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ソクラテスの罪とは
その罪について 罪であるかどうかも含めて 論じてください。自由な見解をおしえていただきたいという趣旨です。 ウィキペディアには こうあります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ソクラテスは当時賢人と呼ばれていた人々を次々にたずね、「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」、を知るために対話を行った。しかし、ソクラテスのこの行動は、相手の考えを向上させることができる対話であったが、当時の賢人たちは「常識」に執着したため、結局「知っていると言っていることを、実は知らないのだ」、ということを暴くことになった。相手は論破され恥をかかされたとしてソクラテスを憎むようになった。このため、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」等で公開裁判にかけられることになった。 ・・・・・ 無知の知 ソクラテスはアポロンの宣託を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。 また一般に、ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により哲学を展開する。その方法は、自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるということで、「産婆術」と呼ばれている。 但し、ソクラテスは対話の中でしばしば様々な事柄に関する知識を持っており、その知識に自信を持っているように思える節もある。また、ソクラテスは、部分的には無知を装っているとする見方もある。 ・・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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他の方が顛末を述べているので、私は他の部分を。 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/xenophon/apol.html 10 あたりから。 「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」に対するソクラテスの反論が載ってます。 多数決で決まったことは真理とは限らない。 それでもソクラテスはそれが最善だと考えた。 何故なら独裁者が腐ってしまったら、どんな悪法もまかり通り、人は独裁者の顔色を見て暮らさなければならない。 しかし、大勢が全員が腐るということは、大量の水が腐りにくいのと一緒で、なかなか起こらない。 では一人の独裁者が決めたことよりは、多数決で決めた方がまだマシってことで、民主主義 つまり多数決で決めたことに従うべきで、自分もそれに従うのが、正義を希求するものにとっての取るべき態度だってわけです。 つまり正義を擁護する立場であれば、多数決で決まったことに従って、正義の擁護者たることを示さなければならない ってわけです。 自分が正しいとかどうかじゃなく、たとえ処刑されようと正義を擁護した者であることに変わりはない ってわけです。 でもそこには寛容さが極端に欠如した状態が如実に現れている。 そこが彼の罪。 自分が間違うように人も間違う。 自分が他者から寛容ゆえに許され生きるためには、他者に対しても寛容でなければならない。 そうしなえれば、いつか自分の不寛容さで自らに死を招く。 ってのが、後に生まれる思想になる。 妥協と譲歩は違うんですよね。 プラトンは潔癖主義者だったのか、妥協を許さなかった。 でも、もう一つある、譲歩。 道を譲るってこと。 道を譲るのは負けを認めたから譲るんじゃない。 「どうぞ お先に」という余裕の表れでもある。 プラトン 余裕無かったんでしょうかね。 彼は知らないということを知っていると言っていたが、自慢できるもんじゃない。 譲歩を知らない無知者。 あ、、、プラトン先生ににらまれそう。 笑
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- kigurumi
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No.8です。 あの・・・・ せんせのままですけど。 本文に入る前に、もし知らないのなら知っておいて損は無いと思うので。 このサイト、ある意味では特殊なサイトで、質問内容と回答内容をジャッジする多数の方々が存在します。 民主主義が採用されており、別の言い方をすると陪審員が存在するんです。 その方々がせっせと一つ一つの投稿された内容を審査しています。 その方々が○×を決定していきます。 ×があまりにも多いからといって、即処刑、つまり投稿された文が削除されはしません。 最終判断し、罪がある無し、つまり存在していい文、存在させない文、を判断するのは、このサイトが設定した神様です。 私はいいんですが、せんせ せっかく何かを求めて質問を投稿したんですから、他のパネラーにいい印象を与えた方が、私からは期待していないでしょうけど、他の方々から「なるほど!」という回答がつく確立が高くなると思うんですね。 いや 真剣勝負だ!ってお考えなら、わたしごときに命を懸ける(下手すると質問自体削除される)なんて悲劇は起こすべきじゃない。 前にも書きましたが、納得のいく回答を得るのせんせ(それに他の質問者)の希望であって、相手を論破するのが目的じゃないですよね。 もし せんせはそうなら せんせ 2千5百前から変わらないですね。 第一 私は前も言いましたが、回答者が「よし」とする回答を得られたら、それでいいと思っており、あなたにベストの回答をしてやる、なんて、そんな大それたことを目的として回答しているわけじゃないんですもの。 だって 決めるのは あなたなのですから。 私じゃできっこありません。 システム上においても無理だし、その必要性も無い。 >これをおしえてくれたのは kigurumiさんです。いかがでしょうか。 ええ、ソークラテースせんせはそういいました。 だから、せんせ その考えは間違えているって前回書いたんです。 今回の質問は ソクラテスの罪についてですが、落ち度というか悪い部分についてですよね。 裁判では罪状をつけて罪だと、処刑しました。 どっちもお馬鹿すぎた。 でも ソクラテスが「俺の方が上」だと思っていたのなら、じゃあ 上だとするあなたが、下をちゃんと導くべきでしょって言ったんです。 真理と言うイエスに裁判官のピラトは「Est vir qui adest?」と言いました。 文字を入れ替えるだけで答えられます。 「あなたの目の前にある」です。 あなたがその真理とまさに直面しているってことです。 イエスの目の前に、プラトンの目の前に真理があり、そして二人は処刑され真理通りになった。 これがこのケースの真理だったってわけです。 作家 うまい!
