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現実は、虚構であるのでしょうか
現実は、虚構であるのでしょうか? たとえば、東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地であると言う人がいました。虚構を体験できるという現実があるのであれば、現実であっても、虚構に含まれた集合関係のような位置付けができるのでしょうか。つまり、「現実は虚構の一部であると言えるのでしょうか」という問いです。 一般的に、AがBであると言うとき、AよりもBの領域の方が広く、AがBの一部である関係が成り立っていると思います。ですから、質問は、繰り返しになりますが、「A(現実)がB(虚構)の一部であると考えていいでしょうか」という問いです。 あなたが、思いつく虚構の例を示して、できるだけ具体的なイメージを描くように、そして無駄な記述を省き、簡潔に、教えてください。
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再びおじゃまします。#12,13です。 1 東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地である 主語と述語だけに着目します。 主語:東京ディズニーランド:A 述語:遊園地である:Bである 「AはBである。」構文においた場合、Bは虚構ではなく遊園地。 したがって、「現実は虚構である。」はこの東京ディズニーランドの命題からは導かれないと思います。 2 現実は虚構であるのか? 虚構:現実ではないもの。虚構、絵空事、作り話など、創作・捏造されたものや想像上のものを指す。転じて、そのように作られた作品のこと。…Wikiから(一般的説明として納得できます) ・世の中には、お約束ごと とか うそっぱち というものがあります。 ・お約束ごとで動く社会に対して「うそっぱちだ。」とぼやいてみても詮無いことです。 ・やむにやまれぬ現実に対峙したとき「それをいっちゃあ おしめえよ。」とおとなの意見でやり過ごしていたのは渥美清さん扮する寅さんでした。 ・これらは 現実の中に虚構というものの影がよぎる それを目の当たりにしたときの言葉のように思います。 ・質問の主題は「現実は虚構性とどう関係しているのか。」こう言い換えてしまってもいいのではないでしょうか。 ・私たちは現実を生きると同時に虚構を生きているといっていいと思います。 ・例えば 政治の世界 理念上の主義主張、理念上の正義 を能書きにして現実の政治日程を消化しています。 ・株式投資の世界 実体経済とは乖離した投資行為(現実)においては虚構そのものが幾重にも虚構されているのではないでしょうか。 ・日常的にも 私たちは夢とか物語性なるものを生きています。 ・人間にとって現実は無味乾燥の物理現象ではありません。人は物に触れてもの思い物語る動物です。 ・そう考えると「人は虚構(性)を生きつつ 現実を生きる。」と大胆に言ってしまっていいのではないかと考えました。 ・人にとっての現実と虚構(性)は不可分 と結論します。
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- littlekiss
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こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 ANo.33《この回答へのお礼》を読みました。 先日来よりお忙しいところ、ご教示をいただきありがとうございました。 【『現実は、虚構であるのでしょうか』】という質問,問いを投げかけていただいたことで、《何か》がまたひとつみつかりました。『半年複利とは何か?』~『半年複利の現実と虚構とは何か?』を、少し考えてみようと思います。ご質問文とは関係ありませんが、本質問を考えていく中で生まれた私の中の問いです。考える機会をいただいたこと重ねて御礼申し上げます。
お礼
何かのヒントになったようで、うれしいです。 またまた、総括欄に使用させていただきます。 「現実は、虚構であるのでしょうか?」は、単にこれだけだと「偽」とか「否」と回答するのが、正解だと思います。しかし、背景と脈絡を加えると、必ずしも「偽」ではなくなる場合が、あるのではないかと考えました。そのような予想に応える回答をいくつかいただけましたので、大変参考になりました。再度、皆様にお礼申し上げます。感謝です。ただ、現実と虚構がアスペクト変換の関係なのか、分別とか峻別が不可能で浸透し合った関係なのか、もっと違った関係なのか、まだよく見えていない感じです。今後の課題として、しばらく独力で考察を続けようと思います。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
