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それでもなぜ人と関わるのか

哲学カテゴリーじゃないかもしれないですが・・・ ちなみに私は20代男です。少し長い文であることを断っておきます。 家族の愛だとか、友情の素晴らしさとか、相手の為の自己犠牲とか、そういった理念(理想が)が数十年前と比べて無効になった印象を受けます。いわゆる身勝手な人間への説教としてこういう理想を持ち出しても一笑に付されるだけです。 社会学系統の本を読んでいると、社会構造の変化(家族や社会の役割が以前とは違う)が「理念の死」の原因の一つであり、また戦後から現在の間に自然科学が大きく発展し生命や感情の相対化を推し進め、それらの神秘性が薄められていることも大きいと思います。(行動学、脳科学などなど) もはや、観念的な態度(日本人のわかり合いの精神だとか)で人間関係を考えることは許されず、戦略的なシャレ(本心ではない行動)の言動を積み重ねて生きていくしかないのかななんて感じてしまいます。理念的な事を声高に直接説けば痛い人と看做され、緻密に積み重ねられた方便を経ないとだめです。(無駄話の中にそれとなしに紛れ込ませるとか)そして、そういう間接的に説かれる理念も、周りを害している場合が多分にあったりするのです。 きっと、理念や理想を通じて人が社会と関わるあり方は、主流ではなくなりました。本質的には人間は自己満足のために利己的に生きているのかもしれません。 さて、ここで疑問があります。 それでも、人は互いに関わり合います。なぜか。 この理由として、それも感情的な安全の為や実質的な利害を考えて動くからだという説明があるのですが、この説明が完全ではないと思える時が多々あります。 @利己的な人がバッシングされるとき。(お前は利己的だ、というとき当り前のことを言っているだけなのに) @誰かと「楽しさ」の共有をしている時に、感情的な安全、利害以上のものをも共有している場合がある。自分の損得を見失っている。また、自分が(名誉のためなどではなく)犠牲になって誰かに貢献する場合。 @そして、人間関係を虚無的にとらえる人がおそらくは主流になってはいないこと。評価されたり、もてはやされないこと。(プライベートな人間関係をシャレとして捉えている人は少ない) ここで改めて、どうして人は人と関わるのか、という疑問が湧いてきます。 このような問題に取り組んでいる文献をご存じであればそれも付記してください。

みんなの回答

noname#80116
noname#80116
回答No.12

No.10です。 No.4のお礼欄に書かれた次の文章をわたしは 誤解したようですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わかり合いを嘆いてはいません。私は機能主義なところが多分にあります。で、「教条への固執」や「それとなし排除システム」、「内はぬるま湯、外は南極」みたいなのは大嫌いです。いじめの根本ですね。日本人の特質だからしゃあないですけど。わかり合いが通用しなくなっているのは、グローバリズムに侵食されている結果だと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さらに文章は続くのですが これをひとまとまりとして捉えるとき     合理的になるべく多くの人に分かり易く機能する《わかり合い》 こ   れは 日本人の特質である。これをつうじて社会を運営するなら 多少   の《いじめ》は いいのであって その事態や「それとなし排除システ   ム」がはたらいていれば この日本人の特質を活用して わたしたちは    さらに新たな《美しい国》づくりにも 向かっていけるのだ。 このようにおっしゃっているのでしょうか。もしそうでしたら わたしが誤読しました。誤解しました。あなたは わたしが わたしの文章をつうじて 言論としての《分かり合い》によって どうか恥ぢ入って欲しいと願った側の人でした。どうか自由な言論ということで お納めください。

ta999
質問者

お礼

>多少の《いじめ》は いいのであって  ああ、確かにこのように読まれると非難があるのかもしれません。 しかし、「しゃあない」という言葉は~~~の間に括弧つきで書いた特質が日本人の国民性のようなもので、なかなか拭えない(何かを考える時に織り込み済みにしないといけない)という意味合いで使ったのです。いじめは不愉快なことだと考えています。 それに、話していることと関係がなく’’一流行語’’にすぎない「美しい国」を出す必要はないでしょう。 >どうか恥ぢ入って欲しいとーー バカの壁(侮辱しているわけではないのでご理解のほど)という本があって、バカの壁とはIQの差というわけではなくて、「自分の理解したようにしか物事を考えられない(それを、他人に押し付けてしまう。あるいは、考え方の違い(バカの壁)のせいで戦争が起こる)」というような意味で使われていました。 ある価値観を妄信(狂信)している相手との間の「壁」はやはり厚くなるでしょう。そもそも、この質問がいろいろな意見を素人が聞くという趣旨でたててあるので、価値観を理解させたいと(恥じ入らせたいと)思うのなら、持って回った書き方をせずに本論が通りやすいように書くべきでしょう。 あなたの書き方を見ていて、何か一つの価値観を絶対と思いこんでいる人だ、との感覚を覚えるのです。価値観は相対的なものだと思われませんか。

