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理由が正しければ(正義の為なら)法を破ってもいい?
本当を言えば「理由が正しければ倫理に反してもいい?」を聞きたいです 聖書にも神の命ならば自らの子を殺すのが正しいとされています。 法の下に行う死刑も言わば殺害です この前テレビで「無罪なら私が殺しに行く」と言っている遺族がいました。 これは一種の殺害予告で逮捕されてもおかしくない状況です(動機もありますし)。 しかし遺族という状況では同情される立場になってしまいます。 しかしそれでは範囲が広すぎるのでタイトル通りにしました。 どうなんでしょう? 「正義のためなら法を破ってもいい」 「どんな事があっても法を厳守するべき」 どちらも正論に聞こえます。 例えをあげると自衛隊は自分が攻撃されない限り反撃は出来ません(というか自衛隊自体違憲ですが)。 もし領海内で日本の一般船舶が他国の船に攻撃されていても自らが攻撃を受けない限り反撃は出来ません。自衛隊法に定めてあります。 果たしてこの状況で自衛隊員はどのような行動をとるべきでしょう? 法を破って自らの正義を遂行するべきでしょうか?法を厳守し同胞を見殺しにするべきでしょうか? 僕は前者はとても危険な考えだと思います。 これが正しいのならもし自衛隊員が「この政府では国が滅び人がたくさん死ぬ!」と判断した場合クーデターも正義になります。 現にクーデターや革命で成功した国も実在します。 僕はここを教えてほしいのです。 己の正義が正義とは限りません。しかし法は決して正義の模範ではなく秩序を保つ為の決まりであるのです。 もちろん正義とは人間によって定められるものではありませんが、一般的な他人を救うというのは少なくとも正義であると僕は思います。 正義の意思か、秩序の法か、人間、国家はどちらを選ぶべきでしょうか?
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- remix0522
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ソクラテスは、「悪法もまた法なり」と言っていたとのこと。私もまたソクラテスとともに、秩序の法、あるいは法の秩序の方を選びたい。と、申したいのですが、格好つけすぎかな(^-^)。もし法の支配というものが存在しなくなったら、ないがしろにされ顧みられなくなったら、人間のこの世界は、生き続けるに値しない世界になってしまう、と考えていますが。
- shibupooh
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こんにちは。 とても興味深く質問を拝読いたしました。 >「正義のためなら法を破ってもいい」 >「どんな事があっても法を厳守するべき」 私の考えは(こんなことを言うと元も子もないかもしれませんが・・)、「それは人それぞれだ」というものです。 「正義」とか「いい」とか「するべき」の判断は人それぞれ違いますし、それを客観的に定義することは難しいと思います。 仮に、それらを客観的に定義したものが「法」であるという前提に立つならば、「どんな事があっても法を厳守するべき」に一票です。 >「無罪なら私が殺しに行く」と言っている遺族 もし本当に実行したならば、その遺族は法により裁かれます。 法治国家ですから、どんな事があっても法を遵守するべきです。 しかし遺族の気持ちは痛いほど分かります。 おそらく司法も、遺族の気持ちを斟酌し情状酌量の判決を出すことでしょう。 煮え切らない回答で恐縮ですが、単純に「二者択一」できる問題ではないように思われます。
- sutekicut
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非常に興味深い質問です。 自分もまだこれと言った正解が見いだせず、悩んでいます。 現時点での見解を申せば、私は己の正義の意志を尊重します。 極端に言えば、最悪の事態に直面した場合、私は法を変えるべく動きます。 国家にも、正義の意志を尊重すべく働きかけます。 かなりの危険思想を持っていると言ってもいいでしょう。 ただ、アインシュタインも述べている通り、私はこれらの問題の、本当の正解を人間が見つけることは永遠にできないと考えています。 その時代の流れが、その時代の国民の総意が決めるものです。 質問者さまと同様の極端な例を申せば、もし私がクーデターを起こし、 時代の流れが私を選んだとしたら、私はクーデターを成功させるでしょう。 時代に必要とされなければ、犯罪者として、処罰されます。 だから、私はものすごい重大な出来事や思想を見つけない限り、 自分の正義を主張しつづけ、あとは運を天に任すつもりです。 こんな解答ですが、いかがでしょうか?? 願わくば、質問者さまと議論してみたい所存です・・・
- pojipoji
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質問者の方は、次に引用するような記載についても書いてあるから正しいないし正義であると考えておられるのか知りたいと思います。 ペテロ手紙第一2.18 「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。」 テモテへの手紙第一6.1 「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです」 テトスへの手紙2.9 「奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、」 2.10 「盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。」 コロサイの信徒への手紙3.22 「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。」 