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密教

密教 空海の思想 密教は実践する宗教で理論とかではない文章化されない 直接 師匠から弟子に口伝されていく 要点としては タントラ 女性原理を重視されて結びついて解釈される(哲学や書物や妄想ではないこと。大宇宙の神秘) 性的な技法をもちいることが多い 絶対にあんな修行をしてはならない あまりにも危険だ 意思の弱い者は用意ではなく暗闇もって深く落ち込んでしまう 危険のともなう修行とも言われている それじゃぁ、風俗や歌手やダンサーとかにならなければ救われないのでしょうか?

みんなの回答

  • rewon
  • ベストアンサー率28% (46/162)
回答No.14

仏教における密教、 イスラム教の神秘派、 キリスト教のグノーシス派など、 どの宗教にもあるオカルト担当集団。 結局は霊能力開発をして 神や天使から真理を聞き出したい人々。 各集団に性的秘儀が伴うのは、 クンダリーニ開発が霊能力開花の近道 と言われているからでしょう。 クンダリーニ開発、個人的に探求する人はけっこういて ググるとたくさんヒットしますね。 闇雲に上昇させると暴走して発狂するなどと言われています。 オカルト(隠された、という意味)なのに 大っぴらにやっていたのがオウムですねw どちらにせよ、救われるのは悟るしかなく、 密教は悟るための一手段に過ぎないと思います。

sarasuva
質問者

補足

オウムとは違う感じがする 結局はその独りよがりなりの智恵が凝縮されて、最終段階、クライマックスてきな感じとみてます。 地に堕ちるのも天に召しあがれるのも自己責任?

noname#156094
noname#156094
回答No.13

密教の本質とはそんなに難しいものなのでしょうか。 外側から見れば複雑怪奇かもしれませんが 本質そのものは複雑でもなければ怪奇でもないと思います。 密教の精髄を仰ぎ見れば 「加とは如来の大悲をいう、持とは衆生の信心をいう」 「欲に対して利しながら済度し、真智を与え涅槃に送る」 上の文に教えは尽きているともいわれています。 前文は、絶対他力の有効性を示し、後文は大悲に基ずく方便の働きを示しています。 前文における問題点は、信心という謙虚さを、いかにして得ることができるかだと思います。 仏の前に身を投げうつことができるかどうか、という事です。 後文における問題点は、現世利益というものをどう捉えるかだと思います。 欲願の成就が、そのレベルだけで終わってしまうものなのかという事です。 以上の事柄は、向上門の衆生に於けるだけではなく、向下門の行者にとっても大きな問題点だと思います。 簡単に言えば 信じることの大切さと、救いだけで終りにしてはならない、という事です。 密教といえば、即身成仏とかいいますが、この辺の解釈も様々なものがあります。 確かに言える事は、「信」なくしては成しえないという事です。 修法の面では六大一実の体という意密であり、一般にはそれ以前として如来への帰依という信心が求められる事だと思います。 密教は読んだだけでは分からない、というのは本当だと思います。 実際に修法を行う行者に接して、教えを受けて分かるものなのでしょう。 優れた行者であっても、如来の大悲を説かぬ者、大悲の体現者でない者は、本物ではないといった感じがします。 これだけは心に留めておいてください。 あとはどのように密教を学び、解釈しようとも自由です。 ご参考にしてください。

sarasuva
質問者

補足

>本質そのものは複雑でもなければ怪奇でもないと思います。 そうですね。寧ろ正統派(腐りにくい)、品格は別格。根本は象徴的でシンボリック的なイメージが強い。(美的感覚に優れ、構成力が強い。) 「いつも本音であり、明快で、謙虚であり、信じて疑わない」 (言ってみれば、後は自己責任) 優れた行者は、下山して能力も高い故に、不老長寿で智恵があり、病も治している。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.12