回答No.11

@1->空気とでもいいうのでしょうか。許される利己的な行為とその場の空気に許されない利己的な行為があるのでしょう。ミシェル=フーコーは狂人が古代に渡ってもっと社会に溶け込んでいたことを指摘しています。全体主義や障害者問題などを考えるにあたって、面白い著作です。流行では、レヴィナスやアーレントあたりが、他者とどう関わるか?について現代的に考えさせてくれるのではないかと思います。 @2->遊びなどの事柄でもいいのですが、仕事や勉学や研究に集中していると、不安が無くなる状態になります。先人達の多くも古今東西問わず、それが尊いと言っている人は多いと思います。これは、一種の他者(または神)に対する自己犠牲みたいな行為と似ています。意識が自分に行くか、別な方向に向いているか、によって、自己が感じる辛さが異なります。意識が自己に行き過ぎるナルシストが自傷行為を行うのは、利己的になりすぎているからだと思います。利己的に自己を守ることが最善であるということを前提にしている質問者さん並びに一部の回答者さんは、自己犠牲による心の安静があることを実感していないのでは。 @3->何を主流にするかによって異なります。テレビを含む大衆の意識を主流にするならば楽観的な価値観が求められます。それでもどんな人も色々な問題を抱えており、人間関係を後ろ向きに捉えた芸術作品や文学作品は決して少ないわけではないと思います。表も裏もあるのが人間関係。中庸を重んじたら哲学でもなんでもないオチ。

