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ショーペンハウアーの意志は、ヘーゲルの精神とどう違うの?
ただ趣味で哲学書を読んでいる程度の知識です。 ドイツ語もわからなくて、いまいちよくわかりません。
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- didier
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ヘーゲルのことはだいぶ説明されているので、ショーペンハウアーについて回答します。ショーペンハウアーの意志とは「盲目的に生を求める意志」「カントの物自体、すなわち認識の彼岸にある森羅万象に元来存するものである。」ということになります。例えば、石にも意志は存在します。石が重力に引きつけられて、落ちること自体が意志の現れであります。また、植物の体液が、重力に逆らって、都合の良いように上昇するのも、意志の顕現です。この現象は、自然科学では説明できません。人間が、生きるために呼吸をするのも科学では説明できません。確かに、脳幹に呼吸中枢があるのは分かっていますが、それでも肺で呼吸する説明がつきません。率直に言えば、エラ呼吸でも良かった訳です。実際、地上に棲む生物にもエラ呼吸の生物はいます。まあ、その場合は、水中と陸地を行ったりきたりしなければいけませんが。 しかしながら、よく問題提起をされるのが、認識できないはずの意志が、なぜ、認識できるのか?というものです。はっきり言って、ここから先は、天才の領域です。彼曰く、天才は純粋主観に最も近い存在である、ということです。純粋主観とは、物事をほとんど客観的に見ることができるようになるという意味です。 何分、ショーペンハウアーは意志の説明にだけでも、厖大な紙面を割いているので、この短い説明文の中では、解説できません。詳しくは、「意志と表象としての世界 正編 続編」を参照のこと。 最後に補足をすれば、ヘーゲルの述べていることは、はっきり言って、すべてショーペンハウアーも述べていますし、その上を行っています。したがって、ノーベル賞受賞者たちがショーペンハウアーを絶賛する気持ちも分かってきます。
●ショーペンハウエルが西洋史を否定的に評価するなら、なぜ彼はカントの後継者を自認していたのでしょうか?カントは彼にとって、何が特別なのでしょうか?自然科学的といっても、まさか、カントの太陽系生成論を受容したとも思えませんし… 主著「意志と表象としての世界」で、ショーペンハウアーが西欧の思想を消極的に評価していたことは、議論の余地なしです。キリスト教的世界観を悲観的に描き、仏教思想の優越性を結論に置いてしまった主著は、当時の大学では評価されませんでした。キリスト教的思想は意志の問題に言及しないため、苦悩や煩悩の原因、意志(近代社会の問題と考えてもいい)を克服できないと彼は考えたのです。彼は、主著の第1版、第2版の序文のなかで、「わたしの哲学がカント哲学から出発し、・・・」と述べて、更に、カントの教説を、意志を克服できる強力な論理、つまり、「人間の精神が根底から迷妄を覚まされ、すべての事物を別の光の中で眺めることができる」哲学として明らかに別格扱いしています。さて、ショーペンハウアーのテーマは、いかにして人間(精神)が意志の支配に打ち勝つか、です。衝動的無秩序にうごめく、生きようとする意志に人間が支配されてしまう原因は、人間が、人間や世界の根本が意志から成っていることを認識していないからです。まずは、苦悩や煩悩の原因である意志を正しく認識すべきだと彼は述べ、意志を認識できる強力な論理がカント哲学の中にあると考えているのです。カント哲学の継承者でありながら、西洋史(西欧の思想)を否定的に(消極的に)評価していたとは、このような意味です。 ●ショーペンハウエルは戦争の発生を必然的で不可避なものだと考えていたのでしょうか?カントの「永久平和のために」については、何か発言しているでしょうか?もしちょうどよい発言が知られていないようであれば、ショーペンハウエルなら「永久平和のために」をどのように評価するか、推測できませんでしょうか? 彼の論理に従えば、生への盲目的な意志の肯定(意志を認識できない状態)で暮らす人間が圧倒的多数ですから、そのような人間は自己中心的享楽的生き方に従ってしまいます。人間の集まり、国家が意志に支配されたままであれば、国家の行動原理は自己中心的な強欲にしかすぎませんから、戦争は必然で不可避的です。