- ベストアンサー
真の新興宗教は出ないのか
新興宗教というのは、どういうものかあまりよく知りませんが、どうも既存の宗教に味付けをしたようなものが多いのではないでしょうか?もしそうだとしたら、なぜ(新興)宗教というのは、基本的に不変で、科学的認識が、その宗教発祥の当時とは比較にならないくらい発展した現代に、いまだに古い価値観、教義を宿しているのでしょうか?釈迦もキリストもマホメットも日蓮も空海も偉大であることにはかわらないでしょうが、なぜそれら「古人」の教義をいまだに信奉するのでしょうか。現代には、新しい科学的認識によって新たな教義を打ちたて、その新しい何かを信仰するという「新」宗教が誕生してもいいのではないでしょうか。なのに、宗教というものはどうして回顧的でしかないのでしょうか? もうちょっと補足しておきます。 天地創造の教義というのも、その時代の科学的認識ならもっともな考えです。しかし、これほど天文学が進んだ現代に、なぜ生き残っているのか?浄土念仏なども、自身の生死が祈るしかないという感覚の時代から現在はずいぶん変わりました。仏教的なならわし、あの世とかお盆とか、そういうものも、人の死と空間を一緒くたにしてしまった考えです。空間時間概念が明確でなかった時代の教えです。なぜまだ古代人中世人のための念仏を唱える必要があるのでしょうか?もっと、「違ったもの」を祈り唱えてもいいのではないでしょうか?その「違ったもの」とは、私もよく思いつきませんが、たとえば、原始周期表であったり、雪の結晶であったり、有機物の分子模型であったり、相対性理論の数式であったり、何でもいいと思うのです。
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
そういうのは宗教の顔をしていないからでは? 「ゲーム脳」や「水からの伝言」等の疑似科学の多くは、道徳的教訓を科学の実験めいたものから導き出している。 昔であればそういった道徳的教訓は、宗教寓話のようなものから学ぶことが多かったと聞く。 そこから考えると、現在では宗教の役割の一部を疑似科学の類が肩代わりしているといえなくもない。 しかし比喩としてそれらを「宗教」と表現することはあるが、実際に古い宗教のように信仰の対象が存在していたり教団があったりするわけではないのだから、厳密には「宗教ではない」。 「宗教ではない」のだから、それに近いものが存在していても、「新」宗教は誕生していないように見える。 古来より宗教は、どんなアホでもこの理不尽な世界について納得できることが求められてきた。 そこから考えると相対性理論のような難解なものを宗教という形に組み込むのは限りなく難しい気がする。 だから厳密さが求められる科学そのものではなく、「なんとなくこんな感じ」が許される疑似科学になるのかも。
その他の回答 (6)
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
大乗の知識がおありのようなのでこちらのほうもオススメですよ。 一度仏教の大元であると評判であるパーリ語の仏典の論理的道徳的実証的で理性的な所に触れてみてください。 びっくりすると思います。 かなり理性的な物事の見方をしていて、私には穴が無いように感じます。信じたり頼ったりすることを進めるよりも、己が理性を最大限に使って自己を拠り所にするように、その「理性的」な態度とそれにいたる方法を説かれ、自立を勧めます。 いうなれば反宗教的な宗教・教えですね。 これを学べばなぜ人はわからないことを解らないとせづに、我こそは正しい他は間違っていると言う思考に陥るのかわかると思います。 スマナサーラ長老の書籍やサンガ出版の「仏法」がオススメです。 「仏法」は正見の項目だけでも読めば、大本の仏教の態度がわかると思います。
お礼
大乗の知識は別にないです。なにか心持のあり方のようなものを読んだのがそれらしき思想だったのでしょうか。 しかし、徹底的な懐疑の哲学らしいですね。この姿勢は科学的といえるのかもしれません。
- cat_v
- ベストアンサー率28% (6/21)
私なりに結論すれば、「科学は“学問”であり、宗教は“救済”を目的としている」からではないでしょうか? そもそも、根本的な着眼点といいますか論点が違います。 仮に、全くの無関係とはいえなくとも、例えば同じ「人類の発展」を目指したとしても、あくまで科学は「論理的かつ合理的に物事を検証しながら発展」させるのに対し、現代宗教は「人間の癒し(あと信者集め)」がメインです。 しかし、これらだって最初はどちらも似たようなもので、原始科学はオカルトに近く、宗教は政治色(立法)が濃かったりと、時代によってバラバラです。 もっとも、最近はエセ科学・疑似科学など、宗教も生き残りをかけて‘なりふり構わず’が多数見受けられますが。 原始キリスト教でさえ「創造論」なんてオカルティズムを科学の世界に無理やり組み込み、教育機関に教えさせるなどアメリカでも非難があがってます。 根本的な原因は、「科学は人間の‘癒し’がメインではなく」、「宗教は‘科学的学問の追及’がメインではない」からです。 そして、これらは「むしろ一緒にしない方がよい」と考えます。 理由はあげるまでもないと思いますが…。 実際、宗教はもう「古い」と思います。 信者数も年々減ってきてますし…。 それでもしぶとく残っているのは、‘他に心の拠り所がない’からです。 他にあるとすれば、「お金」ぐらいです。 哲学にしろ心理学にしろ、やっぱり学問ですし、どうしても患者の治療には時間が掛かるうえ、限界があります。 そうなると、結局人間は「夢の世界(現世否定)」に逃げ込みます。
