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道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)
○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう? ☆ という問いです。 趣旨説明です。 《心が傷つく》ということは 次のようだと考えます。それによると 気持ちを明確に表に出したほうが よいと 一般的に言って 思うのですが いかがでしょう? 1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。 * 《悪は 存在しない》――すなわち 内面において おのれの自由意志が へそを曲げることによって 心のゆがみとして 悪は起きるが ならば 悪は 少なくとも 外面には 存在していない――ゆえ。 cf.《Q: 悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html 2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。 3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合がある。それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるというに過ぎない。 4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになる。 5. 存在は 独立存在であると同時に 社会的な関係性よりも成り立っているからである。 こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう? * この《なぜ》のほうは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html において みなさんから ご回答をいただき――ありがとうございました―― かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。 * そのつてでは 《〈羞恥心〉現象》――この内容については 上の質問のNo.24&26を参照されたし――が はにかみ屋のおとなしさから 明るい開いたおとなしさへと 世界の窓を開け道を拓いたという見方が出ています。続編としての質問ですから そのあたりについても どうぞ 自由なご見解をご教授ください。
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本来、感情をあらわにすることに躊躇する必要はありません。 感情というのは、前のご質問で話題ししていた帯域の非常に広い ところからの出力にすぎないでしょう。 感情のみを取り出すと、言語表現と同じように帯域がかなり狭くなります。 感情も、言語表現も、論理思考もその背後にある帯域の広い ところに裏打ちされていて、感情は、そのバロメータにすぎません。 機能の一部であることに気付く必要があります。 前に動性道徳と表現していたダイナミックな帯域の広い領域が、 現実的で具体的経験に基づいて培われ、醸成されているのであれば、 感情、論理思考、言語表現等のいずれも、その発信を躊躇することなど あり得ません。ここに正、誤、善、悪の基準やら、規範はありません。 (ここで繰り返しになりますが、「人間が存在するところ対立が起こる」を肯定しているうちは、成立しません。) >なぜ 常識は そうではないのでしょう? とはいえ、問題は、具体的行動にあります。 具体的なものごとに対して、80%快、20%不快という風に感じますが、 その対応としての具体的行動は、80%やる、20%やらない訳にはいきません。 感情表現ならともかく、トータルとして60%快が上回っているならもはや 行動に移ります。ここに感情の機能があります。 そして、だからこそ、ダイナミックでなければなりません。 特に他人の権利に関わる行動は、時間経過に伴って変化する作用、反作用に俊敏さが必要なんだと思います。
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No.13です。拙文に対し敏速かつご丁寧な補足をいただきありがとうございます。身分を弁えず質問者様を支えているさまざまな周囲の論理を抜きにして単刀直入に議論の中心に乱入した感があります。ご無礼お許しください。 少しづつ足場を補強していきたく思います。 >社会的な関係性は 決して 道徳規範によって成り立つのではなく 人間存在の自然本性に潜在しており その意志という行為能力のふつうの発揮において すでに 現われる--- これはもちろん間違いではないと思いますが、論理が逆立ちしている感は否めませんね。 社会的な関係性は人間存在の自然本性に潜在しており その意志という行為能力のふつうの発揮においてすでに現われるが、(広い意味で)決して道徳規範が無視されることはない- その傾向は利益的人間集団以上に、血族的集団の方がより強いと考えます(どっちもどっちですが)。人間社会はすべてどちらかに吸収されますよね。 社会生活を始める以前、700万年前の原始人類ならいざしらず、現代の人間とその社会を分析する以上、単なる道徳教本に羅列している規範でない、無数の自然発生的な倫理が私達の行動をどうしようもなく縛っていることは否定できない事実です。そういった意味での社会的規範を申し上げたつもりですが、私の考えの限界かもしれません。 もちろん質問者様の人間関係の複雑なワイヤーハーネスを可能な限り単純化する等価回路を描こうとされておられる大胆な試みと努力を私などが否定するつもりは全くありません。が、社会生活の中において個のもつ動物的な感情がしばしば見せる傍若無人の働きを出来る限り抑えてきたのが人間達の原初からの知恵であり道徳観であったと考えるのが私の立場です。
補足
