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それでもなぜ人と関わるのか
哲学カテゴリーじゃないかもしれないですが・・・ ちなみに私は20代男です。少し長い文であることを断っておきます。 家族の愛だとか、友情の素晴らしさとか、相手の為の自己犠牲とか、そういった理念(理想が)が数十年前と比べて無効になった印象を受けます。いわゆる身勝手な人間への説教としてこういう理想を持ち出しても一笑に付されるだけです。 社会学系統の本を読んでいると、社会構造の変化(家族や社会の役割が以前とは違う)が「理念の死」の原因の一つであり、また戦後から現在の間に自然科学が大きく発展し生命や感情の相対化を推し進め、それらの神秘性が薄められていることも大きいと思います。(行動学、脳科学などなど) もはや、観念的な態度(日本人のわかり合いの精神だとか)で人間関係を考えることは許されず、戦略的なシャレ(本心ではない行動)の言動を積み重ねて生きていくしかないのかななんて感じてしまいます。理念的な事を声高に直接説けば痛い人と看做され、緻密に積み重ねられた方便を経ないとだめです。(無駄話の中にそれとなしに紛れ込ませるとか)そして、そういう間接的に説かれる理念も、周りを害している場合が多分にあったりするのです。 きっと、理念や理想を通じて人が社会と関わるあり方は、主流ではなくなりました。本質的には人間は自己満足のために利己的に生きているのかもしれません。 さて、ここで疑問があります。 それでも、人は互いに関わり合います。なぜか。 この理由として、それも感情的な安全の為や実質的な利害を考えて動くからだという説明があるのですが、この説明が完全ではないと思える時が多々あります。 @利己的な人がバッシングされるとき。(お前は利己的だ、というとき当り前のことを言っているだけなのに) @誰かと「楽しさ」の共有をしている時に、感情的な安全、利害以上のものをも共有している場合がある。自分の損得を見失っている。また、自分が(名誉のためなどではなく)犠牲になって誰かに貢献する場合。 @そして、人間関係を虚無的にとらえる人がおそらくは主流になってはいないこと。評価されたり、もてはやされないこと。(プライベートな人間関係をシャレとして捉えている人は少ない) ここで改めて、どうして人は人と関わるのか、という疑問が湧いてきます。 このような問題に取り組んでいる文献をご存じであればそれも付記してください。
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- tecchan22
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自己犠牲は尊いと思っているけれど、自分が本当に自己犠牲出来るかというと、それは非常に難しい問題。 死んでも悔いが無い、という気持ちに常になっていなければ、中途半端な自己犠牲しか出来ない。つまり、いざとなれば保身に走る。生物としては当然でしょうが。 だから難しい。けれど、難しいからこそなのか、それが尊い行為だということは、みな感じる。 一般には、愛情を多く受けた人ほど、人に愛情を返せるように思うが、 もっと根本には、なぜ自己犠牲が尊いのか、その根拠を納得できるように示されることが必要だと思う。 参考文献としては、「子育てハッピーアドバイス」(明橋大二)を挙げておきます。 ちょっと方向が違う(人間関係と子育て・・)が、内容的には、結構合っているのではと。人気のある本ですが、とても良かったです。
- hotsquer
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最近は、911以降様々な陰謀説が飛び交っており、 衛星放送のッヒストリーチャンネルなんかでも、ひっきりなしに 関連文献や情報より、そういった趣向の物を放送しています。 そして、昨日今日やっていたのは、キリストと反キリストの話題で 、イスラエル周辺を中心として、政治活動的に反キリスト者<悪魔の手先>が現れて、 世界を混乱に陥れる。という内容で、それが今予言論者の中で話題になり、いろいろ物議を読んでいます。まあ、流行ちゃー流行です。 米には、そういったキリスト教系の信仰でありながら、予言論を信じて、終末思想的に世界が破滅するときに、イエスが再臨すると信じ、 信仰している場所もあるとやっていました。 