お礼
kigurumiさん ご回答をつづけてくださって ありがとうございます。有益な助言もいただきました。 今回は 簡単にお応えできると思います。 《イエスの目の前に、プラトンの目の前に真理があり、そして二人は処刑され真理通りになった。》 ――これでよいということだと思います。事件・事態・事情がそれほど単純だとは思えませんが 一言でいうとすれば そういうことではないかと思います。 クセノフォンによる《ソクラテスの弁明》を おしえてもらったサイトで読んだあとでは ソクラテスがそういう考えだったのではないかと思うという意味です。
補足
別のところで ソシュールについて考えるためにその関係書を読んでいたら 《ずれ・ずらし( deplacement )》という用語に出会いました。 《痛み分けすることで、硬直した状態を解除する風習》を提案されていたところを わたしは それは《すり替え》だと――つまりは 批判するためであるよりは すべて分かっているゆえのすり替えだと理解しますと――言ってしまいましたが むしろこの議論の仕方は いまの《ずらし》・それも積極的な《ずらし》という戦術のようだと考えました。 つまり たしかに民主主義ではないけれど あとで恨みっこなしで済ませることが出来る或る意味で誇りうるわが国の慣習的文化を もう少し顧みてみたまえ――こういうメッセージなのだと。 (ちなみに 例の真理をめぐるピラトとイエスの対話におけるアナグラムの問題は ユーモアであるかも知れませんが すべては あと知恵・あとづけであり その場で 文字を入れ替えてみせるなどということは ちょっと考えられません。) 言いかえると もし《ずらし》なら それに応じて わたしもこたえるべきだったかなという思いを持ちました。それほど変わるものではないと考えますが 話の順序があったかも知れないとは思いました。 この質問は 間もなく締めます。みなさん ありがとうございました。 (ちなみに みなさんにポイントを差し上げたいところですが 二つに限られているのはつらいところです。重ねて 謝謝)。070813.
