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《わたしがわたしである》わたしがわたしする

 1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。    2. もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。    3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。  4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこと(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。    5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。    6. 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イツハリをおこなう。光も曲がる。    7. つまりは 善なる存在は その存在としての善をも損傷する自由のもとにある。    8. ウソが それを 思惟しただけではなく実行したなら そのぶん もともとの(自然本性としての)善を傷つける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。    9. このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。    10. 善が傷つけられた存在の部分ないしその欠けた状態をも 悪とよぶ。悪は 善のうちにしかない。  11. 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在である。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけではない。善がひがみ ゆがむのみ。  12. 人びとの中には やけを起こす《わたし》がいるだけのことだ。  13. 善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へその曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる存在を自治する。自己経営する。    14. 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つまり人間の行為関係を共同自治して生きる。    15. この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集まりとしての共同自治の行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよばれる。悪の共同自治ゆえ。  16. 愛とは 自治である。むしろ自己の愛に発する。自己を愛さずして 愛はあるか。    17. 《わたしがわたしである》わたしがわたしする。のだ。  18. これだけのことであるのに 世の中には――自由意志ゆえに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることがある。  成否・当否を問います。  あるいは (18)以降を ご自分の見解で展開して行ってください。

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回答No.1

俺様を家畜人との暗闘に巻き込む気か。 あんたはキリスト教的猿の反省から罪に関して考えている。 罪を回復するのは誉れであり祝福だ。 善はそれとは違う観念語で、仲がいいのはあくまで悪だ。 西洋において、神を善と表現した答えを歴史から探すと、東洋に由来することになるだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  よく分からない。  《よし・あし》という言葉にもとづいて 定義のようなことをしてみた。  それが 善と悪とである。  それに ウソ・イツハリが 自由存在としての善を傷つけると言っている。そこに 悪が発すると。  つまり 罪だとかの概念を先に前提して 話をみちびいて来てはいない。  というところで よく分からない回答内容だと思います。

その他の回答 (4)

noname#208440
noname#208440
回答No.5

質問者って 解ってないから 回答者に回答をもらうのです・・ それを 講釈つけてのお礼をするのなら 質問者は理解出来てるだけなので 質問は不要なだけなのです・・・ 講釈するのが「堕落性本性」から 来てる事を知り 堕落性本性を取り除けば 見えてくるものがありますよ‥ じゃ( ´・ω・`)ノ~バイバイ

bragelonne
質問者

お礼

 情報交換という規定は 変わりましたか?

回答No.4

真の「わたし(宇宙)」を知るところから始めよう。

bragelonne
質問者

お礼

 始めた結果 どうなりました?  ご回答をありがとうございます。

noname#208440
noname#208440
回答No.3

「私の存在は他人の為」これは 現在を生きる人同士の繋がりだけで無く 祖先も含め 子孫も含めた上の事・・ まっ そんなの どーだって良い・・ 要は「堕落性本性」わ取り除く事・・そうすれば 全て理解出来る・・

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 「私の存在は他人の為」これは 現在を生きる人同士の繋がりだけで無く 祖先も含め 子孫も含めた上の事・・  ☆ 良心・信教の自由にもとづき思想・表現の自由が保証されています。そういう問題ゆえに この・人間存在のあり方をめぐる問いにとっては:  ★ まっ そんなの どーだって良い・・  ★ 要は「堕落性本性」わ取り除く事・・そうすれば 全て理解出来る・・  ☆ これは――同じく思想の自由に立ちつつも―― 内容が妥当ではない。と考えられます。  もし   ★ 「堕落性本性」  ☆ が 自由意志の内にもウソ・イツハリに片向くそういう自由度があるということを言うのならば それは  ★ 取り除く事わ  ☆ 出来ません。《堕落性》は 《本性》ではないからです。しかも その《善の損傷》は おのが身と心とに溜まって来て ほかの人間との間にも芋づる方式でシガラミとなっても行きます。  この状態から足を洗うことは できるようでむつかしい。  全体として善であるわれわれ人間の自然本性にあってその意志自由が おのれの心〔としての善〕にさからって振る舞うことが悪なのですから この悪としての堕落性を取り除くことは出来ません。侵した悪の結果 心と身とに溜まって来たその悪を沈殿させることくらいでしょう 出来ることは。悪に片向く自由度というものは 全体としての自由意志の内に込みとしてついて来ています。  ウソ・イツハリに片向く悪なる自由度をおのれの内によくおさめよく経営することを互いに意志する。これが われわれに出来ることです。共同自治としての愛です。  その上で もし神のおぼえがめでたくあるなら 侵した悪はつねに確かに取り除かれて行くとは思われます。  このことは 哲学を超えますが たとえば次のような観想として 伝えられています。:  ▲ (アウグスティヌス:善悪の彼岸) ~~~~~~~~~  かの全能者は   最初の人(アダムとエワ)からであれ   その後に加えられたわたしたちの意志からであれ   わたしたちに起こっている悪を  その満ちあふれる恩恵によって滅ぼしている。      (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。

noname#208440
noname#208440
回答No.2

「わたし」を強調するのなら その「私」の存在が他人の為って処まで辿り着きなさい・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「わたし」を強調するのなら  ☆ いいえ。《強調》ではありません。存在のあり方についての分析的かつ実践的な了解です。  ★ その「私」の存在が他人の為って処まで辿り着きなさい・・・  ☆ むやみやたらに《人間存在》が 《他人の為にある》という議論は要らないという趣旨になっています。  《わたし》は 他人とは 互いに自己経営する主体として関係しあっていると言っています。その関係(カカハリ)の絶対性を言っています。  独り暮らしとするということは 《独り》でない状態――社会生活――をすでに前提しています。その前提があるかぎりで 人間どうしの関係は 絶対的ですから。  あとは 強いて言えば――《強調》して言うならば―― 存在するわたしは 他人に頼らない。頼らないわたしたちが 互いに助け合う。こういう打ち出し方になります。

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