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それでもなぜ人と関わるのか

哲学カテゴリーじゃないかもしれないですが・・・ ちなみに私は20代男です。少し長い文であることを断っておきます。 家族の愛だとか、友情の素晴らしさとか、相手の為の自己犠牲とか、そういった理念(理想が)が数十年前と比べて無効になった印象を受けます。いわゆる身勝手な人間への説教としてこういう理想を持ち出しても一笑に付されるだけです。 社会学系統の本を読んでいると、社会構造の変化(家族や社会の役割が以前とは違う)が「理念の死」の原因の一つであり、また戦後から現在の間に自然科学が大きく発展し生命や感情の相対化を推し進め、それらの神秘性が薄められていることも大きいと思います。(行動学、脳科学などなど) もはや、観念的な態度(日本人のわかり合いの精神だとか)で人間関係を考えることは許されず、戦略的なシャレ(本心ではない行動)の言動を積み重ねて生きていくしかないのかななんて感じてしまいます。理念的な事を声高に直接説けば痛い人と看做され、緻密に積み重ねられた方便を経ないとだめです。(無駄話の中にそれとなしに紛れ込ませるとか)そして、そういう間接的に説かれる理念も、周りを害している場合が多分にあったりするのです。 きっと、理念や理想を通じて人が社会と関わるあり方は、主流ではなくなりました。本質的には人間は自己満足のために利己的に生きているのかもしれません。 さて、ここで疑問があります。 それでも、人は互いに関わり合います。なぜか。 この理由として、それも感情的な安全の為や実質的な利害を考えて動くからだという説明があるのですが、この説明が完全ではないと思える時が多々あります。 @利己的な人がバッシングされるとき。(お前は利己的だ、というとき当り前のことを言っているだけなのに) @誰かと「楽しさ」の共有をしている時に、感情的な安全、利害以上のものをも共有している場合がある。自分の損得を見失っている。また、自分が(名誉のためなどではなく)犠牲になって誰かに貢献する場合。 @そして、人間関係を虚無的にとらえる人がおそらくは主流になってはいないこと。評価されたり、もてはやされないこと。(プライベートな人間関係をシャレとして捉えている人は少ない) ここで改めて、どうして人は人と関わるのか、という疑問が湧いてきます。 このような問題に取り組んでいる文献をご存じであればそれも付記してください。

みんなの回答

回答No.22

NO20です 人間の根源的な悩み、或いは求めているものとは、結局外部からは教えて貰い無いものです。自分で気付くほか、仕方ないものです。ですが貴方の望むものは「禅」の中に在るかと思います。「禅」の仕組みは下記の通りです。 禅問答というものがあります。これは分かり難いものの代表選手みたいなものですが。この中に答えが有ります。人間は誰しもが自分一人で生きていると思っています。自分の分別する心、知識、知恵、その論理的な心。今の貴方の意識です。この意識だけで自分は生きていると思っています。それは大いなる誤りなのです。   それでは、無意識でやっている時はどうでしょうか、毎日の生活の中で、自分の意識が関与していない時はどうでしょうか? 自分が生きていて、自分が全てを分かっていると思うことは未だ自分自身を知らないと思います。禅問答は余りにも難解だ、と思うかも知れませんが、その中に答えが有ります。その答えは今の貴方の意識では解けません。貴方が命がけでその問題に取り組むなら、その中に答えが在ります。今の意識、他の言い方をすれば「我」が弱くなって、今の意識が計らって、計らって、もうどうしようもなくなった時。「大死一番」といって、「見性」する事が出来ます。すなはち「悟りを開く」時なのです。 その時もう一つの「意識」が出てきて貴方の解けなかった問題を解いてくれます。貴方には貴方の意識の他にもう一つの意識があります。その意識をお釈迦様は「仏性」と言いました。その意識と、貴方の意識の食い違い、矛盾が貴方の悩みなのです。自分の性を見る事が出来れば、全ての悩みが消滅します。心の矛盾が解消されるからです。全ての疑問が解消されます。その事を「涅槃」といいます。お釈迦様の教えは宗教ではなくて、究極の悩み解消の心理学なのです。参考になるものは鈴木大拙先生の本が、良いかと思います。先生は25才で悟りを開いていますので、その文章にはムダが有りません。急所を突いて書かれていますのでお薦めします。

ta999
質問者

お礼

わかりました。どこから手をつけたらいいのかわからない問題ですけれど、本から答えの一部をもとめようかと思います。

ta999
質問者

補足

皆様の経験の中からの貴重なご意見を聞かせていただきました。 このページを保存しておきたいと思います。 回答ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.21

ta999さん わたしは すっかり馴染んでしまいました。楽しく投稿できるからです。 次のひとことのみですが。 ★ 自分は感覚的な物言いが多くて・・・ ☆ わたしは 数年前まで 全身が 金平糖でした。むしろ《感覚》が 街を歩いていました。よ。

