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宗教の教義を考える
宗教において教義ってどう位置づけられるのでしょうか。 教義があってこそ共同体がまとまる ということはわかるんですが、 もっと深く話を掘り下げたいです。 一人で考えていたらよくわからなくなってしまったので 他の方の考えが聞きたいです。 お願いします。
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>教義があってこそ共同体がまとまる 信仰を第一に持ってくる人ばかりではありません。そうでない人を認めてこそ共同体と言えます。 質問者様の共同体とは中世的な閉鎖社会です。
- magga
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ichichich3さま、こんにちは。 ぼくの思うところを書きたいと思います。 「パーリ語のブッダの教え」については、各々が各々の理性によって知るべきこととしての教えですからちょっと反宗教的な宗教ともいえると思います。仏陀が言ったからとて、経典にあるからとて信じる必要は無い。自ら調べ確かめ知るべきこと。と言う立場です。建設的な疑問があったらなんでもどうぞ。と。 苦しみをなくし、自他のためになること、幸福になること、迷惑を究極になくし役に立つこと。その論理・方法。だと思います。 しかも生命と仲良くしながらも、執着しない道ですので、まとめるためのもとするのは妥当と言えなそうです。こだわり・執着・縛りを減らし、理性を磨くために説かれた教えですね。 解らないものは解らないものと。頭で納得がいったことは頭で納得がいったと。実証したしかめたことは実証したしかめたこととして。自分こそ正しい他は間違っていると言う見解は抱いてはならないと…。 「決め付けて、他のものは間違っている」 「疑問質問は許さない」 「根拠は考えず妄信せよ」 と言う性質は無いですね。むしろ逆です。 ちょっと宗教のなかでは変わってますね。 いわゆる世間で言う宗教の多くは、まず始めに各々の教義で我々こそ真理を語っていると断言「決め付け」をしてかつ「他のものは間違っている」とし、理性的に根拠を求めるものとは逆の「疑問質問は許さない」「根拠は考えず妄信せよ」としているように感じます。 それでも妄信する人が、多くの人々と仲良くすることが出来、心が落ち着いて、差別的思考に陥らず、自他のためになることをし、幸福を感じられるものであるならすばらしいと感じます。 ざっくり言うと パーリ語の仏陀の教えのように変わったものもありますが。「これが絶対正しい。他は間違っている」と言う位置付けが各宗教において多く見られるものと思います。それによって人を教団集いに結びつけるためになっていると思います。 お役に立てば幸いです。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
- kitcat3
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宗教において、教義が殿程度の位置を占めているかは、まちまちだと思います。概ね1000年を超えるような主だった宗教の始まり(イエスや釈迦のような)を考えるとき、発信点は「一人でも多くの人を幸せにする」という思いではないでしょうか。その創始者から教義を定め、守らせるようなパターンはほぼ宗教の名をかりたビジネスが多いと思ってしまいます、、、。 また、長年の歳月の中で、前述のような「思い」が形骸化し、教義としてしか残らない場合もあるでしょう。 音楽に例えるなら本質は音そのものであり、その説明・記録としての楽譜があります。 宗教と教義についても同じ事が言えるのではないでしょうか。教義を元に団結しているとしても、その宗教の精神が形骸化している場合は、楽譜を読めないのに楽譜をコレクションしているのと同じ。宗教とは言い難いものと思います。 共同体存続の意義としては、回答になってませんが、世間でよぶ「宗教」には「生きているもの」「形だけのもの」「名を借りただけ」のような混在を整理して考えるべきなのかなと思います。