ANo.32への補足です。 ANo.29《この回答へのお礼》の中で ●関西の漫才文化は、侮れませんね。 ↑ と、ことばをいただき、 また、 ANo.32《この回答へのお礼》の中で ●………云々、漫才の方と整合がとれません。 ↑ とも、ことばをいただきました。 ANo.32《この回答へのお礼》の中の最後の一行に ●with~の方は、なぜ添付されているのかよく分かりませんでした。 ↑ と、 うーん、リクエストにおこたえしたのですが… 漫才をご希望かと思い、 《オチ》として措いたのですが…通じませんか? 『おどるポンポコリン』 さくらももこ 作詞 / 織田哲朗 作曲 http://www.fukuchan.ac/music/j-folk3/ponpokorin.html お鍋の中からボワッと=ЗЗЗ お鍋といえば… 石狩鍋 with YOU(石狩鍋復活プロジェクト) ↑ ねぇ、with~でこれもってきたら 北から南まで整合性とれるでしょ? “現実は、虚構であるのでしょうか?”m( _ _ )m おあとがよろしいようで。
お礼
個人的なお礼以外に、この欄を総括的に使わせていただきます。 これまでの回答の中で4点、参考になり、甲乙付け難く、すばらしい導きとなったものがありましたので、すべてに「ありがとうポイント」を差し上げたいわけですが、そうできないことが残念です。無理して、2点を選択しました。なお、本日17日24時に締め切る予定です。皆様、ありがとうございました。(17日夕日の頃)
補足
まったく、伝わって来ないのです。残念。 with~(いっしょ) 「うまいっしょ」でしょうか。 わかりません。
- littlekiss
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こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 ●「このわた(の原料)はナマコである」が、厳密には、 「AがBである」の形になっていないのが、惜しいところでした。 ↑ 形になっていませんでしたか? …(-"-;)ゞゞゞムズ 《厳密》ですか? んじゃ、ことばを補って再度チャレンジ! 水産加工製品である《このわた》は、ナマコの腸を原材料としている。 この原材料であるナマコの腸は、ナマコの体の一部である。 よって、ナマコの体の一部である腸を用いて作られたこのわたは 《ナマコの加工製品》である。 【地産地消 [409頁] [411頁]】 http://gikai.city.isahaya.nagasaki.jp/dsweb.exe/documentframe!1!guest06!!22682!1!1!21665,-1,21665!424!16587!21665,-1,21665!424!16587!21668,21667,21666!1!1!102925!66!1?Template=DocAllFrame with+名詞+過去分詞 http://www.howtoeigo.net/bunshi.html
お礼
再挑戦、ありがとうございます。 >A《海鼠腸(このわた)》がB《海鼠(なまこ)》であると言うとき、 A《海鼠腸(このわた)》よりもB《海鼠(なまこ)》の領域の方が広く、 A《海鼠腸(このわた)》がB《海鼠(なまこ)》の一部である関係が成り立っている ↓ >水産加工製品である《このわた》は、ナマコの腸を原材料としている。 この原材料であるナマコの腸は、ナマコの体の一部である。 よって、ナマコの体の一部である腸を用いて作られたこのわたは 《ナマコの加工製品》である。 これでも意味は通るのですが、漫才の方と整合がとれません。 ↓ A《海鼠腸(このわた)》が、B《海鼠(なまこ)の水産加工製品》であると言うとき、 A《海鼠腸(このわた)》よりもB《海鼠(なまこ)の水産加工製品》の領域の方が広く、 A《海鼠腸(このわた)》がB《海鼠(なまこ)の水産加工製品》の一部である関係が成り立っている これが正解です。これだと「成立するやん」(たぶんこんな言い方かな)となり、どちらにしても、漫才の方は破綻してしまいますね。 B《海鼠(なまこ)の水産加工製品》の集合は、「キンコ、このわた、くちこ」であり、AがBの一部になってます。 リンク先を見ました。諫早湾の特産になろうとしているのですね。 with~の方は、なぜ添付されているのかよく分かりませんでした。
補足
お礼欄中の表現ですが、 >「成立するやん」 「成立しとるがな」でしょうか。
- hosiboshi
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この世界は、嘘や夢、幻想の類ではないか?と思うのは恐らく誰もが考えることではないでしょうか? しかし現実は現実だ。 そうとしか考えない方もおられるみたいです。 人生をしっかりと生きれば現実は現実であるとはっきりとわかる。 そうではなく逃げた人生を送っても現実は現実です。 ですから現実は虚構ではなく現実ですね。 と思います。