カント哲学の論理を使って意志を正しく認識すれば、国家は意志の衝動を克服できますので戦争を避けられます。ただし、この境地に達した人間や国家が歴史上存在しえたのか疑問ですし、存在したとてもごく少数(カントと彼自身?)でしょう。意志の認識が永久平和につながると彼が考えていたことは間違いありませんが、そもそも永久平和は無理だろうとも考えていたと思います。彼が青春時代に見た西欧近代社会の悲惨さから、このように推測できるように思います。 ●人間も世界も意志であるとする彼の思想に、カントからルソーの一般意志の理論を受け継いだと思われる要素はありますか?それとも、彼のいう意志は、別の文脈でとらえたほうがよいでしょうか? 彼の述べる意志は、当時知り得た自然科学的な原理の哲学表現に見えますね。大元は仏教思想から拾ったそうですが、「万有引力」とか「磁力」とか「接着力」とか、あういう根本的な自然科学的原理のひとつ、のように読めますね。ですから、彼の意志哲学の内容や語彙は、先達の意志論に影響されてはいるものの、それよりも、彼が目撃した近代社会の行動原理(例えば、私利私欲にまみれた商業主義)の原因を哲学的に「意志」と呼んでいるようなのです。近代社会の悲惨さを見つめていったら、その根本原因として盲目的な意志の動きが見つかり、更に見つめていったら、世界の根本原因が実は意志だった、みたいな感じですね。主著で、彼は「自然がついには結局その根底を露呈するのではあるまいか」というゲーテの言葉を引用し、動物の行動や人間の精神(心理学的な側面)の奥に潜んでいる存在として意志を説明していきます。ある意味、科学書のような展開(脱線)をみせる面白さが、主著にはあります。 ※西洋哲学対東洋哲学とは、哲学史などの便宜的表現としてそのように書かれています。 ※楽観的とは、あくまでも比較のための表現です。「ショーペンハウアーもそこまで悲観的ではありません」と書かれてしまったら、比較が展開できません。あくまでも比較のための便宜的表現です。 ※議論は勘弁してくださいね。削除を食らいますから。指名されても困ります。それから、質問者様には御答えしますが、回答者様に回答する形式ではないので、別の質問を立ててください。 ※質問者様のご質問の趣旨は、ショーペンハウアーの意志とヘーゲルの精神との違いをたずねておられますので、趣旨に応えられるよう比較を明確に打ち出すように心懸けました。つたない表現もあったでしょうが、比較のために分かりやすく書いた、とお考え下さい。ヘーゲルやショーペンハウアーの各論については、私もですが、お互いに勉強を続けましょう。答えられそうな範囲で、お答えいたしました。
- harepanda
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ft4545ftさん ANo1ことharepandaです。待ってました、ショーペンハウエルに詳しい人! kyuuri-さんに、より詳しく分かっていただくため、私が持つ以下の質問に答えていただけないでしょうか?私も知りたいです(そっちが本音かも)。 ●ショーペンハウエルが西洋史を否定的に評価するなら、なぜ彼はカントの後継者を自認していたのでしょうか?カントは彼にとって、何が特別なのでしょうか?自然科学的といっても、まさか、カントの太陽系生成論を受容したとも思えませんし… ●ショーペンハウエルは戦争の発生を必然的で不可避なものだと考えていたのでしょうか?カントの「永久平和のために」については、何か発言しているでしょうか?もしちょうどよい発言が知られていないようであれば、ショーペンハウエルなら「永久平和のために」をどのように評価するか、推測できませんでしょうか? ●人間も世界も意志であるとする彼の思想に、カントからルソーの一般意志の理論を受け継いだと思われる要素はありますか?それとも、彼のいう意志は、別の文脈でとらえたほうがよいでしょうか? それから、以下はコメントです。 ▲「精神対意志を、西洋哲学対東洋哲学、文系社会哲学対理系科学哲学、と見ることもできると思います。」 非常に良く分かります。弁証法家の私は、まさに文系社会哲学の系譜です。ただ、西洋哲学対東洋哲学という枠組みには、多少の違和感があります。西洋哲学の内部に、「英米系哲学と大陸系哲学」という枠組みが存在するからです。英米系哲学者には、ルソーやヘーゲルに批判的な人がいます。カール・ポパーあたりが有名で、要は大陸系思想家は全体主義の先駆けだという理論を展開しています。大陸系思想家の側から反論すると、物事は本来、有機的に出来ているものであり、それを構成要素に分解したり、物事の特徴を並べ立てたりするような分析的思考法では、人間や社会のことは理解できなくなる、ということになります。 ▲ヘーゲルは歴史の進展について、そこまでは楽観的ではありません。死ぬ前に書かれたおそらく最後の作品である英国選挙法についての論文は、「このままではイギリスは革命が発生する」という懸念を表明するものです。また、彼の経済理論はマルサスに似ており、景気循環の概念に到達していませんので、経済はひたすら悪化する一方という悲観的傾向が見え隠れするように思います。
