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他の宗教への寛容性について
質問は、ある特定の宗教の信者の方は、なぜ他の宗教行為を排除するようなことをするのか、また、それはどのようにして正当化されるのかということです。 毎年のことですが、お神輿や神社のお祭り等について、ある特定の宗教の信者の方達は頑なに参加を拒否されます。一部の信者の方は参加されますが、参加されない信者の方々は、参加された方を批判、中傷するようです。 別に参加を強制するつもりはありませんが、自己の宗教の修行というか行いのようなものをしつつ、他の宗教行為も行うというのは、相反する他人をも受け入れる人物としてより社会的に評価されると思われるのですが。 そもそも、もはや宗教的行為としての意義も薄れたような行為をわざわざ宗教的な意義を誇張させ、拒否するというのは、自己の信仰のみを絶対視し、他宗教を否定するという態度はいかがなものでしょうか?その特定の宗教は「世界平和」を教義に掲げているそうですが、この様な態度は、その教義と矛盾しませんか?むしろ、Xmasも正月の神社へのお参りも楽しんでしまう仏教徒というか一般人の方が、他者も受け入れられるとして「世界平和」に貢献すると思うのですが。 我々に協力してくれた信者の方が批判を受け、また、参加しなかった信者のお子さん方の寂しそうな表情を見ると、この様な態度がどのようにして正当化されるのか疑問が生じてなりません。
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クリスチャンです。まあ直接祭りは不可能なので町内会の仕事としてやってます。警備まりかな~(祭礼の服は勘弁してください) まあこのような方法があると思いますが、後は本人の信仰です。 その代わりクリスマスには招待しますよ。仕事をしてるし、みなさんご存知だし、楽しく町内会の行事に参加です。 町内会の方も信仰としてやってる!と言うものではないし、半分楽しみでしょうし、この前冗談で「担がして」というと「神輿に引かれ犠牲者来年から中止。やめてくれ~」と言われましたよ。 写真の腕はなし、ただ一眼レフのみですね。
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- katyan1234
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反対にあなたは宗教の祭りに参加しますか?したらややこしくなりますよね。「あいつ○○の信者になった」だからそういうややこしくなる事はしません。私はカメラのみを担当して祭りに参加してますけど。 確かに全体的には希薄になりますが、信者の場合はそんな簡単に譲れるというものではない。町民からみればあいつなんや~と言う事にはなりますが・・・ 本人たちは管理されてない。自分の意思でやってると思ってますよ。 なぜなら自分より真剣にやってない人と比べてますからね。 だから色々ありますとごまかすような表現になります。 だからあるときは宗教の団体者の立場、あるときは自分の思想考え方 だから詭弁、おかしいという事でみてしまってる場合もあります。
お礼
回答ありがとうございます。 祭りにカメラのみを担当ということは、回答者様は何かしらの信仰の方で参加していらっしゃるということでしょうか? 私は、参加を強制するつもりは毛頭ございません。もちろん、催し事が行われることを知らせることはします。ただ、参加した方が同じ信教の方からの誹謗・中傷が我々信仰をしていない者にとっても見て取れる程度のものであり、その点について何らかの対処方法はないかということを悩んでいるのです。 もし、何かしらいい案がございましたら、ご教授願えませんでしょうか?
- 0_asuka
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そういうのに無頓着なことが普通になっている日本にいると忘れてしまいがちですが、本当にその人が信仰を理由に参加させないのなら、「他の宗教の儀式に参加しない」というのは一つの宗教行為な訳です。 また、一神教的宗派宗教の教義に価値観の基準をおく人達は、他の宗教儀式に参加するのは堕落への道だとする向きもあります。 そういう事であるのなら、その人たちは信仰を持った人として真っ当なことを主張しているんじゃないかと思います。 質問文を読んでいると、失礼ながらそれらを許容できない質問者様の方が非寛容に読めてしまいました。 >もはや宗教的行為としての意義も薄れたような行為をわざわざ宗教的な意義を誇張させ、拒否するというのは、自己の信仰のみを絶対視し、他宗教を否定するという態度はいかがなものでしょうか? これは逆です。 本気で否定するのであれば、祭そのものを止めるよう主張するはずです。 私の知っているそういう人は、その宗教性を尊重するので参加できないと言っていました。 対象への向き合い方が違うだけです。 意義も薄れさせてしまう無頓着な私達とは違い、他の宗派に対しても真面目に対応しているんです。 以下余談みたいなもの 知人からの受け売りなのですが、この手の人を理解するのに一番楽なのは、信仰と個人を男女にたとえることだそうです。 熱心な信者は、彼を熱心に愛している女性。 その人に他の宗教行為に参加するのを勧めるのは、他の男もいいからと浮気を勧めているようなもので拒否されるのは当然。 でも自由に男女交流をするという文化も存在していて、それが宗教に無頓着であることを良しとする現状の日本。