ta999
質問者

お礼

ありがとうございます。 このお礼がこの質問では最後かどうかわかりませんが、またお会いしましょう。

回答No.20

貴方は、「感」の鋭い方かと思います。と言うのは普通の人が素通りする事に、疑問を感じているからです。貴方が感じている事は、誰でもが感じている事なのですが、そこで立ち止まったと言う事です。その事は。自分に疑問を抱いたと言う事かと思います。 何時の時代でも人は孤独に泣いている人がいます。何時の時代でも孤独に見えていても孤独ではない人が居ます。それは「孤独と云っても、疑問と云っても、悩みと云っても」良いものですが。人間の幸福と云っても、存在感と云っても、良いものですが。その事を求めて人間は旅をし続けているかと思います。貴方の「心」に満たされないものが在る、という事かと思います。只それが漠然としていてまだかたちになっていないかも知れませんが。 貴方の心には満たされないものがあると思います。人間の心は「二元論」と云って二つの要素が有ります。その一つが貴方の今の意識です。 もう一つの要素が有ります、自覚でき難いものですが。貴方は同時に二つの正反対のことを考えていると思います。その考えが違っていたときに悩みとなります。その違いが大きい程悩みが深くなります。自分の心の中で矛盾を感じている事があるかと思います。 その事で分かる事が有ります、自分の意識だけが自分ではない事を。もう一つの「意識」が有る事を。その「意識」が貴方に今の疑問を抱かせています。もう一つの「意識」は他の人達と共有している「意識」ですもう一つの「意識」は万人共有の意識です。例えば、音楽でも映画でも感動する時などがそうです。その意識は他の人達と繋がっています。その事を求めるために、誰でも誰かと関わる必要が有ります。 そのもう一つの「意識」を高めていって他の人との連帯感を多く持てるときには、貴方の「我」が小さくなっているかと思います。世の中で幸せに生きていける人は、自分の「我」が弱い人です。その代わりにもう一つの「意識」が強くなっています、その事を皆が望んでいますもう一つの意識とは万人が共有している「意識」だからです。

ta999
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 よければ、この回答の「二つの要素」について書かれた本を挙げていただけないでしょうか?

noname#52347
noname#52347
回答No.19

#15です 丁寧なお礼有難うございました。 >それでもどこまでも鈍い人間はいて、例えるならば高山病で苦しむ人間に、根性で頂上に向かえと言う人間だとか、児童への罰則として裸にさせるとか、ホームレスの住居を燃やして喜ぶとか、そういう人間です。彼らも排除された人間なのかも知れませんが、最低限のモラルがあるだろう、と。 >ホームレスを排除する連中を述べられていますが、彼らは無邪気なのだと思います 私は↑のような状態を社会意識・倫理観の、人に非ざるほどの欠如とします。 これを「悪そのもの」としていて 除去し 本気で憤慨・対立すべきと考えてます。 ちょっと前にこのサイトで 性的暴行を受けてトラウマをおっている女性の質問があり で、その女性に「お気の毒でした。が、結局貴方に隙があったということです。」と回答しているヤツがいた。レイプされるのは当人に隙があるからということなんでしょうね。こんな社会人がイマドキ結構な数でいるんですよ。 いかにも常識を湛えた様子で。 あの時私の中で何かのタカがはずれましたね。怒りをこえて笑わされました。 今時 高速道路をガンガン通せば国が豊かになるとか考えている政治家とかも同じですね。 無知とか無邪気のレベルではなくて白痴(狂人?)が恥じも無く堂々と存在するということだと思うんです。 なので個人的にはこれが「極悪」の定義なんですね。”悪の除去” それが唯一やるべきことだと確信してます。 ta999さんは全体として真剣にかつあきらめない心で考えていらっしゃるという印象を受けました。 これだけはという焦点を絞りつつ是非頑張ってほしいです。 宮台さんに関する説明有難うございました >が、感覚的にですけど、時代との乖離が大きくなってきた気がします ちょっと残念でしたが苦笑

ta999
質問者

お礼

ありがとうございます。 >”悪の除去”それが唯一やるべきことだと確信してます。 この言葉に危うさを感じ取ってしまいました。 悪への刃向かい方をよく考えた上で「除去」に臨んでください。 でないと、抹殺されてしまいます。

noname#80116
noname#80116
回答No.18

No.10&12&14&16&17です。 とうとう お邪魔虫になってしまいました。 《流行り》を超えて あたかも恒常的な《承認欲望》が人にはあると 今村仁司が言っています。 人は 存在として・つまりは存在の関係として 社会的である。しかも主観としては 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。さらにしかも その自由への変身を まちがって追い求める傾向にあると。 独立主観であっても 初めに基本的に 関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取るのだが ややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つのだそうです。 この承認欲望がおのれの身にはたらくと 《「みんなと同じでありたい願望」》=《模倣欲望》を持つ。そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性あるいは同じ歌の合唱だけでは 必ずしも相互の承認が 完成したとは見なされず そこでさらには ある基準を持とうとし この基準をこしらえる。この誰にも共通の基準となるものが 《第三項》である。 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。その一定の輪の境界にまで押し遣られ この第三項は 《一》対《他の皆》という構図をつくるようになり さらには 一般に他の皆は この第三項たる除け者を たしかに 《除け者》として扱うようになる。このように 第三項を 皆で排除する構造が出来て初めて 互いの承認が実現し 人びとは 安心して安定した《秩序》状態を楽しむことができる。  このような傾向を 人類は 悲しいかな 残念なことに もっているのだと。  《いじめ》論でもありますね。  『排除の構造――力の一般経済序説』1992です。ただし わたしが 勝手に脚色したところがあるかも知れません。 もっとも 自由を説いていたように 自由への変身を――第三項や異者の受容をとおして―― わたしたちは獲得することができるとも主張しています。  また この模倣欲望の実行の最終過程で 《流行》現象と同じように 《「みんなと違いたい願望」》がはたらいてくれるとよいとも考えますが どうなのでしょう。  排除された第三項は 歴史的に キリスト・イエスであるとも あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも 論じていたはづです。  何かのヒントにでもしていただければ幸いです。還暦を越えたぢぢいからでした。