- kigurumi
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No.7です。 >前回は 先輩ぶって ごめんなさい。 え? 先輩ぶってたんですか? 気づきませんでした。 私は何故、先生と書かずに、せんせって書いたのでしょうね。 >《正義を擁護する立場》を守り通さねばならなかったのです。 why? なにより断然絶対的に自分のためにですか? では 大変満足な人生だったと察します。 >あなた自身が 《民主主義 つまり多数決で決めたことに従うべきで、自分もそれに従うのが、正義を希求するものにとっての取るべき態度だってわけです。》というように《正義》を使っているじゃないですか。 ええ、ただですね、イエスもさかんに真理 真理と連呼しました。 ギリシャ風にいえば正義でしょう。 で、聖書作家はピラトにこういわせました。 「Est vir qui adest」 イエスはなんと答えたでしょう。 あれだけ真理 真理と熱く語ったのに、ぐーの音も出なかった。 イエスは真理を知らなかったのに真理 真理 真理と言っていたんです。 ピラトはそれを見抜いてイエスに諭したくだり。 ピラトに座布団一枚。 そして、ある方は、「イエスはこう言えばよかったのに」と言いました。 同じ文字を使って答えることが可能だった。 私はそれを読んで、「この人に座布団10枚!」と拍手喝采したい気分になりました。 プラトンせんせもイエスせんせも ユーモアで、この場を超えて生き続けてほしかった。 ですが、二人とも死にたかったのでしょうね。 なにがなんでも死んで何かを証明したかったのでしょうが、二人ともこれといってすばらしいものを何一つとして残さなかった。 >《頑固だ・頑固すぎる》という指摘を受けましたが これだけは譲れないというところもあるのじゃないですか。 ええ、自分のために、では プラトンせんせの対戦相手も同等だったんじゃないですか? やはり譲れなかった。 席を譲れないもの同士は、殺し合いをして相手を負かして自分がその椅子に座るしかないのか。 それって民主主義じゃなく、覇権主義の産物じゃないかと。 男性社会で永遠と古代から起こっているできごとで、今もそうですよね。 民のためだとかもっともらしい言い訳で誤魔化さず、誰でもなく自分の快楽のため、なにがなんでもこの席に俺が座る 邪魔するやつはかかってこい ぶったぎってやる。 これのどこが民主仕儀や正義を擁護するものなのでしょうか。 摩り替えていることに気づきますよね。 >能力によってできない。譲歩することが出来ないことが 人間の能力だという考え方です。 いや ダイアースとレートな人とイージーゴーイングな人がいる。 ダイアーストレートな人は、もろい。 そして不幸。 日本って変な風習がありますよね。 痛み分けすることで、硬直した状態を解除する。 プラトンせんせは、恐らくこのような風習を持つ日本を理解できないでしょうね。 ええ 民主主義でもなんでもないですよ。 多数決で決めるのでもないし、どっちが悪いと決めるのでもない。 両者がともに痛みをシェアすることで、両者とも生き延びるって考え。 後から「損したから、取り戻してやる」とか復讐心は起こらないんです。 >茶番劇ではなく 真剣勝負でした。 せんせ 賢いですよね。 せんせは他の政治家より自分の方がマシだと思っていたんですよね。 自分の方が上だと。 じゃあ 上の貴方が何故下の人たちに過ちをおかさせたんですか? せんせに罪は無いのに、あなたが頑固すぎたため、下の人たちに過ちを犯させてしまったんですよ。 無罪のあなたを殺すという過ちを。 賢者ならさせないべきでしょ。 相手の方々も自尊心のため、あなたも自尊心のため、両者が自分の名誉をかけて戦ったとしても、それが罪の無い人を殺させるという結果を生むのであれば、その大きな過ちを回避すべきことを第一優先にすべきじゃなかったんですか? 順序ってものがあるでしょう。 後からできるものと、今すぐやらなければ取り返しがつかないというものが存在する。 せんせは元は真理を探すために他者と問答していたんですよね。 他者の中に自分が考える真理と同じものを見出したとき、せんせは、自分の頭の中で考えた真理が、絶対真理だとはいえないが、かなり真理に近いと、人と問答をすることで、悟っていたんですね。 それで満足だったはずだったのに、後半は一体どうしちゃったんですか? 万人にもそうさせたかったのですか? なんのために? 自分が正しいということを多くの人に認めてもらわないと、自分が正しいのか正しくないのかわからなくて不安だったんですか? それでいてもたってもいられなくて、やっちゃったんですか? せんせはギリシャ人だから知っていますよね。 神が自分の息子が馬車につながれ引き釣り回され、自分の息子かどうかわからないまでにボロボロになってしまったという悲劇。 神の息子ですら、こうなってた。 