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『ソクラテスの死』と『人権』-「人権」は「法」より優先するか?
表題の通り、質問です。 ソクラテスは言われ無き罪で起訴されました。 そして裁判の結果、有罪となりました。 つまり、『冤罪』であったにも係わらず、 彼はその『罪』を受容し、「死刑」に服しました。 結果として、 「法治国家」である以上、どんなに不当であり理不尽であっても 「法」の命ずる所に服さなければならない。 以上は、『ソクラテスの死』の意義だと思います。 ここで、一つ疑問が生まれます。 「悪法」によって弾圧もしくは迫害されている人々が存在します。 ソクラテスのように、「不当な判決」に苦しむ人もいるでしょう。 これは、日本においても然りです。 そして、これを「人権の迫害だ」と声高に叫ぶ人がいます。 では、「人権」を「尊重」するために「法を犯すこと」は許されるのでしょうか? つまり、『法治国家』においては、 『人権』>『法』の関係なのか、『法』>『人権』の関係なのでしょうか?
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>「人権に則って生きる事」と言い換え得るのでしょうか? ソクラテスの場合は、人権と言う「権利」に即して生きるというよりも、法律という「制度」に即して生きる事が「善く生きる事」だと思います。もし、「善く生きる事=人権に則って生きる事」ならば、間違いなくソクラテスは脱獄していますよ。 >「法治国家」として正しい姿と考えていいのでしょうか? すみません。国語が苦手なので、ちょっと貴方の言いたい事が分かりかねます。(ここでは、「法治国家として正しい姿」というよりは「人権という観点から正しい姿」という表現の方が適切な感じがするのですが。国家の側からみれば、法治国家=全ての法律に基づいて行う国家でありますから、法律に基づいて統治している以上、非難には値しないでしょう<この点を先生は「法治主義と法の支配の違いだ!」と言っていた記憶が。ここは質問者さん御自身で確認してください>。まーそういう法律を制定した国家は問題ですが。質問者さんはこの辺を混同してませんか?) 少なくともソクラテスにとっては、法(「人権を侵す法」であっても)を遵守する事が命を賭してでも大切であり、それに逆らう事は<不当な行為>です。まー今日における人権観念(「命は地球よりも重い」的な)からすれば、理解に苦しむ行動であり、質問者さんはこの辺りに引っ掛かりを感じているのではないですかねー? 豆知識ですが、公共心よりも利己心・共同体の利益よりも個人の利益を肯定する傾向を蔓延させる危険性があるとして、ソクラテス・プラトンはソフィスト(トラシュマコスなど)を批判しています。 余り頼りになる回答が出来ず、申し訳ない。
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- kamikazek
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この世には最強のコンビが存在します。 それが「殺害くんと自殺くん」です。 これに勝ものはありません。 自殺志願者が、人を殺したら死刑と 決まっているのなら、どんどん人を殺して そしてそれからすぐ自殺しますよ。 当然ですよね。 でも。 「他人を殺した人は死刑です」という法律を 作りますか? 加害者、被害者とも、人権があるのは・・ というより、人権の唯一の良いところは 「再生」の望みが残されているところです。 だから生かして償いという裁きがありますが、 その裁きは「きまってない」し、「きめられない」のです。 一本化にきめてしまったら、 もうひとりの「自殺君」には思うつぼだからですよ。
お礼
回答ありがとうございます。 しかし、私の疑問は「法治国家における法と人権の関係」なので 「死刑や刑法」に付いてではありません。 「死刑に値する犯罪を犯した自殺志願者への刑罰」についてではないので。 その点、ご了承ください。
- kigurumi