amazo007さん ご回答をありがとうございます。 そうでしたか。《道徳規範》という語をめぐって 行き違いがあったようですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 社会生活を始める以前、700万年前の原始人類ならいざしらず、現代の人間とその社会を分析する以上、単なる道徳教本に羅列している規範でない、無数の自然発生的な倫理が私達の行動をどうしようもなく縛っていることは否定できない事実です。そういった意味での社会的規範を申し上げたつもりです ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 失礼いたしました。それでしたら ● 前編の《Q:道徳規範は 愚の骨頂》 ☆ においては ○ 動性道徳・動く道徳・生きた道徳・動態としての道徳・道徳過程 ☆ などとして呼んだ概念のことです。ですから たしかに 生きている道徳としても 人間関係の原則や規律あるいは格言などのかたちで 《規範化》したところもありますから つまり ありますが それにもかかわらず 一般に 道徳規範というものは 人間の縦の関係において おのれの頭の上のほうから降りてくるような至上命令のごとくなっています。これは 単純に言って マインドコントロールであるとさえ 捉えています。その点も 焦点になります。 一点 表現の問題です。 ★ 単なる道徳教本に羅列している規範でない、無数の自然発生的な倫理が私達の行動をどうしようもなく縛っている ☆ 《縛っている》は 言いすぎではないでしょうか。なぜなら むしろ わたしたちは 自分を向上させ 世の中を良くして行こうと思って 人間関係についても 経験法則のようなものを捉えた上で 思索を重ね 互いに 生活の共同性を さらに よいかたちに 築きあげていこうというわけですから ★ 規範でない、無数の自然発生的な倫理が私達の行動をどうしようもなく縛っている ☆ という言い方は 行き過ぎであるように思うのです。むしろ わたしたちは すすんで 生きた道徳とその中核となるようなものを問い求めていると思われます。もし言うなら 喜んで 縛られていくような倫理学を問い求めていると言ってよいでしょう。 あとは 次のご主張にかんしてですね。 ★ が、社会生活の中において個のもつ動物的な感情がしばしば見せる傍若無人の働きを出来る限り抑えてきたのが人間達の原初からの知恵であり道徳観であったと考えるのが私の立場です。 ☆ そうですね。ここでは わたしが 動物的な倫理観を 提出するという愚行に出ましょうか。 ★ 個のもつ動物的な感情がしばしば見せる傍若無人の働き ☆ 密林からきょう出て来たというような場合でない限り いくら《横暴で狂暴》であったとしても おそらく その人も すでに 倫理の貴い中身は 知っているのではないでしょうか。もし すでに 知っているとすれば あとは その知っている・分かっているところの中身を どのように 自己表現にあらわすかです。逆に言うと 分かっているのに その道徳ごころを なぜ 素直に 出せないのかです。 ですから ○ 《和を以って貴しと為せ》と言われなかったら わたしは 和を乱すことを知らなかった。 ○ 誰れも 好き好んで 世の中に 波風を立てる者はいない。 ○ 和を貴いものとするからこそ 波風を立ててでも 人びとの気を引きたい。 ○ 何かのきっかけで 外れて行き どこか ずれたかたちで 意志行為をせざるを得なくなっている。 ☆ それもこれも 表で紳士 裏で闇の取引 こういう二重構造があるからこそ 《横暴・狂暴》になるのではないですか。 なければ いくら 粗野であっても ひとに対して いやがらせのためとして 狂暴になったりしないでしょう。そんなばかなことは 考えもしないでしょう。 逆に この弱さがあれば まだ 脈はあります。この弱さもなくした場合には もう 死んでいます。生きた道徳に対して 死んでいます。死んだ道徳規範に対して 亡者のごとく しがみついています。 あのおバカさんトリオ 《羞恥心》が このわが日本を 開きました。道をつけました。わたしたちは さらに 窓を開けて 風をとりこみましょう。
もう少ししつこくご自身の言う【問い質す】というやり方で >そうですね。全体として TENNTENNSEVENOKさんの考え方を 奴隷の思想と言います。核の笠のもとで 自由を謳歌するというやり方です。> 僕自身はそうは思いませんが、ご自身がそう思われるのものご自身の悪がなす行為ということでしょうか? >奴隷の自由を排するのではなくては 哲学は 始まりません。> 確かにそうでしょうが、その奴隷が裏面しているご自身の意見に関してはその奴隷のメカニズムを述べるという行為がまったく的を得ていないとは思い難いです >世間の知恵として 世の中を泳ぐすべについて もしくは そのすべを 後生大事にこうべに頂くことについて 説教しても 哲学は 始まりません。> 【説教しても・・・】→説明したつもりですが、ご自身が【説教された】と感じたのはご自身が僕の感情を読んで【説教しいているだろう】と推測した結果であり、(無論本当に説教交じりの表現をする人はいるでしょうが)その読心はおそらく調だろうと思われます、ここの部分を考えればおそらく【問い質す】という行為ではないだろうと思います、調で判断して【問い質す】ことを辞めておられる、そうなればなぜ【問い質す】ことをしない人がいるのか?なぜそうなるのかというのをご自身の感情で感じ取れたのではないかと思います
お礼
TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。TENNTENNSEVENOKさんとは 以前 回答をもらって やり取りしているのですが お久し振りということで ただし そのお久し振りにおいて ご回答の内容が 弾んでいないように感じたものですから いわばわたしの質問の趣旨内容やあるいは質問じたいを突き放すように ご投稿されたのかなと思ったわけです。 むろん 旧いときのことを引っ張り出すのではなく 新たに 対話が出来て その中で互いに 問い求めをすすめていくのには いちど こちらも 突き放すのがよいかなと これも 思ったわけです。 そうすれば わたしのお株を取ったかたちでおっしゃるように ★ 問い質し ☆ を した恰好になるだろう こういう意図と計算がはたらいたというわけです。じじつ このように 二回目のご投稿をもらったことになります。 すなわち ★☆ 世の中を渡る上での知恵や 生きるすべ ☆ というのは 哲学にあっては 一たんとしてでも ご破算にして 考えなおすことも 必要です。一般的に言っても ○ 常識を疑うことから 哲学は 始まる。 ☆ わけですよね? これだけを述べてから申し上げるべきことは 今回としましては ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >そうですね。全体として TENNTENNSEVENOKさんの考え方を 奴隷の思想と言います。核の笠のもとで 自由を謳歌するというやり方です。> 僕自身はそうは思いませんが ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というところを つまりは TENNTENNSEVENOKさんのお考えが どのように常識を疑っているのかというところを 述べていただくと 話が 無理なく 滑り出すように思うのですが? 常識を疑って その結果 やはり 今の常識が妥当であるということになれば それは それで 哲学の成果です。ですから そのあたりのことを もう少し明らかにしていただけるなら この質問も よろこぶのではないでしょうか?