せんせが神の息子のような最後になりたいと強く思っていたのなら、その通りになって本望な死に方だったかもしれない。 私にはわからない。 どうして男は名誉とかそういったものを命より大事にしたがるのか。 殺人事件を見ても、ほとんどが男。 戦争を引き起こすのもほとんど男。 犯罪を引き起こすのもほとんど男。 殴り合いの喧嘩をするのもほとんど男。 こうなってしまったら、罪の無いせんせにどうしても罪をつけなければならないとしたら、原罪。 男に生まれたという原罪になってしまいます。 せんせ 確かに日本は内乱で戦をしてきたし、戦争もやってきました。 でもね、その過程で、日本はバランスをとるようになってきて、今均衡をなんとか保っているんです。 ユニセックス的文化。 痛みわけをする土壌で育っている文化なんです。
お礼
今回は brageloneに戻って お応えします。 それというのも kigurumiさんは わたしの前回の〔ソクラテス自身のセリフとしての〕応えについて じゅうぶん分かっておられると見たからです。じゅうぶん理解が 行き届いておられると見たからです。 たとえば 最後のところで なぜ男が命よりも名誉を大事にするのかという問いを出されていますが これは むしろ 問題をそれこそ すり替えておられる。ソクラテスが どこで名誉を問題にしたのでしょうか。つまり それも分かって そういうふうに議論を別の方向に持っていこうとする。・・・ たとえば 《痛み分けすることで、硬直した状態を解除する風習》が日本にはあるという別様の議論を提出する。・・・わかっていて そうせざるを得ない何かを感じた結果ではないか・・・と。 イエスの話まで持ち出す結果となる。・・・ 《民のためだとかもっともらしい言い訳で誤魔化さず、誰でもなく自分の快楽のため、なにがなんでもこの席に俺が座る 邪魔するやつはかかってこい ぶったぎってやる。》 ――ソクラテスが こういうふうに考え振る舞ったという意味でしょうか。 すべて分かっていらっしゃると見ました。ばつの悪さを隠すためになりと そういうふうに別様の話に持っていこうとしてしまう。・・・ クセノフォンによれば ソクラテスは こう言ったことになっています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ [26] ――とはいえ、しかし、不正に死刑になるということなど、それほど気にすべきことではない。なぜなら、それが恥ずべきことであるのは、わたしにとってではなくて、有罪判決を下した人たちにとってなのだから。 (《バルバロイ》なるサイトより) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これをおしえてくれたのは kigurumiさんです。いかがでしょうか。
- kigurumi
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No.6 です。 ソークラテースせんせ、brageloneって何?って思いましたが、今回の質問者のハンドル名だったんですね。 喧嘩? 質問者と対話しかできないので、質問者そっちのけで、他の回答者と誰かの質問のカテで問答したことないので、恐らくbrageloneさんが質問をたて、私が回答という立場で、「いやいや こうでしょう」って回答を繰り返したのをせんせはご覧になって、しかも回答者のハンドル名もせんせは覚えているので、そう言っのだと推測します。 でもですね、他の回答者はどうか知りませんが、私「それだれ?」なんですね。笑 質問者のハンドル名を見て、回答を書くか決定していない、、、という。 しかも、今回指摘されてもいまだに「この人に回答をしたことあったっけ?」なんですね。笑 いやー せんせも実はそうだったんじゃないでしょうか。 裁判で言われて「それだれ?」って。笑 でも裁判に訴えた相手の人たちはしっかりと覚えており、死刑に値するとジャッジした。 あなたが古代で行った茶番劇(バカげたことで死刑にする)の再現でしょうか。 私はそんな低レベルの茶番につきあいたくないし、せんせほど頑固になれないので、ご覧になっていたらわかると思いますが、うまく説明できず、回答者に私の理解がうまく伝わらなかった場合は、「この質問は他の回答者にまかせてよう 誰かうまく説明できる人が出てくるかもしれない ってことで撤退!」を幾度もしている。 頑固じゃないし、押し付けもしない。 ただ、私の理解を書くだけ。 どの回答を「よし」とするのかは、回答者にしか決められない。 そして、他のジャンルなら、ある程度 正解が存在する質問で、ポイントをもらえるだろうが、私はポイントをもらうことを目的として、ここの参加などしていない。 だから、回答容易なジャンルに参加しない。 そして哲学カテにおける質問に対する回答には正解などない。 したがって、どんな回答だろうと、質問者が「理解した」であれば、ポイントが質問者からふられる。 