>>危険のともなう修行とも言われている。 ○その通りですよ。空海の修行は、空海でしかできなかったことですね。 空海は釈尊が菩提樹下で悟りを開いたということ、それを実体験しようと試み、ある程度の成功者となった一人です。 仏典にもあるように菩提樹下の釈尊も悟りに至る過程で悪魔、パピラスマーラとの壮絶な戦いをしています。知恵の力で悪魔を退け、宇宙と一体となって、始めから(あ:アルファ)終わり(ん:オメガ)までの全ての事柄を映像として、知識として体得したのですね。 後代の空海はその追体験を試みたのですね。釈尊はバラモン教や拝火教などの儀式を退けたことは有名なことですが、空海の時代にはごっちゃになっていましたね。また、悪魔との戦いのための知恵が形式化され知恵の利剣として金剛杵などになっていたのですね。 空海は釈尊の悟りの一部を実体験すると同時に、釈尊の教え、「上求菩提・下化衆生」も実践してますね。 「下化衆生」の実践として、土木知識で満濃の池を作り、衆生を干ばつから救っていますし、大学もつくっていますね。空海は現世利益を求めたのではなく、仏の道を歩む者がすべき、救済、慈悲を行なっただけですね。これが空海の即身成仏ですね。空海は天才でもあり、仏法も十分に学び、体も精神も強靭であったので、霊的な体験にも耐えられたのでしょう。空海以後誰一人として空海の域に達していませんから、即身成仏は空海一代限りのものですね。 悟りの道には悪魔との対決は必然なのですね。だから生半可な知識と精神力では、皆悪魔の手中に落ちてしまうのです。現世利益は悪魔の手段ですから、現世利益を求めるところに空海の真言はないですね。 空海がそのような闇に落ちたわけがないですね。現在の密教は、天台宗に対抗して密教を広めようとして現世利益を持ち出した覚鑁あたりからでしょう。当然、 覚鑁は悪魔の手中に落ちてますね。 密教は悪魔と紙一重の修行ですから危険なわけですね。現在はほとんど悪魔教となりはてていますね。 まあ、一般人が密教で救われることはありませんから、密教に染まって死後、悪魔や悪霊になるぐらいなら「風俗や歌手やダンサー」のほうがまだましでしょうね。 生半可な知識は大怪我の元ですね。

sarasuva
質問者

補足

密教は知識で教えるものではないでしょうね。多分知識ではないような気がします。知恵。実践経験による智恵。頭がものすごく良く頭の回転もずば抜けて鋭い。運動神経、体力や精神力はおっしゃる通り強靭でなくてはならない。(女を救う教え)絶えず苦しみに耐えなければ救われないと言う教えではないけど、独特な思考でセンスも良い。(宝塚とかス☆゜イのレベル) >空海以後誰一人として空海の域に達していませんから、即身成仏は空海一代限りのものですね。 イャ‥いる。 夢を現実に叶える(一途に極めていく作業)が密教何でしょうかね?

回答No.11

金剛杵や独鈷、即身成仏の質問があるので、答えます。 金剛杵や独鈷はどちらも古代インドで実際に使われていた武器(のミニチュア版の模造品)です。日本の槍(やり)みたいなものです。 で、これで何をするかですが、修行者の欲望・煩悩、つまり修行者を悩ませる悪魔を金剛杵や独鈷で打ち砕くという宗教的・修法的な意味があります。まぁ、密教特有のシンボリズムですね。 蛇足ですが、密教の仏たちの中には手に武器を持っているものがいますよね。たとえば不動明王や文殊菩薩は剣を手にしています。これは、これで衆生の欲望・煩悩、悩みなどを断ち切るという宗教的な意味を持っています。グンダリ明王は、三叉の槍を持っていますが、これで修行者、衆生を悩ませる悪魔を調伏する、やっつけるという意味があります。 即身成仏ですが、難しい教義的な話は抜きにして、これは「煩悩を持った人間の状態のままでも仏の境地を得られる」という思想です。もっと簡単に言えば、仏陀と同じ言葉を話し、同じ心を持ち、そして同じ行動をとることができれば、それは仏陀といえるのではないか、という考え方です。密教・真言宗の行者が口に真言(仏が話した真実の言葉の意味)を唱え、心に仏の姿などを思い描き、仏と同じ印を結ぶ(これを三密加持といいます)のは、仏を追体験するためです。