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>では、「人権」を「尊重」するために「法を犯すこと」は許されるのでしょうか? ソクラテスが投獄されたとき、友人の脱獄の勧めを断っています。 いくら自分が間違えていないとしても、不正をしてしまっては、正義ではなくなるから というもの。 不当な判決であれば、不服として控訴していけます。 長い裁判になり苦しいものがあり、お金も地位も財産も失うかもしれませんが、自分が信じる正義までは失いません。 最高裁までいって、結局自分は間違えていないという証拠を提示することができなければ、法により裁かれます。 でも、絶対的自分が信じる正義までも塗り替えることは誰もできません。 法治国家である以上、例え不服であっても、法治国家を維持するために、不当な判決の指示に従うべきだと思います。 それができなければ<自分は正義を擁護する者である>と主張する権利は無いと思います。 人権とは民主主義国家において法がうまく機能している場所にしか存在しないと思います。 有罪になったからといって、義を奪われたわけじゃない。 自分の信じる義は誰も侵害することはできない。 例え裁判でも。 ショーシャンクの空というのは実在の人物をモデルにしているらしいです。 人権のかけらもない状態のおいても、「人には誰も侵害できない領域を持つ」という哲学が、彼を自殺においやらなかったように思います。 >『法』>『人権』 民主主義国家において、法は人権を擁護する役割も持ちます。 人権が法を擁護しているのではなく、法が人権を擁護しているわけです。 その人権を擁護する法の結果を否定することは、人権も否定することに繋がらないでしょうか。 例え、冤罪であっても、最高裁までいって負けたとしても、可能な限り闘う権利を法が与えている以上、そのチャンスをフルに活用し、それでもダメであっても、ベストを尽くした となり、社会がどう自分を白い目で見ようと、プライドまでは消せません。 確かに自分の価値は他人が決めます。 でも他人が決められない領域も持っている。 誰にも侵害されない領域は、誰も踏みにじることはできません。 例え神であっても。
お礼
回答ありがとうございます。 >有罪になったからといって、義を奪われたわけじゃない。 >自分の信じる義は誰も侵害することはできない。 これも、ソクラテスの精神をかたるうえでは重要な要点ですよね。 >その人権を擁護する法の結果を否定することは、人権も否定することに繋がらないでしょうか。 これは、ソクラテスの死の理由に通ずるモノがありますよね。 ソクラテスは「正義に従い生きる」事を生前に説いて回りました。 その自分が「不正義」を働いては、自分のこれまでの人生を否定するとして毒杯を仰いだのでしたね。 >民主主義国家において、法は人権を擁護する役割も持ちます。 >人権が法を擁護しているのではなく、法が人権を擁護しているわけです。 これも一面では然りですね。 皆さんの回答から私なりの答えを導きました。 「法」は「人権」を考慮して作られる。 しかし「人権」は「法の支配」から自由ではない。 つまり、 法律を作る段階 では 『人権』 > 『法』 法律が公布された段階から 『法』 >『人権』 となるのではないでしょうか? これが、『法治国家』における「法」と「人権」の関係ではないでしょうか。
- mogurayama
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こんにちは♪ ご質問の件、マキャベリなら「しかり」と言うでしょう。 しかし、ホッブスは「リバイアサン」の中で、 国法により、自己保存が害されるという場合、人々は抵抗権を 有すると見ています。 さらにはルソー・ロックの時代になると革命権もありと。 「思想」で言えば、tyr134さんがどちらと考えるかによります。 「正しさ」で言えば誰も分かりません。 また、「法治国家」という観点でみれば、法が優先されます。 いや、優先されるというより、人権の性格すらも法が規定しております。 「法が絶対じゃない。」とする法治国家があったとしても それは、「法が絶対じゃないよ。」と法治国家が法により 規定してくれているわけですね。 それが客観的に悪法かどうかも法治国家が手段立てて決めるわけであり 定められた手続きによらない抵抗権も革命権も認めないでしょう。 というかそういうものを法治国家と言いうわけです。 (あくまでも法治国家という語意からすると) さて、まったく話がそれてソクラテスの死の意味について 私の見解は、下記のみなさんといささか異なります。 ソクラテスは法が絶対で遵守する事により美しい死を遂げるような 人では御座いません。 もっとおちゃめでひねくれた意地の悪いやつです。 そもそも何が絶対なのか分からないことを知っているのがソクラテスです。 ソクラテスが理想としたのは決してアテネ民主主義ではありません。 民主主義政治の欠点も良く知っていました。そして、それだからこそ 哲人政治を目指していたはずです。 哲学を学んだものが政治をやるべきだとするものです。 アテネの民主主義は、ギリシャ最高の知性・哲人ソクラテスに 死を選びました。 それを受け入れたことでソクラテスは、 民主主義という国家システムの限界を当時の人々と後世の人々に伝える事に 成功しました。 と2丁目のプラトンさんが話していた気がします。 ご参考になれば幸いです。
お礼
回答ありがとうございます。 まったく仰る通りで、どっちの立場に力点を置くかで今後の自分の思想や行動が変ってくると思います。 もちろん、「正しさ」を主張するあまり盲目となり結果「不正」を行うことは避けたいですが。 >それが客観的に悪法かどうかも法治国家が手段立てて決めるわけであり 定められた手続きによらない抵抗権も革命権も認めないでしょう。 おおむねこれが法治国家の概念なのでしょうね。 つまり、「法」が「悪法」となった場合の「逃げ道、反対行動」を用意しておくと。 そして、「逃げ道、反対行動」が過激になって「悪法」でない「法」までも人々が犯す愚を未然に防ぐのがもくてきなのでしょうね。 もっとも、「抗議行動 = 悪法を犯す」とはならないでしょうけど。 私も、ソクラテスは民主主義のアンチテーゼの象徴だと思っています。 そして、「法治国家 = 民主主義」で無いことも端的に示した人だとおもっています。
- bababa8
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すみません。形式的法治主義と実質的法治主義を混同したかもしれません。どうも記憶が不正確で・・・。しかし、貴方の探究心には感服しますよ!?
お礼
>形式的法治主義と実質的法治主義を混同したかもしれません 気になって調べてみたのですが、「法治主義」を厳密に実施していけば、「形式的法治主義に陥る = 悪法も法なり」となるので、その反証として「法の支配≒実質的法治主義 = 「正しい法」でない「法」は無効である」とする思想なようです。 >貴方の探究心には感服しますよ!? いえいえ、私なんか単に机上の空論をもてあそんで愉しんでるだけですから。(卒論の命題選びの一環も兼ねてますけど(笑)一回生なんでまだまだ先なんですけどね。)
当該法律が違憲の判決を受けると、一般に、当該法律は適用されなくなり、数年後に法改正されるのが通常です。行政が最高裁の判決を重く見るのです。 また、日本には憲法裁判所が無いので、紛争が起きた段階で、その勝ち負けを決めるに当たって、違憲かどうかを審査するに過ぎません。他の過去の事件に遡って違憲とされる訳ではありません。あくまで、当該紛争が訴訟で争われた時に、違憲か否かを判断するだけです。 従って、過去にA事件でB法律のC条文が適用された場合であって、かつD事件で紛争になり、C条文が違憲であり、不当な人権侵害がなされる判決されると、まずD事件でC条文が無効とされ、その法適用が無効となり、また、それ以降、C条文の適用は控える態度を行政で取り、数年以内に法改正が行われると言うことです。
お礼
回答ありがとうございます。 >他の過去の事件に遡って違憲とされる訳ではありません。 つまり、以前の事件であるA事件はD事件の結果如何にかかわらず、「法の支配」を受け続けるということですね。(少なくとも、憲法裁判所の無い日本においてはですかね。)
- bababa8
- ベストアンサー率17% (5/29)
