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ソクラテスの正義について
ソクラテスはなぜ、法を守ることが正義だというのでしょうか?>< 国家 自由 悪法 民主主義 こちらの言葉を使って、どなたか説明してくださいませんか?; 思いつかなくて本当に困っています;;
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- jwac
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この「ソクラテスの正義」について、前回の私の回答が正しいという前提で、今少し・述べてみたいと思います。 ソクラテスが「悪法も法なり」と言ったかどうかは存じませんが、ソクラテスが牢から脱走しないで毒杯をあおったという史実を仮にも受け入れる時、ソクラテスは如何なる法に準じたと理解したら好いのでしょうか!? 毒杯をあおった振る舞いからは当に、ソクラテスは「国法」に準じたように見えます。 しかしそれではソクラテスは「間違っていると思われる法や人たちに準じなさい」と教えている事になります。 その考え方は論理的でなく、感情的に「人を害そう」とする人たちに準じる事になり、論理を重んじる哲学者に有るまじき非論理的な振る舞いになります。 しかし、国法に準じるのでなく・感情に流されてヒステリックに死を要求する人たちに準じるのでもなく、ソクラテスは「神の法」に準じたと理解するなら、如何なるでしょうか? ■悪法も法なり…法には「唯々諾々と従いなさい」でしょうか?論理的でない。(1) ■悪法も法なり…悪法に従ってはいけない。悪法は正しなさい。(2) 一般には、(1)(2)で議論が分かれる所かも知れませんが、この法を「神の法」と理解した場合に新しい解釈が生れます。 ■悪法も法なり…神の法に間違いはない。人の目には悪法に見えても、真実を見る人の目には希望溢れる「善の法」が見える。(3) ココで真実を見る人とはソクラテスを指しました。凡人ソクラテスは「神の法」を信じ・神の裁きに全てを委ねて、毒杯をあおったのです。 思えば過去において、ソクラテスの正義が証明されたのは「神の法」に依ったゆえでした。 神の法こそがソクラテスの正義を証明してくれる。正義の人・ソクラテスにとって「神の法」こそが重要だったと言えそうです。
- jwac
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ウィキペディアの「ソクラテスの弁明」の説明中に次の言葉があります。 >ソクラテスは神霊(ダイモーン<ギリシャ語のδαιμον>)が自分にすべきではないことを指令するのだと語り、真の知を追求し魂の世話を図ることを薦めることは、神から与えられた自分の使命であって、国家の命令がこのことを禁じようとも自分にはやめることができないと語る。 つまり、「ソクラテスの正義」を考えることは、「如何なる法」に準ずるべきかを考えることだと思います。 ソクラテスは「国家の法」でなく、「神の法」に準じることで、ソクラテスの正義を示しました。 ソクラテスに依って「法」を考えるか、ソクラテスに依らずに「法」を考えるか…。 (私の場合で恐縮ですが) ソクラテスの手法「産婆術」に倣うのがソクラテスに準じる者の採るべき姿勢だと思います。 即ち、 「国の法」に順ずる姿勢の善悪と「神の法」に瑕疵があるか否かを産婆術をつかって論じます。 ソクラテスの時代に、現代の「国家 自由 悪法 民主主義」といった概念がそのまま通じるとは思いません。 只、産婆術は「対話」「交渉」の手段をつかって人間が輝く方程式ですから、時代は遠く替って、いつの時代になっても価値ある方程式だと思います。
- tyr134
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まずは、プラトン著『ソクラテスの弁明/クリトン』(岩波文庫)を紹介しておきます。 http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%BC%81%E6%98%8E%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%B3-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3/dp/4003360117/ref=pd_bbs_sr_1?ie=UTF8&s=books&qid=1206440821&sr=8-1 この本に、お知りになりたいことがほぼ網羅されています。 全部で88P(解説・注釈除く)位の短い本なので、一読されることをお薦めします。 特に、問題の「悪法も法なり」は『クリトン』に詳しく書かれてあります。 簡潔に書くと、 国家とは「養育者」のような物である。 我々は国家によって守られ、育てられている。 国家と個人の関係は、父と子の関係に似ている。 法とは、父が子に命ずるようなモノである。 父は子に、絶大なる要求をする権利を持っているのである。 その命令を蹂躙し破壊すれば、父子関係は壊れてしまう。 父に扶養される権利を有するモノは、父に従う義務も有するのである。 つまり、国家の一員たるモノは、国家に保護されるが、同時に種々の義務が生じるのである。 その義務を遂行しないで、権利だけを受けることは出来ない。 と、まぁこんな感じですかね。(今ひとつ、下手ですね・汗) そうそう、「悪法も法なり」とはいえ、「法は改正できる」ものです。 それが「法治国家」というものです。 ローマ法の有名な古代ローマは必要に応じて法を作りました。 また、前の法と今作っ法との間に矛盾が生じた場合は、後から作った法が優先されました。 言い換えれば、必要に応じてドンドン「法律を上書き」して行ったのです。 因みに、そうしたギリシア・ローマ時代の「法の精神」を復活させた近現代国家では、「法の改正」と共に、「憲法改正」も当たり前です。 戦後60年も経って一度も「憲法改正」していないのは、日本くらいのものです。 (もちろん、「憲法」は他の法律よりも改正するための要件は厳しいですけど)
- バグース(@bagus3)
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国家が定めた法律が悪法だと思うという理由で、 法を守らない人が出てくると民主主義が崩壊してしまいます。 悪法でも、それに従うことが真の自由なんです。 好き勝手にするのが自由ではなく、好き勝手に したいというエゴへの執着から開放されることこそ 自由なんです。