回答No.10

No.6にある回答の補足質問に答えます。 >密教者にもよって修法も違って、信者も選ぶ好みもあるようです。 基本的に密教・真言宗では、密教の修法の選択権は、信者・修行者にありません。 正式な修法では、目隠しをした状態で金剛界もしくは胎蔵界のマンダラにバトミントンの羽根のようなものを投げる、もしくは落として、羽根の落ちた諸仏・諸菩薩・神様と修行者は関係性を結びます(これを結縁灌頂という)から。 もっとも、現在は、真言宗の僧侶は教育課程というか修行課程が定まっていて、真言宗の僧侶として最低限学ぶべき修法を一通り修得しているようです。また、真言宗の修法と言っても、膨大ですから、空海のようなスーパーマンならともかく、ふつうの人間ではとても一人ですべてを学び尽くすことは不可能です。 ただ、入唐以前に空海が求聞持法(百万回その真言を唱えると、一度聞いたことは忘れないという法門)を修行したように、得たい目的・現世利益に応じた修法があるのも事実です。 >師匠から弟子に名前を貰える人と貰えない人の違いは何でしょうか? 正式に密教の修行に入る儀式(結縁灌頂)を受けると、出家者であろうが在家者であろうが、名前をもらえるということになっているようです。もっとも、亡くなって、仏教のお葬式をあげると、誰でも法号という仏弟子の名前をもらえますが… >密教は団体とか集団体勢ではないので、口伝が多いと思います。 「密教は団体とか集団体勢だから口伝が多い」というよりも、真言密教は三密加持と言って、印を結び、頭の中で諸仏・諸菩薩を描くなどして、真言を唱えることが修行法ですから、師匠から手ほどきを受けなければならないのですよ。お経には大まかなことしか書いていないので、それだけを読んでも実際の修行はできませんから。ということで、印の結び方とか、頭の中で何を描くかなどの具体的な指導を師匠から受ける必要があるため、自然、師匠から弟子へのマンツーマン指導となります。密教の秘密主義(そうした面もありますが…)からこうしたことが行われるわけではありません。 >密教では大日如来が中心の仏で、(仏の数が多彩で、たくさんの仏を必要とします)教えも独特であるような気がします。 密教の大日如来は奈良の大仏であるビルシャナ仏(法身仏・究極の真理を仏様と表現したもの)と同じ仏様です。ということで、大日如来は密教独自の仏様ではありません。 また、密教は仏や菩薩の数が多いと驚かれているようですが、密教以外の大乗仏教でも仏や菩薩の数は膨大な数に及びます。なので、これも密教独自なものではありません。ただ、密教では、仏や菩薩にはそれぞれ役割(大日如来の徳性)が与えられているのが特徴といえば特徴です。そのため、目的、現世利益に応じて祈祷する仏、菩薩、神が変化します。 密教の教理は、基本的にインドの大乗仏教の二大学派である中観、瑜伽行派の教理の上に成立していますから、特に変わった教えが密教にあるわけではありません。あくまで基本にあるのは空の思想です。 たぶん、密教が他の(大乗)仏教と違って見えるのは、現世を重視し、現世利益を説くところ、そして、その修法の特殊性にあるのでしょう。 釈尊の仏教は現世の欲望を否定するところから始まっていますからね。なのに、密教は現世、現世の欲望を肯定している。確かに矛盾といえば矛盾です。しかし、これも大乗の空思想からすれば、これは矛盾でないとも言えます。大乗の空の論理に従えば、聖=俗、不浄=清浄、迷い=悟りという図式が成立するからです。この論理は詭弁といえば詭弁なのですが、この考え方は大乗仏教で広く見られます。 また、現世利益は本格的な仏道修行の入り口として説かれたもの、つまり方便とする考えもあります。日本の真言宗では現世利益の護摩を外護摩、悟りのための護摩を内護摩と呼んで区別しています。やはり、現世利益を説くことにある種の後ろめたさを感じているので、区別しているのでしょうね。 私は(真言宗の)僧侶でもなければ、仏教の研究者でもないので、とんでもない誤解があるかもしれませんが…

