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意志とは何か?

~~~~~~~~~~~~~~ ドイツ語のwilleの意味を教えてください。 http://okwave.jp/qa/q8841553.html ~~~~~~~~~~~~~~ the will g2307 θέλημα thelēma http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=6&t=KJV#s=t_conc_1003040 ~~~~~~~~~~~~~~ 意志の否定とか肯定とか とにかく「意志」がなんなのかわかりません。

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回答No.1

 《意志》は ひとに生まれつきそなわった自然本性の内のひとつの行為能力を言います。  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性: 身の五感が知覚すること。  4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。  5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。  7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。  あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。  9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。  9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。  9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。  10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。  なお 次の質問は 特に《意志》の問題を問うていますので掲げます。  【Q:自然本性としての《むさぼらない》という能力】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7446214.html

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ちょうどよかった。命令法の質問を見て 思いついたことがあります。 ~したい、に対して しろ、とか、するな、というのは 「法」と関係するのかもしれません。 法に合わせて意志を否定したり肯定したり。 法哲学を全く知らないので、てきとうですけれど。

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  • kurinal
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回答No.5

「鉄拳」では、20世紀に逆戻りですか。

回答No.4

19世紀は生物学が発展した世紀で、ラマルクの「動物哲学」やヘッケルの進化論、そしてダーウィンの「種の起源」などの著作、それにこれは生物学とは直接関係ありませんが、フロイトの「精神分析」、そしてショーペンハウワーの「意志の哲学」とニイチェの「力への意志」など、それまでのデカルト・カントなどの合理主義的哲学に対する批判として非合理主義の哲学が台頭してきたのが19世紀です。 動物に「本能」があり、人間の行動の元には「意志」があると見なされました。 動物の行動を説明するときに「本能」を想定すると、動物の行動のパターンを合理的に説明できるからであり、人間の場合は理性とかによるよりも意志というものを想定すると、人間の行動の一定のパターンを示すものを合理的に説明するのに都合が良かったからです。 私たちは動物の、オスがメスを追いかけて性交しようとする行動が繰り返されると、それはきっと「本能」がそうさせているに違いないと言い、動物の行動がそれによって理解できるものになります。 別に動物の体内に先天的に「本能」があるわけではないのに、行動のある一定のパターンを示すもの、繰り返されるものを見ると、きっと先天的に「本能」があって、それに基づいて行動しているに違いないと、もともと帰納法的に導かれた概念に過ぎないのに、あたかも先天的にあって、演繹的に動物の行動を導き出しているものにみなすわけです。 本末転倒ですが、人間のものの考え方には帰納法的なものを演繹的に考える傾向があります。 このことは「意志」に関しても同じで、人間に先天的に「意志」なるものがあるわけではなく、人間の行動の「傾向性」、ある種の行動をひき起こしそうな内的状態を想定し、その状態によって、行動が引き起こされると考えます。 その「内的状態」が「意志」と言われるもので、私が手「を」上げるから、私の手「が」上がる、を差し引くと、残るのは「意志」だと見なされています。 ショーペンハウワーやニイチェは、それまでの理性に基づく合理主義的哲学に対して、非合理的な「意志の哲学」を唱え、理性よりも「意志」の方が人間の行動を説明するのにふさわしいと考えて、「意志」を人間の本体であり、理性は表層にあるものに過ぎないと考えました。 フロイトは自我とか理性の元には無意識のリビドーがあり、その無意識のリビドーによって、人間は操作され、操られているのだ、といい、その無意識の抑圧から精神の病が生じると言い、精神医学に革命をもたらしました。 そもそも哲学における「意志」の優位の思想は、ヘーゲルの合理的な理性の体系に対して、後期のシェリングが唱えたもので、それをショーペンハウワーが学び、19世紀の生物学の知見に基づき、「意志の哲学」を唱え、それがニイチェの「力への意志」という哲学へ受け継がれて行ったわけです。 ショーペンハウワーは「意志」を人間の性欲と考え、性欲は人間の理性を曇らせて、物事の真理を覆い隠してしまうから、意志の否定を唱え、意志を否定すれば物事は透明に見通しのきくものになると考えましたが、ニイチェは逆に「力への意志」が人間の本体なのだから、これまでの理性に基づく哲学はすべて間違いだと言って、プラトン・アリストテレス以来の西欧の哲学の歴史をひっくり返し、価値転換するために、むしろ積極的に「意志」を肯定し、「力への意志」を中心とする哲学を展開してゆきました。 このニイチェの「力への意志」の哲学から、20世紀に「実存主義」だとか「ポスト・モダン」の哲学へとつながり、哲学の歴史に転換をもたらすことになります。 しかし、人間に「意志」というものが先天的にあるのかといったら、そんなものは無いので、人間の行動の一定のパターンを示すもの、そういうものを見て、これは「意志」に基づく行動に違いないと単に想定しているだけに過ぎない。

回答No.3

感受と行動をつなぐ情報処理。 特に、そのニューロネットの中に脳を形成し、 五感の相関した経験を蓄積して外界を再構成した 場合の、統合的判断(客観<->自覚)を指す。

  • ways
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回答No.2

「志す意」という意味でしょう。 目的を持った言動の、もとになる力、気持ち、と言えばいいか。 人を動かし導くもの、という、神聖な意味合いも感じます。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 もとになる力とか気持ちなのですね。

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