- hakobulu
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追加です。 要約すると、 相手が傷つくか否かを考慮することなく反撃する必要が生じる場合もある。 逆に、 相手が傷つくと思えば、必要であっても(納得の上)反撃を内部に留めることで度量が問われる場合もある。 といったあたりになるでしょうか。
- hakobulu
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(私の頭の中の)整理上、一部重複する内容も記します。 1、《趣旨》 bragelone さんの一番おしゃりたいことは、 >安寧第一のためにこそ 互いに 異なる考えを 差し控えるのではなく きちんと 述べ合って 明らかにし合い 出来るところは すり合わせつつ 共通の理解を つねに 得つつ 共生していく :ことが重要である。 ということなのだと思います。 この出発点が誤りであろうはずはなく、これに関しては全くおっしゃるとおりと思います。 個別に(本心を)問うてみればおそらく圧倒的多数の人が同意するはずです。 少なくとも、「そのようにできるのであれば、それにこしたことはない」 と答えることでしょう。 (と断定的に述べておきますが、2において、関連した内容を補足してます) 2、《疑問と答え》 にも拘わらず、なぜ、 >常識では 感情を 凹凸の凹のほうつまり 抑制するほうを 選んでいる :のだろうか。 とbrageloneさんは 疑問を投げかけておられる。 ご自身としては、 >☆ これに関して 得た一つの結論は 凹という二分の一のそのまた二分の一の選択肢として 社会の統治のためだというものです。もっぱらの公民の世界から見ると 道徳規範を掲げることによって その威厳から 市民らは あたかも思考停止になり ただちに 同じくあたかも条件反射のごとくに 感情を抑制し 《公的安寧》に随順することをよしとする統治術だというわけです。その歴史の重みがあるというものです。――たぶん 四分の一の確率で 妥当な見方だと思っています。 :と述べておられる。(*備考1) #4で述べたことの繰り返しになりますが、私としては、 「他者の脅威から自分を防衛するため、つまり一種の慎重さ、あるいは臆病さの結果ではないかと思っているのですが。 社会秩序よりも本能の変形という感じでしょうか。」 と答えます。 「慎重さ、臆病さ」に関して、おっしゃるところの 「きちんと 述べ合って 明らかにし合い 出来るところは すり合わせつつ 共通の理解を つねに 得つつ 共生していく」 に則ってさらに述べます。 以下、意図的に抜粋します。 「述べ合って 明らかにし合い すり合わせつつ 共通の理解を 得つつ 共生していく」 これが、1で述べた、 (圧倒的多数の人が)「そのようにできるのであれば、それにこしたことはない」 の、「そのように」の内容(と同じ)です。 抜粋しなかった部分を示してみます。 「きちんと、出来るところは、つねに」 となります。 つまり、誰もが brageloneさんと同じように望んではいるが、 きちんとは出来ないだろう、 出来るところはあまりないだろう、 つねにとは、とてもいかないだろう、 と感じたり、思い込んだりしている。 のではないか、ということを言いたいわけです。 この総意が「常識」として顕現している。 というふうに考えます。 そこにあるのは、他者への不信であり、あるいは怖れでしょう。 それはとりもなおさず、自身への不信であり、怖れであろうと思われます。 この意味で、常識とは、理屈や思想というよりは本能的な一種の防衛形態と捉えています。 余談ですが、本能の抑制(抑圧)によって文化文明が発展発達(と捉えることが可能であればですが)してきたことは確かで、いわゆる民度というものも同様と思われます。 重要な側面において常識が幅を利かせすぎる国というのは、後進国と評価されるのが自然なのでしょう。 3、《趣旨の実行に際して》 ご趣旨には賛同しますし、ご質問に対する直接的な回答も一応述べたことになると思われます。 整理上このように述べています。 あとは、趣旨の実行に際して、 > ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。(なぜなら)《悪は 存在しない》 :のだから、つまり、相手が傷つくことはないのだから、 「>互いに 異なる考えを 差し控えるのではなく きちんと 述べ合」うことのみに留意していけば良い。 というご見解(ですよね?)についてですね。 色々補足していただき、少し読み直してもみ、前よりはおっしゃっていることの内容が多少なりともわかるようになってきたかもしれません。 今までの投稿といただいたご返事を再読しつつ、上の点に限って感じるところを次項で述べてみたいと思います。 自己変革ということを言い出した理由についても触れることになると思います。 重複内容も含まれることと思います。 まだ誤解の点があるようであれば、またお時間と忍耐が許すようであればさらにご指摘もお願いいたします。 4、《悪は存在しないのか?》 > ○ そのように外からやってきた悪による傷つきは 《疑似体験》である。 ☆ というものです。したがって ○ 悪は 現象として 起きているが 悪そのものとしては 存在していない。 ○ 心が 傷つくのは おのれの内面における《ゆがみ》をめぐるその現象としての悪による。 :とおっしゃっておられます。 これは、 >それによって心が傷つくところの悪が 外からやってくる場合のお話 :なのですよね。 しかし、疑似体験とはいえ傷つくのは事実なのですから、このように捉える意義というか、それがよくわかりません。(*備考2) いや、それは1での《趣旨》を実現するための免罪符という位置づけであることはわかるのですが、そのように規定しなければ、あるいはそこまで徹底しなければ、かの趣旨は実現され得ないものだろうか。 ということです。 #11では、 仮に、 「ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ある。あり得る。」 とするならば、問い質すのが普通ではないとお考えになる理由を教えていただけないでしょうか。 という問いに対して、 > ○ 自分の内面に起きた心のゆがみとしての自己表現における悪によって 相手が 傷つくものであるとするならば 問いかけるにしろ 対話をするにしろ 気をつけて そのような《わが悪による相手に対する傷つけ》を起こさないようにしたい。 ☆ この理由からです。 :とお答えいただきました。 ここでは、(相手が 傷つくものである、かどうかとは関係なく)《わが悪による相手に対する傷つけ》というものを想定していることになると思います。 >そのように外からやってきた悪による傷つきは 《疑似体験》である。 :という理由によって(外からの悪によっては)傷つかない、とすることと、 >《わが悪による相手に対する傷つけ》 :というものを想定する捉え方との違いはどこから生じてきたのだろうか、ということを考えてみました。 条件が異なったから想定した、ということにはならないはずです。 しかし、 > ★☆ 正しいからと言って ただちにそのまま 何でも 悪を生じさせていると疑われる相手に対して 問い質してよいとも 思われない。 ☆ と 一たん 立ち止まって考えてみるというおもんぱかりは 大事だと思われるからです。 :ともお答えいただいたので、そういったスタンスをお持ちの上でのことであれば、これ以上、悪が存在するか否かを論じる意味も私には見出されません。 面白そうではありますが、これ以上考えると頭が痛くなるのでこの件(悪は存在するか)に関しては、一旦据え置きます。 前置きが大層なわりにあっけなかったですね。