ta999
質問者

お礼

毎回ありがとうございます。父親が(商店が昔のように年末・年始に閉まらないので)越年したという感じが全然しないと話しておりましたが、父親の言うとおり本当に気づいたら年が暮れました。 今年最初のお礼になります。 『排除の構造――力の一般経済序説』は私の感じていることを明確な言葉にしてくれているという期待が湧きましたのですぐに図書館で借りようと思います。 自分は感覚的な物言いが多くて恥ずかしく感じます。 「理解」に対して素直でいたいのですが、難しい書物を置いてテレビを点けるような自分の姿があります。 この回答も大変ヒントになりました。 また、回答していただく機会があるかもしれませんね。よろしくお願いします。

noname#80116
noname#80116
回答No.17

No.10&12&14&16です。 お礼の文章をいただいて ひとこと お返しをと思いました。 いま《Q:悩むべきこと》http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3629857.htmlという質問が出されています。これは 《人として一生の問題として悩むべきこと 考えるべきことがあるか》を問うています。自分に悩みがなければ 特別に人の世話を焼くほどに人とかかわることは 果たして よいかどうかです。つまりは 《どうして人は人と関わるのか》と あたかも背中合わせに 同じような内容を扱っているように考えます。  つまり わたしの場合 《どうしても 人とかかわらなければならないわけでもない》と思っている部分もあるわけです。 それで いま一度 考えて 究極においてどうかと問うてみたのですが 《自由》はやはり 根底では 他者とかかわっている事態だと思います。《社会的なこと》だと思います。ですから 何らかの発言をするというかかわりを放棄することはないと 一応 結論づけました。 ちょっと不案内で 回答の全体としても 焦点がぼけたかも知れませんが ひとこと お邪魔しました。 * 社会学では 橋爪大三郎もいいのではないでしょうか。

ta999
質問者

お礼

5たび質問者です。ありがとうございます。 >自分に悩みがなければ 特別に人の世話を焼くほどに人とかかわること この文章が一読ではよくわかりませんでしたが、私なりに解釈します。 「悩み」は疑問に思いすっきりしないことや心を苛むこと とし、 「特別に人の世話を焼くほどに人とかかわること」、が(深い)人間関係に広く在る姿であると、この文を解釈したとして、 「孤独だという感情(悩み)を抱いてなければ、 「’’付き合い’’に自分の「哲学的」な意味を求めていないのなら、 「etc..、 といった悩みがなければ 誰かと(深く)付き合うことは必然ではない 、と文を解釈しました。 人間関係に悩まない人の例として、極端な例ですが、分裂病質人格障害という人格障害の類型の一つがあって、この人々は人に対して感動も、興味も持たない傾向があります。ある自分の内面世界があって、強靭な自己でそれに固執しているというよりかは、彼らにとっては自分の住んでいるところを日本だと答えるくらい自明なことなのかもしれませんが、そういう内面の持ち主です。(社会ルールなどが守れないので自分・周囲ともに困り、障害ということになるのかと) 天才的な芸術家、文化人でこんな人がいそうです。 が、精神的に自由なのかと思いきや実はそうではなく、この性格は統合失調症の人の病前性格と呼ばれるものに近かったりもし、静かな嵐が心の底で起こっているような印象を受けます。(本人は葛藤している意識がないのかもしれないけれど) 人間は根源的に、人とかかわらなければ破綻してしまう性質を持っているのかもしれません。

ta999
質問者

補足

2つ目の余談?ですが、 「流行り」には、二つの傾向が働いているそうで、それは「みんなと同じでありたい願望」と「みんなと違いたい願望」の二つだそうです。 流行は、例えば 一部の人が持つ(この時点ではあまり相手にされない。後で「元祖」等として取り上げられたり)→みんな持ち始めた(同じでありたい)→流行が起こる→なんだ、みんな同じなのか、もうやめよう(みんなと違いたい)→流行が終息していく の流れになるそうです。 今読んでいる対人恐怖の本にも、似たような内容があり、 人間の心に一体化したい気持ちと、(一体化すれば自分が消えてしまうがゆえの)「自分」でありたい気持ち、の矛盾した感情が両立しているようです。 「適度な他人との一体化の中で人は幸せを感じる」のだと思います。 また、自分を他人とかかわることで相対化する事は、自分の「価値」に気付くことでもあります。 まだ、身をもってこういうことを理解できていませんが。 >橋爪さん 確か有名な入門書もこの方が書かれていましたよね。 その本から初めてみます、

noname#80116
noname#80116
回答No.16

No.10&12&14です。 心優しきご返事をいただき まことにありがとうございました。 わかりました。納得いたしました。 また お会いしましょう。

ta999
質問者

お礼

このサイトでは確か議論(質問以外の内容?)が禁止されていたような気がしますが、議論ができないとなると質問の体をなしませんよね。 おっしゃったような、議論の中で、相手に誤りを気付かせるというのが良い方法だという事が理解できました。 ありがとうございました。