補足
>ですから現実は虚構ではなく現実ですね。 この言語感覚は、大変正直な、嘘・偽りのない、当然のものと思います。全く正しい記述です。 ところが、<現実>って、本当に現実と言い切れますか。たとえば、学芸会の演劇の役を現実にもらいました。おそらく過去のある人物の役を演じたのは、事実です。でも、その演技中は嘘の世界です。覚えたとおりに現実的に再現しています。上手に、のびのびと演技できたとします。虚構を満喫していたのです。つまり、No.30のお礼欄に書いたとおり、アスペクトなのではないかと思われるのです。いかがでしょうか。
- melloop
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興味深い質問ですね。 あまりものを知らないので論理的な展開はできませんが、 ディズニーランドの例えは置いておき、「現実」と「虚構」の関係について私見を書かせていただきます。 『虚構』 現実ではないもの。虚構、絵空事、作り話など、創作・捏造されたものや想像上のものを指す。 虚構とは現実があって初めて存在する概念なのでは? 虚構は現実がつくりだし、現実が無ければ虚構は存在しないと考えます。 その関係は光と影と同じものだと思います。 とすると、現実と虚構は表裏ではあるけれど、包含関係にはならないでしょう。 二つを集合関係として扱うには無理があるかと思います。
お礼
表裏一体ということは、現実と虚構は、アスペクト変換の関係にあるのでしょうか。 http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/reversible.html 「あひる-うさぎの絵」の場合、<あひる>で見えている時は、その瞬間<うさぎ>には見えていません。同時に見えることはなく、どちらか一方です。 「ルビンの盃」の場合も、<盃>と<向かい合う顔>が同時には見えません。一方のみで、どちらにも瞬時に変換します。 東京ディズニーランドを本気で楽しむ子供たちは、虚構を満喫しているとき、醒めた目で所詮つくりものだよという斜に構えた態度は見せないのと同じことなのでしょうか。本当に、何の疑いも無く、無邪気です。 補足欄を書き終えた後に、思いついてしまいましたので、こちらに書かせていただきます。いかがでしょうか。
補足
関心を示していただき、ありがとうございます。 >現実と虚構は表裏ではあるけれど、包含関係にはならないでしょう。 二つを集合関係として扱うには無理があるかと思います。 常識的には、暴論だ、非常識な言葉使いだと感じられるかもしれませんが、今までの様々な回答を通覧し、その展開を辿ってきますと、記入していただいたように、「表裏」一体、あるいは、「不一不異」なのではないかと思われてきています。スパッと単純に分けられない。虚構=非現実では、かなり乱暴ではないかと。定義って、かなり乱暴な場合があります。そこで、「意味は、使用の中で示される」のですから、虚構という語の使用例を通じて考察してきたところです。ディズニーアニメ、舞台劇、小説、青写真、創造力(構想)、映画などなど。 たとえば、ハンドパワーって、捏造でしょう。この虚構は、でも、楽しいでしょう。このショウは、現実的な体験です。一種の芸術作品のようにも思います。辞書的に、「現実ではないもの」だと何か違う感じがしませんか。いかがでしょうか。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ●「現実は虚構の一部であると《言える》のでしょうか」という問いです。 ●「A(現実)がB(虚構)の一部であると《考えていい》でしょうか」という問いです。 ●一般的に、 AがBであると言うとき、 AよりもBの領域の方が広く、 AがBの一部である関係が成り立っていると思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《一般に》という言葉が先におかれてると、ちょい難渋します。 うん、『酒の肴(さかな)』ならイメージしやすいかなぁーと思ってんけど… 《一般に》って、イジワルくにも言葉があるもんやから 『三大珍味』を(からすみ、うに、このわた)と言うたら、 「他にもあんでぇー」と言われるかもしれんけど、 とりあえずこの場の『三大珍味』は、これで話しすすめます! ☆どんな話やねん? ★どんな話ってなぁ、海の話やがなぁ。 ☆海の話って何なん? ★ディズニーランドやろ。ディズニーランドいうたらミッキーさんやろ。 ☆もしもし、ディズニーランドとミッキーさんと海の話がどないや言うの? ☆あっ!わかった!海の話やから海賊でピーターパンとか言い出すんちがう? ★言いません。ちがいます。ちがいますが出します。 ★人の話は最後までよう聞きや。 ★まだ、 ★「ディズニーランドやろ。ディズニーランドいうたらミッキーさんやろ」←までしか言うてない。 ★それでやねぇ、ミッキーさんいうたらキャラクターやけどネズミさん。 ★海とネズミを漢字で書けば『海鼠(なまこ)』 ★それでもって、『酒の肴(さかな)』とくれば…『このわた』 ★ほら、繋がったやろ。 ☆ホンマや。 ★AとBを…『このわた』と『なまこ』で考えてみたらどないやろ?と ★一般に、三大珍味というときその内のひとつを『このわた』と言うても『なまこ』とは言わんやろ ☆三大珍味というときの知名度は、『このわた』>『なまこ』やねぇ 領域―広い=高い ☆あれ?それやったら質問文の問いと異なるやん、成り立てヘンやん ●一般的に、 A《海鼠腸(このわた)》がB《海鼠(なまこ)》であると言うとき、 A《海鼠腸(このわた)》よりもB《海鼠(なまこ)》の領域の方が広く、 A《海鼠腸(このわた)》がB《海鼠(なまこ)》の一部である関係が成り立っている ★あっ?!ホンマや ★うーん、そしたら、知名度の前提(三大珍味というとき)を変えよ、三大珍味をトル そやけど、なまこって恐るべし生きものやと思わへんか? 人間ではありえへんことや。内臓の一部を体の外に出してくるなんて。 で、しばらく、内臓の一部が無かってもへっちゃら。 数ヶ月したら、無くなった部分がちゃんとできてくるとか。 「ウソやろー!?」と、言いたくなるけどホントらしい。 【計算複雑性理論】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%88%E7%AE%97%E8%A4%87%E9%9B%91%E6%80%A7%E7%90%86%E8%AB%96 【ナマコ(海鼠)】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%BC%A0 【このわた(海鼠腸)】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%9F ↑ ナマコの腸(はらわた) 【くちこ(海鼠子、口子)】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%A1%E3%81%93 ↑ ナマコの卵巣 【無脊椎動物 ― 棘皮動物 ― ナマコ類】 キュビエ器官 http://www.env.go.jp/nature/nco/kinki/kushimoto/kyokuhi/maegaki.htm http://www.neodiving.com/tour/neozukan/sonota/sonota.html 【なまこ学】 http://www.namako.to/namako/namakoindex.html http://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/46-namako.html 【万葉の生きものたち 】 http://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0511_1.htm 【さかなの目(ものしりガイドブック)真珠】 P23(アコヤガイの断面図) http://www.sea.pref.mie.jp/mirainet/monoshiri/04D_sinnjyu.pdf 【『日本山海名物図会』】 http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meibutu/mei5/12.html http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meibutu/index.html 【「和漢三才圖會」巻第五十一 魚類 江海無鱗魚】 http://homepage2.nifty.com/onibi/wakan51.html
お礼
面白い例示だなあと思って、読ませていただきました。 関西の漫才文化は、侮れませんね。 「AがBである」の関係の方のみで、展開していただきました。 確かに、このわた(海鼠腸)は、ナマコ(海鼠)の一部(腸)を加工(塩辛に)した珍味ですから、「このわた(の原料)はナマコである。」わけですが、だからと言って、三大珍味を「からすみ、うに、このわた」ではなく、「からすみ、うに、ナマコ」と言うべきとはならないのです。「もっと、狭く、特定したい」という状況が基礎にあって、三大珍味を明確にイメージさせたいという話者ならば、言葉が広いとぼやけるので、この場合、ナマコを選択しないでしょう。 「AがBである」の関係で言いたかったのは、何かを言及するときには、常に、同等か、あるいは、より大きい集合を持ち出してきて、属させているだけだということです。どんどんと限定し、イメージが狭くなっていくのは、主語の方だということです。その時、連動して述語も狭くできる場合があるということです。 たとえば、鶏は鳥である。尾長鶏は鳥である。尾長鶏は鶏である。オナガオドリは鶏である。オナガオドリは尾長鶏である。 「現実が虚構の一部である」場合、現実が虚構と同じ場合と虚構の方が広い場合があって、「AがBである」の関係と同様と言えるでしょうかという単純なお題だったのです。でも、虚構も現実だとなると、現実も虚構も領域としては、重なっているのではないという疑問です。ここの確信が持てないのです。 P = NP 問題 興味深く読ませていただきました。まだ、100万ドルの賞金がかかっているのでしょうか。いずれにしても、ありがとうございました。