それだけのこと。 正解が無い質問だから、参加者も面白いんじゃないですか。 だから、ソークラテースせんせも覗いているんじゃないんですか? せんせ calm down。 せんせは真理というものに固執するあまり、大事な事をうろそかにしたから、茶番裁判で死刑になってしまったと思うんですね。 せんせの言うとおり、せんせは罪状の内容のようなことはやっていない。 せんせはただ正義の者であろうとしただけ。 でもじゃあ せんせ 正義ってなんですか? 相対的にしかみれない人間が決定できるものですか? せんせだって相対的にしかみれない存在なんですよ。 地球は平らだって思っていた時代を生きた人なんですよ。 平らの観点に立ち、太陽は地球の周りをグルグルまわっていると思い込むしかなかった時代の方ですよ。 せんせは茶番劇の中心に立ち、茶番に参加してしまった方ですよ。 あなたが生きた時代からはるか2千5百年たった今でも、人間は真理を探し当てられずにいますし、今後もそうでしょう。 せんせがこの世を去った2500年後、「これが正義だ」という戦争が起こりました。 茶番という言葉を当てはめるのも恐ろしい戦争です。 力こそ神だとし、暴力を神だとし、勝ったほうが真理だと決定する、相対的にしか物事が見れない人間が起こした悲劇です。 せんせ、その暴力に負けてしまっては、暴力が正義だと言ったことと同じなんですよ。 だったら、脱走するべきだったんじゃないんですか? 何故友人の助言に耳を傾けなかったんですか。 頑固すぎます。 その頑固があなたを殺したんです。 あなたを殺したのはあなたの頑固さです。 頑固は必要です。 でも時を選ばなければ。 そしてあなたはその時を知らず、適切ではない場面でそれを使った。 これで後世に茶番裁判として記録されることになった。 といっても、、、、せんせは書物を残していないので、あくまで相対的にしかものごとが見れない第三者の目から見た風景が記録されたのを、今日の私たちは見ているわけですが。
お礼
みなさんにおわびとお知らせです。 上の補足欄でウェブサイトのコピーがうまく出来なかったようです。 というよりは ここで きちんとコピー・ペーストしても 何故か うまく出ないみたいです。 つまり No.6のkigurumiさんの回答欄のものですので それをご利用なさってくださるようお願いします。
補足
kigurumiさん 前回は 先輩ぶって ごめんなさい。ですが わたしソクラテスは あなたもおっしゃったように 《正義を擁護する立場》を守り通さねばならなかったのです。 今回 《でもじゃあ せんせ 正義ってなんですか?》と問いかけておられますが あなた自身が 《民主主義 つまり多数決で決めたことに従うべきで、自分もそれに従うのが、正義を希求するものにとっての取るべき態度だってわけです。》というように《正義》を使っているじゃないですか。 《自分が正しいとかどうかじゃなく、たとえ処刑されようと正義を擁護した者であることに変わりはない ってわけです。》 もちろんそのあと これを踏まえてこそ 《寛容 / 妥協・譲歩》のことにも触れておられるのですが この概念をめぐっては いくらかこちらも触れさせてもらいました。 《頑固だ・頑固すぎる》という指摘を受けましたが これだけは譲れないというところもあるのじゃないですか。 ご存知のように アニュトスくんが わたしに警告していたのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ――おお、ソクラテス、あなたは安易に人間を悪く言いすぎるように、わたしには思われる。だから、わたしはあなたに忠告しておきたい、――わたしの言うことを聞く気があるなら、気をつけるようにと。おそらくは、他国においても、人間に悪くする方が、よくするよりも容易なものだが、この国においては特にそうなんだから。もっとも、あなたは自分でもわかっていると思うけれども。 (おしえてもらったバルバロイなるウェブサイト:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/xenophon/apol.htmlより) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ このような表現内容に対しては 妥協どころか譲歩することができないと考えられます。能力によってできない。譲歩することが出来ないことが 人間の能力だという考え方です。 そうして みなさんがおっしゃっているように 市民諸君からの意思表示があったわけです。わたしにとっては これらに背を向けることのほうが 頑固なやり方だと思われました。 茶番劇ではなく 真剣勝負でした。なぜなら 市民諸君のことも然ることながら たとえば上のアニュトスくんのその思想に対して ここで妥協したら いまの人間の能力は失われると考えたわけです。能力によってこれこれは出来ないというときの能力です。(たとえば 婚約中に二股をかける人間を信用することができないのは 能力によってです。その能力がなくなれば ゆるすことになり 寛容だということになるようです)。この能力の保持では譲れないゆえに 判決を受け容れ 従いました。 (これは むろんのこと 上に出たウェブサイトの《ソクラテスの弁明》を読んで わたしbrageloneが すべて 推測したものです)。