noname#52347
noname#52347
回答No.15

>僕は、C型肝炎問題で民意を利用する被害者の戦略は正しいと思います。 私も虐げられた問題に追いうちをかけるようなことはしたくなく、<「裁判」という厳密な部分だけに焦点をあてると、世論を裁判側によせてマスコミで同情を買うのはおかしい、誠実に弁護を通せばよい>、という極めて細かい、マイナーな見方でしかないです,誰もそんなこと考えていません。 質問者さんの民主主義理解の方が正しいと思いますよ >民主主義というのは、お上の言ったことが「善」になるといったような考え方の形態をとらずに本来、権力側と国民の闘争の場 プラス 、 >「最大多数の最大幸福」というように、「冷たく」思える機能主義 を足して2で割った感じでかと。そして「最大多数の最大幸福」を優先したものが可決されても、再度 それをひるがえす告訴やチャンスが敗北側にもあるので、やっぱり社会の均衡をこれ以上にとれる主義はないんだと思います。 >民主政治に対する理解など(民度)が足りないままに国に従っている国民は問題があるなと思っています 国に従っているだけという印象は、最近特に受けたことがないです。 従っているというよりは寧ろ、現状を把握できない、でも自分の今の立場をどうにかしてくれという声が次から次へとあがり、 (例えば地方の人たちは「地方への政策をもっと行き届かせてくれ!!」という。しかし都内に住む側の私から見ると、彼らの生活は 一軒家を構え地元の名物を食べ、ずいぶん豊かに思われる。都の税金で作られた立派な図書館・公共施設がある。これ以上何を・・?すべてを「国」という体制が保証してくれると考えているのか・・?) 国に従うというよりは 「国が全部をやってくれ、それについて行けばいいと思っている」、今までそれだけ平和だったということと思いますが 年金問題とか、事実、行きとどってない国の政策は別として、貧しい人・障害者への生活保護は行きとどっていると思います。 都内の話だったか忘れましたが生活保護を受け十分な暮らしをしているのに 子供の学校の給食費をごまかすのが何%??たしかすごい%でしたよ、びっくりしました。確か強制的に差し引くことになったんでしたよね。これは明らかに新しい時代の日本人の在り方というか、こんな人昔はいなかったでしょ、貧しかったら、自分の立場が苦しかったら、バレなけりゃ汚いことをやってもいいというような。「子供の給食費を誤魔化せるなら誤魔化してしまえ」とはすごい精神とは思いませんか?国に何もしてもらってないなら分かりますが、保護を受けているというのに。もはや自分の生活にプライドも節度もないかもしれません。 と、こういう点ばかり目に入ってしまいますが 事実 無駄なものにお金をかけ諸外国に比べ公共福祉が行き届ってないのは勿論事実ですよね。よく知らないんですが(汗)でも小泉に当選させるような国民側にもやはり問題が。彼に福祉に目を届かせる繊細な意思があるわけもなく。 自分で問題を見据えるという精神を失い、ただただなんとかしてくれというのは如実に選挙に現れてると思ってます。小泉であれ、石原であれ、思想的には偏った、中庸で理知的とは考えにくい、「でも、この人ならなんとか、苦しい日本 を何とかしてくれそう」という人が絶大な支持を得る。小泉さんって何してくれたでしょう。日本に好意・友情を寄せていたアジア国との友好をぶっこわし、ブッシュと肩組んだけですよね。日本さえよければいいのか。小泉のような過激に偏った思想的な人に支持を寄せる、その本性に気付けなかった日本人には私はついていけません。 >異質な者への排除が広まる。国が悪法を通しやすくなる。→悪法、寛容性の無さが住みにくい社会を作る 90年代後半から・・の部分は納得しましたがここの「悪法」がよく分かりませんでした。犯罪者に厳しい、ということでしょうか。でもこれは大多数の人には喜ばしい「ああ、これで安心して暮らせる」という多くの、パラノイアで一杯になった市民のためのものなので、自分が異質である者以外、特に悪法とは言えないかと。とうとう禁煙条例が神奈川にも出ましたね。喫煙に厳しくないのだけは 日本もまだいい所あると思っていたのに残念です。 異質排除は、怖いです。多摩川洪水の時、「ホームレスの洪水からの救助」にお金を使うのは嫌だという意見が多かった。<<<あんたら鬼か!!!>>>←思わず本気で唖然。こういう人が自分が生活保護とかをガンガン要求しているとしたら・・末恐ろしく醜い、弱者が弱者をけり倒す社会。こんなことで福祉という繊細で想像力を要するものが 確固と確立されるわけがない。 「死刑制度を失くし死刑囚を終身刑にしたら」と言うと 「死刑囚のためになぜ経費をださねばならない?」とはやはり特殊な国民性です、それでいて自分には絶対の保護を求めるのだから。 小室直樹、見田宗介の本は読んでいないので読んでみようと思います(^Q^)b  宮台真治は90年代のものは結構読んでます。カッコよかったですよね~、彼の90年代の試みは。彼の良かったとこは、「未来が保証できない時点・彼自身 問題の解決に確信してない時点」で自分の独論で風を切った、批判をものともせず、結果その解決策が失敗だったのもありましたが(結構 援助交際問題とか尻切れトンボでしたよね;) その時点で現実的に「これは価値が在る」と思ったことをやって、社会に混乱を招きかねないけども、啓発的なことをジャストタイミングでやる感の良さだったと思います。彼自身が確信してやっている行動ばかりでなかったから(というかあの時代あたりから 社会の問題の答え・責任転嫁できそうなものなんて、なかったし)社会の混乱に陥れられた者と一緒に、自身も混乱しながら言動した。やっぱ天才なんでしょうね  本来の美しい日本のことを語りかけられるより、確かに彼はジャストタイミングで助けてくれた。 今も宮台さんは頑張ってるんですか?もう全然読んでいないのですけど。 >懸案事項がいっぱいで、争い、戦略で動くことが多くなり、そんなに温かい人間にあふれた未来が待ってはいないだろうなという絶望はあります >それでも厳しい現実を受け入れて、「より良い」社会を目指す一員にならないといけないみたいです。その分皆が、近しい人や家族へ内閉していく傾向が強くなるかもしれません。あるいは、人生に喜びをもたらすのはこの領域だけになるかもしれない 暗いことを仰いますねぇ・・でも確かに事実そうなりそうです。 でも、ずっと平和だったからこう思ってしまうのですよ、社会での優しさが破壊されて皆根が脆いゆえ辛いのです。 アル中の親とトレーラーで暮らし永延に そのスラムな区域から出るのは不可能というようなことはアメリカならあるけれども 日本だったらありえません。努力すれば奨学金もとれる。餓死することもない。 グローバルに考えたら社会問題は犯罪・貧困などみても そこまで問題じゃないはずなのです ただし 質問者が言うようにこの日本人の関わりあいの あさましさ。ホームレスは死ねばいいと言う。マザーテレサは日本はこんなにも豊かなのにホームレスを素通りしていく人々の姿にショックを受けたと聞きます。 酷いイジメを受けても誰にも言うことができない若い子たち。 それに気付くこともない、浅はかで、あるいは自分自身にも解決がない大人たち。 どろどろの家庭問題を抱えていても それに手を差し伸べる他者はいない。(冷たいというのでなく、身内以外の者同士で助け合うという発想が薄い。) <内・外> <家庭・社会> <自己・他者> の殻・境がくっきりしており、社会で個人同士が助け合えるという意識がうすく自己に篭っていると。 この点おそらく欧米諸国もっと進んでいて 個人同士もっとざっくばらんで実用主義的であってもできる事があれば助け合うということはする。 なぜなら他者の困難な問題は自己の問題でもあるという意識が当然のmのとしてあるからと思います。 親も確固としてるので子供も早いうちから個人の自立意識・社会意識を持ちヒューマンレースに乗っていく。でもこれはあくまで異国物語ですよね だいたい今の若い世代は「社会を信用するな」という風潮の親から生まれてきていて 退廃的に内に問題を抱え育っていく。しかもそのようにして生きていくが可能な便利な社会。 こもらずに社会の中で個人同士で関わりあえる意識のある人が増えること。 皆が個人意識でヒューマンレースに乗ってこう!! 家庭内問題であれイジメであれ アホな教育者・成人しかいないために内に閉じこもらざる得ない若い人をみるのは、すごく辛い。 自分さけよければという 他者の問題は自己の問題でないという無知な意識は天下一品だと思います。 最後にこんな話を。イスラエルにはアラブ系の物売りの少年がたくさんいる。観光客の持ち物を好きあらばひったくり安い土産を売りつけようとする。 作者は車椅子を押しており、岡をのぼるのに助けが必要だった。作者がそのアラブ少年に手まねで手伝ってくれと示すと、少年は驚きの真剣さで働き、助けてくれた。 当然彼にチップを払おうとした作者。ところがあの乞食根性の少年は車椅子をおいた途端どこかへ行ってしまった。 これって優しさとかじゃないと思うんですね。 作者:彼らの信条では困った人を助けるのは義務なのだ。それはそうしないと、その人が死ぬからであった。砂漠や未開の土地は人間に甘くない。ゆきづりの人であれ敵対部族であれ とにかくその人を助けけなければその人は死ぬ。自分もそうなった場合助けてもらわなければ死ぬのだから人を助けねば、と子供の頃から学ぶ。参考文書:[原点を見つめて] 少しズレしまいましたものの、ある意味日本人以上のモラルがあると思います。アフリカの難民だって、飢えているものがいてその人が死にそうであり、自分に微小な余裕があるなら 食物をやるくらいのことはする。 それは小難しいことでなく 自分にできることが、まぁあって、それを自分と同様に苦しむ存在である他者に、一応やるのは当然という 世界共通の事と思います。 「ホームレスは死ね。」とは優しさとかの問題でなく 社会意識が全くない、他者・その苦境に そこまで想像が働かなく 自己の世界と区別できるとは・・・今までよっぽど傷つかずに生きてきた無知なのか? それとも、彼ら自身の弱さ・自身の殺伐とした苦境ゆえの怯えが招く、やり切れない、排除思想なのか? 私には理解不可です