しかしながら、キリスト教もイスラムも教義の差で戦いを起こしますし、自分達の信仰<希望>を失望させる物、悪にしますし、キリスト 教以外のグループでも、自分達の希望<心の安定>をくじく物を反応 的に敵視します。 それで、迫害や差別が起きますが、誰しもが本当は、これが他に行く場所がないモチベーションである事も知っています。 しかし、予言信仰のグループでも、自分の内面に反キリスト的な部分はないか?と内面を見つめる事が重要なのだ。とナレーションがありました。自分は、キリスト教ではありませんが、無神論者でもなく、 そのどちらでもありません。他の宗教との関わりもありませんが、聖典ぐらいなら目を通します。 昨日発見し、散々書いていますが、信仰にも、根本には、個人の希望を 求める形と、それを信じたり達成する事で、心の安定に行き着く事が出来ます。 しかし、他者が信仰が違い、希望の形が違い、相手も当然自分の希望と 達成される形が違いますから、否定し、争い、時にどちらかが失望し 戦いに敗れ希望がたたれ、失望し絶望します。 しかし、きずいたのはこのどちらにも形が違うなりに、希望<心の安定>を求める感情があるということで、これを理解する事で、新しい共有があるのではないのでしょうか? 否定的な話しも実は、希望を求める形<モチベーション>、また社会 も多くの人のあらゆる希望を達成する形で、渦巻いており、これが 自分の求める形と必ずしも一致しないので、そこで失望する人も大勢 いるかもしれませんが、根本は皆希望<心の安定>を求めている のが根本にあると思います。 しかしながら、人によっては、人を騙したり、戦争をしたり、昔から 伝わるその家系がやってきた事を維持しなければ、失望するので、 争いを生み出し、それがモチベーション<希望>になっているかもしれません。また、それが世界の人々が求める形と、一致するとは限らないので、とりあえずの当面は、世界の人々が失望しているかもしれません。 しかし、根底にあるのは、希望<心の安定を求める形の違い>の 違い、『何を達成する事で、充足を獲られるか?の違いだけ』であり、 社会にも、人にも、たとえその人が否定的な事を言っている、社会が 否定的な作用をしている場合でも、根本にはそこに希望を求める形の違いがあるだけなのであはないか?という事です。 それは、理解すると新たな共有が生まれ、希望が達成されない事で生まれる失望と行き止まりのような苦しみを軽減する事が出来るようになるのではないか_?という発想です。
お礼
正直、よく理解できません(でも、できるだけわかるように努めます) 責める意図は全くないですが、指示語・接続詞の係り方が不明瞭な文章だと思います。(不快になられたらごめんなさい。) 本題です。 あの、アメリカの異端者に対するアレルギーは何なのでしょうか?ラッパーみたいですね。(俺が好きじゃない奴、気にくわない奴は帰れ的な) 回答者さんの言う、「心の安定を求める形」に拘泥していると思います。思い出したのですが、テロ後に書かれたシェリル・クロウの曲で「let's get free」というのがあり、印象的な歌詞があります。「ねえ教えて。あなたには、アラーが味方についているの?イエス?それともあなたのプライドなの? 不安な夜を過ごすのにそれらは役立つの? すべての人には信じられる何かが必要なのよ」という歌詞です。 すべての人が心の平安を求める気持ちの理解、その形式が違うということ。確かにそうですね。この理解の楽しさを求めるということが、利己性を超える一つの在り方かもしれません。 何か神さんに従う集いというのではわからないから、「キリスト教」という形にまとめられているのだと思います。道具でもある「形式」をすべて捨て去るのは不可能ですが、「形式」に拘ることで、害を撒き散らす人間があまりにも多いと感じます。何かにこだわることが、正当性・プライドの証明、その先の心の平安という構図になっているのです。 明らかに自分が害を及ぼしているのに、しらを切り続ける人間を見ていて反吐が出そうになります。(すでに悪い結果が出たことに対して、まだ自分にこだわっている。)
お礼
>なぜ自己犠牲が尊いのか、その根拠を納得できるように示されることが必要だと思う。 納得いく根拠は少なくとも私は知りません。 >参考文献 一万年堂出版 という会社は「親鸞会」という宗教団体の系列の会社です。学生会員として半年ほどいましたが、ここの教えることに納得がいきませんでした。明橋さん(や本「なぜ生きる」の高森さん(親鸞会の会長))はこの宗教をベースにして、本を書かれています。 ですので、信仰は自由ですが、(ときに一般社会とは相容れないような)偏りがあるということを、記しておきます。