ta999
質問者

お礼

ありがとうございます。図書館などで、@1で指摘された本を借りて読みたいと思います。

noname#80116
noname#80116
回答No.10

(誇るのなら) 1  太宰治ではないけれど わたしは萎縮していた。 わたしが萎縮していたのは 抵抗力の現われである。 萎縮という反応じたいが わたしに与えられたわが抵抗力である。 2  わが日本人は 勇敢にも不仕合わせに耐えている。 萎縮しない。 3  だが もしそうだとすれば わたしから見れば そこに抵抗力はない。 4  いや抵抗力があって強いからそうなのだと言うとすれば 互いの仕合わせは すでに諦め 放棄したからだ。自分自身のそれは 放棄していないかもしれない。 5  ここでいう仕合わせとは シンライカンケイのことだ。 6  だから実際には 自分自身の仕合わせ自体は放棄していないというのは ありえない。自己矛盾なり。カンケイなのだから。 7  そもそも〔根はいい人だからという理由で〕人を信じたことのないわたしは そもそも人間じたいについて〔信じてくれと言われて〕信用することはできないと考えているわたしは 信頼関係に入ることについては 諦めていない。 8  たとえば 約束を守ることだ。違えるならば 訳を説明し 詫びることだ。 9  生身の人間どうしの信頼関係にひびが入るのは 実際だ。だから 修復する。諦めない。 10  欺かれるならば 萎縮する。抵抗力があるからだ。諦めていないからだ。 欺かれたというその不仕合わせに勇敢にも耐えることはできない。 存在を放棄することができないからだ。 《欺かれるならば 我れ在り。Si fallor, sum. 》だったのだ。 11  嘘と演技とで 勇敢にも《抵抗する》ことはない。シンライカンケイの破綻なる不仕合わせに勇敢にも耐えて 萎縮はせずに 大胆にも嘘と演技なる虚構のうちに立ち向かうことは しない。そうすることは 抵抗ではないからだ。そうするのは  すでに抵抗力がなくなったからで 信頼関係の修復を諦めたからで だからこそ 《果敢なる忍耐》が始まるのだ。萎縮という・存在としての抵抗は消える。 12  なぜって 虚構で破綻を修復しようというのは 修復をほんとうには諦めたからだ。 13  ましてや その破綻に輪をかけて いまのフィクションを二重・三重に膨らますことは出来ない。そうする人 そうできる人は 勇敢にもその不仕合わせに耐えようとしている。 14  破綻という事実は 取り返しのつかないことだと考えているのかもしれない。けれども その破綻の上に城を築こうという。相い対する別の人ごとに蜃気楼閣をふくらませる。 15  不仕合わせに耐える《勇気》は ストーリをこしらえる想像力の豊かさ その演技のうまさへと そこでは 《発展》する。これが 《世の中》であり 《大人の世界》だとなる。 16  不仕合わせに耐えることが出来ないという抵抗力 その能力 これが人間の能力であり この弱さを もし誇るのなら 誇ろう。 17  ぎゃくに言おう。萎縮せずに不仕合わせに耐えられるという理性のちから その強さ これは むしろ人間が人間を信じることができるという美学にもとづいている。 18  根はいい人なのだからというので 人その人については 信用することになっているという一大虚構の美学。日本人であることじたいのシュウキョウ。 19  欺かれて 欺かれるのは当然のことと受けとめたところで抵抗力をなくしたゆえ 幻想の構築に走った・・・。 20  欺かれて 人その人については信用しあっているが 信頼関係についてはその破綻をそれでよいと認めている。そこで 抵抗力を捨てた。いや そんな抵抗力など要らないと考えているのかもしれない。人自身を信用しあっているということについて 実は そのこと自体が虚構なのだから これの構築を絶えず要請される。その基盤には 社会共同のものがよい。古くは 自民党と巨人と太閤秀吉と。《強い》ものであることが要請される。 21  この強さは 死に基盤を置いている。どうせお互い いつかは死ぬ身だ。死ねば 神である。いい人であり 信用しあえる。だから 生きているうちは あるいは もし死にたくなければ えせ宗教でよいから 長いものに巻かれなさい 巻かれつつ 和を以って貴しと為せ。そうすれば 不仕合わせにも耐えられるのだよ・・・。 22  抵抗がなくなった。抵抗力が消えている。不仕合わせに耐えることが出来ないという能力が欠如している・・・状態。 この現実を見よ。 *こういうことを言いたいためですかねぇ。

ta999
質問者

お礼

皮肉を言っているのだとしても、もっと普通に書けないのだろうか。 もしそうだとしたら、私のような人間に恨みがあるのか、「投影」をしているのだと思います。(それとも釣って怒らせて喜ぶたぐいなのか) 哲学の分野の知識がないので不正確だとは思いますが、コメントを述べます、 人生相談系統の質問板に行くと、 「大人の世界はもっと厳しいんです  そんなことになったのはあなたが幼かったからです。」 要するに(お前は子供だ!大人になれ) というような「一行回答」が散見されます。 この回答でおっしゃりたいのは、そういった類のことだと思います。 この回答は過程を掘り下げている分それよりも高度だとは思うし、実感もできる内容です。 そして、人生相談板の「吐き捨て」だって20のような’’強いもの’’を通じた虚構ですね。あなたは、古くは、とおっしゃりますが、 10-15の流れを見ると、そういった昔の強い虚構に固執しているように感じます。(間違いだと申し訳ない) 人間関係はすべて虚構といってもいいかもしれない。 が、虚構を問い直す、考えなおすことこそが勇気だと僕は思います。(最善は少ないのだから。)それが、「強さ」の在り方ではないですか? 昔の虚構が崩れたこと(崩れているのだから別のが必要)を嘆いているわけではないし、それでは先に進まないのです。

noname#52347
noname#52347
回答No.9

>そして、人間関係を虚無的にとらえる人がおそらくは主流になってはいないこと。評価されたり、もてはやされないこと そうなんです。この事実がポイントだと思うんですよ。 愛があればすべて解決するとはいいませんが、大抵のことは解決するとは言えると思います。 こういうのは人間の話だけかと思ってたんですが 今、私の動物(ペット)が手術して弱ってるんです。 普段はお互い意に介さず 私も向こうもただ勝手に生きているだけでしたが 今は向こうから 始終 すり寄ってきて、ほんとにびっくりします。 撫でてやるだけで 不安を忘れるらしく、(ほんとになんでだろうーーーー?)こっちも自然とテンションが降りていき、全く別の関係になっています。 動物も生き物同士の関わり合いを全然虚無的にとらえていないということがよく分かりました。 近代愛の崩壊として参考文書:「闘争領域の拡大」「素粒子」ちょっと否定的な内容ですけど。

ta999
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

noname#78143
noname#78143
回答No.8

誰かと関わらなければ自分が何者か分からないからだと思います。 どんな人間でも自分が何者か知りたいと思って生きているから 関わらざるを得ないのでは?