お礼
正直、回答者様のご回答には疑問を生ぜずにはいられません。 回答者様の「余談」を用いて以下、説明させていただきます。 宗教を男女間にたとえ、「自由に男女交流をするという文化」と述べた上に無頓着と締めていることから、これらのことが、批判的に捉えてらっしゃると思われます。しかし、熱心に愛する男性が居る女性も、他の男性と仕事や友人として交流する場合もあるでしょう。そして、それは今日の社会に不可欠なものでしょう。回答者様は、明らかに「交流」の意味を恥ずかしい方向に狭めて捉えているように思われます。ただ、社会常識からすれば、そこまで男女間に無頓着ではなく、それは宗教上でも同じでしょう。宗教性を尊重とおっしゃいますが、あえてその宗教性を尊重する理由はなぜですか?ある行為を宗教行為として狭めて考えることは、「交流」を一方的に恥ずかしい意味に狭めて考えるのと同じ様にかんじるのですが。確かに様々な分野で伝統を重んじることの重要性は認められますが、その伝統に単純に固執する弊害が存在するのも周知の事実です。それらの重要性と弊害を認識しているのも、現状の日本であり、偏った視点に立っておられるように思われます。 仮に、狭めていないのであるなら、交流そのものを否定するのではなく、交流の仕方や状況を問題とするべきという方向になると思われるのですが。もちろん、交流をしない者を交流するように強制することはしません。ただ、交流することを積極的に容認するべきという方向に思想は傾くものであり、この点で明らかに回答者様の見解では矛盾が生じています。 確かに歴史的背景を見ると、「他の宗教儀式に参加するのは堕落への道」とみなすことは、私自身にも理解はできますが、仮に町内の行事に参加した者が、同じ信仰の者によって指導されるのは良しとしても、批判中傷されることの正当性はどこにあるのですか?中傷と指導は明らかに違うと思うのですが。 最後に、私は、あくまでも伝統的には宗教行為であっても、もはやその意義が薄れた行為については、いかなる信仰であっても広く参加する機会を設け、参加の有無は本人の意思にゆだねるとした上で、参加した者が後に参加したことにより不合理な不愉快さを味わない方法はないかと悩んで質問しただけであり、参加の強制方法等を聞いてるわけではない点を踏まえていただけると幸いです。
- gadovoa
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No2です。 寛容でない人たちを寛容にする方法はないです。 自分達が正義で我々は悪なんです。 正義の味方が悪魔の囁きに耳を貸しますか? その人の幸福を邪魔する我々は悪です。 悪と戦うことこそ正義を実行している幸福感があるのです。 麻薬というレベルではありません。 死ぬ前に気づけばいいほうです。 死ぬ瞬間まで「哀れで弱い私を天国に導いてくれる」と信じているんです。 無理です。 その人にそれ以上の幸せを見つけてあげない限り。
お礼
やはり、そういうことですよね。 仮に、「その人にそれ以上の幸せを見つけてあげる」なんてことをしたら、極めて困難であるし、それはそれで私自身が他の信教を否定することになるように思われるので。いわゆる「おせっかい」で終わると思われます。 たびたびの回答ありがとうございました。
#4です 私は私の知ってるある宗教を思い浮かべて書きましたが、どこも同じだと思いますよ 管理する必要はあるのですが あまりにもオバカな人間の場合は 指示の意味さえわからないのですよ ダメといわれたらダメ それだけが真実だと勘違いしてしまうレベルの人達なのですよ 例えば・・ 変な例ですが 卵アレルギーだから卵を食べちゃいけない という意味を 卵焼きと生卵はだめと簡単に考えるような人達です。 体質を考えたら 鶏肉も考えて食べたほうがよいし ケーキなどの卵が入っている食べ物も考えないといけないですよね? ところが 卵だと判るものしか理解できない人… 病院での治療などでも 「点滴してください」という人。 なんでも点滴・注射で治るものだと思っていますよね… 特効薬がない病気でも(例えばガンとか)抗がん剤をすれば必ず治るとか 生存率が50%以下だから絶対効かないのだと 短絡的な人… どの宗教をするにしても ”その人たち”は永遠に下っ端なのですよ… 何の話をしても 絶対的にピントがズレている人…だと思いますヨ
お礼
たびたびの回答ありがとうございました。 私も、しばらく自分自身で考えてみましたが、やはりピントがずれてる人として扱うしかないのでしょうか。つまり、せめて参加はしなくてもいいが、参加した人間を批判するような事をやめる寛容さを要求することさえも、極めて困難であり、あきらめるしかないのかと。#1さんの回答も踏まえて考えると、その結果が妥当ではないかと。 せめて、中傷を受ける信者さんの愚痴を聞く役ぐらいになるという程度で、行こうかなと思っています。
「彼等」は、まだほとんどが”ただの人”なので 教義の奥深いところは理解してないと思いますよ もうちょっと上の方は 批判もしません。 本人がすすんで参加することはありえませんが、他人の宗教も許容しています。 質問者さんの周りに居るのは下っ端の方の方ですね。 トラブルの原因になる方達です。 ご愁傷様です。←何の宗教?
