感情表現は どうなのか。もっと 直截に言えば 天真爛漫 あるいは 天衣無縫は 悪であり 慎むべきなのか。もし はしたないと言うのであれば その理由は どこにあるのか。・・・  みなさんの忌憚のない幅広く自由なご見解を お尋ねしたいと存じます。

noname#96011
noname#96011
回答No.2

自我意識の下に全ての囚われから離れた、真我(空)が有ります 真我(空)には善悪がありません。それを(行)において、座禅において体験される事を望みます。

noname#80116
質問者

お礼

 sonoma52maさん ご投稿をありがとうございます。  そうですね。  ★☆ 善悪を超え あたかもどちらをも隔てなく包む慈悲に満ちた真我(空)を 座禅において体験された sonoma52ma さんなら   ○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう?  ☆ という問いに対して どのようにお答えになりましょうか?  趣旨説明も述べていますし 感情の問題に限らない一般編についての《Q:道徳規範は 愚の骨頂》なる参考資料も ありますので じゅうぶん 質問はととのっていると思いますが いかがでしょうか?

noname#80116
質問者

補足

 補います。  大塚久雄は M.ヱ゛ーバーの議論を援用して 道徳規範が 《外面的品位》として現われる社会としての儒教社会を 次のように捉え描いています。いかほどか わが日本社会のならわしに通じるところがあるのではないでしょうか。  ▲ (大塚久雄:ヱ゛ーバーの《儒教とピュウリタニズム》をめぐって――《社会科学の方法》所収―― ~~~~~~~~~~~~~~  ピュウリタニズムの《内面的品位の倫理》のばあいには 行為と言語のうちにもられた内容 とくにその内面的意味が決定的に重要視される。特定の内容をともなわない単なる儀礼 精神の失われた外面の形式などというと ちょっと判かりにくいでしょうが 卑近な例としては われわれが手紙を書くときに慣習的に用いる 《拝啓 春暖の候 貴堂益々御清栄の段賀し奉り候》というような決まり文句 それから現在の人々はもうあまり知らない旧式のお作法から 有職故実といったものを思い出してみられると よくお判かりのことと思いますが そうした外面的な形式それ自体よりは むしろ内面の善意からする特定の内容をともなった言語と行為 そうしたものにこそ価値があたえられるような倫理が 《内面的品位》の倫理なのです。  ・・・  《外面的品位》・・・を説明するのに・・・こんな語を使っています。・・・行儀だとか 物腰とか・・・とくに偉い人らしいもったいぶった物腰や身振り それから・・・《顔》ですね。おそらく 中国の《面子》の訳語 われわれの語では体面ということだと思います。《顔がきく》と言ったり 《顔がつぶされる》という あれです。  儒教の倫理が 《審美的》な性質を帯びているとも〔言います〕。たとえばわれわれは倫理的に《悪い》ということをも しばしば《下品》だとか《汚い》とか 《はづかしい》とか その他さまざまに表現しますね。  ヱ゛ーバーはさらに・・そうとう峻烈な表現をさえ用いています。たとえば 《特定の内容をもたない態度それ自体が 尊重される》というふうな説明です。外側のポーズそのものに価値がおかれているというのですね。  いかにも偉い人であるような恰好をして荘重な声で話をすると おのづからその人に対して尊敬の念が生じて頭を下げるといった精神的雰囲気。精神の内容ではなくて 荘重な身振りにおのづから重点がおかれているような倫理感。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  * むろん sonoma52maさんのためを思っての 皮肉です。

noname#96011
noname#96011
回答No.1

言葉遊びは真に非ずだと存じますが。 執するは迷いなり、理にかなうも悟りに非ず。 彼方様の今必要なのは「行」だと存じます。

noname#80116
質問者

お礼

 sonoma52maさん ご投稿をありがとうございます。  ★ 言葉遊び  ☆ であるというのは どういう根拠によるのですか?  ★ 理にかなうも悟りに非ず。  ☆ だが  ★ 執するは迷いなり  ☆ と断ずる根拠は いかに? だれもが 執することをつうじて 探究するのとちがいますか? また どこが 《執する》という気配を出していますか? 論拠を示せずに どうして  ★ 彼方様の今必要なのは「行」だと存じます。  ☆ と断ずることができるのでしょう。  よほど 《言葉遊び》に執心でいらっしゃるようですね。何が 哲学で 何が くだらぬ遊びであるか もう 分からなくなっておられるようですね。

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