ta999
質問者

お礼

>国に従っているだけという印象は、最近特に受けたことがないです 確かにそうですね。僕も実感がわかないですが、今読みたいと思っている本に岡田斗司男の「世界征服は可能か」があります。ビデオニュース(宮台真司、神保哲男が司会を務めているインターネット放送)に彼が出演していて、興味を持ちました。 宮台さんも似たことを言っています。 岡田氏によると、快不快原則で被支配層を従わせる構図だということです。読まないと詳しいことはわかりません。興味があったらご一読ください。(ただ、ある程度豊かじゃないとこの支配は成り立たないと個人的には思う) >異質な者への排除が広まる。国が悪法を通しやすくなる 悪法というか、社会的な弱者の成り上がりを挫き、才能・金のあるごく一部の人間にずっと利益がいきわたるような法律でしょうか。 価値観として、下層が固定化するような社会を望まない人にとっては、「悪法」です。 例えば、非正規雇用を増やせるようにするとか、医療費・生活保護費をカットする仕組みを作る、などでしょうか。 オウム事件があってから、「安全保障」という名の元で、アメリカ寄りの法律も数多く作ったと思います。 少数のエリートと、大多数の(95%ほどの)下層階級のいる世界と中流層が最も多くその層で経済・政治を支える社会と、2つの形態が思い浮かびます。(まだあるかもしれない。) どっちが効率がいいのでしょうか。 >宮台 新鮮味あふれる慧眼を著書で、先述のビデオニュースで見ることができます。が、感覚的にですけど、時代との乖離が大きくなってきた気がします。こう思う理由として、批判の先の代案が曖昧な事、教育・感情・生命・政治などにもここ10年来ほどの間に理系的な分析の手法が本格的に(民間人にも周知されるぐらいに)入りはじめ、彼が感覚的な物言いを続けると時代遅れになるのではないかと思う事があげられます。 それと、mintowall2さんが彼をチェックされていた当時と比べると守りに入った感があります。 時代、仕組みの気分を読むのはうまいです(そこが良さの一つ)が、右翼的なことに関して中立的でない発言(扇動発言?とある政治家とお友達?)もありますので、丸のみはやめた方がいいです。