エフェソの信徒への手紙6.5 「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」 6.6 「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、」 6.7 「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」 6.8 「あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。」 出エジプト記21.2 「あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。」 21.4 「もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。」 21.5 「もし、その奴隷が、「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません」と明言する場合は、」 21.6 「主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。」 21.7 「人が自分の娘を女奴隷として売るならば、彼女は、男奴隷が去るときと同じように去ることはできない。」 21.20 「人が自分の男奴隷あるいは女奴隷を棒で打ち、その場で死なせた場合は、必ず罰せられる。」 21.21 「ただし、一両日でも生きていた場合は、罰せられない。それは自分の財産だからである。」 申命記20.11 「もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。」 20.13 「あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。」 20.14 「ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕り品を自由に用いることができる。」 20.15 「このようになしうるのは、遠く離れた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。」 レビ記25.44 「しかし、あなたの男女の奴隷が、周辺の国々から得た者である場合は、それを奴隷として買うことができる。」 25.45 「あなたたちのもとに宿る滞在者の子供や、この国で彼らに生まれた家族を奴隷として買い、それを財産とすることもできる。」 参考 http://www.bible.or.jp/
- 53r
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>「正義のためなら法を破ってもいい」 「どんな事があっても法を厳守するべき」 質問者様は、法をどういう意味で使っておられますか? 法にも、憲法、法律、規則、命令と色々です。 また、正義にも客観的な正義と主観的な正義があると思うのです。 憲法は全ての法規範の最も上位の法ですから、憲法に違反する下位の法規範は、無効ということになります。 そして、憲法は、客観的正義に適った法であるはずです。 (もちろん、主観的には、全く同意できないという考えの方もおられます。どうも、憲法の問題となると9条だけが取り上げられることが多いようですが、憲法は、個人の尊厳を最高の価値原理として、国民の権利と自由を守る為に国家権力を拘束する法ですから、国家権力側にいて、個人は国家の為にあると考えるような者にとっては、憲法の理念そのものが鬱陶しいことこの上ないということになります) そうすると、正義(客観的正義)と法はそんなに矛盾しないのではありませんか? 「正義のためなら法を破ってもいい」 「どんな事があっても法を厳守するべき」 →法は、正義に適うはずだから正義の為に法を破る必要は無い、もっとも、例外的に法が憲法に違反して、もはや正義の法といえない場合は、無効な法だから遵守しないこともやむをえないと考えます。 例えば、今までに、最高裁判所により違憲無効とされた法に、薬局の距離制限を定めた薬事法、共有林の分割を禁じた森林法、尊属殺重罰規定があります。 質問者様も「自衛隊自体違憲ですが」と仰っていますように、全ての法が必ずしも憲法に適っていないのが現実です。 もちろん、歪な主観的正義の為に客観的な正義の法を破れば、法を遵守しなかった責任を負うのは当然です。 >しかし法は決して正義の模範ではなく秩序を保つ為の決まりであるのです。 そうですか? 例えば、故意に人の生命を奪えば、刑法によって殺人罪に問われます。 正義の規範であって、かつ、秩序を保つ為の決まりであるとは考えられませんか? 「法は秩序を保つ為の決まりである」という捉え方は、非常に危険な捉え方だと思います。そこで思考停止してしまい、決まりは決まりだから守らなければならない、決まりは守ることが目的だ、ということになりかねません。(そういうの学校の先生に多くありませんか?憲法も教育基本法も子供の権利条約も読んだこともなく、校則しか知らないという人達です) 法の目的が何なのか、正義に適っているか、民主的手続きによって定められたか、法に定めた規制が法の目的とするところと適合性があるのか等、身近な法や決まりについて、問い続ける事が重要だと考えます。 もちろん、自衛隊法だって身近な法です。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
前半の法に関する部分と自衛隊を例に挙げた話はちょっと違う話なので、後半の話について。 江戸幕府が倒れ明治維新が成功した直接の原因は、薩長がいわゆる「錦の御旗」を手に入れたからです。これで薩長軍が「正義の軍隊」となり、江戸幕府は「賊軍」となってしまいました。しかしほんのちょっと前には長州が「賊軍」となって二度に渡って江戸幕府から長州征伐軍が送られています。かように「世の正義」なんてのは右にも左にも変わるものです。20年前なら若者はリベラルで左翼的な思想を持つ人が多かったですが、今は保守的で右翼的な思想が流行りです。 そーもそも近代民主主義じたいがイギリスなら清教徒(&名誉)革命、フランスならフランス革命で生まれたものです。アメリカ独立戦争だってある種の革命運動ですからね。