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

へえ(初めて、伺いました) 「~にならなけらば、救われないのでしょうか?」 ・・・へえ

回答No.8

密教は基本的に実践の宗教です。密教以前の仏教、いわゆる小乗仏教(上座部仏教)、大乗仏教ともに悟りに至るまで無限と思えるほどの長い修行の期間を経た後にはじめて悟りに達するとされていますが、密教はそうした修行の段階を踏むことなく一気に悟ろうとする修行体系です。このため、性的な修行であっても、密教ではそれが是認される側面があるのは事実です。密教的な論理にしたがえば、真言宗の理趣経(りしゅきょう)で説かれているように、究極の真理の観点からすれば、たとえそれが性行為であろうとも、この世のあらゆる存在は本来清らかなもので、何ら否定されるべきものではないとされていますから。 しかし、こうした見方、考え方は、無差別の、悟りの世界から見たものです。「(性的な)欲望にとらわれなければ」という括弧付きの話です。この点が重要です。密教は決して無条件に性的な修行を是認しているわけではありません。空海の立場もこれを踏襲しています。 また、タントラなどのいわゆる左道密教の経典に書かれている性的な表現は、真理を象徴的に、シンボリックに表現したもので、密教修行者が実際にそのような性的な修行を行ったわけではないとする説もあります。そうした性的な表現を誤解しないように、インドでは、中観・唯識などの仏教思想に精通した後に、はじめて密教的な修行に参入する資格が与えられたともいわれています。後期密教の影響を強く受けている現在のチベット仏教を見ると、このことが理解できると思います。チベットの出家者は、現在の日本の僧侶とは異なり、妻を持つこと、つまり妻帯は禁止されていますし、実際に性的な修行を行うことはありませんから。 もっとも、インドの後期密教はヒンズー教のシャクティ派の影響を強く受けているので、インドで後期密教の経典に書かれた通りの性的な修行を行った人がいたのも、そうした宗派・教派が存在したのも事実です。また、日本においても、鎌倉時代に成立した真言立川流とよばれる一派は「これこそ空海の本当の教えだ」と主張し性的な修行を取り入れていたと言われています。ただ、立川流は江戸時代に強い弾圧を受け、現在、伝わっていませんけれど。 要するに、過去、現在を通じて、性的な修行法が密教・真言宗の修行法として主流になったことはありません。

sarasuva
質問者

補足

性に溺れてたということでもないと伺えるし、密教は凡人では非常にわかりにくいことのようではあると思います。だから、奥深く謎であり秘密めいている。(非常に恐れ深い…)文章として出てこないのです。(文章で表現することは安っぽくなってしまうからです)ですから密教を理解するためには「絵」として表現される世界観ではあると感じます。

noname#156094
noname#156094
回答No.7

頼富本宏師によれば 密教を、広義の密教、仏教レベルの密教、真言天台レベルの密教というピラミッド的な解釈をされています。 頂点に位置する真言天台レベルの密教は純密とも言われるもので、後期密教とは違ったものだと思います。 仏教レベルの密教を大きく分ければ 密教の初期形態である雑密、純密とも言われる中期密教、タントラという後期密教があると思いますが これらの区別を整理して内容を把握したほうがよいのではないでしょうか。 でないと、後期密教の性的なイメージに捉われがちになってしまうと思います。 空海の伝えた密教は中期密教です。 その中期密教の解釈を基に、後期密教の解釈を試みることをお勧めします。 そこから答えは自然と得られるのではないでしょうか。