ta999
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そういう点もありますね。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.7

社会学関係なんかでは、都市化したことによるコミュニケーションの希薄化が指摘されていますね。 昔は、数百人規模の農村が点在しており、そういった村では人と人との関係が緊密化します。 言ってしまえば、村全体が一つの家族であり、特別な存在なのです。 そして、その関係が一生続く事になります。 生まれてから死ぬまで、同じ人物と付き合います。 相手が特別な存在であれば、自己犠牲精神も発揮し易くなります。 しかし、都市化したり近代化したことにより、人と人との関係が希薄化してしまいます。 義務教育を終えたら、みんなバラけてそれぞれの道に進む。 現在に当てはめれば、高校まで一緒かもしれませんが、その先はばらけるのが普通ですね。 社会に出る人もいれば、大学に行く人もいる。 大学を出れば、そこでもバラけて社会に出るのが普通です。 つまり、昔の農村のように一生緊密な人間関係を保つ事なんてあり得ないのです。 そうなれば、他人よりも自己の事を第一に考えがちになってしまいます。 これは、利己的というよりも自己防衛と考えられます。 というのも、農村であれば刺激は少ないですが、都市生活となるつ常に刺激(言い換えればストレス)にさらされることになります。 この刺激から自己を守るために、他者(=赤の他人)に無関心となります。 しかし、人はかならず誰かと関わることが求められます。 学生時代なら同級生や先輩、先生など。 社会にでれば同僚、上司、商売相手など。 あるいは、サークルや習い事、趣味の集まりなど。 通常は、その中から「友」と呼べるような「少し」親しい人を作ることになります。 (昔の農村と比べ)関係は薄いとはいえ、やはり赤の他人に比べれば緊密と言えます。 >@利己的な人がバッシングされるとき。(お前は利己的だ、というとき当り前のことを言っているだけなのに) >@誰かと「楽しさ」の共有をしている時に、感情的な安全、利害以上のものをも共有している場合がある。自分の損得を見失っている。また、自分が(名誉のためなどではなく)犠牲になって誰かに貢献する場合。 >@そして、人間関係を虚無的にとらえる人がおそらくは主流になってはいないこと。評価されたり、もてはやされないこと。(プライベートな人間関係をシャレとして捉えている人は少ない) これらは、倫理観や道徳観(自己犠牲精神・和を重んずる心など)を小さい頃から教育されるからであろうかと思います。 しかし、これらの自己犠牲精神を発揮する「場」が昔に比べ少なくなっているのでしょう。 昔の農村であれば、「個」は「集団」に対してそれらを発揮することになります。 だが、現代では「個」と「個」の結びつきであり、その結びつきの緊密さによって発揮される度合いが大きく異なるのでしょうね。 また、友人知人などの一部の親しい人間を除いて、周りの他人は「人」として認識していないのでしょうね。 なので、個人主義が台頭するのでしょう。 そして、個人主義の台頭に続いて大衆化された社会が現れます。 大衆化社会がさらに進むと全体主義社会へと進みます。 ダラダラと書いてしまいましたが、参考になれば幸いです。

ta999
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.6

人は人によって成長するからです。 自然や動植物によって成長するという人もいるかもしれませんが、まずは人と向き合っている自分であるからこそ、人として自然や動植物と向き合うことができるのだと思います。 人が人と関わることの理由は、単純なことなのですが、実際に人と向き合ったときの対応は難しいと思います。つまり、どのように人と関わっていくのかという問題です。

ta999
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • weisswas
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.5