お礼
そうでうすね。納得です。科学は決して救済ではないでしょう。対して宗教は癒し救済の目的がある以上、どうしても合理的な現代感覚とは相容れない。オカルティズムというものを、どうにかして、この化学隆盛の時代に生き残ろうかという意図で取り入れようとする。そこまで、非科学的なものなのでしょうね。 しかし、夢が信じられる時代ならまだしも、それはなかなかこの喧騒とした現代社会で本気になれるものかと思いますね。
- nacam
- ベストアンサー率36% (1238/3398)
19世紀に出現した宗教に、バハイ教というものがあります。 イランでイスラム教シーア派から生まれた宗教ですが、既存の宗教とは、体系的に全く異なる宗教になっています。 バハイ教は、国連認定のNGOとなり、世界平和のために活動しています。 私は、現在最もすばらしい宗教だと思っています。
お礼
初めて知りました。そういう少数例もあるのですか。
新興宗教を信仰の姿ではなく時勢に合った風俗ととらえるといろんな宗教団体を開業することが出来ます。気持ちの切り替えだけでいとも簡単です。聖職者であることよりも企業家であることが大切です。
お礼
信仰を捨てるという姿勢が、新たな宗教を生むのかもしれませんね。つまり、宗教というそのものの概念が変質したのかもしれません。いまの既存の宗教というのは、もう文化と言うか遺物なのです。
- mappy0213
- ベストアンサー率26% (1706/6353)
小さいながらも宗教って誕生していると思いますよ。 ただどうしても今は宗教=怪しいとかお金が絡んでるとか思われますから 一般的に崇拝物は分かりやすいように神さんや仏さんでしょうけど これはたぶん今までの慣わしと言うか神さんや仏さん=崇拝対象ってみんなが思っているから受け入れやすいんじゃないでしょうかね それこそ今まで適当にほかしていたボールペンのキャップを信仰する って言われてもえぇぇぇぇ!!!って思うでしょうしね。 もともと日本では自然崇拝(木、水、火はたまた空気や岩)が主でしたこれは今でも山岳密教とか土着宗教と言う形で残ってますよね それが仏教や神道というのが出来て崇拝物が人の形をした神や仏になったんだと思います。 実際人智を超えたところの存在なので人の形にする必要はないとは思いますが 分かりやすいように受け入れやすいようにそうなったんだと思います。 念仏に関してはお経にかんしてはあの抑揚と字そのものに意味があります梵字なんかもそうですねあの字そのものに意味があります。 別に古代人の為に唱えるのではなくあくまで自己満足じゃないですかね? 科学的に考えれば死=終わりであってそれ以降何もないはずですから極楽浄土や天国と地獄と言うような死以降の考え方を持っている自体科学と対極に位置するものですよね。 ただ空海でも釈迦でもキリストでも当時は新興宗教であり異端児だったんだと思いますよ 今風に言えばちょっとイッテル奴(こんなこと言うと怒られるかも知れませんけどね)それでもこの世界でココまで大きな宗教組織の祖になったのはそれだけ人をひきつける何かがあったんだと思いますよ
お礼
空海やら何かがあったのに、今その何かがある人なんていうのは現れませんね。つまり、人々はカリスマを必要でなくなったのです。それは、大体のことがわかってしまって、祈るとか拝むとかまったく本気じゃなくなったからですね。なので、数式やら科学理論やらが出てくると思うのですが。
神が不変であり、聖典が不変であるからではないでしょうか?新しい宗教…は、知らないだけで存在すると思います。それはカルトと呼ばれるものも含めて。確かにその時代と比べたら、科学は発達しているでしょう。ですが、すべてを証明できたわけではない。信者の気持ちはわからないですが、0.1%でも疑問が残る限り(=永久に)神がその証明となるのではないでしょうか。違ったものを唱えるのは不可能ではないですか?聖書もコーランも、解釈は各々によるものであっても(それは時代と共に変化できるもの)違う文章にはできません。
お礼
しかし、だいぶ様相は違いますよ。まったくのなぞが満ちていた時代と、大体のことは記述できるようになっている現代とは。
お礼
宗教というものは、特定の性格があるのかもしれませんね。それは、科学とはどうしても相容れないものなのかもしれません。科学的でないところに宗教の価値がある。ところが、現代は科学隆盛です。