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愛されたいと思うことに罪悪感が付きまとうのはなぜ?

人として誰かに愛されたい、理解されたいと思うことは当然のことだと思います。 なのですが、私は人に愛されたいと思うことに、ものすごい自己嫌悪・罪悪感を感じます。 「大切にされたい、理解されたい」よりも、「大切にしたい、理解したい」と思えるようになりたいです。 恋愛でも、相手が自分を大切にしてくれるのと同じ大きさの愛を返すことができないと思い、自分から終わりにしてしまいます。 自分の醜さとこれ以上相手を利用したくないという気持ちからです。 素直に誰かを「好き」と言い切れません。 自分の「好き」は、誰かに愛されたいがための歪んだ気持ちなのでは、と疑ってしまいます。 誰かを素直に「好き」と言える人の「好き」は、いったいどんな感情のことなのでしょう? どうすれば、見返りを求めないように異性を好きになれるのでしょうか・・ 変な質問でごめんなさい。

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  • noname002
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回答No.4

早い話、一言で言えば、「欲」ですね。 非常に強い欲、しかも同時に、それを許せないと感じる非常に強い縛りとの激しい葛藤です。 正確には、非常に強いと自分で感じているだけかもしれないのですが、それだけ、何らかの理由で過敏になっているということでもあるでしょう。 たとえば性欲や睡眠欲のことを考えてみますと、抑えようとすればするほど、より強く欲求してしまう。抑えることが、かえって逆効果になってしまう。こういうこと、他でも多いですよね。 自殺でもそういうことだと思います。本当は人生に執着しているからこそだと思います。 最近、ある所で、私が或る人への好意をアッケラカンと表現したことが引き金になって叩かれるという出来事がありました。 なぜ、そういうことになったかという原因については、わりに早くから察していましたが、それは叩いた人自身、自覚しきれていないであろう根強い劣等感と、それゆえ素直に表現できる人への嫉妬心です。 実は私自身、若い頃に、こうした人や質問者さまがお持ちの悩みと同じようなことで苦しんだことがありました。 No.3さまの御意見と基本的に重なりますが、 私の親(特に母親)も、何かにつけて恩着せがましい、言外の重いプレッシャーをかけてくる人でした。本人自身、無自覚だったと思います。 私は肉体面でのハンデを抱えていることもあり、不穏な家庭情況のなかで、病気がちな母が一人必死に頑張っている姿をみながら、その母の私に対する期待や要望に十全に応えられない自分を呪っていました。何度か自殺を図ったこともあります。 生まれつき脆弱な体質で、泥沼のような大人たちに囲まれ、心身ともに、幼い頃から疲れていました。 そういえば、かつて『白雪姫症候群』とかいう本を読んで、思い当たることが多いと思ったこともありました。 社会に出てから、あるとき、初めて自ら強烈に惹かれる人に出会ったのですが、その人は、すでに家庭を持っている人でした。 私は、自分の親も含めて、不倫にまつわる問題を数多く目にしながら育ってきましたので、このことは、よりいっそう自分への嫌悪を強めることになり、しかもなお相手への強い思慕の思いとで引き裂かれそうになりました。 抜け出すまでに予想以上の苦労をしました。 その結果、どんなに自分の理想や思想に逆らうことであっても、自分の自然な気持ちに嘘をつくこと、相手の自然な気持ちを蔑ろにすることが、いかに自分も相手も傷つける大きな罪になるかということを思い知りました。 そして、相手に対する「等価の」見返りを求めていることが、素直な表現への怖れに繋がっているということに気がつきました。 最近の失敗で、私は、無害なはずと踏んでいた自分の自然な感情表現が、それでもなお他の誰かを追い詰めることもあると知り、もういっそのこと、誰に対しても、いかなる場合でも、人形みたいに感情表現を閉じ込めてしまうのが無難なのかと思ってしまうくらいに、また軌道修正を迫られることになりましたが、素直で傷つく、素直でないから傷つく。いかにも難しいことですね。誰かを傷つけることを辞さないくらいのほうが、むしろいいこともあるのかもしれないとまで考えているところです。抵抗感じますが。。。 まず、質問者さまは、「ものすごい自己嫌悪・罪悪感」の正体を暴いてみてください。なかなか難航することでしょうが。 そして、この自己嫌悪や罪悪感が翻って他人に対する狭量さ厳しさに繋がるということ、それがまた自己嫌悪や罪悪感に戻っていってしまうという循環を考えてみてください。 >誰かを素直に「好き」と言える人の「好き」は、いったいどんな感情のことなのでしょう? 等価つまり相手が自分と同じように、いいえ、全く好きになってくれなかったとしても、それでもやっぱり好きなのが、「好きという感情」でしょう。 でも恋愛なんて、とくにそうですけど、自分が好きな人から「好きになって、愛して」という要望を持ってもらえないのって、それこそ寂しくはないですか? >自分の「好き」は、誰かに愛されたいがための歪んだ気持ちなのでは、と疑ってしまいます。 自分が好きな相手から等価のものを得られなかったら、、、という怖れは、それは至って自然な思いでもあるのですから必要以上に自罰的にならないことです。そののちに、なるべく捨てるようにしましょう。でないと自分も他人も苦しくなります。 私は最近、自分への根深い自信のなさと、その反面の欲深さの葛藤のために(こういう人が寛容なはずがない)自分が執着している人と自分以外の誰かが、目の前で、自分の一番怖れていることをやらせようとし、しかも同時に阻止しようとする始末の悪いマゾヒストの葛藤に巻き込まれて散々なめに会いました。恨まれますよ、こういうのって(笑)早くやめてもらわないと! 不自然なことは、すべてをおかしな成り行きにしてしまいます。 自然な自分も受け止めてあげてくださいね。

