• 締切済み

宗教と人間関係

宗教を熱心にやってる人と理解し合うにはどうしたらいいですか? 相手はその宗教の教義を一般常識だと思っているけど、現実にはそれは一般常識ではないというのが普通です。その隔たりをどう埋めるのかわかりません。結局、一般常識から外れた相手の考えを全面的に支持するか、それを否定してもう理解し合えないからさよならと言って去るしかないですか?

みんなの回答

回答No.7

一概に宗教と言っても千差万別です。深淵な伝統仏教の教義を門外漢に滔々と講釈する人など珍しく、或いはキリスト教の三位一体を常日頃から声高に叫ぶ人も希有な存在と言えます。 然しながら勧誘目的で、社会常識から大きく乖離した自教団の正当性を殊更捲し立てることをその嚆矢とするカルト新興宗教の場合ですと、自ずと対処法が異なってきます。 この手合いの思考というのは、自教団並びに教祖の正当性を基盤にして物事を捉えていますから、如何様に折衷を試みようとも不可能であるという、まことに由々しき事態と相成ることを回避することは出来ません。何を隠そう教団によって洗脳されてしまっているため、普通の一般社会人とは大きく隔たった思考行動とならざるを得ないのです。 選挙の度に必死になって他人の票取りを手弁当で行うその行状たるや、門外漢からすれば常軌を逸しているとは異口同音に首肯するところでしょう。然しながら、それこそが現世利益を齎すまさに信仰活動であると洗脳された向きからすれば、死に物狂いで奔走するわけです。 このように、カルト宗教によって洗脳された手合いというのは、結局のところ、他人に厄災を齎す存在であるということを念頭に置いて、一線を引いたお付き合いに留めるというのが賢人の智慧であり、可能な限りは接触、あるいは縁しないよう心掛けるという態度こそが、世知辛い現代を賢く生き抜く最良の処方箋であると、老婆心ながら助言申し上げる次第です。

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6877/20339)
回答No.6

さよならが正解です。自分で気が付くまでは無理です。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.5

>宗教を熱心にやってる人と理解し合うにはどうしたらいいですか 単純に「割り切って行動する事」です。 私の友人にも、学会信者がいます。 選挙の度に「〇〇候補の票数が〇〇票足りない。〇〇君。是非投票して」と電話がありますよ。 また、大先生や息子の先生は「素晴らしい方だ。今度、一緒に話を聞きに行かない?」との誘いもあります。 が、割り切って付き合っているので「俺は、八百万の神・仏を信仰している。一神教では満足できない」と答えていますよ。^^; 神道で誕生し+神道・仏教で七五三+キリスト教で結婚式+仏教で葬儀。 初もうでは神道・仏教。花見は仏教+お盆は仏教+感謝祭はキリスト教系+クリスマスはキリスト教・・・。 質問者さまも、同じでは? >相手はその宗教の教義を一般常識だと思っているけど、現実にはそれは一般常識ではないというのが普通です。 「信じる者は救われる」といのが、宗教です。 学会の(信者)初級本にも「他の宗教・教えを信じると、地獄に落ちる」との記載がある様です。 宗教に限らず「色んな意見があって、当たり前」です。 「この人は、こんな事を考えているんだ。信じているんだ」と、割り切る事です。 割り切る事は、決して「否定しない」事なんですね。 否定すると、人間関係が壊れて(最悪の場合)危険になります。 >全面的に支持するか、それを否定してもう理解し合えないからさよならと言って去るしかないですか? 先に書いた通り「割り切って考える事」です。 日本は、某国と異なり「宗教・思想・発言の自由」があります。 総理大臣・与党を批判しても、罪になりませんよね。 某国では、大統領を非難すると「親日派だ!」と官民挙げて避難されます。 「色んな考えがあるんだ」と、割り切れば気が楽になりますよ。^^;

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.4

以下のとおりお答えします。 >宗教を熱心にやってる人と理解し合うにはどうしたらいいですか? ⇒う~ん、むずかしいですね。でも、方法はあると思います。 >一般常識から外れた相手の考えを全面的に支持するか、それを否定してもう理解し合えないからさよならと言って去るしかないですか? ⇒そういう二者択一で決めず、もう少し対応の仕方を検討なさってみることをご提案します。例えば、こうのように。 まず、「相手の考えを全面的に支持する」ことなどできませんよね。きっとフラストレーションがたまって、どこかで爆発しかねません。そこで、相手の言うことをよく聞いてみましょう。そして、「なるほどあなたはそう考えるわけね」と、相手の言わんとすることを理解してあげることが大事です。自分と違っても、多様性を認めるのです。支持するのとは違います。ただ、違いを理解して容認し、相手の立場を尊重するのです。そうすれば、相手もこちらの立場を尊重してくれるでしょう。 「理解し合えないからさよなら」するなら、おそらく、ほとんどの人とさよならしなければならなくなるでしょう。「十人十色」でみんな違うのですから。ですから、(金子みすずの言うように)「みんな違って、みんないい」という考え方で接することをお勧めします。そうすれば、きっとうまくいくと思います。もしかしたら、大の親友になるかも知れません! ぜひ、実践してみられることをお勧めします。