法を遵守するのが自衛隊員の努めです。 自らが攻撃を受けない限り反撃できないと法に定めているのであれば、それを遵守するのが正義です。たとえ犬死しようが。 自衛隊員が勝手な正義感をふりかざして違法行為を行うということは、すなわち国益を損なうことに繋がります。 「二・二六事件」に代表されるように、軍部が勝手な正義感で暴走した ことが結局は亡国の始まりだったということを忘れてはなりません。
自分が正義と信じて行う事の中で それが法に反すれば裁かれるだけのことです もし大多数が正義と認めるとやがて法の改正をすることになりますね ただしわが国はこの改正が極めて遅く(無責任ともいえます)臨機応変さに欠けるので 特に国民レベルでは損をしているとおもいます
- anachronism
- ベストアンサー率31% (186/591)
> もし領海内で日本の一般船舶が他国の船に攻撃されていても自らが攻撃を受けない限り反撃は出来ません。自衛隊法に定めてあります。 はて、そうでしょうか。 自衛隊法には、海上警備行動というものが定められており、防衛大臣が総理大臣の承認を得てこれを発令すると、自衛隊の艦船は一般の船舶を、武力を行使して保護することが可能になります。 領海内に入り込んだ他国の艦船が、日本の一般の船舶を攻撃するような事態であって、自衛隊の艦船が現場海域にいるにもかかわらず海上警備行動が発令されていない状態というのも考えにくいので、ご心配には及ばないでしょう。(そんなことが起こるなら、法と正義云々の前に、行政機関の無能でしかありません。)ですから、「法律を遵守して同胞を助ける」のが正解です。 また、法律には「正当防衛」と「緊急避難」という2つの考え方があって、真に自己および他者の生命財産を守った事であれば、罰せられることはありません。「一般的な他人を救うというのは少なくとも正義」と、法律はちゃんと認めているのです。 あなたが例示している事例は、法律(国内法規および国際法規)でその適否が判断できます。おそらく、あなたの考える正義と、少なくとも日本において法律が定める正義は、案外矛盾しないでしょう。 とはいえ、あなたが心配するような「法律の縛りにより自衛隊が同胞を見殺しにする」ような事態が絶対にないとは言いません。ですが、そのようなことが起こるとするなら、そんな法律を作らせた、主権者たる国民の責任です。「そのような場合には自衛隊は同胞を見殺しにするしかない」ことがわかっているのに、「自衛隊は違憲だから」「自衛隊がクーデターを起こすかもしれないから」などといって、そういう法律を作っているのですから、どうしようもありません。 もちろん、個人の正義と法律の正義は一致しないことは多々あります。それは、社会の常であり、個人の正義よりは法律の正義を優先するのが常識です。なぜなら、法律の正義は国民の総意としての正義であるとみなされるからです。 では、国民の総意としての正義と、法律の正義とが一致しない場合はどうなるでしょうか。本当にそうであるならば、それは主権者あるいは統治者がその責任を問われるわけです。その一形態が、クーデターであったり革命であったりするのでしょう。ですが、日本の場合は、主権者は国民です。一致しないのであれば、一致させなかった主権者であるわれわれ国民の責任に他ならないことになります。 われわれ主権者たる国民が考えなければいけないのは、「一致しない場合にどうするか」ではなく、「一致しないことをどうするか」ではないでしょうか。
- yokihito005
- ベストアンサー率22% (103/467)
法はわたしたちの社会ではこのようにしていきましょう、、、という合意であって、社会に参加するわれわれに課せられた契約、、と言い換えることができるでしょう。。 いっぽうで、正義というのはわたしを含んだ集団の価値観(に沿ったモノ)を指し示す広義の言葉で、わたしを含む集団を国と捉えるか、人類とするか、キリスト教徒とするか、家庭とするか、わたしそのものとするかで自ずと示されるモノが変化します。本来の主観とはちょっと異なりますが、わたしの属する集団の”集団的主観価値”なのだと思います。 こうして整理すると、社会(通常は国、地域など政治主体がある集合になります)における正義は法の遵守を絶対的に含んでいると考えてもよさそうです。 法と正義というのは安易に対比されたり、併記されたりされがちですが、本来は次元の異なる言葉=カテゴリー・エラーなのです。 さて、ご質問の 「正義のためなら法を破ってもいい?」では、正義を意思する(あなたを含んだ)集団を定義しないと、細かく場合分けして論じなければなりません。 「どんな事があっても法を厳守するべき?」については、法がこの社会における”合意”、”契約”を意味していることからして、当然「そんなはずないでしょう?!」という答えになりますね。どんな事..というのが無制約である以上、また”正義”が主観である以上、合法的だがあなたの(属する集団の)”正義”に反するどんな事でも設定可能ですから。。 一般的には個人の”正義”と”法”とは一致しません。したがって、法のありようも個人における”正義の意思”に制限をかけないように戒められています(第19条)。ですが、”国家の正義”はその成り立ちからして法に合致せざるを得ないですから、違法は”国の正義”の元に裁かれることになります。既存の社会の正義が(社会の)多くの構成員の正義と一致しなくなった場合、国の正義が人類の正義と一致しない特殊な事情下などでは、法(契約)が他の正義を抑圧したり、逆に法(契約)が書き換えられたりするのでしょう。。。それが法を破って人を救うことだったり、クーデターであったりするわけです。
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