g0620409
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございます。 たくさん気づかされることがありました。 「愛されたい」欲望を持った心と、それを抑制しようとする頭の葛藤。まさにそのようなことです。 「愛されたい、理解されたい」と思うことに大きな罪悪感を感じる、ということは、逆にそれが私にとってとても重要なことなのかもしれません。 自分の持つ「欲」=「とても悪いもの」という認識があることに気づきました。 また、他人からの愛情や期待には必ず応えないと、という強迫観念も、罪悪感の理由のひとつになりそうです。 愛されるためには同等の愛を与えなくてはならない→愛に応えられる自信がない(愛される資格がない)→愛されることに対する罪悪感 といったようにです。なにかを無償でもらうことに対する後ろめたさとよく似ています。 今まで自分の心(ここで言う欲)を、頭(noname002さんの言う自分の理想や思想)で随分殺してきました。相手も自分も傷つけて、それでも結果的には相手や自分を防御していたつもりでした。 でもこんなに不自然に心を歪めることが、結果的にもいいわけがないということに気がつきました・・ 一番守りたかった人の心を、最悪なかたちで傷つけてしまったようです。 自分の心を受け止めて、愛されたいと思う自分を許そうと思います。 ある人を傷つけてしまった時から、他人を傷つけないように、なるべく感情を殺して人形になろうとしてきました。それが、自分も傷ついたことから学んだことだと思っていました。浅はかだったと今なら思えます。 今なら素直で傷ついたり、傷つけたりするほうが、何倍もましな気がしています。 noname002さんの言葉をうまく理解できていないかもしれません。飛躍しすぎてるかもしれません。 でも本当にありがとうございました!

その他の回答 (4)

回答No.5

お礼をありがとうございます。 曲解どころか、充分に受け取ってくれているものと感じますよ。 お礼に添いながらもう少し補足させて下さい。 > たくさんの愛情が条件付だったかどうかは、正直なところ分かりません。 これは勿論、当然のことだと思います。 お母様も、意図してひも付きの愛情を与えていた訳ではなく、 (無意識だけにやっかいなところもありますが・・・) (能力のあると思っている)自分の子供に期待するのは、 すごく当然のことだと、思います。 “期待”は、ともすれば“要求”に変わってしまい、 “愛情”は“圧力”と感じられて、「うざったく」なってしまいます。 受験期のエピソードからは、このことが感じられますし、 また、“愛情へ義務”という観念が出来上がっていたことを 示しているように思えます、 頭の中の“真っ直ぐな線”は、紙に書いて現実化した瞬間に、 (線の具体的な)厚みと、直線の歪みが表れてしまいます。 裏に“期待”も“義務”も存在しない、“純粋な愛情”も、 現実の場面では、心が揺れ動いて、相手のなんらかの 反応を予測し、期待するものです。 しかしながら、“真っ直ぐな線”を理想としない、 原器の存在しない“直線”は、歯止めが効かないとも思えます。 私見ですが、愛情には、純度があると思っています。 勿論、100%ピュアーの(ヒモの付かない)愛情が、良いでしょうが、 (心の傷の具合によって)それが、できる人は限られておりますし、 まして、他人に“愛の質”を要求は出来ませんので(笑) 前回、ある程度の不純さも愛情だと受け入れては如何でしょうか、 と書かせて戴きました。(これも自分を許すことです。) それと、質問文からも、g0620409さんの完全主義、というか、 オール・オア・ナッシングと云うような、完璧さを求める傾向が みうけられるようなので、100%だけではなく、90%くらいからは、 自分を認めて見ては?というような意味も含まれていました。 > もらった愛情には応えないと、という脅迫観念があるようです。 でも、貴方が貴方の感じている期待に応えなかったとしても、 誰も文句を言う人はいませんよ~、元々無かった約束です、 気軽に破りましょう。書面で約束した訳ではありませんから(笑) だから、ホンの少し勇気を出して、素敵な恋愛をして、 「貴方が、ただ居てくれれば、いい」と、言ってくれる相手を見つけて、 貴方が存在していること、それ自体が、相手の愛情に応えていると 感じられ、信じられることを体験してみて下さい。 きっと、世界が変わって感じられます。 そして、お母様へも“期待”のうしろに在る“愛情”を もう一度、少しだけ視点を変えて見つめ直してみて下さい。 貴方は、充分に愛されて来ているはず、自信をもちましょう。 またまた、長く成りました、 人を完璧主義なんて言っている場合じゃないですぅ(笑)