補足
「このわた(の原料)はナマコである」が、厳密には、「AがBである」の形になっていないのが、惜しいところでした。 「ナマコは、棘皮動物である」「ウニは、棘皮動物である」「ヒトデは、棘皮動物である」「ナマコ・ウニ・ヒトデは、棘皮動物である」は同型です。 ただ、これだと漫才が作れませんから、採用できなかったというところでしょうか。
- ga111
- ベストアンサー率26% (247/916)
>「認識」は大事ですが、「認識論」はいりません。 これも言葉の定義の問題になりますが、「認識は大事」と考えられたその時点で、議論全体が広義の認識論になってしまうと思います。たとえば、共感されたようにみえる回答の中の以下の表現で: >視聴者側が、完璧にリアルつまり現実であると錯誤した場合 錯誤した場合=間違って認識した場合 と読み替える事ができます。本主題に直接関連する、現実か虚構か(=ほんとうか、うそか)というのはまさに広義の認識論なのです。 虚構の定義ですが、これが一定していません。すなわち、 虚構=つくりもの、創作作品 から 虚構=つくりもの、創作作品 + 想念とか思索・思弁とか空想 への訂正がごく最近になされています。このような変更が後でなされると、議論が一般には混乱します。ここではみなさんのアドバイスが高級なため混乱していませんが。また私は空を説明したいわけではありません。それは過去に十分説明されていることです。 よって繰り返すと、広義の認識、認識論の話なのに認識論を棚上げするなら、それは最初から自己矛盾した設問であると考えます。なぜなら、ヒトは認識によって現実を把握するのですから。また、なぜなら、これまでの議論は過去の認識論を明らかに超えていないからです。 別の言い方をすれば、「認識論は、哲学の迷宮の入り口で出口のない暇つぶしと思っていますので、扱いたくありません。」という姿勢をお取りになるなら、本問題も解決しないでしょう。
お礼
考えようによっては、「現実(雲そのもの・空の原理)は虚構(雲の知覚像)とどう関係しているか」を探求していくと、主題の例示に繋がるかもしれません。ただし、論理的に破綻しないようにです。認識論も絡めてです。ちょっと無理っぽいようにも思いますが。
補足
今度は、認識論がしたいのですね。 しかし、主題は、現実と虚構の関係をどのように捉えるのかという視点なのです。それ以外は、脱線です。その脱線が、この主題に不可欠の要件であるならば、認識論に言及してもらってもいいのです。しかし、回答者さんのアドバイスからは、その必要性の片鱗も感じられません。簡潔にどのように主題と関わるのか示してください。 揚げ足取りの、重箱の隅つつき的な、ちまちま回答ならば、うんざりです。混乱なんかしてないのです。様々な虚構の例示を包摂しながら、日常言語の範疇で、十分、認識を深めてきているところです。認識論の何を持ち出してきたいのでしょうか。理解に苦しみます。 「雲そのもの」と「雲の知覚像」を区別すれば、前者が「空」に関係し、後者が「虚構」の関係だと分かり、空≠虚構と分かるはずですが、どうですか。
取るに足らない質問ですね。 虚構とは一般的に云えば、現実のうちに、直接あるいは一対一に対応するものを持たない精神の構成物を指します。 他人の質問にケチをつける前にもう少しご自身の足元を固めた方がよろしいのではないでしょうか。
お礼
>取るに足らない質問ですね。 回答者さんにとっては、そうかもしれませんが、「AがBである」という記述の関係と「現実と虚構」の関係において、自分の気付かない視点などがあれば、教えてもらいたいという主旨で問わせていただいています。僕は一般人ですので、この程度なのです。 >他人の質問にケチをつける前に 納得のいかない回答については、できるだけ究明したいと思っています。また、質問者に質問するのはどうかと思います。回答の助けになる助言ならば歓迎します。質問返しは困るのです。ただ、意味不明の記述については放っておけません。 >もう少しご自身の足元を固めた方がよろしいのではないでしょうか。 そういう人は質問しないと思います。
補足
>直接あるいは一対一に対応するものを持たない この修飾部分が分かるような例示をお願いできますか?