ta999
質問者

補足

続・お礼です。多少個人的(思い込みが)過ぎるかもしれませんがw >>>><内・外> <家庭・社会> <自己・他者> の殻・境がくっきりしており、社会で個人同士が助け合えるという意識がうすく自己に篭っていると。 この箇所はすっきりしていていい視点だと思います。参考にします。 ホームレスを排除する連中を述べられていますが、彼らは無邪気なのだと思います。悪意(邪気)はありませんが、傍から見れば悪意の塊に見えることもあるでしょう。 他人の感情など気遣っておれない程の視界しかもっていないのです。 もしかしたら、それは責められるべきことではなくて、人間の本質かもしれないです。 村八分というのがあります。愛情に満ちた輪の中からほうり出されたら、愛情を与えてくれた人間から(無邪気で)冷酷な仕打ちを受けます。愛することと排除することが共存している。この矛盾に自分は苦しむのだと思っています。 殺人事件の犯人の話を読むと、まず異常な人格を持った人間がいて、周囲の人間が彼を排除して彼の鬱屈を助長し、犯行の引き金を引いたと考えることもできます。誰も傷つけない「変わり者」で一生を終えることのできる人だったかもしれない。 やくざの構成員には朝鮮系の人々や被差別部落の人が多いという話も聞いたことがあります。(アメリカ黒人の犯罪率が高いというのも) 変えようのない属性を持っているというだけで差別され、職に就けなかったり排除される。鬱屈するに決まっています。そこからアウトローになり、そういった家庭で育つ子供への影響があり、アウトローが再生産されやすい。 周りの人間は、自分たちの(相手に無関心な)排除によって、いじめられる人間を追い込むべくして追い込んだということに気付かずに、「やっぱり朝鮮人は・・・・・」、「少年犯罪者は死刑だ!」などと言っています。 が、いったん外れまで追いやってしまった人間を受け入れる社会にするのには困難があります。彼らの社会への、周囲の人間の彼らへの、2つの不信感は簡単にぬぐえません。だから、子供の時から理不尽な排除を受けないような社会にし、そこで育っていけば少年犯罪者もやくざも減るのでしょう。 さっき、人間の本質と書きましたが、それでもどこまでも鈍い人間はいて、例えるならば高山病で苦しむ人間に、根性で頂上に向かえと言う人間だとか、児童への罰則として裸にさせるとか、ホームレスの住居を燃やして喜ぶとか、そういう人間です。彼らも排除された人間なのかも知れませんが、最低限のモラルがあるだろう、と。(その境界線を引くのに倫理学というのが役立つのでしょうか。) 好き嫌いの問題もかかわってきますが、あまりに他人の感情・プライドに敬意を払わない人間はやはりだめだろうと、感じます。 いじめっ子の中にも、いじめられた側の苦しみをうまく伝えればいじめをやめる子がいるでしょう。中には真性のいじめっこがいて、そんなもの知らん、と言うでしょう。「真性」は大人になっても変わらないだろうから、こういう人物には必要でなければかかわりたくありません。 つまりは、理不尽な差別をやめるということではないかと。そして、とことん鈍い人間はうまくやりすごすということでしょうか。 無邪気な強い悪意をもった人間が増えるということは、前回書いたように<冷たい社会>になることにつながると思います。そういう社会から、例えば宅間や少年凶悪犯のような無邪気でない悪意を持つ人間が増えてくる事につながると、事件ルポ物の本(タイトル忘)にありました。 アラブ人たちは(機能的な面からも)無邪気な悪意の飼いならし方を知っているのかもしれません。(日本人は無宗教なので倫理が育ちにくいかもしれない)

noname#80116
noname#80116
回答No.14

No.10&12です。 基本的に考えて  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・きっと、理念や理想を通じて人が社会と関わるあり方は、主流ではなくなりました。・・・  それでも、人は互いに関わり合います。なぜか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ その答えとして わたしはNo.10の文章を投稿しました。《おそらく主流ではなくなった・理念や理想を通じて人が社会と関わるあり方》ですが 《理念的な事を声高に直接説》く行き方ではないわけです。受け身の態度であると分かると思います。 さて そのようなわたしの立ち場もしくは考え方と ta999さんが 基本的に 同じであるとわたしは受け取ったのでしたが これが どこか違っていました。 いまも どのように違うのか 分からない部分がありますが それはそれとして もし違っていたなら もう投稿はそこまでだとも思うのですが 話しが続いています。 ★《価値観は相対的なものだと思われませんか。》 ――いわゆる生命の尊厳あるいは存在の尊重 いえいえ もっと分かりやすく言えば 互いの差異の認め合い(異者の受容とも言います) この一事にかんしては 価値は絶対のものです。  その限りで《「教条への固執」》すら ふつうです。その限りで《「それとなし排除システム」》は 断乎 消滅させなければいけません。  ですから 《恥ぢ入らせる》手法は ふつうの文章です。 この内容を理解しない人とはかかわりません。すでに 語り伝えたからです。 これ以上かかわって 何かを伝えようとするのは 《ある価値観を妄信(狂信)している》人であって わたしは そうではないですから。

ta999
質問者

お礼

何度も反応ありがとうございます。私が無学なのもあり、2ch的な言い切りのような書き込み(と勘違いしたかもしれない)が大嫌いな事もありまして、やや感情的な対応をしていたことをお詫びします。 これまであなたの意見を否定的にとらえてしまいましたが、書かれた内容の妥当性・価値がよく理解できないというのも正直な感想です。 議論が哲学のまったくの初心者にとって高度すぎるのかもしれません。 が、このページは保存されるので、内容がより理解できるようになった時に、拝読させていただきます。