^^; 次項では少し切り口を変えてみます。 5、《悪が存在するとすれば》 まず、次の箇所によって、「悪は存在するか」についてもう一度だけ蒸し返します。 >《悪と呼ぶ現象が 存在する》ことに問題はないのですが このばあいは 《圧倒的な悪》によって 心が傷つくことはないし あり得ないという命題の問題です。恐怖に震えることは 傷つくこととは 別だという考えなのですが どうでしょう? すなわち みづからの心に歪みがないのならば そのように外から来る悪によって 肝っ玉が震え上がったとしても 心が傷ついたということではないという見立てです。恐怖体験による後遺症があるという場合は 弱さの問題だ:と捉えます。 :4で述べたように、私としてはよく理解できない箇所ですが、圧倒的な悪の最たるものは強制かもしれません。 人間の賛歌ちうものがあるとすれば、それは自由だと思っていますので、逆らいようのない強制ほどの悪はないような気はしています。 恐怖というよりは傷つきそのものに直結するような気がします。 であれば、必ずや強制者の存在があるわけで、それはもはや現象とは言えないだろうということぐらいしかわからないので、悪は存在すると表現したいと思っています。 この場合は、悪を為される者の内面について検討される必要はないと思うのですが、どうでしょうか。 次に、その者はなぜ悪を為すのか、という問題が出てきます。 悪を為された者が(代償行為として他者に)悪を為す。 というのが私の考え方です。 そうすると、最初に悪を為したのは誰か、ということになります。 しかし、実際問題として、人間の言動において、悪であるのか否かの区別はつきづらい、あるいは判断しづらい、ということもあります。 進化の現段階においては人間の能力的に無理である、ということであるのかもしれません。 つまり、いわゆる悪の連鎖(悪の連鎖によって悪は起こるということですが)を逆にたどることは意味がない場合が多いでしょう。 一番確実なのは、悪をなされた時点で即座に反撃をしておくことです。 このことによって(当事者外の)他者へと連鎖する必要がなくなるため、連鎖は止まります。 ですから、この意味で bragelone さんのおっしゃるところの《趣旨》は非常に大きな意味を持っていると最初に感じましたし、それが回答を思い立った直接のきっかけのひとつでもありました。 ところで、反撃されたほうの対処がまだ残っていました。 反撃された側としては、自らに原因があって反撃されたわけなので、というか、その場合には、自らの非を認める必要があります。 倫理的問題ではなく(多少は含まれるでしょうが)、精神衛生上の問題です。 非を認めることは瞬間的にせよ自己否定につながります。 常に自己を疑っているという幅を持っていなければおそらくできないでしょう。 因みに、自信があればこそ自己を疑うこともできるわけです。 その姿勢を指して「自己変革」と私は呼びたいと思っているわけです。 --------------------------- *備考1 「>二分の一のそのまた二分の一の選択肢として」という表現をしておられますが、 「社会の統治のため」以外にも理由がある、という意味でしょうか。 また、よく読んでない(または理解できていない)せいもあるのでしょうが「統治」と「常識」との因果関係についてはよくわかりません。 確かに為政者などが思いつきそうなことですが、彼らがなぜそのような発想になるのか、という点も、もしご見解があるようでしたら合わせて教えていただけると勉強になります。 いずれにしてもこの件に関してはとりあえず、お答えをいただいてから、ということにしておきます。 *備考2 もし、疑似体験では傷つかない、ということであれば、恐れ入りますが具体的な例をあげていただければ助かります。 私の頭では推測すら難しいので。 ほんとお世話かけて申し訳ありませんが。 無校正のまま投稿しますので悪しからず。
お礼
我が世の春をめでたいという輩が おっぱじめた悪事であるでしょう。用意周到 実力発揮 優秀も優秀 おまけに 勤勉ガリ勉と来ています。《世間虚仮 唯仏是真》という標語をかかげ 聖なるという描像をも 持たせます。つまりあるいは 一人のアイドルをそのようにこしらえ かれがその叡智をしぼって掲げたのだとお触れ書きを示させ さらには悲劇の英雄に祀りあげ 神聖不可侵に磨きをかけ あとは 《和が一番》とすり込みからかす。世界に冠たる国が築き上げられました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 因みに、自信があればこそ自己を疑うこともできるわけです。 その姿勢を指して「自己変革」と私は呼びたいと思っているわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このように《自己変革》の姿勢をもし持っているとするなら そして その結果 いまでも このあり方としての国のかたちがよいとするなら――そういう民意・総意であるのなら―― わたしは もう すみやかに 隠退します。 ★ ○ 自分の内面に起きた心のゆがみとしての自己表現における悪によって 相手が 傷つくものであるとするならば 問いかけるにしろ 対話をするにしろ 気をつけて そのような《わが悪による相手に対する傷つけ》を起こさないようにしたい。 ☆ 《わたし自身の悪によって 相手が 傷つくものであるとするならば》という仮定条件を わたしは まだ 信じていないという意味です。 だいたい お応えできたかと思いますが 哲学のためにも 不都合・不十分なところについて さらに ご指摘ください。 * 《☆ 常識では 感情を 凹凸の凹のほうつまり 抑制するほうを 選んでいる》――もしこれが 《本能》もしくはそれに近い自然本性であるとしますと それは それでも あくまで 横の人間どうしの関係において 現われる状態なのだと考えます。また 凸のほうで 本能ないし くせ・習慣が 現われる場合も あるのではないでしょうか。 それを考え合わせても 縦の人間関係においてのみ 《感情を抑制する》くせがついているのであって 横の場合にも それが 出ているとすれば それは 派生的な影響であると思います。夫婦間で感情を抑制する傾向を 生涯 つづけるとは 思えません。
補足
hakobuluさん 来ましたね。ご回答をありがとうございます。 大筋での共同主観(コモンセンス)形成の確認のもとに いくつか思ったところをつづります。引用・表現を短縮または割愛せざるを得ませんでした。ご了承ください。 ▲ 《レイプ殺人犯に誘拐・監禁された少女の手記》~~~~~ http://allabout.co.jp/family/bohan/closeup/CU20051013A/ 「忘れることはできないが、自分の中で区切りをつけることはできる。この本を書くことによって、過去に起こった事実として、事件の形跡を残すことはできたが、これから始まり続いていく未来に、この不幸な出来事は、≫私にはもう 関係はない≪。 これからの人生を前に向かって歩んで生きたい」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 1995-56年 ベルギーにおける誘拐・監禁・殺人にわたる《デュトゥルー事件》。80日間監禁されていて 救出された当時十二歳の少女は ちょうどその数年後の裁判の際に現わした姿を わたしもヱブ映像で見ましたが 《あぁ この人間は 傷ついていないな》と思ったものです。 この上の参照サイトの紹介者は ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 多くの人が子どもの頃に、程度の差はあってもなんらかの性被害に遭っていると考えられます。誰にも言えないまま心の底に閉じこめてある記憶が、≫心の傷になっている≪人は多いはず…。