回答No.6

質問のポイント、あるいは質問のネライがよく読み取れないのですが、「密教で救われるのは難しいのか?」と言うことでしょうか。 そのつもりで、コメントさせていただきます。   東密(空海を起源とするその後、現在に続く真言密教と言われるもの)のでも、他の宗教でも、似た事情があります。 それは、プロ(宗教家)と(信者など)との差は大きく、どの視点で考えるのかということです。 映画、演劇、スポーツなどの場合だと、プロの出演者と観客とを違う視点で考え判断すると思います。 宗教についても、そのように考えた方が良いと思います。 禅宗は、お経や葬儀や祈祷などの儀式とは関係がなく、個人が座禅瞑想したり、師匠から示される問等を考えることで、本人が悟りに至ることと思われています。現状のそのような場合でも、プロはいて、禅でこれから悟りたいと励む人とは、違うものです。   本題に戻りますが、密教では、プロは修法の作法実践者です。信者などは修法の作法をしませんし、経典の読誦や研究もしません、加持の実践も、法具の扱いも関係ありません。 密教でプロになるにも、「師匠から弟子に口伝される」のではないです。 密教のプロになりたいのであれば、話は全然違います。 密教を盛り立ててきたのは信者などですし、現在もプロの人数よりも、信者などの人数の方が圧倒的に多いです。   浄土宗や浄土真宗は、プロになるにも難行は不要、易行で良い、信者などは称号念仏を唱えたり念じれば良いとする宗教です。 現状の密教は、信者などにはそうしたことも日常的な行為としては要求しません。 密教では信者に修験道のような行為を要求することもないです。 プロが行う修法にあわせて、手に印を結び、口に真言を唱え、仏と一体になることを心に感じるように一心になることは必要なこととされますが、難しいことではありません。男女年齢に無関係です。身体障害等を抱えていても、その範囲でやればいいとされます。 タントラ研究のようなことは、信者などには要求されません。 『「密教の御利益?のようなもの」を信者などが受けるのは難しいです』という密教はないはずです。   風俗や歌手やダンサーとかにならなければ救われないということもないし、風俗や歌手やダンサーになっても救われると決まったものでもないです。   信者などの勤めを、密教のプロの修法時にきちんとやれば、それで御利益はあると教えているはずです。 密教のプロになりたい場合は、密教の各派でやり方が違うし、相当にやっかいなことがあります。師匠から口伝されればそれでプロになれるというようなものではないです。   危険なことをしたり、アクロバティックなことができる特別の身体を持っていないと、密教の信者などとして御利益がえられないということはないです。 金剛杵などの法具も信者などは扱う必要がありません。 お守りではないので、持つ必要はないですが、持ちたければ持っていてもかまいません。 経本のようなものは、真言や修法の次第、印のあんちょことすれば、あった方が良いでしょう。 自分で買わなくても、貸してくれるところもあります。   なお、どのようなこと、あるいは、どのような状態を【救われる】と表現されているのかわかりませんが、密教でなくても、カソリックでも、イスラムでも、法華宗でも、浄土真宗でも、天理教でも、救われると信じている、あるいは救われたと思っている人は大勢います。  例外はあるものの、多くの宗教は、人を救うことを目標の一つにしているし、効果があるから、信者などがいるのです。

sarasuva
質問者

補足

密教者にもよって修法も違って、信者も選ぶ好みもあるようです。 師匠から弟子に名前を貰える人と貰えない人の違いは何でしょうか? 密教は団体とか集団体勢ではないので、口伝が多いと思います。 密教では大日如来が中心の仏でり、(仏の数が多彩で、たくさんの仏を必要とします)教えも独特であるような気がします。

回答No.5

 ★(No.4補足欄) まぁ、そうかもしれませんが、滝や山には行ってたでしょうね…  ★ 独特な色彩があります。  ☆ スポーツでも何でもからだを鍛えることに意義がありましょうから それとして分かるようには思います。  密教そのものの解説は 専門の方がおられるでしょうから さらにあかるく成られるとよいと思います。

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