回答No.3

人は「愛し方、愛され方」を学んで、大人になって行くものです。 違っていたら、すいません。もしかすると、 片親か、それに近い(父親が単身赴任とかの)環境で、育った方かなと想像しました。 「愛し方、愛され方」を学ぶ時、多くの場合、主に母親がその先生で、 母親の(貴方への)接し方、愛し方から、 貴方は「愛し方、愛され方」を、学んできていると思われます。 (ここで、答える必要はありませんが、自分に問いかけてみて下さい。) 幼い頃から思春期まで、お母様は、厳しい方でしたか? 「○○は良い子だから、☆☆(貴方が希望したこと)をしようね」とか 「成績が上がったら、☆☆しようね。」という、ような、 (極端に言えば)ヒモ付きの(=操作する意図を持った)愛情を 沢山もらって育って来たのかもしれませんね。 そして今、貴方は、その自分が学んで来た「愛情」が ニセの「愛情」だったのではないかと悩んでいる、 と云うことではないかと理解しました。 中島みゆきさんも唄っているように、 「真っ直ぐな線」も「真ん丸な円」も現実には何処にもありません、 ただ頭の中に思考として存在するだけです。 同じように、「見返りを求めない本物の愛」も 現実には、大変に困難なものです。 > 自分の「好き」は、誰かに愛されたいがため・・・ > どうすれば、見返りを求めないように・・・ もう少し、おおらかに自分を許してあげることが、 第一番に必要なことだと思います。 誰かを、愛したとき、その愛を受け止めて返してくれることは より愛を深める為のモチベーションを高めてくれます。 逆に言えば、相手からの反応のない愛は、死んでしまいます。 「それも、愛」(←松坂慶子? 世代が…バレル!)なのです。 純粋な愛情を求める感情は、それ自体は自然なことですが、 「自己嫌悪や罪悪感」は、他人(主に親)からもらったモノで、 自分の心に仕掛けられたワナです。 愛されたいと思うことに、罪悪感を感じるのは、 「自信の無さ」の裏がえしです、条件付の愛情だけを学んで来た結果、 条件をクリアしないと、愛情がもらえない(=限定の愛情)ため 無条件では、愛情がもらえない⇒愛されていない⇒自信が無い、 と云うように構造化されてしまっているのです。 愛される自信をもつには、「愛されること」が一番の薬です、 矛盾している言い方かも知れませんが、(程度によりますが) ヒモ付きの愛も愛の一部だと受け入れて、純粋な「愛情」に至る道です。 > 素直に誰かを「好き」と言い切れません。 これも、自分の打算的な部分もある程度許して、「好きだ!」と 言ってみることです。頭で、考えていることでは、問題は解決しません、 実際に、人の愛情を感じてみて、そこから始まるものがあると思います。 長く成りました、わかり難かったかも知れません。スイマセン

g0620409
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 今までどうすればいいのかを考えて途方にくれていたのですが、harrywithersさんのおかげで罪悪感の原因に近づけたような気がします。 今まで、父と母からとても愛させて生きてきたことを頭では分かっていたのに、なぜか素直に受け取れず、反抗期もひどい状態でした。 私がもらってきたたくさんの愛情が条件付だったかどうかは、正直なところ分かりません。 でもそれを素直に受け取れなかったのは、親の愛情に応えられない、という自信の無さのせいだったのかも・・。 受験期に、母の期待に応えられない不安から、いらいらして「私はお母さんに何も望んでいないのに」というような事を言ってしまい、 その時、「あんたが私になにを望むっていうのよ」と返され、真っ青になったことを思い出しました。 私は、「母には何も望まないから、私にも過大なものを求めないで」という気持ちで言ったのだと思います。 しかし「あなたに望まれるものなんてなにもない」と言われ、つまり「愛されていない」ということだと思って青くなったのでしょう。 私の中には、もらった愛情には応えないと、という脅迫観念があるようです。 私が学んできたのは、そうのような、見返りがあって当然の愛、つまり条件付の愛だったのかもしれません。 そしてそんな愛に醜さと疑問を感じていて、それが罪悪感へと繋がっている・・? まだ考え始めたばかりで、曖昧で浅はかですが、大きく見方を変えることができそうです。 他人からの愛情は素直に受け止めようと思います。そして、素直に受け止める自分を許そうと思います。 頭で考えていてばかりでも、進めないと思えるようになったのはharrywithersさんのおかげです。 曲解していましたらすみません。でもとても救われたような気がします。ありがとうございました。