ある本からの引用からですみません。「ソクラテスの死」を知るためには、彼の正義論を知る必要があると思います。 彼にとっての正義とは「単に生きる事ではなく、善く生きる事です。」彼は「如何なる場合においても、不正を行ったり・不正の仕返しをする事は当を得た事では無く、害悪を受けても、その仕返しに害毒を与える様な自衛は不当である。」と述べています。 例え裁判・判決が不当であっても、アテナイ市民・ソクラテスにとって法律は神聖なる<ポリスとの約束>であり、それを覆す事は<不当な行為>に他ならない、と考えたのです。 ソクラテスにとって、自身の死そのものが徳・正義の実践だったのです。(簡単に言えば、法を遵守する事が大切であり、その中身は二の次である、と言う事ですかね。所謂「悪法もまた法なり」) 古代ギリシアにおいて「人権思想」があったか、と言われれば?ですし、No1の方が仰っている様に、ソクラテスを例に出して人権と法を語るのは、少し的外れかもしれません。 まーこれは私見(間違っているかもしれませんが)ですが、ソクラテスにとっては、人権<法律でしょ。繰り返しになりますが、ソクラテスにとってはあくまでも「単に生きる事では無く、善く生きる事。」ですから。彼は、法を犯して(=正義に反する)まで、生きようとは考えなかったのではないでしょうか。だからこそ毒杯を仰いだのでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 たしかに、ソクラテスの思想をそのまま現代にあてはめると『法』>『人権』となるでしょうか。 では、現代風にソクラテスを解釈すると、「善く生きる事」は「人権に乗っ取り生きること」と言い換え得るのでしょうか? そして、そうした場合、「法」は法であっても「人権を侵す法」であれば逆らう事が「法治国家」として正しい姿と考えていいのでしょうか?(逆らうとは、あくまでも「法を犯す」ことであり弁論その他の活動によって「法改正」を求める事ではありません)
補足
>古代ギリシアにおいて「人権思想」があったか、と言われれば?ですし、No1の方が仰っている様に、ソクラテスを例に出して人権と法を語るのは、少し的外れかもしれません。 言葉足らずですみません。 あくまでも、「法治国家において、不当な法であってもその命ずるところに服しなければならない」という『思想』の「象徴」として『ソクラテスの死』を引用しました。 なので、歴史的時間軸上において「ソクラテスは人権を知らなかった」という批判は無意味だと思っております。(誤解を与える引用であったことは認めます)
勿論、人権の方が法律より上です。 人権は「日本国憲法」で定められいます。 法律は「民法「刑法」など様々ありますが、 上位規範が憲法で、下位規範が法律です。 しかし、人権も万能ではありません。 死刑囚にも生存権はありますが、他者の人権を著しく侵害すれば(例えば、残酷に人を殺したなど)、当然刑法により、死刑を言い渡される可能性も勿論あります。他者との関係では、人権が制限される場合もあります。 しかし、不合理な人権侵害は「違憲」であって、無効です。そういうことを争うために、裁判所があります。 法律を作るのは、国会及び内閣または行政です。そして、人権を持っているのは、私たち国民です。 従って、違憲な人権侵害がなされたかどうかを、国民対国家で争うことになるのです。これを第三者の観点から、純客観的に審査するのが、裁判所です。
お礼
回答ありがとうございます。 >不合理な人権侵害は「違憲」であって、無効です。 つまり、「悪法」があってもそれが「違憲」であった場合、「無効」となるわけですね。 では、どこまでさかのぼって「無効」となるのでしょうか? 「悪法」が「公布」されるところから? それとも「無効」と認められたところからでしょうか? もし、後者であれば「悪法」が効力を持っていた期間は「法」に服すのが「法治国家」として正し姿でしょうか?(前者ならこの疑問は消えますが) >法律を作るのは、国会及び内閣または行政です。そして、人権を持っているのは、私たち国民です。 人権に乗っ取って法を作るのが、正しい姿だと思っています。 しかし、結果として人権を侵す法律が出来て公布された場合、その「法」は「人権を侵害している」として、「法」に逆らう(法を犯す)事ができるのでしょうか? もちろん、後に法を改正させることは出来まし、するべきでしょう。 ですが、改正されるまでの間は「その法律はないよ」となるのか「法律がある以上、服しなさい」となるのかで、「人権>法」か「法>人権」が変ってくるのではないでしょうか? そして、どちらが「法治国家」として正しい姿なのでしょうか?