  • kzr260v2
  • ベストアンサー率48% (852/1775)
回答No.3

宗教に限らず、文字や言葉にとらわれて、考えが現実と乖離してしまっている人は、けっこういます。私が対応するとしたら、否定はしないで静かに距離をとります。 宗教関連で注目を集めやすいのは、手術が必要なのに輸血を拒否する信者などが思い浮かびます。 宗教以外では、昨今の新型コロナウイルス感染症がらみとして、「これは風邪だ」と言って、感染予防しない人です。(4月あたりで、発症した場合の死亡する可能性は、インフルエンザより2ケタ高かったようです。) いずれにしても、そのような人たちは怒りやすいので、私はそこを切り取ります。(ほとんどの場合、私には責任がないので)「不満をぶつけたいのでしたら、○○という責任あるところに言ってみるのはいかがでしょう。私には権限も責任も無いからです。ただ、窓口の人には権限はないことが多いですし、"単なる怒りをぶつける人が来た"と思われてしまうと、ご不満が伝わりにくいです。冷静に静かに伝えられるよう、まずは紙などにまとめてみると良さそうです。」 もしくは「宗教の話はしないことにしてます。」はたまた「あー、そう言うお話ねえー。そうかそうかーふーん。あ、用事があったの思い出した。」とか「ちょっちょっちょっちょっ。」で押し通しその場を離れる方法もあります。 相手の主張を受け入れても、逆に否定をしても、どちらも相手と同じ土俵の上です。やっかいごとに巻き込まれます。 ※ 相手が自分の子供や生徒だったりしたら、責任があるのでとことん付き合う必要があるかもしれません。 ※ 相手が、親だったり、教師だったり、上司だったり、後輩だけど上司と縁故があったり、賃貸物件の管理会社の人だったりしたら、先ほどのような、ターゲットを私から別のところに誘導するか、相手にしない方法を選びます。われながらズルいとは思いますが、私が生きる上で必要な方法です。 ※ 距離を保てるなら付き合うかもしれませんが、ほとんどの場合そうならないので、関係はフェードアウトしていくと思います。 ※ とことん付き合う場合、専門家による「治療」が必要となることが多いので、相手の親御さんなどご家族と協力すると良さそうです。(ご家族は、相手のような考え方ではない、という条件はあります。) 以上、参考にならなかったらごめんなさい。

回答No.2

隔たりを埋めるのは、極めて難しいです。互いに価値観の違う者が、話し合うのと一緒です。信仰している方が軟化してこないと、あるいは気づかないと無理です。

  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1689/4748)
回答No.1

教義があることで、思考を停止してしまうのが、宗教の悪い部分です ※宗教を否定しているわけではなく、そのような人が多いという意味 教義とは、キリスト教で言う聖書、イスラム教でいう教典(聖典)です 人は、悩んだときや答えが見つからないとき、調べたり、考え続けたり、人に聞いたり、時には自分を傷つけ・・・しかし、乗り越えたときに経験として知識として、成長を遂げます しかし、宗教では、悩んだとき答えが見つからないときは、教義を読めば、その中に答えがある・・・ので、成長すると言うよりも、教義の解釈で、心が救済されます つまり、思考しなくて良いのです すべてのこの世の悩みやその答えは、教義にすでに書いてあり、教義を読んでも解決できない場合は、信仰心が浅いからだと、解釈します なので、信仰心を深めれば深めるほど、自身の力や他人の助けを求めずとも、解決できるもの・・・というのが、心の支えであるのです そのような人たちが、その教義にもしも、この宗教を否定する者は悪魔である・・と書かれていれば、そのようにむりくり教義を解釈することを年長者(聖職者・教職者・司祭など)が推し進めれば、対峙したすべての人たちを、悪とします なので、人類の歴史上、その時代に沿った教義の解釈によって、政治利用もされています 教義には人殺しはダメと書かれていても、敵である悪魔たちを殺すことは許される・・・戦争たテロの道具にも、その教義が利用されてきました 日本に投下された原爆、その当時、アメリカ軍から指名を帯びたアメリカ兵が飛び立つ前に、キリスト教の祝福と祈りを得たことは、有名な史実です こんな非道なことをしても良いのか?何万人も犠牲がでるスイッチを押して良いのか?・・・悩まなくて良い、神の思し召しである つまり、彼らの心の救済は、宗教よってなされたのですから、そのことについて議論はなかったのだと思います よって、質問者様の感じているであろう矛盾は、相手の人にとっては教義のよって矛盾と感じていませんから、理解し合うのは「今」は難しく感じます しかし、だからといって、キリスト教信者とイスラム教の信者と仏教徒が、仲良く慣れないわけではなく、その教義の捉え方が正しければ、もしくは互いの教義を批判しないこと前提するならば、日常生活において、友人にはなれるはずです よって、正しく教義を使用できずに、それでいて何でも教義に頼り、何でも都合のいいように自分や相手を教義によって判断している未熟な相手には、その人が本当の意味で目覚めるまでは、理解し合うのは難しく思います