 最初に書かれておらる嘆きは、何も現代日本だけではなく、―「分かり合いの精神」、おそらく「場を読む」精神のことを仰っているのでしょうが、―それは別として、理念、理想は「きれい事」で片付けられる傾向は、古今東西、常にありました。だいたいプラトンの作品に出てくるソクラテスとその弟子を除いて、大多数の登場人物がそうであったわけです。けっしてソクラテスやプラトンの説くような生き方は主流ではなかった。  しかし「きれい事」を語らずして、愚痴と恨みだけを語っていて、個は前に進めるでしょうか。またそのような個によってのみ構成されている共同体がよき社会だと言えるでしょうか。  理念や理想は本来的自己の意欲です。そうであるがゆえに、それはそれぞれの「私」にとって実現すべき義務となるのです。誰もが無私に愛し合える共同体の建設こそ、私たちの本来の意欲ではないでしょうか。  フィロネンコという哲学研究者がベルクソンの『道徳の二源泉』に関して次のように述べております。「聖人、英雄、神秘家たちは道徳的実存にもうひとつ別の次元をもたらす。つまり道徳的に偉大な人物たちで歴史に痕跡を残した人たちは、何世紀をも超え、私たち人間の国を超えて手を取りあっている。そうした人格たちが一緒になって「神の国」(civitas Dei) を構成しており、神の国に入るよう私たちにも誘ってくれているのである (DS, 1032)。聖人、英雄、神秘家たちは、その人格の深み fond から呼びかけを発してくれており、呼びかけには、私たちのうちに眠っている何かが呼応する correspondre ―但し、この呼びかけに私たちが耳をふさ (sourds) がなければの話である」。私たちが猿でないのは「道徳的存在者」だという点です。道徳の本質は他人を、あるいは神を「愛する」という点にあります。煙草の吸い殻をプラットホームに捨てないなどということに、道徳の本質がありはしません。生物学的集団がそれ自身を保持するには、それなりのルールも必要ですが、大方は利害の調節、自己愛の調節という点に留まり、道徳の域には到達していません。つまり猿の集団行動以上のものではありません。  しかし私たちの本来的な意欲は、他人を愛するという点にあります。とても難しいことですが。他人との関係には必ずやネガティヴなものが伴います。関わるということはそれを、ネガティヴなものを引き受けつつ生きるということです。人間を愛せなくなれば、犬や猫しか愛せない精神的状態になり、もはや精神とさえ言えない状態になっていきます。さらには犬や猫も愛せなくなり、植物や無機物(例えば宝石など)しか愛せなくなっていきます。人間は人間に関わる「べき」なのです。なぜならそれが「知られざる」「私」の本来的意欲、理性の純粋な意欲だからです。この点については、北岡武司さんの『「銀河鉄道の夜」の世界』(みずのわ出版)を読んでみられては如何ですか。それからカントの『実践理性批判』、『道徳形而上学言論』(いずれも岩波文庫)も。またベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』も。

ta999
質問者

お礼

ありがとうございます。 哲学の領域にはほとんど無学なものでして、正確なコメントの仕様がないのが残念です。 ただ感覚的に、ここに書かれた「本来的意欲・意志」を否定してしまう人間が多いのは、ネガティブな人間関係の側面からにげているからなのだろうか?という疑問が湧いてきました。 あげられた本は読もうと思います。

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.4

哲学カテゴリーの質問に対して適切な回答かは分かりませんが、全く別のアプローチでの説明は可能です。 つまり、人類を含む高等霊長類は、本質的に群れをつくる動物であり、しかも、1体の個体が取得した経験やテクニックが、他の個体にも広がっていく傾向があります(たとえば、ニホンザルが芋を海水につけ、味付けしてから食うようになったという、ある群れの存在は有名です)。これは、霊長類は、本質的に文化を持った生き物だということです。 また、猿の群れは、単に集まっているだけではなく、強い個体によるリーダーシップと階層型社会を作ることが多いです。ニホンザルの場合は、強いオスは弱いオスにマウンティングし、ほとんど交接をしているかのような儀式で、強者・弱者の序列をつけています。チンパンジーの場合は、またちょっと違っていて、乱婚的な傾向があり、オス・メスで挨拶代わりにSexしたりします。 要は人間は特別な生き物なのではなく、単に猿なんです。猿だったら当然やるであろうことを、やっているだけなんです。 京都大学霊長類研究所が、この分野では有名です。 http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/index-j.html なお、「日本人のわかり合いの精神」が失われていることをなげいていらっしゃるようですが、その代わり、個人主義と契約による社会構築というヨーロッパ型社会モデルが、日本に定着しつつあるという言い方もできます。これは、社会が変質していることに過ぎず、社会という存在が失われたわけではありません。私など、「日本人のわかり合いの精神」とは美点でもなんでもなく、集団無責任という組織体質、外国人への偏見、仲間内だけの和と部外者の排除、明示的コミュニケーションを欠いたなし崩し的な意思決定プロセスなど、弊害のほうが多いと思います。西洋哲学を専攻した私の発想法では「分かり合いの精神」など放棄すべきとしか、結論の出しようがありません。