noname#52347
noname#52347
回答No.13

浅はかな立場から再度横レス失礼いたします。m(_)m さて私は「わかり合いが通用しなくなった」とは考えておらず取り分け少数派に寛容でないのは昔から同じと思っています。かといって思想的だけでは弁護が弱いということで法関係の方に最近、とある質問をぶつけてみたところ このようなやりとりとなったので参考までにご覧になって頂ければ。 ________________________________ ○今の日本の風潮だと、事件当時、精神疾患で血迷っていようが、人の家族を殺すような人は死刑にされて当然、どんな事情であれ、人を傷つける人は復讐されて当然、という因果応報の風潮がすごく強まってきてますがこのことについて、その是非は別にしてどう思われますか。絶対に因果応報という考えの他は、世界の何が悪いともいえないみたいな、犯人に意思がないかのような打ちのめされた意見になってしまうようですが・・。 「実際に法をやっていると、法というのは<<過失には非常に優しく故意には厳しい>>もの。極端な例で、銃で人を撃ち殺そうとして 事件当時人が藁人形に見えたということなら、それは殺人にならない。時々考えるのは、法律というのはまだ合理主義で、ある意味では人を信頼してた時代に作られたものと言える。」 ○それはどういう意味でしょうか。 「まず人はこんなことをしないだろうという前提がある。そしてそれを踏み出て悪を犯した者は、過失ならこうで、故意ならこうで、罰していこう、というルールができるということ。これはある意味、<人と法を信頼しているのだ> (法や人を信頼していた時代とは日本のことではない。)最近の日本のように、過失も故意もなく、殺したものは殺したのだという世論の風潮には ある意味では「法」はついていけない、機能しなくなる、一人歩きしていると言えると思う。法は現実的に検証してやることをやるだけだけど。」 ○それではこの先どうなるんでしょう。法は変われません。 「根本的な所から犯罪を根絶やしにしようということになるかも。例えば、近年、歌舞伎町には膨大な数のカメラが設置されている、他の場所も同じ。実際これで犯罪の数が減るらしいが。そして、変な人がいるから、子供は一人で外へでてはいけませんという風になるのでないか。」 ○日本人の因果応報思想は厳しいと思うことがりあります。死刑制度がどんどんなくなっていく中でこれだけ根深く死刑を主張するのは特殊な国民性です。 「自分は厳しい風潮とは思っていない。逆に、日本人は<<性善説>>を信じているのだと思う。こんなことをする奴がいるわけない、という気持ちがあり、その反面、村八分と同じように共同体を<<裏切った者>>に対する厳しい風潮があって、日本人のいい所であり、怖い所。」 ______________________________________________この人の言うように考えてみると 日本的な排除・ゆがみ・犯罪者締め出しといのは「こんな人がでてくるなんてそんなの嫌!オカシイ!裏切られた!許せない!」というような、人の性善と人を信頼した態度といえるのでないかと。人生相談板の「吐き捨て」・「大人の世界はもっと厳しいんです。 そんなことになったのはあなたが幼かったからです」というのも、日本人的な悲しみの悲鳴に聞こえなくもない。 貴方の仰る「民主主義でないのに、能力主義や豊かな概念が一人歩きする・公共の福祉の発想無い」という 幅広い意見に答える回答ではありませんが、上記のような「世論に対する法の一人歩き、ほんとうに日本人は人を信用していないのか??むしろ性善を信じているのでないか」という点についてもお考え頂ければ。 この点外国は冷たいなぁと思います。「佐川一政」という人をご存知でしょうか。 フランスで女の人を殺してその人肉を食してしまった人。事件後フランス国内で取り扱おうとしたが 結局「こういう人は私たちの法では無理です」と言われ日本へ強制送還されてしまった佐川君。(日本でも普通に暮らしているよう) 参考文書:[佐川君からの手紙] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%B7%9D%E4%B8%80%E6%94%BF 私はよく考えるのですが「こういう人はわが国では無理です。」と言ったフランス的な思想ってどういうものなのだろうと。ある割合でこういう異常者が出てくるのは仕方ないというような哲学的な立場があるのでないかと。 *この点質問者さんはどのようにお考えになりますか。 もう一つ私がビックリしていることでオランダの麻薬政策。 1薬物使用は公衆衛生の問題であり、犯罪ではない。 2薬物による害を減らす。このため、ハードドラッグ(コカインなど)とソフトドラッグ(マリファナなど)を政策上明確に区別する これらは現実に即した実用主義的な政策だ、とオランダ政府は主張する こういうのは人間の悪を認める性悪説と言えなくもないです。 私は性善説が好きだけれども、悪が多発する現在、そのようなものに悲鳴をあげ排除しても仕方ない。人間が性悪であることを現実的に認める強さ、実用主義な政策、これらが諸外国のように必要なのでないかと。 >まだ容疑者段階の人間を社会的に追い込むとか、国の奴隷のような裁判官を増やそう ノリがそっちに傾いているから、そうしようよ。という感じですよね。それで、簡単に権力に利用されます というのは 鋭いご指摘なのです。林ますみが無罪だと疑う人はいませんが(私も彼女がやったと確信)1%の無罪の可能性があるのなら 本来法的立場からは、あのようにマスコミで容疑者としておだてあげ、追い込むべきでない。BUT裁判官側は 林ますみを死刑にせよとの世論に勝つ勇気があるはずもなく、法的な正確な立場を放棄し死刑宣告でしょうね。 昨日C型肝炎の告訴側の被害者達をニュースにて拝見しましたところ なぜあのようにマスコミで写すのか?誠実に、マスコミなど写さず弁護を通し裁判側に告訴すればいいだけです。なのに被害の模様、世論はこうです、ということを 何日も前からTVで写して訴えようとする。 日本は「民主主義」、これは「多数派が勝つ」ということ これを勘違いしているようで、悲鳴で大衆の世論を得ればいいというものでないのに あのように「C型肝炎に関してこういう意見が集まっており、世論はこうですから」とは裁判では通用するべきでないことで、これはよく知りませんが自由主義なのでは?と思います。これは弱者の権力乱用か、民主主義で暮らすということの厳しさを忘れた甘えた解釈です? 普通の人が法や社会のメカニズムの正確な把握のない・乱用だけでは 戦い・変えようが無い(国・社会)・・・ 日本が民主主義であり 「多数派に負けるのが原則」ということを忘れ、また世論と法は別物だということをとり間違える不正確さ、これらも 現代の混乱を招いているのでないかという例でした。 冷酷なようで、同様に現実を把握することができれば、「なんで私がこのような扱いを受けるのか!変えてくれ!」という(本来いたわるべきだけれでも) 自分の立場を乱用した現代に溢れる悲鳴も、それぞれの人が発さずにすみ、自己の利益だけでなく、国に何が、誰が本当に必要なのかということもクリアになってきて,選挙などにも反映されるのでないかと・・。 長文になりましたが、現実的には悲しくも、性善説を放棄し、悪や少数派を見つめ対処する現実的な態度が必要なのかも知れません。 話題がずれましたものの、 そしてそこに、「新たに目を据えた互いの信頼関係・弱者・悪との本当の共生。」「適度に信頼のある国の姿、共生」。 こういうことが始まるのでないかと・・・・・・・。。。。。 私は機能よりも個人の意識から変わらなければすべてのことに意味が無いとと思います。 国がどうなろうと別にいいけど・・ 余談ですが 現代や、現代の人間関係を悲観的に捉える人が多いのは、生まれた時から現代を生きていてそのように考えるのは なぜなんだろう?と今思いました。 とりわけ生まれが都会で、ある程度クールな人間関係を皆生きているとして、それと、どれとの、人との暖かさ、信頼、歴史との比較をしていくのか?? 多分比較ということは誰もしていなく、昔も今も変わらないのは圧倒的な現実が即、目の前にあり、本来の人間の心が悲鳴をあげるということで、これは 生まれた時から 人間は本来、比較水準なしの不幸の中に生まれ、それを生きる、ということかと あるべき姿(んーーーー????)の、信頼の人間関係というものを、自分の中で高める機会のある人だけが、それを想像して 思いをはせたり獲得したりできるというのなら厳しい現実。それは個々の現実で、いつの時代もそれは変わらない。 人間関係が壊れてしまったとか 昔の信頼の関係が壊れたといわれても、10代のハードな現実を真っ最中に生きている人にはピンとくるはずもなく。 歴史だけ見ると昔にさかのぼればさかのぼる程、生きにくそうに見えますが、 昔の時代の信頼の人間関係の良かった話というのは よく聞くけど理解するのが難しいところです 今度質問してみたいです。