お礼
まず、勘違いされやすい文面だと思うので予め言っておきます。私は回答者様が特定の宗教の信者と決め付けるものでもなく、また、仮に信者だとしてもそれを批判するつもりは毛頭ございません。 実は、この質問をするにあたって、他の質問等も見たのですが、何らかの信仰をなさっている方々もそのようにおっしゃる方が多いですよね。 ただ、わたくしから言わせていただくと、いわゆる「上の方」は「下っ端の方」を管理する義務ってないんですかね?「下っ端のしたことですから、私どもは関係ありませんじゃぁ」、我々一般人の社会と何ら変わりないのですから、ますます特定の信仰をされている方が他の宗教を否定する姿勢に納得いかなくなりますよね。
- rikukoro2
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『宗教は民衆のアヘンである』 レーニン
お礼
別に、何かしらの信仰を勧めることはもちろん、否定するものではないので。また、その言葉は、現代社会においてそのまま当てはまる言葉ではないと思いますよ。
- gadovoa
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あなたの言うとおりですね。 彼らは世界平和のことは考えていません。自分のことしか考えていない利己主義者なのです。彼らは世界の終末のことを考えています。(ある宗教団体ですが)世界の終末が来たときに堕落した生活をしていては助からないからストイックに生きています(金をむしり取られているだけですが)。堕落した生活をしている我々は世界の終わりが来たときに助からないそうです(よーわからんですが) 私の知っているカソリックの司教はあなたの考えと同じく寛容です。 宗教の理念は世界平和もしくは人間愛だと思います。 それを実行しない宗教は宗教ではなく悪魔に魅入られただけです。
お礼
寛容であるべきという点では、同じ意見であり、宗教にもお詳しいようなので、質問させていただきますが、寛容ではない人たちを寛容にする方法ってないのでしょうか?
- ml_4649
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宗教心の強弱の問題と、本来の宗教は一般の日本人が考えているものとは違うと言う事でしょう。 日本人が考える宗教とはと言うのは地球規模では非常識なんだと思います。 布教、異教徒の駆逐、布施が普通に考える宗教の重要な所らしいです、、、、世界の常識では。 日本には仏壇は死者が入るところだと思っている人が多くいますが、そもそもそこから間違っています。 仏壇は御本尊をお奉りするところで言わば家の中にあるお寺です。 キリスト教徒の家の中にある十字架やマリア像と同じです。 イスラム教国のアラブとユダヤ教国のイスラエルが争う事情が日本の宗教常識では説明できません。 この対立は領土だとかイロイロありますが行き着く最終点は宗教対立です。 本来、他の宗教とは対立するのが宗教ですから、寛容な人から見ればそこまで頑なにならなくてもと思えても、本来そういうものも宗教の特徴です。 日本人は自由は基本的人権だと認識していますが、人権も西洋のキリスト教徒に言わせると神が与え給うたモノなのです。 ヨーロッパやアメリカでも宗教についての理解は日本のようにいいかげんではないようです。 キリスト教徒やユダヤ教徒が言う「神」もイスラム教徒が言う「神」もじつは同じ「神」を指しているんですが宗教は違うんですネェ、、
お礼
大変参考になりました。自然権思想の根源から、今日の人権思想に至るまでの過程を考慮すると、そこに宗教的意義を強めて理解する点には疑問がありますが、その背景等を思い起こすことにより、極めて説得的な意見であり、参考になりました。 ただ、日本国内、しかも地方の田舎町での話もこれと同視してよいのでしょうか?すなわち、単に宗教のあるべき姿に戻ったに過ぎないと。「常識がそもそも異なるのであるから、仕方ない。寛容であることは、そもそも無理である」とするしかないのでしょうか?
お礼
たびたびの回答ありがとうございます。 なにか、環境のほうが恵まれてらっしゃるように感じられ、うらやましく思いました。また、冗談で「担がせて」と言えるような状況である点も大変うらやましく思えます。こちらのほうは、そのようなことを冗談でいっても、揉め事になりかねないような雰囲気で。 ただ、こうやって、質問してみて思ったのですが、やはりわれわれが誹謗中傷をやめるように言ってみても、どうしても信仰の部分に触れてしまうことになるので、そうなると余計もめるような気がすることから、同じ信仰の方がたで、解決してもらう他ないのかなと感じました。