二人の間には、西欧の歴史を積極的に評価するか(ヘーゲル)消極的に評価するか(ショーペンハウアー)の違いがあります。 ヘーゲルは、精神は個人の内側の心模様としてだけでなく法や国家の形で現れると述べ、すべての精神現象の根本法則は弁証法であると説きました。ヘーゲルの説く正反合の弁証法によれば、対立から新しい物が生まれ、その新しいものが別の物と対立し、更に新しい物が生まれていきます。例えば、人類は古代よりいつも対立の種を抱えてきましたが、時には話し合いにより、時には戦争により、新しい解決策を見出し進歩発展を遂げてきました。弁証法は、人類の歴史をつらぬく唯一の法則なのです。人類(精神)は、正反合の弁証法的プロセスを繰り返しながら、いつかは神の領域に近づく。このように、ヘーゲルは近代に至る西欧の歴史を積極的に評価し、人間の精神は弁証法を通じて神に近づける可能性があると考えました。 ショーペンハウアーは、人間や世界の自然科学的側面に着目し、西欧を理想化せず、悲観主義からの脱出手段として仏教的世界観を提示しました。人間も世界も、その本質は意志であり、理性的な人間の奥には、休息なく混乱錯誤を無規律に繰り返す存在、意志、がうごめいているる。意志とは、無を恐れ死から逃れようと必死にもがく、生きようとする意志であり、動植物も世界も、そして人間自身も実は意志そのものであり、ここに苦悩や不安が生まれる原因がある。人間(社会)は理性を持っているから意志の衝動を抑えられるが、時には意志が理性を支配してしまうこともある。戦争を始めることもあれば、貪欲に操られることもある。だが、人間が、世界の本質が意志であることを認識し意志を否定すれば、無を恐れることはなくなり、煩悩に苦しむことはない。このような反西欧的悲観主義は大学では評価されませんでしたが、晩年近くになり、西欧社会の行き詰まりを打破しようとする思想家達(ニーチェ、マルクス、ウェーバー、・・・)によって再読され、芸術や心理学などで大きな影響を残しました。 ということで、ヘーゲルは西欧の理性を肯定的に捉え、歴史は精神の弁証法的展開の過程と考えましたが、ショーペンハウアーは、一部の芸術を除いて、西欧の理性に希望や進歩を見出さず、心の安定を求めて無の認識に挑みました。ヘーゲルは社会科学寄りであり西欧の精神を楽天的に評価していますが、ショーペンハウアーは法や国家に体系的言及がなく、(当時の)自然科学寄りの思想を展開したため、傍流の雰囲気が付きまといます。普通に読めばヘーゲルが本流に見えますが、ショーペンハウアーには色彩学やフロイドに通じる面白さがあります。精神対意志を、西洋哲学対東洋哲学、文系社会哲学対理系科学哲学、と見ることもできると思います。
- harepanda
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私はヘーゲルのことはそこそこ詳しいのですが、ショーペンハウエルのことは、ほとんど知りません。下記に自分の見解を書きますが、ショーペンハウエルについて詳しい人が補足説明や批判を加えていただければ、助かります。 まず、ヘーゲルもショーペンハウエルと同じく、意志という言葉(ドイツ語でも同じです)を使いこなしていた人物であることを、理解する必要があります。ヘーゲルの意志論は、カントの意志論と同じく、ルソーの一般意志の後継者であり、一般意志と特殊意志、個別意志が一致している状態が理想であるという考え方があります。カントの場合は、一般意志の原理に合うように個人が行動することが倫理的な生き方であるという考え方です。後期ヘーゲルはさらに具体的で、国家や国会において一般意志が現われ、団体であるとか企業であるとかの特殊意志、個人の個別意志とが一体となって、ひとつの国という有機的存在を作り出しているという考え方になっています。ここには、ヘーゲルの普遍・特殊・個別をどう説明するかという論理学が背後にあります(ちなみに、フランス系研究家は一般意志と言いますが、ドイツ系研究家は普遍意志と訳すほうがおおいです)。 