- popesyu
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>ウィキペディアから引用した後半の部分が無関係だというだけではなくその前半の初めの部分も無関係 wiki内の「このため」がかかっているのは「相手は論破され恥をかかされたとしてソクラテスを憎むようになった」ですよ?? 元々関係ある書き方をされているとは思えないのですが。 "ソクラテスの罪"とは宗教的な意味での原罪というものではなく、当時のアテナイの刑法により定められたものでしかなく、でその罪の内容が当時の刑法での2項目にひっかかり、それが死刑に値すると民主的に判断されただけで。この民主的手法というのは、現代日本の裁判制度よりも、また今後採用される裁判員制度よりもよりはるかに直接的・民主的なシステムです。 現代日本では例えば功名心に焦った検察が起訴して、密室内の裁判であれよあれよという間に罪が成立してしまうことすらありますが、当時の裁判は弁護士も検察官も存在せず、市民であれば誰でも参加でき、誰でも投票できるわけで、つまり当時の市民の感覚で彼は裁かれたわけです。またソクラテスはだからこそ敢えてそれを受け入れたと。もしこれが現代日本風な裁判だったら、こんなおままごとには付き合ってられないと逃げ出したかもしれません。現代日本では逆に難しいことですが、当時のアテナイなら他都市への亡命というのは気軽にできました。 民主主義の価値観では、盲目の人が多数派ならその意見が正しいのです。これは物理的な意味での盲目という意味ではなく、精神的な意味でのことです。 だからこそ、民主主義体制化の構成員は自身が盲目にならないように切磋琢磨し続けていくことの義務を背負っているのです。 ※その辺りを3番さんは勘違いされているようですが。
お礼
popesyuさん ていねいにお答えいただいてありがとうございます。 wikiの文章を読んだ限りでは 当時の《常識》の側の賢人が論破されたということは 《「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を 〔ソクラテスのほうは〕 信じ》ていると解釈されたのかなと取れなくはないと・・・。いづれにしましても 分かり易いつながり(文章)では ないようでした。 なにはともあれ 市民の考えが表明された。これをソクラテスは 受け容れた。――これだと わたしも迷わずにいられるかも知れないと思いました。 現代日本の裁判制度についても触れておられます。法律関係には しり込みし続けていたので そのような裏の事情があるのではないかというところまでは感じていたのでしたが ちらっと触れていただいた点など わたしには 衝撃ものです。 あとは 上のことがら以上に重要で貴重な識見を明かしてくださいました。民主主義社会に生きる者のふつうの日常生活としてわきまえるべき実際を 指摘していただきました。もうわたしのほうからは――そのような方面に向けてとしては――何も言うことはありません。重ねて感謝申し上げます。
ソクラテスに対する告発のうち「若者を堕落させた」という点が重要です。ソクラテスの影響下で堕落した「若者」とは具体的にはアルキビアデスとクリティアスです。 前者はペロポネソス戦争の将軍としてアテナイの軍を率いてスパルタと戦い、謀略を尽くしますが結局アテナイは敗れます。後者は敗戦後アテナイに軍事政権を樹立し反対派を殺害する恐怖政治に及びます。その後トラシュブロスら「民主派」の抵抗により戦死。 この二人は若い頃ソクラテスの影響下にありました。プラトンの「饗宴」に登場するアルキビアデスは魅力的な美青年です。 ソクラテスが告発されたのはその後トラシュブロス派が力を得てからです。敗戦の責任者アルキビアデスと独裁者クリティアスを「教育した」ソクラテスを告発するということで、暗い時代にアテナイ市民に溜まった不満の矛先としてうってつけだったのでしょう。 民主的な決議によって判決は下されました。が、極めて政治的な画策の末にその「時代」が彼を有罪としたように思えます。
お礼
