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現実は、虚構であるのでしょうか
現実は、虚構であるのでしょうか? たとえば、東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地であると言う人がいました。虚構を体験できるという現実があるのであれば、現実であっても、虚構に含まれた集合関係のような位置付けができるのでしょうか。つまり、「現実は虚構の一部であると言えるのでしょうか」という問いです。 一般的に、AがBであると言うとき、AよりもBの領域の方が広く、AがBの一部である関係が成り立っていると思います。ですから、質問は、繰り返しになりますが、「A(現実)がB(虚構)の一部であると考えていいでしょうか」という問いです。 あなたが、思いつく虚構の例を示して、できるだけ具体的なイメージを描くように、そして無駄な記述を省き、簡潔に、教えてください。
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再びおじゃまします。#12,13です。 1 東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地である 主語と述語だけに着目します。 主語:東京ディズニーランド:A 述語:遊園地である:Bである 「AはBである。」構文においた場合、Bは虚構ではなく遊園地。 したがって、「現実は虚構である。」はこの東京ディズニーランドの命題からは導かれないと思います。 2 現実は虚構であるのか? 虚構:現実ではないもの。虚構、絵空事、作り話など、創作・捏造されたものや想像上のものを指す。転じて、そのように作られた作品のこと。…Wikiから(一般的説明として納得できます) ・世の中には、お約束ごと とか うそっぱち というものがあります。 ・お約束ごとで動く社会に対して「うそっぱちだ。」とぼやいてみても詮無いことです。 ・やむにやまれぬ現実に対峙したとき「それをいっちゃあ おしめえよ。」とおとなの意見でやり過ごしていたのは渥美清さん扮する寅さんでした。 ・これらは 現実の中に虚構というものの影がよぎる それを目の当たりにしたときの言葉のように思います。 ・質問の主題は「現実は虚構性とどう関係しているのか。」こう言い換えてしまってもいいのではないでしょうか。 ・私たちは現実を生きると同時に虚構を生きているといっていいと思います。 ・例えば 政治の世界 理念上の主義主張、理念上の正義 を能書きにして現実の政治日程を消化しています。 ・株式投資の世界 実体経済とは乖離した投資行為(現実)においては虚構そのものが幾重にも虚構されているのではないでしょうか。 ・日常的にも 私たちは夢とか物語性なるものを生きています。 ・人間にとって現実は無味乾燥の物理現象ではありません。人は物に触れてもの思い物語る動物です。 ・そう考えると「人は虚構(性)を生きつつ 現実を生きる。」と大胆に言ってしまっていいのではないかと考えました。 ・人にとっての現実と虚構(性)は不可分 と結論します。
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Q、現実は、虚構であるのでしょうか? A、現実は現実です。 「虚構の世界を体験できる遊園地」は、単なる言葉の彩。 ですから、単なる言葉の彩を前提に色々と論理を組み立てても、それは単なる言葉遊び。 現実は現実です。 それ以上でも、それ以下でもないですよ。
補足
>「虚構の世界を体験できる遊園地」は、単なる言葉の彩。 言葉の彩とは、広辞苑では、「ことばを飾って上手に言いなすこと。巧みな言い方。」と書いてありましたが、僕が耳にした「虚構の世界を体験できる遊園地」という表現は、特に飾った印象でもなく、巧みでもなく、「ディズニー漫画(という虚構の世界)で描かれた登場人物や雰囲気などを擬似的に体験できるところ」という程度の意味に理解しているわけです。 >現実は現実です。 これでは、トートロジーです。虚構の世界を擬似的に体験できるという現実があるのであれば、このような現実は、現実でありながら、虚構の現実化でもあり、虚構が現実に浸透してくるようなイメージではないでしょうかという問いだとすると、どのように思われますか。お聞かせください。
- bananasand
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そもそも 自己が、現実ではなく虚構です。 したがって、虚構が虚構を体験しても、虚構が創作した現実という虚構と見分けがつきません。 とはいえ、虚構は現実が構成しているとするのが妥当だと思います。
補足
>そもそも 自己が、現実ではなく虚構です。 自己(自我?)が虚構に限定され、現実ではないということは、現実と虚構を峻別し、それぞれの概念に明晰な境界を引き、共有部分がないという理解でよろしいでしょうか。 >虚構は現実が構成しているとするのが妥当だと思います。 結局、現実は虚構の一部であると言ってもいいのでしょうか。この場合、現実と虚構を峻別できず、それぞれの概念に明晰な境界が引けず、ぼんやりとして曖昧な共有部分があるという理解でよろしいでしょうか。
- バグース(@bagus3)
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人が見たり聞いたりすること、考えること思うことはすべて幻想です。 私たちの経験のすべては幻想です。 人生はまるごと幻想なんです。 人は何一つ知ることができません。 例えば犬を見たとき「かわいい」と思う人、「こわい」と感じる人、「きたない」と言う人、「強そうだ」と言う人などひとさまざまです。 犬は同じ一匹の犬なのになぜ こうなるんでしょうか。 それは人が犬そのものを見ずに、自分が犬を見たときに作り出した犬に対するイメージを見ているからです。 聞いたり感じたりする事についても同じです。 私たちは自分が作り出したイメージの世界からは一歩も出ることができず、 現実を認識するということはまったく出来ません。 このようにしてさまざまなイメージを体験することによって出来上がった自分、 イメージや観念の蓄積体としての自我とはいったい何でしょう。 これもまた幻想です。 そんなバカな自分は確かにここに存在すると誰でも思うでしょう。 しかし自我は幻想として存在するだけで実在しないのです。 例えば空に虹が出ていればだれにも見えるでしょう。 犬にだって見えます。 それは疑いようのない事実です。 でも空に飛行機を飛ばして行ってもそこから七色の物体を 取ってこれるわけではありません。 虹はただ太陽光線が水蒸気に反射して七色に見えているだけです。 自我も人生もあたかも存在しているように思えるのは事実ですが、それらはすべて幻想であり実在しません。
補足
ご回答、ありがとうございます。 >人が見たり聞いたりすること、考えること思うことはすべて幻想です。私たちの経験のすべては幻想です。人生はまるごと幻想なんです。 現実が、幻想ということでしょうか。 認識した像が、幻想ということでしょうか。 幻想は虚構と同様の意味合いで使用しているのでしょうか。それとも、別様でしょうか。少しだけ、解説いただけますか。
お礼
すばらしい展開です。一点の曇りもない、明晰な展開に、ただただ感心しました。現実と虚構との関係が、よく分かる記述です。納得です。 1の「この東京ディズニーランドの命題」は、「現実(東京ディズニーランド)は現実(遊園地)である」であって何の変哲もないことです。簡単に「現実は虚構である」の形が導けないからこそ、設問が奇異であり、しかし、偽と断定できなさそうな予感もあるところを考察していただきたかったわけです。 そして、現実と虚構が、すぱっと分断されているわけでは、なさそうだというあたりが見えてくると、どう絡むのかの例示が色々と展開できてくるのだなあと、分かりました。ありがとうございました。