ta999
質問者

お礼

わかり合いを嘆いてはいません。私は機能主義なところが多分にあります。で、「教条への固執」や「それとなし排除システム」、「内はぬるま湯、外は南極」みたいなのは大嫌いです。いじめの根本ですね。日本人の特質だからしゃあないですけど。わかり合いが通用しなくなっているのは、グローバリズムに侵食されている結果だと思います。 反論を言えば、本当に、民主的モデルは日本に定着するのでしょうか。 民主主義的でないところに能力主義、豊かな社会などの横文字の概念を持ってくるので、今度はその横文字を通じた日本的な排除・ゆがみが起こってくると思います。 負け組たる人間を締め出すとか、皆が縮こまり犯罪者を再生産するような寛容のない高度な管理社会を作るとか、まだ容疑者段階の人間を社会的に追い込むとか、国の奴隷のような裁判官を増やそう、とか根本にあるはずの公共の福祉の発想があまりないと思います。それよりも、ノリがそっちに傾いているから、そうしようよ。という感じですよね。それで、簡単に権力に利用されます さて、本題の質問ですが、「猿の模倣」というのは全く観念的でなくまた、違った視点であって面白いですね。 類書をあたってみます。

  • -Harry-
  • ベストアンサー率50% (24/48)
回答No.3

初めまして。 哲学というカテゴリーでの回答としてはふさわしくないかもしれませんが私なりに問いに対して誠実に取り組んでいきたいと思います。(えらく長くなりますが…) あなたが最初に書いている理念理想の価値観の低下については確かに起こっています。私もあなたと同年代なので肌でそれを感じます。 理由として、コミュタリアリズムの観点からは(日本では)明治以降の近代化以降、欧米文化を取り入れていくなかで「個」を(誤った解釈で)重視したからだと考えています。 それは自己実現や自己責任という都合の良さそうな言葉とともに徐々に家族や友人関係などの(自然)共同体を破壊していき、ただの集団にしていき、更に、近代国家が成熟していく過程で功利主義的、快楽主義的、市場原理主義的になっていき、あなたのいう利害関係のみを目的とした機能的な人間関係が増加していきました。(援助交際、出会い系、離婚率の増加etc…) しかし、そうした関係にどっぷりと浸かった人間にはアイデンティティなどなく、常に自分とは何かと葛藤しています。社会学的には病理の状態です。 コミュタリアリズムでは人は関係の中でしか生きることは出来ないと考えています。なのでコミュニティ(共同体)で生きる人間にとってコミュニティ内での不和を防ぐために利己的な人をバッシングするでしょうし、時にはコミュニティを守るときに命を賭すこともあるでしょう。また、人間関係に対して虚無的である人がコミュニティの中で評価されるはずもないでしょう。(思想的には儒教も非常に近いです)@で挙げた反証は、実はコミュニティ内でしかありえないことなのです。 故に、人が人と関わるのは コミュニティそのものの維持 自分自身のアイデンティティの確立 という二つの理由が考えられると思います。あくまで共同体主義の論理ではですが。 これが仏教になると無我の概念からアイデンティティやコミュニティ云々などありえませんし、生死観や人間関係に対しても「空」の観点から限りなくニヒリズムに近い論理で、否定に近い印象を受けます。

ta999
質問者

お礼

ありがとうございます。ぜんぜん長くないですよ。Ieに収まりきらない回答もありますので、(私は構わないですが) @が共同体主義で通用するものだというのはよくわかります。 共同体主義というのはどこの世界にもある印象を受けるのですが、基本的に人間は共同体主義なのでしょうか? そして、アイデンティティーは相対化の中にしかないのでしょうか。そうだとしたら、私の質問には「アイデンティティーのため」という一つの答えが出てくるのだと思っています。

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