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と書いていますが わたしには もし趣旨説明の(2)の場合を除けば いっさい 心が傷つくということは ないし あり得ないと なお 思っております。触れておられた ★ 《強制》 ☆ としての意志行為は へそ曲がりであり 悪であるだけではなく 無効であるという判断です。人情の問題としては 《蚊が刺しただけである》というべきものです。なら 傷つくことは ないでしょ? つまり 被害者の側においても おのれの心に意志のゆがみが有るか無いかをめぐる(2)の場合を除けばという条件も 不可欠な要件になるのではないでしょうか。 ですから もしこの見解が通るなら ★ 逆らいようのない強制〔という〕悪〔については〕・・・ / 恐怖というよりは傷つきそのものに直結するような気がします。 ☆ という場合にも 強制一般というふうに拡大しても 当てはまるように 強弁したいと 思っております。それは 傷つきの疑似体験であり 傷つきそのものではないのだという意味です。 無効の行為によって わたしの自由が奪われたとしても つまりそれは 無効なのであり 初めから まったく 無かったことになるのですから。確かに とばっちりがありますが あたかも その悪行者が みづからの自然本性の善に戻るのを わたしは 助ける役割を担ったというかっこうになります。身体や財産には傷を負ったことになるでしょうが。 ☆★ 統治 または 直接間接の統治手段として用いられる道徳規範の問題 ☆ 《和を以って貴しと為せ》は わたしたちの脳裡に刷り込まれているのではないでしょうか。《和》という音のひびきが聞こえたら わたしたちは ただちに 思考停止しますし おとなしくなるという条件反射を伴ないます。と言っていいのではないでしょうか。――これは ★ 本能 ☆ の問題とは 別だと考えます。なぜなら 横のつながりとしての友だちや同僚 あるいは 直接に識別できるほどの範囲の仲間のあいだでは この《和》という言葉を聞いても たしかにそうだと思うくらいです。悪友どうしなら かっこうつけるなよと応答するのが 落ちです。そして 本能を持ち出すのでしたら 本能というのは こちらのほうの場合に合っている。つまりそのようなけんかもするが和気あいあいの情況のほうが 本能にとっても ふつうであり 合っていると思われます。 問題は 《WA》という響きが 頭の上から 縦の関係において 降りて来る場合です。これは 意識していないでしょうが もしそのように意識していないとすれば ますます マインドコントロールによるしわざであると断定したい気持ちに傾くのです。 《和》は大事ですが 誰かが 頭のてっぺんを超えた上から――ちょうど 或る日或る時 この地のあたりに 一本の線を引いて 内側は わが領土 外側は 外国である よく心得たまえと詔勅(みことのり)が降りてくるごとく―― 《貴しと為せ》と言われても 言われたから 和が貴いのではないではないかと 反発するのが むしろ ふつうです。国境も どちらかと言えば 悪でしょう。共生・共同自治にとって そもそも 個人としての人間のへそ曲がりに発しているでしょう。
3.の内容を理解する事が、まず重要なようですね。これはいわゆる(私の場合は王様などではないですが、いわば)逆鱗に触れるということでしょうか。それに対して、お互い遠慮するのはあとあと具合が悪い(5.社会的な関係性は保たねば成らない)という理由から実のある対応をしたいということなのですね。 この「逆鱗」は相手に100%原因のある”いわれのない”不快感であるので、感情もあらわにしてそのトラブルを押し付けてきた相手に対して怒らねばならない。そんな行為が許されるかどうか?これは道徳規範には反しているだろうが、それは以前のスレで愚の骨頂だと論破したから大丈夫だろう、というご趣旨ですね。 やっぱり実際上はまずいのではないでしょうか。社会的な関係性はおおむね質問者様の否定される道徳規範でなりたっているものですから、それだけで相手に倫理的に貴方が悪いとする口実を与え、少なくも社会的関係性は壊れてしまうと思います。 貴方の方法が人間として正しいかどうかは分かりませんが、これについても個々の価値観で左右されますからなんともいえないと思います。 余り深みのない回答には成らなかったようです。間違った解釈だったら申し訳ありません。
補足
amazo007さん ご回答をありがとうございます。参加してくださって ありがとうございます。 少し 考えが 変わりましたことを まづ お伝えします。 ○ 必ず 相手を問い質すかと言えば そうでもなく 問い質すことについて 躊躇をするようであってよい。 ☆ とも考えるようになっています。 一つひとつについて お応えしてまいります。 ★ 逆鱗 ☆ という言葉 もしくは その言葉の持つ過激な感覚 は持っていませんでしたが たしかに そのようであろう?と 問い質されると どうも そのような感覚をさえ 伴なうかたちを 想定していたようです。 ★ この「逆鱗」は相手に100%原因のある”いわれのない”不快感であるので、感情もあらわにしてそのトラブルを押し付けてきた相手に対して怒らねばならない。そんな行為が許されるかどうか? ☆ おそらく このような内容になるのだと認めざるを得ません。 ★ これは道徳規範には反しているだろうが、それは以前のスレで愚の骨頂だと論破したから大丈夫だろう、というご趣旨ですね。 ☆ これも そうなりますね。 ★ やっぱり実際上はまずいのではないでしょうか。 ☆ これについては はじめに触れましたように 《まずい》とまでは行きませんが 《躊躇があってよい》とまで 譲歩するように考えが変わりました。 ただし その理由は 別であるようです。 ★ 社会的な関係性はおおむね質問者様の否定される道徳規範でなりたっているものですから ☆ これは 真っ向から 反対したいと存じます。なぜなら 存在・その自然本性・その内の特に 意志という行為能力に すでに 一人ひとりが 独立した意志判断をおこなうという個としての性格とともに 同時に 関係性が あるという仮説に立つからです。 意志行為は 社会行為として その基軸は 人間関係です。相手との関係が 正・負の向きをもって 互いに 決まるでしょうし そのとき 好きも嫌いも 思いやりも憎悪も 基本的に 互いを結ぶ《愛》として 現われる。この意味で ○ 社会的な関係性は 決して 道徳規範によって成り立つのではなく 人間存在の自然本性に潜在しており その意志という行為能力のふつうの発揮において すでに 現われる。 ☆ という仮説を提出したいと思うからです。 ですから ★ それだけで相手に倫理的に貴方が悪いとする口実を与え、少なくも社会的関係性は壊れてしまうと思います。 ☆ という筋でのおそれは 起きないと考えます。 ○ 倫理的に相手が 悪を内容とする自己表現をおこなったと 相手に わざわざ 気づかせることをしてしまう。 ☆ ことについて 考慮するなら 《躊躇があってよい》という立ち止まりが出て来るという見解内容です。どうでしょうか。 《躊躇があってよい》という或る種の譲歩は けっきょく ――道徳規範では必ずしもなくて――常識が 長期的に見るなら 少しづつ あるいは どこかの時点で一気に 変わるという展望を持つことも 必要だという意味です。これは hakobuluさんのご見解にすり寄ったかたちですが ここでも 往生際のわるさをむしろ誇るならば 基本は その場で・その現場で 直接に 問い質すことが いちばん適当であるという考えです。 ★ そのトラブルを押し付けてきた相手に対して怒らねばならない。 ☆ というのが 根拠です。そうでないと 和を乱されても いいですよ。だいじょうぶですよと言っていることになりませんか?