- luune21
- ベストアンサー率45% (747/1633)
人権は思想です。法は制度です。 通常、制度は思想の上位層に乗っている概念です。Windows上で稼働するIEのようなもので層が違う以上、横並びに比較できるものではありません。一般的には法より下位の層にある人権の方が優先されることになります。(「一般的」というのは日本国憲法と戦力のようにいわゆる「悪法も法なり」とは違う方向性をもつ場合も多いからです) 18世紀ヨーロッパで発見された人権という概念は、いまや世界の法政治基盤思想です。また、人権は日本国憲法および国連人権宣言の中心思想でもあります。 今のところ、「死刑は人権と矛盾しない」というのが政府の考え方で、「矛盾している」というのが国連の考え方です。このために日本は人権宣言B項に署名しておらず批難を浴び続けているわけです。ただし、批難を受けているから悪いということを言うつもりはありません。日本独自の主張をしたって構いません。もしそれであればヨーロッパから借りただけの人権思想ですので(つまり大日本帝国憲法と同じ)一旦捨てて、再構築すべきでしょう。しかし、個人的には人権思想の再構築は不可能だと思います。どうやったって保守反動思想にしかなりませんし、いまさらUターンはできないでしょう。 (ソクラテスの逸話は人権を否定するため(もしくは人権の対立概念として)のものではありません。ソクラテスは人権思想を知りません。ご質問の命題にはふさわしくない引用だと思います) 垂直方向の層としては、下から人権>憲法>法>政治活動になると思います。また、この順番に理想→現実というように具体的になっていきます。戦力保持と憲法の関係を考えればわかると思いますが、このような論理性は、所詮、もうとっくに破綻しています。曖昧性こそが、日本人にとっての論理なので、憲法や人権なんて、そもそもどうでもいいことなのではないでしょうか。「人権」はちょっと高級すぎてアジア人には難しい問題なのです。身の丈にあっていません。 ま、しかし、さすがの日本の政治家でさえ、9条を改定することはあっても、人権の看板を下ろすほどバカではないでしょう(当面)。
お礼
回答ありがとうございます。 >人権という概念は、いまや世界の法政治基盤思想です。 その通りでしょう。また、それと同じ程度国家は『法治国家』であることを求められていると思います。 >、「死刑は人権と矛盾しない」というのが政府の考え方で、「矛盾している」というのが国連の考え方です ここでは、「人権上の死刑」を論ずるのではなく、あくまでも「明らかに冤罪である」ことが分かっており、それを主張する方法はいくらでもあったのにもかかわらず、ソクラテスは毒杯をあおりました。 その根幹にあるのが「法治国家においては、どんなに不当であっても法の命ずるところに服しなければならない」という思想があります。 その思想上での「法」と「人権」の関係だったわけです。 >垂直方向の層としては、下から人権>憲法>法>政治活動になると思います。また、この順番に理想→現実というように具体的になっていきます。 「法」を作る段階においては、この関係は成り立つと思います。 では既に「法」がある場合、そしてその「法」が「人権」を犯していた場合、「人権」を盾に「法を犯す」事は「法治国家」として正しい姿なのでしょうか?
補足
すみません、言葉足らずでしたね。 あくまでも、思想として『法治国家』において『法』と『人権』はどちらが上位に来るかと問いたかったのです。 『人権』を「否定」するために、『ソクラテスの死』を引用したわけではありません。 また、歴史的事実を聞きたくて『ソクラテスの死』を引用したわけでもありません。 あくまでも、「法治国家において、不当な法であってもその命ずるところに服しなければならない」という『思想』の「象徴」として『ソクラテスの死』を引用しました。 なので、歴史的時間軸上において「ソクラテスは人権を知らなかった」という批判は無意味だと思っております。(誤解を与える引用であったことは認めます)
お礼
たびたびの回答、ありがとうございます。 ソクラテスを持ち出した私が言うのもなんですが、 ソクラテスに捕らわれすぎると「法治国家思想」と「人権思想」の関係という命題に少しブレがでてきてしまいますね。 >>「人権に則って生きる事」と言い換え得るのでしょうか? >もし、「善く生きる事=人権に則って生きる事」ならば、間違いなくソクラテスは脱獄していますよ と、言う部分は自分で発言しておきながら、ソクラテスを都合の良いように「曲解」してしまうという「愚」を犯している気がしますね。 ソクラテスはソクラテスとして理解し、その「ソクラテスの思想」が今の時代と合うかを問題にすべきだったかもしれません。 >、「法治国家として正しい姿」というよりは「人権という観点から正しい姿」という表現の方が適切な感じがするのですが。 これは、なんとなくですが「法治国家としての正しい姿=支配者の思想」と「人権という観点から正しい姿=被支配者の思想」という構図が見えてきた気がしますね。 もちろん、単純な2項対立では説明しきれないでしょうが。 >余り頼りになる回答が出来ず、申し訳ない。 いえいえ、色々発見できてためになってます。 ありがとうございます。