nakanonanakoさん たいへんさらに分かり易い解説をしていただいて恐れ入ります。ありがとうございます。恥づかしながら 知りませんでした。 思想にかんしては ハイデガーとナチスの問題(詳しくは知らないで出しますが)と似たようなところも あるのでしょうか。 けっきょく 憎しみを覚えて敵対するようになるのと 反対にむしろアイドルとして崇めるようになるのと どちらも――哲学はすでにおしえているはづですが――台無しにする場合があるということなのかも知れないと思いました。 ただし ご説明によりますと 知恵と知識の上での競い合いの問題(つまり 無知の知の問題)よりは その後の社会情勢のほうが 一役かっているとも見られるようですね。 戦さの勝ち負けは 時の運でもあるでしょうが 恐怖政治はいけませんね。 哲学を超えて 現実の社会力学がものを言うという問題なのでしょうか。――あっ いま気づいたのですが その社会の保守の側にあると思われるアポロンの権威も それにもとづいて行動したソクラテスだったのに 通じなかったのでしょうか。・・・ ありがとうございました。(お尋ねしてみるものですね。勉強はすべきものだとあらためて思いました)。
- tyr134
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「ソクラテスの無知の知」は、彼が当時の識者から恨まれる誘因になったエピソードですね。 当時のアテネは、ソフィストという識者が幅をきかせていました。 彼らは、現在の日本でいえば、まぁテレビに良く出てくるコラムニストやら識者やらの類と考えてもらえれば分かりやすいかと思います。(厳密にはちがいますが) ソクラテスは、アポロンの神殿で「貴方が最も賢い」とお告げを受け、その事を確かめるために当時社会で賢いと評判の彼らソフィストに問答を挑んだのです。 その結果、ソフィストは回答につまったり上手く返答できなかったりして徐々に識者としての「仮面」が剥がれていきました。 また、そんな「識者をやっつける」姿が痛快だったのか、若者の中にソクラテスを信奉するものが現れ始めます。 そこで、識者たちは自分たちの名誉を守るためにソクラテスを裁判にかけました。 その時にでっち上げた罪が「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」事となります。 この罪を告発されたソクラテスは、国法に従い裁判を受けます。 その裁判の様子は、後に何人かの弟子が著述しているのですが、一番読まれていて信憑性があるだろうとされるのがプラトン著の『ソクラテスの弁明』です。 その中で、何人かの論者と言論を戦わせ自分の無罪を主張しますが、結果は有罪と決まりました。 そして、ソクラテスは「国家は父のようなもの。父に従うのは正義(正しい行為)なのだから、(たとえ不当な裁判結果でも)その命令に従う事が正義である」として、友人の亡命のすすめにも応じず、死罪を受容しました。 簡単にこの経緯を話すと、詭弁を弄して真実をねじ曲げながら識者面して世間にチヤホヤされている人々を「エイや~!」とやっつけた結果、その識者達が法律を利用してソクラテスを告発。結果、合法的な裁判で(しかし、内容は陪審員が全員敵)な状況で死罪を言い渡された。 そして、ソクラテスは文句一つ言わず受容として受け入れた。 この一連の内容が重要なのです。(ソクラテスの罪の内容が重要ではない) >広く自由な価値判断について この、「ソクラテスの死」が重要なのは、「法律とは何か、正義(正しい事)とは何か」という問題です。 ソクラテスは「国家の命令(法律)に従う事が正義だ」として、死罪を受け入れました。 これは、法治国家の精神として重要です。 法治国家である以上は、何人も(例え王であろうと)その国家の法律に従う事が求められます。 しかし、その「法」が「不当なもの」であったらどうするのか。 つまり、個人の価値観や判断では「悪」と思える「法律」でもその命令に従わなければならないのか。 ソクラテスは従わなければならないとして、死を受け入れました。 つまり、「悪法も法なり」です。 しかし、一部の人(特に自然法主義者)からは「悪法であれば従わなくて良い」という批判もあります。 この議論において、「ソクラテスの死」は重要だと言えます。
お礼
tyr134さん ご回答をありがとうございます。 《「悪法も法なり」です。》――その法律は 《「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」事》 これをやはり規定していたのでしたか。規定していたというのは本当でしたか。まづ 形式としてこれですね。 信教の自由を持ち出すまでもなく 信じる行為は 人からは分からないはづですが それが明確に特定できたということは 《若者の中にソクラテスを信奉するものが現れ始めます》という外に現われた事実のほうなのですね。 あとは 《当時社会で賢いと評判の彼らソフィストに問答を挑んだのです。》というとき お告げの確認のためとは言え わざわざ人に挑戦する態度が反感を買ったのでしょうかねぇ。 ウィキペディア引用文の後半でのように 《韜晦》――結果的にでもそうなってしまったのであれば――という問題もかかわるでしょうか。 ほかには 現代から見て 表現の自由・言論の自由にもとづくという問題しかないようには思われるのですが。 (法律とその運営という側面も 実際においては 細かいことながら 大きな問題をもたらすものであるかも知れないですが)。 《法治国家の精神》にむろん従いつつ 実際としては いわゆるルサンチマンも はたらいていると見なければならないでしょうか。このあたりの事柄で みなさんのお考えを聞きたいと思いました。 判決を受けて われわれなら どうするでしょうか。ちょっと わからない感じもあってしまいます。 明快なご説明をありがとうございました。恩に着ます。