- hakobulu
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#11です。 お手数かけました。 なるほど、よくわかりました。 全体的に検討しつつ、自分の意見としてもう少し整理してから改めてご返事させていただくつもりです。
お礼
ひとつ 気がついたことがあります。 ○ こちらの自分の内面に起きた悪によって 相手が 傷つくことはないとしても いま 問い質すというのは すでに 相手が 何らかの悪を内容とする自己表現をおこなったと 疑っているわけですから もし問い質したなら 相手は その自分の悪によって 傷つくことになる。 ☆ これが 実際の情況であるように 知りました。 ○ あやまつなら われ あり。 ☆ と相手が 気づくということになります。それを こちらは わざわざ 促した結果となります。 とは言っても もともと その悪が生じているのではないかと いぶかったところから 出発しているので たしかに その悪のことを 相手に おしえる もしくは 気づかせるというのは やはり はじめの目的であったと言えば それまでなのですけれど。 さらに つけ加えるならば そもそも 悪が その相手の自己表現の中に 含まれているのではないかという疑いは 最初に その表現を聞いたときに すでに 知覚によっても 勘づいていたそのものであるとも 考えられます。最初の知覚によって えっ? などのやはり疑いとしての反応を 示していたことも考えられます。 だとすれば その最初の疑いを あとで 言葉の表現をとおしても 互いに 再確認するかっこうとなるだけなのかも知れません。 ただ 悪を起こしてしまったその相手は 恰好悪い もしくは はづかしいと感じる。または ばつの悪い感じを持つ。でしょうね。そのとき こちらは いぢ悪ということになります。 大きくは ○ マイナスの善は その埋め合わせが 必然的に 必要となる。 ☆ という方程式のような事態であるように考えられます。 これを 避けることを もし道徳規範が命じているとすれば やはり おかしいでしょうね。常識は もっと 広く おおらかであるように(もしくは そうあってよいように) 思われます。
- hakobulu
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自分の考えを整理しているところですが、もうひとつ確認させていただきたい点があります。 > 1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。 :とのことでしたね。 ===== 私はあり得る、と思うわけですが(このことに関しては「悪は存在しない」にも関連しつつさらに述べたいと思っていますが)、ひとまずそれはさておきます。 ===== そして、 >こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えます。 :とおっしゃっておられます。 お聞きしたいのは「こうして」でなければ、つまり仮に、 「ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ある。あり得る。」 とするならば、問い質すのが普通ではないとお考えになる理由を教えていただけないでしょうか。 おっしゃっていることを理解する手がかりになるような気もするので。 お手数をおかけしますがよろしくお願いします。
お礼
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 お答えします。 まづ 趣旨説明の中の ☆☆ こうして ☆ は 《(1)が 成り立つと考えられるゆえに》を意味します。 すなわち 《ひとは 外から来る悪によって 心が傷つくことはあり得ないので およそ コミュニケーションにおいて 自由に 話題をえらんでよいし 自由に 自分の考えを述べあってよい》という考えを得るという意味です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ お聞きしたいのは「こうして」でなければ、つまり仮に、 「ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ある。あり得る。」 とするならば、問い質すのが普通ではないとお考えになる理由を教えていただけないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは ○ 自分の内面に起きた心のゆがみとしての自己表現における悪によって 相手が 傷つくものであるとするならば 問いかけるにしろ 対話をするにしろ 気をつけて そのような《わが悪による相手に対する傷つけ》を起こさないようにしたい。 ☆ この理由からです。 むろん 表現の自由という公理において 一般的には どのように 声をかけようとも 自由であります。 また 必要であれば 一つの側面において 心を傷つけるとわかっていても 別の基本的な側面において 重要なことについては そのことを問い質したりするはづです。 ですが それこそ ★☆ 正しいからと言って ただちにそのまま 何でも 悪を生じさせていると疑われる相手に対して 問い質してよいとも 思われない。 ☆ と 一たん 立ち止まって考えてみるというおもんぱかりは 大事だと思われるからです。 したがって たとえ こちらも 何らかの悪を 別様に 生じさせていたとしても そのこちらの悪が 相手の心を傷つけることはないとすれば 相手の悪の問題について――こちらも その悪が生じた事態そのものには かかわっているからには―― 問い質しても構わない。となる。 こういうところだと思います。
>《常識》では そうではなく 何ごともなかったように 二重言語作戦で対処しているようです。ホンネとタテマエを使い分け――つまりあるいは 《タテマエとホンネの使い分け》という一般的な対人関係の作法と 自分の固有の思想との 折り合いを どうにかつけて―― 世の中を渡るのが 常識となっています。このような回りくどいことを なぜ しなければならないか。> 此処で言う【常識】というのは【世間】とか【社会】とかの次元の話ということですね、それは多分なにか本音と建前を作ることによってうまくいくという経験上からの伝統ということだろうと思います、いまだにそれが根付いているということはその行為そのものがいまだにうまく働く一面があるからだということでしょうね、そしてその行為そのものがうまくいきそうだと後続が思い込むということによってそれが継続されていくということでしょうね、多分その理由は直接怒りを吐くという行為そのものがトータル的に損をする可能性があるので控えるということだと思います >このような回りくどいことを なぜ しなければならないか。> まずそのことに対する疑いをしないことでしょうね、ご自身のようになぜそうしなければならないのか?