私の見る限り、ショーペンハウエルの意志論は、この、ルソーという哲学史上の天才の鋭さを背景としたものではなく、自分自身のオリジナルであるようです。ショーペンハウエルはカントの後継者を自認していますが、カントの意志論の向こうにあるルソーを理解していないのではないかと思います。おそらく彼は、カントからは、認識論しか継承していないのではないでしょうか。ショーペンハウエルの使う「意志」という言葉は、非常に日常語の意志に近く、ヘーゲルやカントが使っていたルソー式の意志論が背後にあるようには見えません。 ショーペンハウエルは基本的には、生の哲学や実存主義の先駆的な思想家であり、多くの実存主義者と類似的な傾向を見ることができます。ただし、実存主義者の中でも、キルケゴールは別系列です。この人は、ヘーゲルから弁証法を受け継ぎ、それをベースに実存主義に到達したからです。キルケゴールの態度を一言でまとめると、以下のようになります。「君は今は幸せ者かもしれない。でも、どんな幸せ者でも、不幸者に転落してしまうことがあるんだ。そのプロセスを、僕が示してあげよう」。つまり、ショーペンハウエルや後世の実存主義者を理解するにあたっては、ヘーゲル式の弁証法的手法を用いた実存主義もまた存在可能であり、実存主義とは人間の自由意志や実存からスタートするもので、人間は世界の中で孤独であるとか、人間と世界の間には認識論的断絶があるとかのパターン化は、視野の狭いものである、と注意したほうがよいような気がします。ちなみに、弁証法哲学の中には、キルケゴール研究からスタートしたアドルノの例もあり、彼のメンタリティはかなり実存主義者に近いと思いますが(キルケゴールからスタートしているのだから当然です)、理論構成や文章の書き方が、他人の文章を読んでその思考過程を共有することを経験と呼ぶヘーゲル式の弁証法的思考が、そのまま残っており、ヘーゲルと同じく、カント式の認識論は採用しないという傾向が見られるような気がします。 で、ヘーゲルの精神概念ですが、これは全部を語るとやたら長くなってしまいます。簡単に説明すると、ヘーゲルの場合、精神と自然とをセットで理解すると、分かり易いのです。精神の本質は自由。自然の本質は不自由。精神が主体であり、自然が客体であるという原理を貫徹することで、いわゆる観念論を強化しているわけです。ヘーゲルは精神を、個人の精神という意味で使うだけではなく、大きな社会現象に対しても、精神という言葉を使います。ナポレオンがイェーナに入城した時、ヘーゲルは「世界精神が馬に乗って通る」と表現しています。さて、ドイツ語だけではなく英語にも見られる現象ですが、習慣のことを「第二の自然」と呼ぶことがあります。「アメリカ人にとって、クルマのドアの開け閉めは、第二の自然だ」と言ったりするのです。ヘーゲルの場合、「精神とは第二の自然である」という発想の上に、社会が習慣的倫理をもって維持されていることを表明することになります。ところで、「自然の不自由」というヘーゲルの精神理論の範疇にいる限り、古典的な社会哲学である自然法を活用することに限界があります。ヘーゲルは1810年代には、自分の法理論を自然法と公言していたようなものですし、実際に歴史法学派と自然法派の論戦には、自然法派の立場で加わっていました。しかし、途中で、「自然の不自由というスキーム上、自然法という言葉はまずいな」と気がついたらしく、1821年の「法の哲学 - 自然法と国家学」では、自然法という言葉は使われず、哲学的法という言葉に置き換わっているのです。そしてこの哲学的法とは、第二の自然である精神にもとづいた自然法なのです。 ちなみに、ヘーゲルですら、ルソーを完全に把握し使いこなせるようになるまでには紆余曲折があり、彼が若い頃に書いた自然法の経験的扱いについての批判というテーマについては、ルソーがとっくの昔に同じ結論に達していたことに気がついていなかった様子がうかがえます。ルソーという天才は、自然法理論を、こう切ってのけたのです。「だれそれは、自然とはこのようなものだと述べた。だれそれは、人間本性の根拠をどこそこに求めた。だれだれは、今の社会が生まれる前にはこんなことがあったと述べた。だが、本当の自然にたどり着いた人は、今までに、誰もいない」。つまり、人間本性を自然と同じものとみなし、それに基づく自然法が理想の法だという発想は、それぞれの思想家が自然や人間をどのように理解しているかによって、全く違う答えを出してしまう、と指摘しているのです。ヘーゲルの文章より、よほど分かり易く、鋭い指摘です。