ta999
質問者

お礼

本などで読んだり個人的に考えてみたことを、 僕は、C型肝炎問題で民意を利用する被害者の戦略は正しいと思います。ノリが傾いているからそうしようというのがある意味で民主主義なのかもしれません。が、その傾き方が問題というか、民主政治に対する理解など(民度)が足りないままに国に従っている国民は問題があるなと思っています。途中海外の事情を挙げられていますが、民主主義というのは、お上の言ったことが「善」になるといったような考え方の形態をとらずに本来、権力側と国民の闘争の場、などという考え方がされているようです。徳治主義というよりも、「最大多数の最大幸福」というように、「冷たく」思える機能主義のようです。正直、質問者は法、民主主義に関してこの程度の理解しか持っていません。 素人が喋っているのを法や、社会学の専門家が見れば大体は正しいにしても、うわごとのように聞こえると思います。このようにまともな議論ができないので、あまり深くは突っ込まないですけど、(資源獲得競争、食糧危機、環境問題、南北問題、日本の凋落)国際的に見ても、懸案事項がいっぱいで、争い、戦略で動くことが多くなり、そんなに温かい人間にあふれた未来が待ってはいないだろうなという絶望はあります。これからは常に政治などを勉強しながら、それでも厳しい現実を受け入れて、「より良い」社会を目指す一員にならないといけないみたいです。その分皆が、近しい人や家族へ内閉していく傾向が強くなるかもしれません。あるいは、人生に喜びをもたらすのはこの領域だけになるかもしれない。 また、90年代後半から大きな以下の流れがあると思います。 ある大きな事件(無差別複数殺人など)→マスコミと一体になって政府が犯罪者への厳罰化等を煽る→性善説よりも性悪説になり、社会に他者の受容性・寛容性が無くなっていく。→異質な者への排除が広まる。国が悪法を通しやすくなる。→悪法、寛容性の無さが住みにくい社会を作る。→ 結局、賢い国民にならないと自分で自分の首を絞めていることになるのです。あるいは、自分の手が首にあることさえもわからない。 社会学者の宮台真司さん、小室直樹、見田宗介さんらの本はいいと思います。 上に書いたことのソースにもなっていて、彼らの意見を丸呑みにするのもよくないけれど、非常に勉強になります。それに、議論の中にほのかな希望を見出せます。(僕は。)