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
それでは、認識論ぬきの別の表現でまず「現実は虚構の一部であると言える」 例を示します。 超高性能ヘッドマウントディスプレイにバーチャルな現実を表示し、 視聴者側が、完璧にリアルつまり現実であると錯誤した場合 現実は虚構の一部であると言えます。 この場合、そもそも現実が虚構(バーチャル)でなければならないことと、視聴者の錯誤が不可欠な要素になります。 あくまで、現実が虚構の一部であることの一例であって、御質問は、こんな単純なことを 問うているのではありませんね。 思うに、本例の限界外(つまりバーチャルではないこと、錯誤ではないことの外側)は、もはや人知の知る限界を単純に超えてしまっているので、 そこは、どのようにイメージしても虚構となるので、そこに見いだす現実は、「現実は虚構の一部である」となります。
お礼
大変興味深い内容でいろいろと思い巡らしながら、読ませていただきました。 前半部分を読みながら、映画のマトリックスのことを連想していました。 また、後半部分を読みながら、人知を超える領域は想像を絶していて、虚構ですらないのではないか、あるいは、虚構を超えているのではないかと思っていました。 僕の感覚では、言語は、実在するものも実在しないものも表現できるという、最強手段であり、ゆえに、現実も虚構もある程度、記述可能なのだろうと考えています。ですから、虚構は人知の及ぶ範囲内にあり、人知の外ではないのではないかと思います。 ただ、正直なところ、その境界付近がどうなっているのか、これは高度なテーマで、これだけで多大な時間を要しそうな予感がします。また、そのわりに成果があまり期待できそうにない予感もします。この設問では、ここまでにしておきたいと思います。 ありがとうございました。
No.22です。 そうですね。 ★ 虚構のオリジナリティー(独創性)を尊重すれば、基礎的な現実探しよりも、虚構(作品)そのものを現実として位置付けるという意味で現実を捉えるべきではないかと思いました。 ☆ とおっしゃるとき わたしの場合は ○ 《虚構 そして 特にオリジナリティー(独創性)のある虚構》を生み出す人間もしくはその能力 ☆ これを 現実として捉えていました。そのときには ペガサスや麒麟に対応する基礎がなくても かまわないと思っていました。 となると 落ち着くところは 定義の問題ということになりますでしょうか。
お礼
なるほど、創造能力こそ、オリジナリティー(独創性)のある虚構(作品あるいは単なる思い付き段階の構想でも)の現実的に明らかな基礎となっていると言えそうですね。 「現実(想像力・創造力)は、虚構(作品又は構想)の一部である」という表現は、成立しそうですね。 ありがとうございました。
補足
No.14のやりとりが、いつぞやの「劇」の説明として代用できるかもしれません。単なる演劇ではなく、もっと普遍的な何かを意味させたいという言語使用感覚を込めています。蛇足でした。
お礼
すばらしい展開です。一点の曇りもない、明晰な展開に、ただただ感心しました。現実と虚構との関係が、よく分かる記述です。納得です。 1の「この東京ディズニーランドの命題」は、「現実(東京ディズニーランド)は現実(遊園地)である」であって何の変哲もないことです。簡単に「現実は虚構である」の形が導けないからこそ、設問が奇異であり、しかし、偽と断定できなさそうな予感もあるところを考察していただきたかったわけです。 そして、現実と虚構が、すぱっと分断されているわけでは、なさそうだというあたりが見えてくると、どう絡むのかの例示が色々と展開できてくるのだなあと、分かりました。ありがとうございました。