  • katokato
  • ベストアンサー率41% (65/156)
回答No.2

「大切にしたい、理解したい」と思えるのは素敵なことですね >自分の「好き」は、誰かに愛されたいがための歪んだ気持ちなのでは、と疑ってしまいます。  →疑っていけないのでしょうか?一度ゆっくりできるとき、疑いましょう。不謹慎かもしれませんが、自分を知るチャンスです。なぜ 当然愛されたいのか? 自己嫌悪が出るのか 大切にしたいと思いたいのか? わからないから質問されているのでが少し思い返してみましょう。例えば過去にそうして後悔したこと、怒られたこと、または理解したいと思ってよかったこと。または周りのいい人嫌な人を。貴方は過去の貴方の出来事・考え・環境の積み重ねであり、それは良いことで大切なことです。変えられない真実でもあります。 そうすれば↓も少しはわかってくるのでは。 >誰かを素直に「好き」と言える人の「好き」は、いったいどんな感情のことなのでしょう? >どうすれば、見返りを求めないように異性を好きになれるのでしょうか・・ いろいろやった後に、今の自分を受け入れる、好きになる・好かれるということに関して頭で判断でなく、事実を認められるようになれたらいいですね。

g0620409
質問者

お礼

お礼が遅くなりましたが、回答ありがとうございます。 過去の経験をゆっくり思い出して、罪悪感の原因を私なりに考えてみました。 こんなに客観的に自分を知ろうとしたのは初めてな気がします。 私は小さい頃から今までずっと「いいこ」でした。 幼い頃は特に両親や祖父母から、また学校でも「いいこだね」と言われてきました。 その頃から、「いいこでいれば愛してもらえる」というのが確立し始めていたのかもしれません。 でもその裏には、「本当はいいこじゃないのに」という自信のなさ(不安)と、「いいこじゃないとがっかりされる」という恐怖があります。 がっかりされないように、愛されなくならないように、自分のしたいことを我慢して、周りの望むような子どもになろうとしてきたのかも・・ いくつか思い当たる節もあります。 愛されるために自分の自然な欲を抑制して、その欲を悪いもの、恥ずべきものと思い込むようになったのかもしれません。 中学生後半から、私は自分の中に二つの自分を持っていました。比喩的な意味ではなくです。 自分の「欲」を嫌悪していたがために、動物としての欲を持った自分と、それを抑制する自分を完全に二分して、欲を持ったほうの自分を「それ」と呼んでいました。 「それ」の存在が大きくなると、本当の私(もう片方の自分)は消えそうになって、それが怖くていっそ自殺も考えました。 愛されたい、生きたいと思う気持ちは全て「それ」のものでした。 大学生になってからは「それ」の存在を感じることはあまりなくなったのですが、このような経緯で、愛されたいと思うことに罪悪感を覚えるようになったのだと推測しました。 これだけが原因ではないかもしれませんが、かなり真相に近い気がします。 このような過去の積み重ねが今の私なのですね。大切なこと・・だとは思いますが、これは良いことだったと言っていいのでしょうか・・ 回答者のみなさまのおかげでだいぶ前向きに考えられるようになってきました。 誰かを「好きだから好き」なんだと言えればいいなあと思います。 頭で考えるのも程ほどにして、心を外に出してあげようと思います。 katokatoさん、ご指南ありがとうございました!

noname#194289
noname#194289
回答No.1

せっかくそこまで考えているのですから、むしろその異性が好きになるということはその人の子孫をこの世に生み出したいという希望と切り離せないという面からあらためて考えてみたらどうでしょうか。その人の子孫のことを考えられなければ貴方のような罪悪感的なものを抱くのもわかるような気がします。

g0620409
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 その人の子孫のことまで考えたことはありませんでした・・ その人の種の保存の期待に応えられないから、罪悪感を感じるのだ、ということですか? 言葉をうまく咀嚼できていなくてすいません。

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