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茶道と密教 らんぱんうんについて

茶道の作法で、茶筅を三度打ちするときに、 「らん」「ぱん(pan)」「うん」という言葉で調子をつけると聞きました。 千利休が密教作法から採用したと伺いましたが、 どのような意味ですか?出典はあるのでしょうか。 教えてください。 洒水に由来するのならば、「pan」ではなく、「van」の誤りでは?

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noname#96295
noname#96295
回答No.1

真言密教の洒水加持、ランバン加持とおなじ語だと思います。 が、五行陰陽、禅の教えとも結びついているはずです。 不浄におけるもてなしの心得であると同時に、 小さな空間で宇宙的真理に対峙するような知恵が集約されているのではないでしょうか。。。 以下だけにはとどまらないと思いますので、完全な答えを得るのは難しいと思います。 らん・・・火蓮・・・六根(眼耳鼻舌身意、色声香味触法を感ずるところ)を清め、無(先入観のない自在な状態)にするように。 ぱん・・・水華・・・清水が湧くように、水火不散、水も火も足りて無くならないように。 うん・・・吽、風・・・風光を入れて塵をはらい場を清浄に保つように。

gyo1234
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます。 密教の洒水加持にヒントを得たとしても、 それだけには収まるものではないのですね。 茶道の奥深さを痛感いたしました。 ところで、「らん」「ぱん」が洒水加持だとすれば、 「うん」は「おんあみりてい「うん」ぱった」 つまり、軍荼利明王の種字である「うん」の理解で良いでしょうか。

その他の回答 (1)

noname#96295
noname#96295
回答No.2

密教にお詳しいのですね。 > つまり、軍荼利明王の種字である「うん」の理解で良いでしょうか。 さあ、どうでしょうか。そうではないように思いますが。 真言の阿吽の吽と考えるほうが、茶道の体得し心得するところにかなっている気がします。 吽であるとすれば、空海の仏典解釈に何か拠り所があるかもしれません。 とはいっても、茶道は方位に関わるところがあるので、南方に軍荼利明王の水杯の恵みを仰ぐところもあるのかもしれません。 「その第二には、点前には精神的の意味を含むことであります。たとへばお茶をたてる前に茶碗にお湯を汲みいれて、茶筅をとって、茶筅をお湯に通す茶筅通しという所作があります。これはお茶を点て易いように茶筅の穂をお湯で和らげる事、さらに茶筅の穂が折れていないか、確かめる、この二つの目的を持つて居りますが、この外に湯水をきよめるといふ精神的の意味があるようであります。これは佛教に由来する思想のように思はれますし、また一面として風情として取り入れられた所作であります」 すでにお目通しのことと思いますが、千家ではじめて作法のすべてを文字にあらわした千宗佐の文章です。 水を清めること、智慧者のおこなうあそびの開始であることから、たしかに洒水加持の水にあらわす濁りのない智によく通じています。 ただ、利休は仏尊の種子を唱えることは考えにくいです。 帰依を誓う言葉も利益を尊ぶ言葉もなしに種子を唱えることに意味があるでしょうか。 私にはそうは思えません。 利休は、五輪塔やタットラに見られるのと同じ、五大思想に、梵語のらん、ばんを学んだことと思います。 洒水加持と根本の思想が同じであるとしても、茶室の中での絶対者は利休自身でありますから、 仏尊にあやかるところがあったかどうかはなんともわかりません。

gyo1234
質問者

お礼

お礼が遅くなりました ありがとうございます。 密教の洒水加持では、 通常、「らんばん」で水をかき混ぜて、 「おんあみりていうんぱった」と唱えながら、 散杖という長い棒で水を十方に飛ばして、浄めます。 「らんばん」と「おんあみりていうんぱった」はセットです。 おそらく千利休はこの作法を取り入れたので、 「うん」となったのではないかと思ったのです。 茶道の奥深さ、おもしろさがamaguappaさんの おかげで少し垣間見ることができました。 ありがとうございました。