- popesyu
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無知の知の部分は彼の犯罪とは何の関係もありませんよ。 彼が問われた罪は「不敬神」と「若者を堕落させた」という点です。 裁判上の手続きは当時の法律に従い合法でしたし、結審も合法的になされたので、当時の法律上では罪は成立します。 彼の行為が罪にあたるがどうか、罪だった場合どの程度の量刑が最適なのかは投票によって決められ、彼はその決定に粛々と従っただけです。 もし今の価値観からの見解を知りたいのなら、罪であるかどうかという点を立脚点にすべきではないと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 もう少し細かくお聞きしてよいでしょうか。 《「不敬神」と「若者を堕落させた」という点》が問われたということは ウィキペディアから引用した後半の部分が無関係だというだけではなく その前半の初めの部分も無関係だという意味に解してもよいでしょうか。 つまり 《このため、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」等で公開裁判にかけられることになった。》の部分だけが 意味を持つのだが しかも 《このため》という叙述も 意味を成さないのだと。 もしよろしかったら 罪という視点を別として 広く自由な価値判断についても 合わせて お聞かせくださればさいわいと存じます。 いづれにしましても ありがとうございました。
補足
親愛なるkigurumiくん ソークラテースと申します。brageloneくんにとっても親愛なるけんか(討論)仲間(なまか?)のkigurumiくん まづは はじめまして。 先生と言われて 妥協も譲歩もせねばならないとも あるいは 先生と言われるほどのばかじゃないと返さねばならぬとも 思ったりしますが いちばんの感想は こうです。 あなたが あまりにも ディベートの方式を踏まえようとするためなのか 反対の意見を どこにでもいいから探し出そうとしているそんな感じを持ちました。全体の均衡や調和を 個人ひとりで図り過ぎなのでは・・・というのが率直なそれです。 予言者は故郷では受け容れられないという言葉を わたしは生前当時 まだ聞いていなかったけれど 執事にとって英雄はいない程度の言い回しは すでに常識であるから 謙ることを知らないわけではない。すべて相対的なことがらだという前提で わたしは善行しかおこなっていないなどと《高言》している。 それというのも みなそのことは分かっているからだ。また そういう表現を用いるのが われわれの習わしなのだ。brageloneくんやきみたちの側から見ると 何と傲慢不遜かと思われるかも知れないが。問題はそこにはないと思うのだが。 それではというので わざとこちらからも議論をふっかけるとしよう。相手に不足はない。 たしかに人が《道を譲るのは負けを認めたから譲るんじゃない》のだけれど 《「どうぞ お先に」という余裕の表れでもある》という理由からでもない。互いに いったん我れに還ろうということのようじゃなかったかね。エポケーというわけだ。その点はどうだろう? 妥協・譲歩 これらを知らないのではなく また しないのでもないが 考え方がちがっていると思うのだが。一概にどちらがいいか判別しえないとしてもである。 《自分が他者から寛容ゆえに許され生きるためには、他者に対しても寛容でなければならない。/ そうしなければ、いつか自分の不寛容さで自らに死を招く。》 ――おそらくこの考え方が ちがっているようぢゃ。《欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してはならず 吾人はすべからく人を愛しその存在(意志・表現の自由)を守り抜き 欠陥はこれを憎まねばならぬ。しかもこれは徹底的に憎む》のぢゃ。寛容はあとからついてくるものではないだろうか。ゆるすことなど出来ないほどルサンチマンが大きく深いとしても このいまの方針をつらぬくなら その感情が うそのようにどこかへ行ってしまっているという方程式だと思うのだが。・・・ ( kigurumiさん なつかしさも手伝いましたが これまでの誼みで おおきく受け留めてくださいませ)。ご回答をありがとうございました。