ということを疑問視し現社会と照らしあわせて無意味なもしくはどうでもよい行為であることを辞めようという思考が働かないことでしょうね、二つ目にはその行為そのものを辞める勇気がないということでしょうね、その行為をやめることによる処罰を怖がるということだろうと思います、処罰を怖がるということは処罰をしそうな人であるという対人認識が沸くからだろうと思われます、つまり相手の心情を気遣って読んでみると相手はその行為を辞めたとたんにあまり良い方向へは行かない(キレたり、怒ったり、不愉快な目に合わされたりetc)だろうという読心をしているということです、それが民族になると雰囲気ということになります、人間には民俗無意識というのが存在していてそれが社会心理を引き起こすゆえんであると思われます民俗無意識が存在する限り集団的な形成をした時点で無意識的に雰囲気に飲み込まれるということが起こりえます、そういう意味では雰囲気に飲み込まれる方が自然だと思います、つまり人間には民俗無意識が存在するので雰囲気に流されない行為を起こすと処罰されるだろうという不安が沸くというのがおそらく社会心理ということだろうと思います、そこに【問い質す】という心理的変化が起こらないということだと思います、なので >最初の現場で 直接 相手に 問い質しておくのが いちばん 適切な和のあり方です。> というのはそれが適切な和であるからそのように問い質すという認識が出来ていない和の場合和にならない可能性の高い賭けになってしまうということだと思います >《常識》は わざわざ 回りくどくしており それだけではなく 被害を大きくしています。> これはそういう場合もあるということになると思います、これは物理的な話で回りくどくした結果であるのでその結果が必ず被害を大きくしているかどうかは現象論もしくは発生論といった物理的変化に大いにゆだねられることになると思います。
お礼
TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。全体として TENNTENNSEVENOKさんの考え方を 奴隷の思想と言います。核の笠のもとで 自由を謳歌するというやり方です。 奴隷の自由を排するのではなくては 哲学は 始まりません。 世間の知恵として 世の中を泳ぐすべについて もしくは そのすべを 後生大事にこうべに頂くことについて 説教しても 哲学は 始まりません。 ありがとうございました。
ようは外界世界に対する刺激そのものには悪は無く、刺激で心理的に変化は起こすが悪そのものは外には存在しないといたいわけですよね そうならばまさにその通りです。 >こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう?> これはなぜそう思われたんですか?
補足
TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。 ★ ようは外界世界に対する刺激そのものには悪は無く、刺激で心理的に変化は起こすが悪そのものは外には存在しないといたいわけですよね ☆ ややこしいですが わたしの見方を 細かく 説明いたします。 ★ 外界世界に対する刺激そのものには悪は無く ☆ 外界世界からやってくる刺激は それが たとえ 悪(つまり その相手の人の心のゆがみ)に発するものであっても みづからに 歪みを覚えるものでなければ 心が傷つくことはない。あり得ない。というものです。 ★ 刺激で心理的に変化は起こすが ☆ そのとおりです。おっしゃるとおり 《知覚としての心の動き》 そういう意味での《心理》は 反応を起こし 変化を起こします。言いかえると 心(意志・精神)が傷つく原因は 起きていないし 傷ついていないという意味です。 ★ 悪そのものは外には存在しない ☆ これは 逆です。いま 外から来る悪の話が 前提となっています。ただし この一文の意味が 《〈ひとの心の外に 何か〈悪〉と呼ぶものが 独自で 存在していて これが ひとに影響をおよぼす〉という見解を否定している》のであれば そのとおりです。 《悪が 独立して 外在している》という見方は とりません。その外在する悪は ひとが おのれの心に歪みを起こして そのまま意志行為をおこなったときの内容――つまり 悪ですが―― この悪が 社会において その制度やならわしとして 残ったものです。政治ないし外交の延長としての戦争という人殺しは 悪ですが 残っています。 そのように 外在する悪も あると認めざるを得ませんが 元は ひとの内面において 心のへそ曲がりに発する自由意志の振る舞いであるというものです。戦争の中にあって 《人を殺そう。殺してもよい》と意志したならば それは 悪であり それによって 心は 傷つくと思われます。《止むを得ず》という態度をつらぬくなら 傷つくことを免れると思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう?> これはなぜそう思われたんですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 趣旨説明の(3・4・5)において 相手の悪を あたかも 共有していると仮説しました。だとすれば――この悪による心理的なそれなりの被害者であるこちらとしては―― この悪について 相手に問い質すのが 間主観性(=人間どうしの関係性)にあっては ごくふつうのことだという理解からです。 何が何でも《感情をあらわにする》必要はないでしょうが あれっ どうした? と言って 問い質すのは ふつうのことである。つまり そのとき ごくふつうに そのいぶかりから 感情はあらわになると考えます。一般には 友だちどうしの間で そうなると見られますが 相手が 誰であろうと そうなるのが ふつうだという理解です。つまり 《人間どうしであるなら》 という意味です。互いに《隣り人》になるということだと考えます。無関心ではいられないという意味です。 《常識》では そうではなく 何ごともなかったように 二重言語作戦で対処しているようです。ホンネとタテマエを使い分け――つまりあるいは 《タテマエとホンネの使い分け》という一般的な対人関係の作法と 自分の固有の思想との 折り合いを どうにかつけて―― 世の中を渡るのが 常識となっています。このような回りくどいことを なぜ しなければならないか。 みづからの考えを そのまま 述べれば よいではないか。相手の考えを引き出す形で それを述べさせ 互いに 互いの見解のあいだで 調整していけば 何の問題もないはづだ。感情をあらわにしても 何の問題もないはづだ。和を乱そうと思ってなら 感情的にはならないでしょう。 和を乱しつづけている人の場合には 誰かがおこなう和をととのえる行為が かえって うとましく思われ 感情を害され 怒りを爆発させるのかも知れませんが それは 例外です。論外です。 一人の市民が 波を立たせるのは よほどの被害を受けて 和を思ってのことです。それなら 最初の現場で 直接 相手に 問い質しておくのが いちばん 適切な和のあり方です。《常識》は わざわざ 回りくどくしており それだけではなく 被害を大きくしています。(おそらく これも 統治術の一環であるのではないかとわたしは 踏んでいます)。いかがでしょう。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
とりあえず、一点だけ。 「>忌まわしいというのは 自分の非力に対するものでもあるわけです。これが 共鳴しているとすれば 疑似的な《傷つき》体験を持つ」 とおっしゃった意味を私が誤解しているのかもしれませんね。 『擬似的「傷つき」であって、外部からの悪による傷つきではない。』 という意味にとっていたのですが、違ったでしょうか。 「傷つくのは自分が非力であることにも原因の半分はある」 とおっしゃっているように思ったのです。 そこで、(brageloneさんの)この論理の元になっているのは、非力であること自体が悪である、ということになりませんか? ---------------------------------------------- という記述となりました。 詳しくは後日になりますが、この点に関して私が誤解しているようでしたらご指摘しておいていただけるとありがたいです。
お礼
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 おおむね おっしゃっていることが 当たっていると思います。 ★ 『擬似的「傷つき」であって、外部からの悪による傷つきではない。』 ☆ と考えています。したがって ★ 「傷つくのは自分が非力であることにも原因の半分はある」 ☆ とは考えていません。《自己の非力》は悪ではないと考えていますし――すなわち 人間存在にとって 単なる条件であるに過ぎないという考えですし―― したがって 《半分》も何も 《傷つきの原因》にはならないという見方です。 この《原因の半分はある》については hakobuluさんのご趣旨としては 《全体として〔原因となっている〕》という含みで 対応していました。すなわち 次の一文の《そこで》の意味ですが つまり ★ そこで、(brageloneさんの)この論理の元になっているのは、非力であること自体が悪である、ということになりませんか? ☆ の《そこで》の意味ですが これは 二つの側面が どちらも 全面的に はたらいているという含みとして 対応したものです。 つまり 《忌まわしく感じる相手の(=外から来る)悪が 原因となる》のも 《全体として》ですし 同時に 《内面におけるみづからの非力が 悪として 原因となる》のも 全体としてだという含みに 対応したものでした。 最初に 《おおむね》と言ったのは 《原因の半分》というときの《半分》の解釈で 必ずしも 明確ではなかったからです。内在する悪 そして 外から来る悪 どちらも 百パーセント 同時に はたらくという意味に解したものです。 これら両側面の全部を否定する見解に わたしは いまのところ まだ 立っています。
補足
bananasandさん ご回答をありがとうございます。 なるほど。なるほどですね。 そろそろ 出番であるかのように 現われてくださいました。 かなりのことが 全体的に つながって 捉えることができるようになります。 ★ 動性道徳と表現してい〔る〕ダイナミックな帯域の広い領域 ☆ これを そう言えば 今回の途中から わたしも ○ 自己表現 あるいは 自己の表現 ☆ という言葉で 言い表わそうとしています。すなわち この自己表現のうちで ★ 感情というのは、前のご質問で話題にしていた帯域の非常に広い / ところからの出力にすぎないでしょう。 ☆ つまり 冗長になりますが ○ 《自己表現》は 人間の行為にかかわる全帯域における出力である。むろん 感情をも含む。 ☆ と規定するとよいですね。考えてみると ☆☆ 相手が 最初に みづからの心に歪みをもって 自己表現するとき わたしは すでに えっ? とか はぁっ? とかいうふうに 感情表現をもって 反応している。 ☆ という意味合いのことを 今回 言って来ています。 こうして つながって来るというものです。 どうして 今回 このように 感情を それとして 取り上げたか。こう考えてみると どうも 感情は いわば対話の先端かつ尖端を形づくってのように ひとは それを受け取りがちである このような実情からなんでしょうかねぇ。 そのような感情の受け取りに際しての《快不快》にかんして ★ 感情表現なら ともかく、トータルとして60%快が上回っているならもはや / 行動に移ります。ここに感情の機能があります。 ☆ という見方であれば 逆に 不快が 過半数の部分を占めているとすれば 躊躇することもある。一たん 立ち止まって考えてみる。こともありうるのでしょうね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして、だからこそ、ダイナミックでなければなりません。 特に他人の権利に関わる行動は、時間経過に伴って変化する作用、反作用に俊敏さが必要なんだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と結ばれております。《自己表現》の醍醐味といったところでしょうか。 と こう述べて来て 課題がないわけではありません。 ★ (ここで繰り返しになりますが、「人間が存在するところ対立が起こる」を肯定しているうちは、成立しません。) ☆ これです。《理論また理想は そうかも知れないが 現実は どうかな》の問題とからんでいるようです。この問題の説得が つづくと思われます。《狭き門》であるようにも感じられます。やりがいもあるようです。 そして この「人間が存在するところ対立が起こる」説に対しては 《悪は 存在しない》よりも もう一度視点を変えて――つまり そこでは 《存在は 善である》という想定で出発しているけれども この視点を変えて―― 《存在は 善悪を超えている》http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.htmlという切り口での基礎理論も 重要になるようなのです。 ○ 人間存在は 互いの対立を超えた自然本性から成っている。しかも そうであるがゆえに 時には 互いの対立をあそぶ もしくは もてあそぶ傾向を持つ厄介な動物である。 ☆ は どうでしょうか。 ところで ○ 《羞恥心》トリオは そして かれらを受け容れる日本人たちは その社会の中にあって みづからの《自己表現》を全開にする道を開いた。 ☆ という言い方で言って いいですか? * ここんところ 十一時の声を聞くと 就寝の時間にしています。わづかの差で 翌る朝でのお応えになったようです。